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2013.12.25

「読書力」を読んで

Dokusyoryokusaitouhon

「読書力」(齋藤孝・著・岩波新書・2002年刊)を高知駅前のブックオフで先日105円で購入しておりました。父(94歳)が週に2回植田医院へ診察を受け点滴をしている間や、休日にゴルフの打ち放し練習をしている間に読みました。

 11年前に書かれた本ですが。今にも通じますね。当時明治大学の助教授だったそうですが、学生が本を読まないことを嘆かれていました。

 話をしても読書をきちんとしている人と、そうでない人の会話は歴然であるとか。仲間同士では脈路のない会話が延々と続いても構わないでしょうが、社会人になり価値観の異なる世代の違う人たちとの会話となると後が続かない。「打たれ弱い学生」が日本の大学で量産されることに齋藤氏は当時から危機感を抱いていました。

 「好きな文を書き写して作文につなげる」(P190)という項目は確かに一理ありますね。本の印刷が普及していなかった時代には、本を書き写して自分のなかに取り込んでいた時代がありました。

 「本を読んだら人に話す」(P188)という表題もいいですね。わたしも読んだら必ず読書感想文を書いてWEBに上げるようにしています。たとえ理解するところが「断片」であったとしても読んだ証になるし、後から自分で検索して、もう1度その本を読むこともありますから。

 「自分自身の内側だけを見つめているのでは到底見えてこない世界に開かれているのが、読書の面白さだ。言葉の力は、それを発した人間と完全には切り離せない。情報だけではさしたる影響を持たない場合でも、その言葉が誰か知っている人の言葉であれば、別の生きた意味をもってくる。

 何でもない言葉でもシェイクスピアのセリフだと聞けば、とたんにすごみを増してくる。
誰のものともわからない言葉よりも、本という形で著者がまとまった考えを述べてくれている言葉のほうが、深く心に入っていきやすい。

 1人の著者の考え方に慣れて、次々に同じ著者の著作を読むのも、ある時期の読書としては効果的だ。そのことで読書が人との対話の時間になりうるのだと言うことを知ることになる。」(P61[自分と向き合う厳しさとしての読書」

 斎藤孝氏はこうも書いています。

「思考停止するから強いのではない。それは堅くもろい自己の在り方だ。思考停止せず、他者どんどん受け入れてくる柔らかさ。これが読書で培われる強靭な自己のあり方だ。」(P52「複雑さを共存させる幅広い読書」

 2013年12月6日に安倍内閣は「特定秘密法案」を十分な国民的な議論もなく国会で強行採決しました。わたしは「政府による国民へのテロ」「クーデター」と断じました。

 それは国民各位の議論を無視し、国民を政府が統制し、「愚民化する」全体主義国家へ道を広くものであると思ったからでした。政府の姿勢は「複雑さを共存させる」ものではないからです。

 「強い国日本・近隣国になめられない国・日本」を強権的な手法で目指すことは、じつは「もろい国」になる、成り果てることになることは歴史の教訓であります。

 300M四方の町内から出られなくても、読書はできます。国民を愚ろうし、愚民化させる「特定秘密法案」は廃止しないといけないというのは、わたしの読書した結果の結論です。

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