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2013.05.31

幕末期の会津・薩摩・長州の3藩のからみは面白い

 2013年はNHK大河ドラマ「八重の桜」です。2010年の「龍馬伝」はまじめに見ていましたが、その後の2年間はつまらないので、見ていませんでした。また会津(現在の福島県)は、土佐からも遠くなじみがありません。

 今回比較的史実に沿い、脚色されてドラマは展開しています。大河ドラマとは直接関係はないが、参考図書としてはやはり司馬遼太郎氏の「講演集964-1974」(朝日文庫)は欠かせない。

 そのなかで「幕末の3藩」という記述がありました。

 司馬遼太郎氏によれば、江戸時代は大変な「教養の時代」であり、庶民までが寺小屋で読み書きそろばんを習っていて、世界的に見てもとても文化水準の高い国であったそうです。

 なかでも会津は学問が盛んであり、武士階級の子弟は日新館という学問所で勉学に勤しんでいました。

「会津藩は江戸時代に最も教養の優れた藩のひとつだった。

 教育水準の高さこそ、会津藩の理解にいちばん重要なことでした。」(P377)

 「会津人と長州人と薩摩人とでは、外国人同士ではないかというぐらいに違うのです」とも言っています。

 長州はかつては中国地方に広がる大大名であり、関ケ原時点でも120万石でした。敗軍となったため。周防と長門の36万石に押し込められました。藩主は人好しでリストラはしなかったので、武士も家来もみんなついてきたようです。

 みながみんな仕官できなかったので、百姓や商人になったようです。

「長州の武士は百姓をする人が多かった。そうでないと食えなかったのです。
 吉田松陰の実家の杉屋ではおかずに魚がつくのは1か月に1度と決まっていました。毎月1日に出るのですが、家族はそれを拝んで食べたそうです。

 松陰は教育を田んぼの畦道で受けました。父や叔父が人畝耕している間、松陰は」畦道で声を張り上げて読む。戻ってきて、いまのはそこが間違っていたと教えてくれ、また耕しにいく。それが長州の侍の生活でした。

 江戸時代の初期を過ぎますと,藩をあげて干拓事業が始まります。長州藩は飯を食うために、ロウを採ったり,コウゾやミツマタを利用して紙をつくったりして、産業をおこした。

 必死の努力が実り、幕末における長州藩は100万石の収入をあげていたそうです。もともとは36万石ですから、あとの60万石余りはまるまる藩に入ってきます。これを無駄遣いしないで貯蓄していました。

 特別会計として積み立てられ、そのお金が全部、幕末における討幕資金として使われたのです。(P368)

 あと下関に港があり、交易で長州藩は栄えていたようです。表向きの石高以上に経済力があったし、実利的な考え方ができたのでしょう。農民が志願して奇兵隊を組織し強かったと言われていますが、もとは武士であったと思われます。農民までが一致して長州防衛のために戦ったと言います。

 会津は階級が歴然とあり、戦は武士階級の専権事項でした。幕末期戊辰戦争で会津が新政府軍に攻められたときは、会津の農民は新政府軍の道案内をしたともいわれています。

 薩摩も関ヶ原での「負け組」でした。情報不足で西軍にtるいたものの、戦いに参加せず待機していました。戦いの決着がついたとき突然徳川本陣に突入し、退却戦を敢行しました。1500人の兵力は藩主を伴い薩摩へ戻ったときは80人でした。

 有名な薩摩の退却戦ですが、さすがの徳川幕府も薩摩を攻めあぐね、領土を安堵しました。また薩摩の申し入れで琉球を攻めることを許し、薩摩は琉球貿易で経済力をつけwることができました。領地を減らされずに、琉球も幕府の許しで確保したこともあり、薩摩藩は江戸幕府に借りがあります。討幕にいたるまでふらふらするのもわかります。

「薩摩は鎌倉武士道を残そうとした藩です。戦に強ければばいい。主人のために忠義ならばいい。このふたつがあれば理屈はいらない。要するに教育水準は今の中学校程度もあれば十分だと。西郷隆盛だってそうです。

 会津藩士が受ける平均的な教育水準に比べてみれば、おそらく西郷の受けた教育はかなり低いものでした。西郷が立派な本を読めるようになったのは、2度の島流しにあったときに勉強したからです。」(P392)

 「中学程度の教養の薩摩人と、商売上手で合理的な長州人と、形而上的な思考力を持った会津人とが、幕末の困難な時代に残ったのです。」

薩摩と長州は、九州と中国地方の「ブロック大名」でしたが、関ケ原の戦で負け組になったために、徳川幕府に押し込められ250年の間悔しい想いをしてきました。戊辰戦争は徳川慶喜の首を取るために薩摩と長州が始めた戦争ですが、幕府は勝海舟と言う逸材がいて、慶喜に頭を下げさせて、とうとう命を流れ得ました。

 「会津は強いゆえに許されなかった」と司馬遼太郎さんは言います。佐幕藩はどんどん腰砕けになるなかで、会津藩と長岡藩は戦い抜き、悲劇的な結末となりました。会津を許せば戊辰戦争の意味がなくなるからです。

 たかだか京都守護職を務めただけの会津は、「幕府の身代わり」となって薩摩と長州に攻め滅ぼされてしまいました。

 明治の世になって、土佐から始まった自由民権運動は福島県で最も苛烈な反政府運動となりました。県令(官選知事)が薩摩出身であったこともあったのかもしれません。

 会津のことはよく知りませんので、八重の桜で今後どのように展開するのか興味がありますね。

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