「手掘り日本史」を読みました。
「手掘り日本史」(司馬遼太郎・著・毎日新聞社・1975年刊)を図書館で借りて読みました。このところの暑さで読書量は落ちています。久しぶりに読書しました。
最近の安倍内閣による「歴史のねつ造」や「敗戦をなかったことにする」などとの浅薄な歴史認識をもとに、軍事力強化に向かう危険性と滑稽さは、司馬遼太郎氏によって、きちんと論破されています。
「幕末から維新にかけての革命的運は、天皇さんを宋学による皇帝に仕立てることによって、全国統一に向かって行ったのですから、その点では、天皇さんは被害者です。
柳原二位局という人は、公卿の柳原家の出で、大正天皇の生母ですね。この人は頭のいい、なかなかの婦人だったようです。この二位局が、明治天皇が白馬に乗り大元帥の服を着て諸兵に閲兵している勇姿をを見て、ああこれで皇室もこれでしまいになるかもしれないな、といったといいます。彼女は公卿の出ですから、天皇家のなんたるかを知っていたのですね。」
「二位局がいったことは、天皇家の本質は大神主だというのです。神さまに仕えている、ここで神さまというのは、日本人の精神的秩序に関するものです。地上のことは、しもじもの者がすることで、その大神主たる尊貴の身がああいう戒服を着て、地上の権力者のまねをさせられていまっている。
歴史にはかならず栄枯盛衰があるので、この権力が倒れるときは、天皇家もとも倒れになるのではないか。二位局は、そう心配したというのですが、非常にすぐれた歴史感覚だとわたしは思います。」
「明治憲法が、日本的神聖者である天皇に、軍服をきせ軍馬にのせたのです。明治憲法は、イギリスの憲法なども多少参考にしていますが、やはりドイツ憲法が主な参考資料になっている。
ドイツの軍隊が強い、普仏戦争でそれまであれほど強いと言われたフランスに勝った、ということもあって、明治の政治家にとっては、プロシャというのは非常にチャーミングだった。
ひとつにはプロシャは皇帝制である。ヨーロッパにおける文明国でありながらドイツ国民が帝室を尊んでいるということ。そういうのが魅力でドイツ憲法を下地にした。そして天皇の位置がカイゼルにあたるというわけです。」
「それまでは水戸史学が、天皇を宋学の皇帝になぞらえて地上の権威にしたがった。幕末の志士たちは宋学的皇帝を夢みた。維新後、こんどはヨーロッパの皇帝を参考にした。それやこれやで天皇は軍隊を”統帥する”という一項目を憲法のなかに入れてしまった。
この一事は日本史上の大事件だと思います。水戸学といい、ドイツ憲法的な考え方といい、それぞれ歴史のよってかつがれた天皇家というのは大迷惑なことだったびではばいかと思います。」
「私は、日本という国の性格を大きく変えてしまったのは、この明治憲法だと思うのです。何事もヨーロッパ化した明治の顕官たちは、もっとも日本的な特質、つまり日本の天皇の姿に関しては、もっとも鈍感になっていたのではないでしょうか。
歴史を注意してみればよくわかることですが、日本の歴史の中で、天皇が地上の権力を握ろうとしたときには、かならず乱がおこっています。
後醍醐天皇が神聖者であることに満足せず、地上の皇帝になろうとした時に、南北朝の乱が起こっている。それ以前、後鳥羽上皇が地上権である鎌倉政権に対して、対等の喧嘩をしようとした。自分も地上の権威を主張しようとしたときには、承久の乱がおきる。
歴史の実例を見ればよくわかるはずなんですが、明治のはじめは欧化思想の全盛期なので、ついウッカリ、憲法のなかにそういう条項を入れてしまった。
結局、これが軍閥のバッコに結びついていき、やがては太平洋戦争になり、そして敗戦によって天皇家はもとの象徴に戻ることになるわけです。現在の天皇の姿が、日本史上のあたりまえの姿です。」
「マルクス主義の人たちは天皇制を攻撃し、打倒しなければならないように論じますが、プロシャ流儀の変な天皇制は、明治以降、たった八十年だけなんです。
日本史のなかで、天皇のありのままの姿が歪曲されたのは、その八十年で、そのなかには欧化思想も入っていますが、水戸学の熱気がまだ続いていましたから、そこで皇帝になってしまった。
この八十年の歴史のなかで一貫した地上の権力者であったかのように考えてしまうのは、一個のイリュージョンでしょう。天皇に関する限り、日本のマルクス主義史学は、水戸史学の裏返しですね。」
このあたりの記述は、今から38年前のものですが、安倍内閣の「新古典派史観」がバッコしようとしている現在にもってきても説得力があり、なんと愚かしいことをまたやるのかと思いますね。司馬遼太郎さんは鋭いですね。
「私にとっても、マルクス史学がずいぶんと役に立っていますし、その点で恩義もありますが、あくまでもこれは、わたしにとって歴史をさぐるための土木機械であることは別の場所でもふれました。
史観が何であれ、時には史観という機械を停めて、手掘りにしたりしなければならない。
考古学の発掘が、土木機械ではできないように、やはり歴史というものは、そういう具合に手掘りを加えたりしないと、うまくつかめないのではないでしょうか。」(P177[無思想という思想:)
共産党の日本史理解も浅薄のように思えます。司馬遼太郎さんの言われるように、元々は天皇家は大神主であり、地上の権力とは無縁であったという解釈が自然ですね。安倍内閣による天皇の政治的な利用は危険なのでやめさせないといけないと思いました。
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