
「内田樹・大市民講座」(内田樹・著・朝日新聞出版・2014年刊を読みました。300M四方が活動範囲の「小市民」である私。「大市民」という題名に魅かれ、11月の上京時に八重洲ブックセンターで購入しました。
とにかく11月・12月は夕方は会合や講演会。休日は防災訓練や防災研修会が連続で、読書する余裕が全くなく、とぎれとぎれに読みました。全編が900字程度の短編随筆でしたので、なんとか読み通すことができました。
そのなかに現在の安倍政権の本質を描いた記述がありました。しごくもっともな記述でありましたので、900字分を全文引用します。
「中国の雑誌から日本のナショナリズムをどう理解したらいいのかについて取材を受けた。靖国神社に参拝して東京裁判史観を否定する自民党の政治家たちが主観的には親米派であるというり理路が中国人にはうまく理解できないらしい。もっともである。小泉純一郎氏を例に引いて説明を試みた。
小泉氏は歴代首相の中で最も親米派の人であった。彼はブッシュ大統領のあらゆる政策を支持した。規制緩和では日本の市場をアメリカ企業のために開放した。この徹底的に親米的な姿勢故に、彼が靖国参拝によって、「アメリカの足」を思い切り踏んだ時も、アメリカは「痛い」ということを自制した。小泉氏を失うにはあまりに惜しい友好的な同盟者だったからである。
以後の右派の政治家たちは小泉流を踏襲した。まずたっぷりと親米的なジェスチャーをして見せてからなら、大東亜戦争肯定論や改憲核武装論や中国韓国への排外主義的暴言を国内向けに揚言しても「アメリカには叱られない」ということを学んだのである。
そのようにして「親米ナショナリスト」という他国では見ることのできない奇妙な人種が登場することになった。日本の右翼は「自国無制限に駐留している外国軍隊に対する抵抗運動を組織していない世界でたぶん唯一のナショナリスト集団である。この「ねじれ」を中国の人に理解させるのにずいぶん手間取ってしまった。
日本維新の会の共同代表の橋本徹大阪市長に対して、訪問予定地であったサンフランシスコ市がその前月「公式訪問としては扱わない。表敬訪問も受けない」という文書を送っていたことが明かされた。
これは国内向けにナショナリスト的暴言を吐き散らしてければ、まず親米派であることを先方に得心させてからだという「ことの順序」を彼が見落としたことへのメナルティだと私は見ている。
だから市長はあわてて親米派であることをアピールするために、沖縄のオスプレイの八尾空港配備を提言してみせた。自分が地元住民の安全より、アメリカの軍略を支援することの方を優先する親米派の政治家だということをホワイトハウスに理解してほしかったのだ。」(「奇妙な親米ナショナリスト」P97)
おおむね内田樹氏の奇妙な「親米ナショナリスト」の本質暴露は当たっていますね。

小泉内閣全盛時代にも漫画家のマッド・アマノ氏が「小泉鈍一郎・キャラクター」にて笑い飛ばしていますから。物事の本質を見抜き「権力者を笑いものする」ということはとても痛快きわまりない。愛国的言辞で、アメリカに媚びへつらう政治姿勢がよく描かれています。
安倍晋三氏に関しては、うちの子供の漫画で体質を表現できたのではないかと思います。日本国首相でありながら日本国憲法を軽視し、破壊しようとしています。その本質は「対米従属ナショナリスト」そのものです。日本国の富をアメリカの大企業に売り渡すだけではなく、日本国民を兵士としてアメリカ軍の軍事作戦に徴用しようとまでしています。

また内田樹氏は、「混迷な時代にこそ必要な能力とは」という表題で面白いことを言っていました。
「社会が安定していて、価値観がぶれないときは「秀才」が仕切る。でも、前例を参照し、マニュアル通りにてきぱき働く「秀才」たちは、社会の土台がぐらぐらし始めて潮目風向きが変わる時期にはあまり役に立たない。
それよりは「鼻が利く」とか、「皮膚で感じる」とか「胃の腑で考える」というタイプの、生物学的によりプリにティブな個体にあれこれとお座敷がカアkるようになる。隠居には迷惑な話である。
「どうしていいかわからないときは、どうしていいかわかる」直観的な判断力はもともと生物には備わっている。学生が教室に入ってきた教師を見て一瞬で点数評価をつけるという実験をアメリカでしたことがあるそうだ。その直感評価と1学期間授業を聴いた後の学生の評価はほとんど違いがなかった。人間はそういう力がある。
混迷な時代に私たちが習得すべき最優先の能力はこれである。「この人は信用できるか、できないか」をロジックともコンテンツとも無関係に瞬時に判断する能力である。」(P246「混迷な時代にこそ必要な能力とは」)
最近のわたしの判断基準は「面白いか、面白くないか」です。ヨットは風が吹こうが吹くまいが、夏であろうが真冬であろうが面白い。海面や風が常に変化するからである。
社会的にいくら意義があり、大事なものであることであろうが、「面白くないことはしたくはない」のであります。それが私の信念です。
若い頃は「革命のために」と信じ「面白くないこと」を懸命にやりました。しかしそのことが何も生まないばかりか、深刻な挫折感と無力感の長年苛まれました。
人生には限りがあります。仕事や家族の介護、地域のお世話役は「面白くないことも」時ににしてあります。ですので「できる限り面白くする工夫」をします。
それ以外の市民活動などは殆ど出来ませんが、「面白い活動」であればやります。面白くない活動は一切やりません。時間の無駄ですから。人生には限りがあるからです。一見「わがまま」な判断基準ですが、間違ってはいませんね。
最近のコメント