大河の一滴を読んで
「大河の一滴」(五木寛之・著・幻冬舎文庫・1998年刊)を読みました。高知駅前のブックオフで108円で買いました。五木寛之氏の著作は、波長が合うのか読みやすく、過去それなりに読んでいます。
「親鸞」「こころの天気図」「他力」「蓮如ー聖俗具有の人間像」「新・風に吹かれて」「大人2人の午後」などを読んでいます。
敗戦で子供時代に朝鮮から日本に引き上げるときに実弟が亡くなったとか、多感な時代に過酷な体験をされた五木寛之氏。独特の「無常観」「世情観」はそこから来たものでしょう。
印象に残る言葉が幾つもありました。
「私たちは「泣きながら」生まれてきた。私たちは死ぬときは、ただ一人で逝く。恋人や、家族や、親友がいたとしても、一緒に死ぬわけではない。
人は支え合って生きるものだが、最後は結局ひとりで死ぬのだ。」(P24「なにも期待しないという覚悟で生きる」)
「目に見えない超現実の世界を想像することは、すでに宗教の根に無意識に触れていることだ。地獄を空想し「この世の地獄だ」と感じたりするとき、実は人はすでに宗教の世界に踏み込んでいるといっていい。
私たち日本人のほどんどが、意外に思われるのかもしれないが、常に宗教と背中合わせに生きているものである。夕日を見てなんともいえない不思議な気持ちになったり、深い森を不気味に感じて恐れたり、アスファルトの裂け目に芽吹く雑草に感動したり。その場その場で私たちはおのずと目に見えない世界に触れるのである。」
「それを精霊崇拝(アニミズム)と呼び、なにか土足的で前近代的な思考として低く見る立場を私はとらない。神と仏をごっちゃに拝む日本人一般の原始的な習俗を、愚かしい神仏混こう(シンクレチズム)として頭から嘲笑することも好きではない。
宗教とは教義や組織によって成り立つものではない。人間の自然な感情から出発するものなのである。」(P40「大河の一滴としての自分をみつめて」))
わたしは61歳になり、社会的にも全く成功者でもなく。経済的には恵まれていない。落ち込んでしまうことが多いのですが、五木寛之氏は卑下する必要も、卑屈になる必要もないと言います。
「ましてや、他の人間とくらべて、自分の人生にコンプレックスを持ったり、優越感をもったりすることは、まったく意味のないことではないでしょうか。
その人間に他の人間以上の恵まれたエネルギーや才能があったとする。たとえば野球のイチローのようにすばらしい運動神経に恵まれた人もいる。あるいは数学の才がある。あるいは、有り余るエネルギーと勇気がある。創意工夫がある。
そういう人は大きな仕事をやり、それを成し遂げ、そして世の人々から拍手を受ければいい。だけど、その人たちはそれを誇るべきではじゃない。ふつうの人以上のエネルギー幸運をあたえられたことをむしろ謙虚に感謝すべきである。そしてぼくたちはその人を羨む必要もない。」
「無名のままに一生を終え、自分はなにもせずに一生を終わったと。卑下することはないのではないか。生きた、ということに人間は値打ちがある。どのように生きたかという事も大切だけれど、それは2番目、3番目に考えればよい。
生きているだけで人間は大きなことを成し遂げているのだ。そういうことを、ぼくらは戦後の混乱を生き抜いてきた人間は、いまさらのように考えたりすることがあります。」(P121「いのちを支える見えない力」)
わたしも還暦を過ぎて、「自分が何者ではない。無名の市井の市民の現実」を思い切り自覚して、落ち込んでいました。でもそれは当たり前のこと。「生きていることに、だれもが価値がある」と思います。
父も95歳で元気です。母も88歳で元気です。超高齢者の両親は私に力を与えてくれます。とっても大きな価値なのです。
五木寛之氏の著作は讀むたびに励まされていますね。
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