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2012.11.24

「吉田茂とその時代」を読んで

Yoshidashon


「吉田茂とその時代」(岡崎久彦・著・PHP文庫2003年刊)を読みました。岡崎久彦氏の著作は以前にも「戦略的志向とは何か]を読んだかことがあります。

 岡崎久彦氏は1930年生まれ。東大卒業後外務省に勤務。米国や韓国対しも歴任。初代情報調査局長もされています。いわばスパイ組織の元締めもされています。
 
 読んでいて思想的には右翼的ですが、歴史の考察や考え方では「なるほど」と思われれる記述がありました。以下はこの人独特の価値観ですね。

「地域研究というのは、学問の中でも最高の学問だと思う。政治学も経済学も人間社会の1面しか見ない。しかし地域研究というのは、1つの国の歴史、伝統、文化、政治、社会、経済のすべてを総合的に把握する学問である。

 特に国際政治における政策決定に際しては、政策決定者はそんなに現地の事情を知っているわけではないのだから、あくまで地域専門家の意見を尊重しないと、あらゆる間違いを犯す。

 米英がグルーやサンソムの意見に従って行動していれば、戦争はもっと早く終わっていたかもしれないし、占領行政がのちのちまで残したひずみも、もっと少なかっただろう。」(P29「敗者日本の扱い」)

「こうして一流の日本専門家が描いた構想によれば、無条件降伏するのは、日本軍だけであり、日本の民主化への改革は、天皇のもとの日本政府の手によって行われるはずだった。いまでもポツダム宣言を読めば、そう書いてある。」

「しかし、勝利に酔い、復讐心に燃えた戦勝国側の雰囲気の中で、日本がいったん降伏してしまえばそんなものは一片の紙入れでしかなくなる。とくにグルーが日本の降伏を達成して、自分の仕事が終わったと引退してからは誰もポツダム宣言の文言など顧みる者はいなくなった。」

「1つにはすでにドイツという先例があった。ドイツの場合は、戦闘によって全土が征服され、ドイツ政府は消滅し、自ずから占領軍の軍政下に入ったのに対して、日本の場合は政府がポツダム宣言を受諾し、占領軍の進駐を受け入れたのであるが、そんな違いなどアメリカ人一般が区別するはずもなかった。」

「ちなみにドイツとの同盟では、日本は数々の無用のトバッチリを受けている。南京事件がナチスのホロコーストと並べて論じられているのはその最たるものである。

 ホロコーストは戦争と直接関係ない、計画的な人種説滅政策であり、のちのちまで糾弾されても仕方がない。

 しかし南京事件は、その規模が誇大にいわれているかどうかは別の問題としても、定義上、戦争状態における非戦闘員の被害の問題であり、広島。長崎、東京。ドレスデンの爆撃、満州におけるソ連兵の暴行と同列に扱われるべきである。」(P30)

 このあたりの記述がこの著作の本質ですね。

 日本の歴史や文学や社会制度に通じていた人物がポツダム宣言を起草していたことは初めて知りました。しかしその人物が7年間にいたる占領時代を統括していたのではなく、「さして教養もないアメリカ人の中級管理職の専権による日本人の精神構造に与えた破壊的な打撃は計り知れないものがあったといえる。」(P311)」

 占領時代の象徴は[日本国憲法」と[東京裁判」でした。その2つをきちんと総括・理解しないと岡崎氏は日本の国際社会への立ち位置は不明になると言い切っています。とくに酷いのが占領軍による徹底した検閲と公職追放措置でした。

 評論家江藤淳氏が「閉ざされた言語空間」を著作しているので、読んでみたいと思いました。占領軍による検閲は事細かく詳細になされていたようです。

「おそらくは、追放などで職を奪われた戦前のエリート達が、生活のため、家族のために恥を忍んでこの職業に身を投じたのであろう。そしていったん職務についた以上、日本人的な完全主義と職務遂行の精神で、占領軍の示した基準に忠実に照らしあわせて、問題のある文章をことごとく拾い上げて占領当局にご注進したのであろうと思う。」(P306)

