「大川周明 アジア独立への夢」を読んで
「大川周明 アジア独立への夢」(玉居子精宏・著・平凡社・2012年刊)を読みました。高知市の片桐書店で」新刊本で購入しました。理由はタイトルに魅力を感じたからです。
大川周明は、東京裁判でA級戦犯になった民間人。法廷ではスリッパで東条英機元首相の頭を叩いたことで狂人とみなされ、精神病院に収監されました。当時としては日本を代表する思想家であり、連合国からは蛇蝎のごとく憎まれた人でもありました。
大川周明は1886年山形県の医師の長男として生まれ、熊本第5高校から東大へ進学。卒業後は定職につかず、参謀本部でドイツ語翻訳のアルバイトをしていたといいます。1918年に満鉄に就職。東亜経済調査局に勤務するようになった。
偶然に買って読んだ[新印度」(サー・ヘンリー・コットン・著)では、大英帝国によるアジア収奪の事実に、大いなる義憤を感じたようです。以後国内改造と欧米からのアジアの解放を目指すアジア主義の思想家になっていきました。
筆者の玉居子精宏氏は、1976年生まれ。2005年にベトナムのホーチミン市に2年間居住していました。その時に大戦中に当時欧州諸国の植民地であった東南アジア各国に日本の民間人の若者たちが日本とその国の懸け橋として活躍していたことを知り、大川塾の存在に興味を持ち調査し、取材をしたといいます。
[南方での彼らは[アジア解放」の理想を学んだ民間人として、外交や軍事の末端でそれぞれの任務を忠実に全うした。そうあるべしと教わったからである。
戦場に立てば無論軍人の指示を受けた。ただ軍と軍人には嫌悪を感じることもあった。アジアの民族が独立を達成できりうように助けたい。日本はそれをやると表向きはいっている。しかし軍隊はそれを抑制するではないかー。理想と現実の乖離に直面し、その憤りや不満を感じるものが少なくなかった。」(P15)
大川周明は、1931年の「5・15事件]に連座し逮捕され、出所後私塾である大川塾を満鉄、外務省、陸軍から出資を募り、1938年に開所されていました。全国から生徒を募集。中学を出たばかりの子弟を全寮制で1学年20人。授業料無償、生活費支給で2年間の教育を施し、東南アジア各地に塾生を大川は派遣していきました。
語学には力を入れていて、英語。フランス語、オランダ語の欧米の言語と、ペルシャ語、ベトナム語、シャム語、マレー語、ヒンズー語のアジアの言語もあった。塾生の派遣される国の宗主国の言語と現地の言語が組み合わされ学習されていたようです。
大川塾生は、ビルマにおいてはBIA(ビルマ国民軍)に参加し、ベトナムでも戦後独立した折の南ベトナム大統領や首相との交流をこしらえていました。インドにも独立運動の闘士ラス・ビバリ・ボーズは、日本亡命中に匿われていた新宿中村屋でインドカレーを日本に伝え運動家とも大川周明は親交がありました。
大戦中は塾生がマレー半島を事前に視察旅行し、後に日本軍が上陸する地域を選定したりしました。アジア各地で現地の独立運動をしているグループと提携し、宗主国への反乱を画策したりしていました。しかし、アジアの国に溶け込んでいた大川塾の若者たちの真摯の姿勢は凄さも感じました。
大川周明を単なる右翼思想家と片付けるのは簡単。しかしアジア各地で活動した塾生たちは、個人の力で後にその国の要人(政府首脳)になる人たちと親交を深めていたのです。組織や軍隊の背景なしに、派遣した国に溶け込んでいたのです。
筆者は「大川周明からアジア主義的な考え方を教えられた大川塾生は、戦争において都合よく利用されかねない存在だった。あの戦争が「アジアの解放」を呼号していたからである。
彼らはその現実の中で、教えられたように任務に忠実であろうとした。他方軍や日本の組織に反発を覚えていた。心の支えは[アジアの独立」だったという。
私はそういう大川塾生のことを知るにつれ、彼らの姿にアジア主義の素朴で強靭な根幹を見る思いを持った。
それに対する感動が執筆の動機になっている。」(P295)
きちんと歴史に向き合うことが必要であることをこの著作から学びました。
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