「社会を変えるには」を読んで
近くの市民図書館で「社会を変えるには」(小熊英二・著・講談社現代新書)を読みました。フェイスブックでお知り合いになった早川義輝さんの推薦図書でした。
著者の小熊英二氏は、1962年生まれ。1987年東京大学農学部を卒業され、出版社勤務を経て現在は慶応大学総合政策学部教授です。私より9歳年下ですが、やはり」豊富な知識と教養が、日本の社会運動を類型化し、分析し「解剖」していくことは或る意味、運動の当事者でないから出来るのではと思いました。
「日本の社会運動には、3つの特色があったと考えられます。
1つは、強烈な平和志向です。たいていの国で強い平和主義は、世界秩序の安定を乱す戦争はいけないが抑止力は必要だという戦略的平和主義や、侵略戦争は批判するが「革命戦争」や「独立戦争」は肯定する思想的平和主義に属します。すべての戦争を否定する絶対的平和主義が、戦後日本ほど勢力を持った国はありません。
言うまでもなく、これは第二次世界大戦の悲惨な経験からきています。憲法のほかの条項は知らないけれど第9条だけは知っている。逆に言うと第9条以外は良く知らない、という人は少なくありません。
2つめは、マルクス主義の影響が強かったことです。同じマルクス主義といっても、労働者政党が議席を獲得して福祉社会をめざすという社会民主主義ではなく、少数精鋭の前衛党を組織して革命で政権をとるというレーニン主義の影響が強いものがありました。
これは、1950年代ぐらいまでの日本が開発独裁型の発展途上国に近かったことの影響です。前衛党というのは、大衆の教育程度が低く、政治や言論の自由が少ない社会に適しているからです。
3つ目は、倫理主義の強さです。」(P88[戦後日本の社会運動」)
なるほど「前衛党というのは、大衆の教育程度が低く、政治や言論の自由が少ない社会に適している。」というのは間違いないですね。日本共産党や旧社会党の社会主義協会や新左翼各セクト諸派もレーニン主義の影響を強く受けていたので、市民を「上から目線」で見下ろす、「指導」が行われていました。時代錯誤もはなはだしいうことですね。
「全共闘運動が盛り上がっていた時期は、お祭り的な感じもあり。楽しいものでした。倫理主義の傾向や「自己否定」の言葉も現れていましたが、初期にはそれほど問題はなかったようです。
弊害が目立ってきたのは運動の後退期でした。どこの大学の全共闘運動も、半年もたつと行き詰まります。そこで大学当局と具体的に話し合って、場合によっては妥協をするようなことをやらず、闘う意思表明としてバリケードに立てこもる、ということが多くありました。セクトもそうした「革命的」な方針に誘導します。
そうなると展望がないので、人の集まりも悪くなります。69年の後半になるち、警察の弾圧も厳しくなり、デモに参加すると逮捕されかねない。人の集まるが悪くなると、路線争いや内ゲバも激しくなりました。
そうなったところで、ほんとうに運動に加わるのか、覚悟が問われるようになります。そうなると「お前はデモに来ないのか」「バリケードから去るのか」という問い詰めが横行するようになりました。
逮捕覚悟で参加しないものは裏切り者だ、自己批判せよ。とまで言わないまでも、それに近い雰囲気もあったようです。それが疎まれて参加する人が減ると、残った人のあいだで、ますます倫理主義が強まると言う悪循環が生まれます。(中略)
最初の楽しさは薄れて分裂や内ゲバが横行し、倫理で頑張るしかない一種のがまん大会のようになったきました。そうなると、がまんして学生の間だけ活動し、就職が決まったら、きっぱり忘れよう、という人がよけいに多くなります。
それがまた、残った人の倫理主義を強めて、ますます雰囲気が重くなりました。どんどん少数派になると、経済成長に酔いしれる多数派を覚醒させるには武力闘争しかない、というグループもでてきます。そうなるとついていけない人が多くなり、グループによってはブレーキがきかなくなって、少数派の過激な運動と言う性格が強まっていきました。」(P149[)
私が中学3年あたり(1968年)から社会運動に目覚め、高校入学(1969年)から高校生時代は、社会運動の後退期で、きゅきょくは972年ンも連合赤軍事件でしたから。その年高校を卒業できなくなり、留年しました。大学へ入学した(1973年)は、内ゲバが横行した凄惨なじだいであり、栄光はなく敗北と後退の負の歴史でしかありません。
だいたい自分の浅薄な田舎の小さな社会運動と学生運動の体験から理解できるのはこのあたりまででした。小熊氏は、「そもそも国とはなにか」「そもそもなぜ国に従う必要があるのか」という根本的な国家論を記述をし始め、プラトン、デカルト、ニュートン、ボップス、ロック、ルソー、アダムスミス、まで論じていきます。
このあたりは「教養」のない私は讀むのも辛い個所ですが、我慢して読みましたが、あまり理解はできなかったと思います。筆者は最終章で、一定の結論を出しています。
「「自分をないがしろにされている。」という感覚を足場に動きをおこす。そこから対話と参加を促し、社会構造を変え、「われわれ」を作る動きにつなげていくことです。」(P440「社会をかえるには」)
小熊英二氏はさすがに頭の良い人であるなとは思います。ただ1つ私と共通していた思いがあり共感しました。「おもしろおかしく運動はやらないといけないし、続かないし、成果が上がらない。」と言う感覚の持ち主であることでした。
皆が集まって「鍋」を囲んで楽しく食事会をするような感覚です。
「幹事のやるべきことは、決定を押し付けることではなく、会場を設定することです。(中略)
デフレ不況の現代日本でも、鍋は強い人気があります。お金がかからず、参加するのが楽しいからです。どんなに安くて品物が提供されても、参加して一緒に作ることを、人間は手放したがりません。
参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる[政]が、民主主義の原点です。自分たちが自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします。」(P498)
わたしなりの結論は、「みなそれぞれが楽しく集える場をこしらえ、議論をし、相手を尊重し、問題点を見える化して、解決して地域力、住民力を高めていこう」ということになります。
個人のテーマであった「連合赤軍と新自主主義の総括」については、頭の良い小熊英二氏を活用してほぼできたのかなと思いました。
今のわたしの最大のテーマは「南海トラフ巨大地震から高知市下知地域で生きのびtるために」です。「生きのびる」という意味は、命を長らえると言うことだけではなく、自分の家族、会社、値域社会を地震から守ることです。簡単なことではありません。
もし低地の下知地域を10メートルかさ上げし、耐震地盤をこしらえ、立体換地をして耐震高層住宅を建設し、商業施設や公共施設、企業や商店、病院や介護所、保育所などをこしらえ、地震に強いまちづくりを実行することができたら、どれほど皆が幸せになることができることか。地震や津波に苛まれない強いまつづくりが可能になります。
それを本気に実行することをやってみたいと真底思います。
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