高知青年会議所での還暦祝い
つい昨日(40年前)に高校生であった感覚しか自分にはないのですが、2月27日には、高知青年会議所が「昭和28年生まれ 還暦祝い」をしていただけるというので、今年になって「7回目になる」着慣れないスーツを着込んで会場の城西館へ行きました。
ロビーには戦後日本の宰相、吉田茂氏の関連資料や写真が飾られています。高知へ来た折には吉田茂氏は城西館を定宿にしていたからでした。
さて会場は城西館2階の和室の大広間。「主役」の私たち「昭和28年生まれ 還暦組」は、控室に待機し、ちょっとしたリハーサルがあり、下見に行きました。20人昭和28年組の高知青年会議所関係者はおりますが、当日出席したのは、川村修君、下村智則君、谷相良一君、近森正久君、中沢陽一君、野村栄一君と私を含め7人でした。
赤い帽子を交代に被り、赤いチャンチャンコを着用して、1人1人が、1分間スピーチをしました。写真わたしの後の野村栄一君がしております。対象者は7人でしたが、宴会の参加者は高知青年会議所の現役・シニアを含め120人以上いたようでした。壇上に上がるのは気恥ずかしい限りでした。
わたしは言いたいことは山ほどありましたが、進行役が事前に1分間でということでしたので、現役・シニアのメンバーにお礼を申し上げました。昨年25年ぶりに現役の細川洋伸君たちが、香南市夜須のヤ・シィパークを起点に「すまいるアップ・高知」という大きなイベントを開催していただきたことです。
わたしは1985年から夜須でヨットをしていますが、1987年に夜須をテーマにした連続セミナー「海洋連続セミナー」を高知青年会議所事業で開催、アメリカ西海岸ツアーも実施ししました。米国西海岸の「いいとこどり」がすべてヤッシー・パークになっています。その「きっかけ」をこしらえた者の1人として昨年の高知青年会議所の事業はとてもうれしことでした。
1986年の理事予定者会議で、議論が沸騰し、批判も受けましたが、それは「激励」であり、そこまで言い切った以上はやりきるしかないと思いました。夜須ではそれはヤッシー・パークやYASU海の駅クラブとしてちゃんと形になりましたから。当時の理事各位の激励があればこそ実現できたと思います。(もちろん香南市の丸岡克典さんらリーダーの存在がとても大きいのです。)
私の高知青年会議所所属機関は1985年1月から1993年12月まで足掛け9年間でしたが、事業予算を6000万円以上使用し、「お前さんのおかげで会費を値上げしたのだ」と皆に言われていました。夜須での事業はヤッシーパークになり、1989年の中学生のためのヨット教室は、2002年の高知国体を経て、NPO法人夜須海の駅クラブになりました。
1988年の全国大会記念事業としての春野運動公園球技場での野外ロックコンサートは大きな予算でリスキーな事業でありました。1990年から92年までの「都市再開発セミナー」では高知市の都市形成の在り方を市民各位で議論し、1993年の高知青年会議所40周年記念事業では、浦戸湾花火大会を開催しました。
普段は月に1度開催されているシニアクラブへも最近はご無沙汰で、最初は「アウエー」の気分でしたが、土佐流の宴会で献杯ししているうちに「昔の現役時代」の感覚を皆が思い出させていただきました。
宴会は最後に、参加者一同が輪になり、「明日のために」という歌を斉唱。そしてエール斉唱がありました。
贈る言葉は来年が還暦になる山崎一寛君が、スピーチしてくれました。
2次会は、竹内幸治君の案内である飲食店へ行きました。中沢君、下村君、山崎君、野村君らと一緒でした。別の席でしたが現役メンバーも来ていました。
お綺麗な女性と一緒にお酒を飲むなんてことは、最近とんとないので、お爺さんと娘さんの2ショット写真も撮られました。
7時過ぎから11時過ぎまで飲んでいましたので、お酒の得意でない私にしては、結構頑張りました。今朝は頭が痛いです。
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