「司馬遼太郎全講演」1を読んで
「司馬遼太郎全講演」1を読んで
「司馬遼太郎全講演」1(朝日文庫・2003年10月刊)を、高知駅前のブックオフで105円で購入しました。月に1度の老師(87歳)の整体へ行く途中にこの「古本屋」はあるので、時折購入します。こちらの本屋はコミック本やゲームソフトが高価であり、一般教養本は「雑学ハウツー」というカテゴリーに分類され、売価も安いので重宝しています。
精神的に疲れた時に読むのは司馬遼太郎氏の講演集やエッセイです。時代は1964年から1974年の講演集です。丁度時代が私でいえば小学生から大学生に至る時代。私の中での「疾風怒涛時代」と重なり、社会運動の負け戦をしていた時期と重なっています。
そのなかで「うその思想」という表題の講演にひかれました。
司馬氏は先の二次大戦末期に北関東に本土決戦に備え戦車部隊として配属されました。大阪育ちの司馬氏にとっては初めての関東でした。あるとき上官に米軍が東京湾に上陸したら避難民が大量にこの地方へも押し寄せてくる。狭い道路ですので交通整理などはどうするのでしょうか?と上官に聞いたそうです。そしたら上官は「ひき殺していけ」と答えたそうです。
「これにはびっくりしました。
日本人が日本人を守るために戦争をしていて、それで日本人をひき殺していけという。不思議な理屈ですね。
平和な時代になって、20数年たってみると、そんな馬鹿な奴がいたのかということになりますが、それが当時の日本が持っていたイデオロギーというものであります。
イデオロギーというものは、はたして人間に幸福を与えるものでしょうか。」(P114)と問題提起をされています。
司馬氏は、「尊王攘夷」という考え方の解説をしています。
「中国の宋の時代は異民族に悩まされていました。金やモンゴルに中原を追われ、かぼそく揚子江以南で生きてきた宋。宋の学者たちが「尊王攘夷」という言葉をつくり、思想をこしらえたと言います。「王を尊び、攘夷せよ。つまり夷(えびす)、外国人を打ち払え」ということでした。
それが日本へ伝わり学問の世界での世界観の1つであったものが、江戸時代の末期に革命思想の言葉(スローガン)になりました。そして徳川幕府を倒して明治政府の時代になると、国民国家をつくらないといけなくなりました。藩とか、商店や村への帰属意識を日本国に帰属させないといけない。それには歴史の上では「神主」的な存在であった天皇を西欧流の皇帝にしないといけない。そのために尊王攘夷の考え方をイデオロギーにして国民を敗戦するまでの80年間統制しました。
「おそらく、奈良時代のある時期以後、天皇が皇帝の位置につくというようなことは、日本史上にはほとんどなかったことですね。
これは日本に合わないことでした。
日本の実際に不適当な時代というのは、明治から第2次大戦が終わるまでの間であります。」(P1109「うその思想」)
司馬遼太郎氏は「イデオロギーという重苦しい漬物石」という表現をしています。
「さっきも申し上げましたように。思想はフィクションである。そのフィクションの歴史をつくって、国の中心があくまでも天皇であるということで、国民を統一しようとした。
(中略)
「ところが、そもそもの思想とはどういうものかと言いますと、思想も宗教も含めまして、ひとつの観念だとわたしは考えています。
観念とはうそであります。フィクションですね。
たとえばキリスト教でもそうですね。
誰も見たことのない天国、だれもみたことのない神様を信じよという。信じるとところから出発するわけで、理解するところから出発するのではありません。
南無阿弥陀仏を唱えれば、極楽往生は間違いないと法然上人が言ったり、親鸞聖人が言ったりしました。
この間違いないというところから入らないといけない。極楽浄土はありますか、地獄はどんなところですかなどと言ったら、それはもうだめですね。
思想というものは宗教も含めて、理解して始まるものではなく、まず信じるところから入る。マルキシズムも同じであります。
尊王攘夷の思想も、理屈の大建築でした。信じる者には実在しますが、目をこすって見直すと幻であります。非常に無理がある。
うそでひとつの国家をつくったり、うそで社会をつくったり、社会の統一を維持したり、社会の安定を維持したりするためには、思想の取り締まりをやらないといけない。尊王攘夷に反対するような学者はひっくくらないといけない。
われわれの時代は、明治から戦争が終わるころまでは、非常に重苦しい国家であった。」
「大日本帝国の勝利は大日本帝国のイデオロギーの勝利ですね。尊王攘夷であり、八紘一宇でありますが、それらフィクションを現実化させなくてはいけない。フィクションは現実化しにくいものであり、無理やり現実化させると無理が起きる。つまり現実化するにおは(避難してくる自国民を)ひき殺していかねばいけない。そこまでいく。」
司馬遼太郎氏独特の思想観があらわれているのは次の言葉です。
「しかし、イデオロギーというのは実に不思議なものですね。
明治から80年の間、われわれはひとつのイデオロギーで統一されていました。
つまり水戸学の尊王攘夷で統一されていたのですが、それに慣れてしまった体質のひとがいます。
子供の時からお酒を飲みつけていて、お酒をしょっちゅう飲んでいるような人は、お酒が切れるとだめですね。違うお酒が必要なんです。日本人のそういう心理の中で、戦後のマルキシズムが果たした役割があります。
違う酒としてマルキシズムが登場した。戦時中に右翼の片棒を担いで走り回っていた人が、戦後は共産党員になって走り回っている。あのひとは変節した、信用できないということを言う人がよくありますが、そんなことはありません。彼らにとってはそれが当たり前なのです。」
司馬遼太郎氏によれば、日本人にも思想に関しては2とうりあるようです。お酒でいえば飲める人とお酒の飲めない人がいることと同じであると。
ちょっと聞いて大暴れする酩酊体質の人もいます。でもそれは日本人で10%を超えないだろうとも。一向一揆が爆発的な勢力拡大した時も人口の1割は超えなかった。昭和初期の学生でマルクスが流行した時も学生の1割以上には増えませんでした。
「しかしこれからは、思想というものに対する尊敬心は、むしろ捨てたほうがいいのではないか。捨てたほうが人類にとって幸福ではないか。幸福かどうかは知りませんけど、少なくとも思想からの災害を受けずに済むのではないか。最近はそんなことを思っています。」(1969年11月28日。東京東宝劇場文藝春秋祭りでの講演)
1969年と言えば高校1年生。上の言葉をちゃんと聞いておれば、その後苦しんで留年したりはしませんでした。当時のわたしは「酩酊体質」のようでした。
私は2年ほど前からその頃から最近の社会思想を総括しようとしてたいそうに「連合赤軍と新自由主義の総括」などと頭の悪い小市民が懸命に考えてきました。
でも司馬流でいくと「そんなことはたいしたことはない」「どうでもいいやんか」ということになりますね。ある種の「目から鱗」でした。やはり(面白いことだけをする。面白くないことはしない」という考えたのほうが健全ではないかと最近思います。
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