[検閲は広範囲に及んだ。内部資料によれば検閲指針は30項目に及び、それを見るにつけても、戦後日本の精神構造に及ぼした影響の大きさがわかる。

 指針の1)から4)までは、占領政策批判、東京裁判批判、米側が憲法を起案したことの批判と検閲制度への言及の禁止である。
 
  米軍の占領、東京裁判、新憲法への批判が封じられ、美化されたことー。それが7年続いたことの後遺症は少なくないであろう。

 5)から11)までは、米、英。ソ、中などと連合国と朝鮮人への批判である。

 12)はっ満州における日本人の取扱に対する批判であり、ソ連の暴虐はすでに占領軍も知るところだったであろう。戦勝国への批判は許されない・

 13)は、連合国の戦前の政策への批判である。これと東京裁判の肯定とを結びつけば、戦前の日本はすべて悪、連合国はすべて善という史観になる。

 14)と15)は第3次世界対戦や冷戦への言及である。

 ダワーはジョージ・オーエル的世界と呼び、「連合国はいかなる罪も犯していない」という神話は、非現実的、超現実的な世界を生み出した。」(P308)

 なるほどこれでは日本のマスコミが何故駄目なのかがよく理解できますね。

 なんと「焼け跡の菜園雨に打たれたり」という俳句も発禁になりました。理由は「米国の利益に反する題材を含む」という理由。

 米国と異なるy独自の外交を展開していた田中角栄氏や、小沢一郎氏がマスコミに叩かれるのは、「占領軍県得る政策の後遺症」なのかもしれませんね。

 吉田茂氏の首相在任時期は、まさに占領時代であり、敗戦直後の混乱した時期でもありました。岡崎氏は吉田茂は卓抜した政治家ではなかったが、「運」の強さと、占領軍司令官のマッカーサーとの掛け合いの絶妙さを一定評価しています。それは生い立ちからの経歴によるものが大きいと述べています。長くなりますが引用します。

「吉田は、土佐の自由党の幹部竹内綱の五男に生まれた。実父竹内綱は、土佐派と縁の深い陸奥宗光の紹介で伊藤博文とも知り合い、ともに廃藩置県の献策もしている幕末の先覚者である。そして明治10年の変のときには、陸奥とともに捕らえられ、禁獄の刑を受けている。

 竹内の友人で、吉田茂が養子に出された先の吉田健三は異色の人物である。越前の藩士であったが、英語を学び、英国の軍艦に乗せてもらって洋行し、帰国後、ジョージ・マジソンの日本支店の番頭をつとめ、その後は醤油の製造などの事業で巨富をなした。

 養父は茂が11歳の時に亡くなり、茂は全財産を相続したので、同世代の若者のなかでも破格に経済的に豊かな青春時代を送ることになる。学生時代も「吉田茂」の表札のある別棟の家を構え、外出は人力車、通学には馬を用いた。

 その財産は、吉田が死ぬまでに大磯の家を除いてほとんど使い尽くしてしまう。後年、ある富豪の人が親の財産を数倍にしたという話を聞いて、吉田は「不届き至極」といったという。自分は親の財産を蕩尽するという「不届き至極」なことをしたという裏から言う吉田のユーモアであろうが、吉田が生涯 上司が気に入らなければいつでも辞職する姿勢であったのも、生来の性格もあろうが、こうした経済的背景もあった。

 他メン、日本の上流階級の伝統的な特色は、いかに富み、あるいは権勢を誇っても、個人生活においては自らを律することに厳しく、質実剛健であるとである。

 (中略)

 吉田茂の少年時代の教育で特筆すべきことは、耕余義塾という寄宿制の私立中学に5年在籍したことである。

 (中略)

