「ウッドストック 1969年・夏の果実」を読んで
「ウッドストック 1969年・夏の果実」(ジョエル・マコーラー・著。寺地五一・訳・新宿書房・1991年刊)を読みました。それは1988年に当時高知青年会議所の現役時代に全国大会記念事業で、7000人規模の野外コンサートを開催したことがあり、当時の相棒の岡村寛男さんから、久しぶりに電話がありウッドストックの話題が出てからです。
岡村さんは県民図書館で借りて読んだとの事。推薦図書でしたので、近所の下知市民図書館で検索すると本館にあるというので、取り寄せて読みました。とにかく分厚い。522Pもあります。
全編が参加者や運営スタッフや音楽関係者や地域住民などへの取材で聞き取りしたことでした。その人1人1人にウッド・ストック・コンサートの意義が大きく、ないものにも代えがたいことが、それぞれの立場で表現されています。
「宗派を超えた影響がありました。カトリックの尼さんも手伝ってくれました。ユダヤ系の病院も協力してくれました。考え付く障害は全部取り払われました。
普段は協力しない人たちが他人のために協力したんです。素晴らしいことです。宗派を超えてありとあらゆるものを包含していました。すべてのグループが集まって、ひとつになって協力したんです。
だれも疑問を呈する人なんかいませんでした。みんな、何をしなければならないのか、人の命を救わななければ、世話をしてあげなければ、ウッドストックの人達は問題を抱えているんだ、僕らには義務があるんだ、世話をしてあげたい気持ちがあるんだから、助けてあげようじゃないかってわかっていたんです。
そして当然のことですが、あの若者の大群が町に戻ってきたときに,町の人はびっくりしたんです。若者たちがみんなあまりに礼儀正しくて、きちんと感謝の言葉を口にして、上品だったものですから。」(ゴードン・ウィッナリック P308)
「ウッドストックの大部分はアメリカ合衆国陸軍の野戦統括官が計画したみたいなもんです。図書館へ行って、何千人にいつくトイレが必要か、食料の手配はどうするか、そのほかのことはどうやればいいのかってことを調べたんです。
それしか、情報がなかったからなんです。あとになって、大規模集会法がなんかができるまでは。だから頼りになるのは軍隊で、そこから」アイディアwそもらうしか手がなかったんです。」(ジョン・モリス P198)
とにかく企画したほうも何人来るかわからない。破算覚悟で取り組んでいた人もいました。2万人来ればとてつもないコンサートと言われた時代に、50万人の若者たちがニューヨーク郊外に集まり3日間のコンサートに参加し、さしたる混乱もなく終了したのは、まさに奇跡でした。
翻訳者の寺地五一氏はあとがきでこう書いています。
「裕福でスクエアなジョン・ロバーツとジョエル・ローゼンマンと、ヒップなマイケル・ラングとアーティ・コンフィールドという4人組によってプロジュースされた。(中略)
もし、あの混乱のなかで全体に流れる基調があったとすれば、それはマイケル・ラングのヒッピー的なビジョンであっただろう。ラングはスピリチュアルなものをコンサートに求め、そして「手で触ってみれるような、はっきりとしたフィーリングが空中を漂っていたんだ。
ああゆうスピリチュアルな瞬間が生まれると、それを本当に感じることができ、すごいエネルギーが生まれたんだ。」と語っているように彼はそれを実現した。(中略)
権威のヒエラルキーや行動のフローチャートに依存しないで、みんなが助け合うーそんな不可能に近いことがウッドストックでは起こっていた。食料不足、寒さ、アメニティ設備の不足のなかでも若者たちはハッピーだった。
そして会場周辺のコミュニティも自発的に援助の手を差し伸べた。それぞれがだれからの指示も受けずに、自らの判断で必要なことを実行していた。各部分がそれぞれ運動しながら、全体としての有機的な統一を生みだしたのだ。」(訳者あとがき P510)
後にも先にもウッドストックのようなコンサートはないでしょう。混乱も騒乱も50万人が集まっておきませんでしたから。それは主催者と観客の強い精神力なんでしょう。
わたしは高校3年の時、当時まだあった高知市旭町の名画座で「ウッドストック」という映画を見ました。学校をさぼってみたと思います。わたしは昔も今も音楽的な素養はまるでありませんが、「将来ウッドストックのような野外コンサートをやってみたい」と思いました。
遥かにスケールは小さいですが、1988年に「ふりーじゃきに土佐 ビックロック・フェスティバル」を開催することが出来ました。あの当時の経験があるから読んでいてもそうだ。そうなのだとうなづく自分が面白いです。
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