偏狭な原理主義では天下はとれません
最近面白い現象に遭遇しました。
「フェイスブック」というSNSに相手側から「友達になる」申請が来ました。知らない人ではないし、こちらも大歓迎。即承諾の返信をしました。
フェイスブックには「ニュースフィード」という「友達」になったもの同士の共有掲示板があります。投稿するたびに掲載します。その人はスマートフォンを持ち歩いているらしく、頻繁に投稿されていました。
ところが・・・ 最近投稿を見ないな。と思っていましたら、なんとその人の「友達」からわたしの名前が削除されていました。なんだか釈然としませんね。向こうから友達になりたい。と申請してきながら、こちらに何の断りもなく、友達を削除する。
ドライといえば、ドライ。身勝手と言えば身勝手。それがフェイスブックの自由さ。といえばそれまでですが、その人の「身勝手さ」「独善性」を思い知りました。こうした行為で「その人の人間性までネットで公開される」ので、面白いといえば面白い。
市民運動分野でも、ささいな言葉の行き違いを捉え排除したがる人達が実に多い。滑稽だった出来事がありました。わたしは「個人ブログ記者」と勝手に自覚し実際に行動しています。ある市民集会での出来事。
講演会の講師の講演の様子の撮影や、聴衆の様子も無作為に(特定の人を撮影したわけではない)撮影し、翌日講演の内容を記述し、写真も添付し私の個人ブログに公開しました。
そしたらとんでもない剣幕で呼びつけられました。
「あの集会は反体制的な集会です。来る人は決死の思いで来ています。聴衆を勝手に撮影し、ブログに公開されたら公安警察に情報提供しているようなものだ。」
「個人情報の保護と言う観点もあるし、個人の肖像権もある。勝手に撮影しブログに載せるのならグループへの出入りもしないでほしい。」と除名勧告まで出ました。
大変微妙な問題も含んでいるし、わたしの行為が全面的に正しいか、間違っているかは議論の余地はあるでしょう。でもその市民グループは「問答無用」の「排除の論理」で押し出してきました。
誕生当初から数年の関わりがあり、わたしなりの懸命のサポートや支援もしてきたはずですが、言い訳は一切許されず、一方的に排除されたのです。私を排除しておきながら、商業新聞社や商業テレビ局の取材は笑顔で応対し、写真や映像を取ることに何の注意もしません。要するに私はその「市民グループ」とやらに「言論弾圧」されたのです。
多様な市民運動標榜していますが笑止千万ですね。日本の社会運動が広がりがないのは、こうした主催者側の多様性や異質の意見を絶対に認めない偏狭さがあるでしょう。しかしマスコミには卑屈極まりない。思想性が結局ない偽物ですね。
わたしも大人ですので表立っての非難はしません。そのグループを「卒業」したと称しています。しかし彼らが過ちを認め自己批判をしない限りは、絶対に許しません。敵対はしませんが、心を許さない姿勢は堅持します。
考えて見ますと、まちづくりのグループにも「異を求めない」「異見を認めない」ことが多いようです。だから盛り上がらない。反原発運動もしかりです。「ささいな違い」を見つけ批判し合うばかりですね。棘のある手で握手ができないでしょうに。だから広がらないんですよ。
日本の社会や文化は「多神教」で異論を認めること。意見の異なる相手の存在を認める文化があったはず。原理主義的に排除したがる人達が、いろんな場所でいかに多いのか。
最近の日本は「停滞している」と各方面で言われていますが、「さもありなん」と私は思います。考え方が浅薄であり、器が小さいからですよ。運動や政治の当事者がです。
それは「多様性を認めない」「余裕のない人達」が多くなり、ストレスを溜め込んでいるからでしょう。かつて「国民政党」と言われた自民党の良さは、多様性を認める「いい加減さ」でした。だから世の変化に対応できます。
昔話ですが、列島改造の田中角栄を輩出したと思えば、角栄が金権政治家と叩かれると、「クリーン三木」を代打で送り込む。そのしたたかさがありました。しかし最近の安倍政権の自民党はどうだろう。多様性がなく、ファシスト政党(全体主義政党)ではありませんか。全然面白くもなんともない。しかも思想的には稚拙極まりない。
安部自民党もナチスを真似するのであれば、経済政策でナチスのように成功してから物を言っていただきたい。ナチスは国民に職場と家とマイカーを与える政策を実現したのですから。アベノミクスは、大衆収奪政治です。大企業優遇政策ばかりで大衆は貧しくなるばかりです。全体主義をなのることすらおこがましい。
「麻生太郎氏はナチスを論ずることはおこがましい。」
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-cb97.html
右陣営も、左陣営も「異論を聞く耳」を持たない人たちが多い。辟易しますね。そういう運動や主張は「面白くない」ので関わらないようにしています。
なぜなら私は「異論を認めますし」「多様性があることを好み」ますから。原理主義的な一元論で仕切れるほど世の中甘くはないと思いますよ。
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