 吉田は明治における超一流のエリート校で教育を受けたわけである。
課目の中には、代数、幾何、物理、米国史、万国公法などもあったが、その特色は漢学にあり、「十八史略」「文章軌範」「資治通鑑」「宗元通鑑」を順次、各年度ごとに読ませている。

 吉田の文章は、さして名文というほどのものではないが、古典の教養の基礎は歴然たるものがある。世界でも稀に高度な文治社会であった江戸時代の伝統教育のエッセンスをそのまま引き継いだ教育を受けたのである。

 また外務省入省後、結婚によって吉田の岳父となる牧野伸顕は、維新の元勲大久保利通の次男であり、明治4年、岩倉使節団訪米に際し父に随行し、そのままフィラデルフィアに残って留学した。

 当時としては稀な帰国子女であり、外務省に入り、血筋の良さもあって順調に出世し、駐伊大使、駐墺大使、西園寺内閣の文相、農商務相、第1次山本権兵衛内閣の外相をつとめ、大正10年に宮内大臣になった。欧米的教養を身につけた、上品で礼儀正しい貴公子であり、国際的協調派・英米派として西園寺公望とともに天皇を補佐した。

 このように吉田は、江戸、幕末、明治の日本の上流階級、知識階級のすべての伝統に接する機会を与えられ、そのなかから生まれてきた人物である。

 吉田の言動を理解するには吉田の人生観や哲学を求めるよりも、こうした生い立ちを背景に考えるほうがより正確をもたらすであろう。」(P163「吉田茂の登場」)

 また岡崎氏によれば、外交官は「王様より、より王様的になる、」特性があるといいます。吉田茂は立場上、占領軍総司令官マッカーサと気脈を通じなければ政権運営ができませんでした。マッカーサーの意図をすばやく理解し、協力関係にありました。

 マッカーサーも子供時代の日露戦争直後に父に連れられ来日し、東郷平八郎や乃木希典に面談しています。親日家ではないが、日本をよく知っていた米国将校でありました。

 マッカーサーもそれゆえ占領軍統治には、天皇を活用することを考え、極東委員会にある「天皇を戦犯にする動き」には一貫して反対していました。天皇を戦争犯罪者にしないためには、「一時避難措置」「一時の方便」として、日本国憲法第9条の「戦争放棄条項」も日本側から提案する形にして、極東委員会の批判をかわすことで利害が一致していました。

 占領統治の7年間の後遺症を払拭するのには「あと50年はかかる」と岡崎氏は言います。著作が2007年だから2057年ころまではかかるだろうとのこと。あと45年も先のこと。そうなるとわたしも100歳を超えるので生存しているのかどうかわからないですね。

 吉田茂氏の考察とは別に岡崎氏は、日本の近代史の大きな間違い事項として、「日英同盟の破棄」と「真珠湾奇襲」の2つをあげていました。いずれも「取り返しのつかない外交的な失敗事例」であり、日本帝国滅亡の原因でした。

「日英同盟の破棄は取り返しがつかなかった。日英同盟が続いていれば、親英的な昭和天皇と重臣たちの影響のもとに、同盟国の意向尊重ということで、陸軍の力を十分抑えたであろうし、たとえ満州事変が起こっても、英国苦心の好意的提案であるリットン報告書の線で収まったであろう。その後の3国同盟などできるべくもなかった。

 真珠湾攻撃は、その後の政略を全部不可能にしてしまった。アメリカに勝つ唯一の方法は、米国政府を国内世論と戦争相手の2正面作戦に追い込むことであるのに、その可能性をゼロにしてしまった。」(P414「公正な日本史を阻むもの」
 
 敗戦後の混乱期に、吉田茂が首相として登場した背景が経歴その他の解説でよく理解できました、あた岡崎氏の指摘するように占領軍による検閲と公職追放が、日本人が諸外国との関係をきちんと正視できない、考えられない原因という指摘も「なるほど」と思いました。

 今後このあたりの著作を読んでみようと思います。
Yoshidasigeruzou27_r

 (高知空港にある吉田茂像)

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