「広田弘毅 悲劇の宰相の実像」を読んで
「広田弘毅 悲劇の宰相の実像」(服部龍二・著・中公新書・2008年刊)を読みました。広田弘毅氏については、東京裁判で処刑された唯一の文官でした。という知識しかありませんでした。
この人物は、どういう生い立ちと思想的な形成をし、何故軍人でもないのに敗戦国日本の罪を背負ったのか?それを知りたくて読みました・
九州福岡の出身で実家は石屋でした。1878年(明治11年)の生まれです。幼少時から字が上手く石屋の字も書いていたようです。またこの地から広く社会運動を行っていた玄洋社の影響も受け、後に頭領の遠山満とも親しい間柄だったようです。
秀才で一高―東京帝大と進学し、外務省へ入所しました。そして外交官としてのキャリアを積み、1930年代においては、何度も外務大臣を歴任しています。短期間でしたが1936年の2・26事件直後の内閣総理大臣も歴任していました。
広田弘毅の外交の真骨頂は対ソ連と対中国外交でした。
傀儡国家満州国とソ連は長い国境線を有していました。広田弘毅はソ連を観察し、こう述べていました。
「1917年の革命によって成立した新ロシアをソビエト・ソシアリズム連邦と言うが、ソビエトはロシア旧来の組織であって、これにロシアにとっては新思想であるソシアリズムを加えて実行しているのが現状で、両者の調和がどう行っているかは、未だ試験管中のものと呼ばざるをえない」
「広田は帝政ロシアの侵略主義を継承したものといぶかっていた。スターリン氏になってから1国社会主義の実現に転向したことについても。ロシアがマルクスシズムのみを以て政治を行っていない証拠とみなした。」(P59)
と冷静にソ連を観察しています。ソ連側から提起された日ソ不可侵条約についても」真剣に検討すべきであると言っていたようです。
広田外交は危ういバランスで保たれていたと著者は言います。
「満州国の存在を前提としながらも、連盟脱退から孤立の道をさらに進むのではなく、列国との関係を持ち直したいと言う要請である。(中略)
何しろ、満州国の育成を第1目標にしながら中国とは善隣互助の関係を保ち、しかも列国には満州国を開放しつつ承認を求めようというものである。そこには原理的な矛盾が含まれるといわねばなるまい。」(P74)
ソ連との不可侵条約などは、軍部の対ソ強硬派に邪魔をされ、中国との善隣互助関係も軍部の強硬派の軍事行動や高圧的な中国に対する態度の表明で、結局は失敗してしまいます。
結果的に広田外交は、日中戦争の歯止めにはならず、武力行使を中国への圧力に利用することになったため、対日友好派が中国内で崩壊し、対日強硬派が覇権を握り抗日勢力が拡大していきました。
敗戦直前に対ソ連外交をやるにも時期が遅くなり、」参戦を招いてしまいました。東京裁判では、南京での日本軍の暴虐行為を広田が報告を受けながら諌めなかったことが、大きなマイナスポイントとなり、極刑が言い渡されることにもなりました。
青年期は玄洋社の影響で大陸思考であり、外務省入庁後の1920年代は欧米志向の潮流に乗っていました。満州事変後にアジア主義的な傾向を強めたものの、広田の日中提携論は内外の急速な変化に対応できず変質し、ついには日中戦争で破たんしてしまったと筆者は言います。
満州国の維持や中国との親善を前提とする広田は、日独伊3国同盟には反対していました。ただ声を張り上げ、体を呈してするだけのことはしなかった。流されてしまった。
結局「戦犯」として東京裁判で極刑の判決を受けました。裁判でも証言台にたつこともなく、淡々としていたそうです。
なんか不思議な人物だなと思いました。
GHQが今上天皇の誕生日である12月23日に広田弘毅や東条英機らのA級戦犯7人を処刑しました。敗戦国日本へのGHQのメッセージと言えるでしょう。
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