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2014.12.18

「読書と社会科学」を読んで


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「読書と社会科学](内田義彦・著・岩波新書・1985年刊)を読みました。学生時代は一応経済学部でしたので、「資本論の世界」とか「社会認識の歩み」なども読んだようですが、一切記憶に残ってはいませんね。題名に魅かれて読んでみました。

 本のカバーにこう書かれてあります。

「電子顕微鏡を通して肉眼では見えない世界を見るように、社会科学では、概念という装置をつかって現象の奥にある本質を見極めようとする。自前の概念装置をいかにして作るか。
 
 それを身につけることで何が見えてくるか。古典を読むことと社会科学を学ぶことを重ね合わせて、本はどう読むべきかの実習を読者とともに試みる実践的読書論」

 情報化時代を随分昔に見抜き対処方法まで内田義彦氏は書いていました。

「情報時代と言われ、情報はいっぱいあっても、自分の視点が定まってこない限り、氾濫する情報は、自分を押し流すだけで、自分の情報になってこないでしょう。

 情報が多いことが悪ではない。情報を的確に選び取り、読むべきものについてよむべきことを読み取る術を、手に入れなければならない。情報に流される事態から情報を使いこなす状態に変えなければならないでしょう。

 そして人が現に情報の氾濫に戸惑っているという否定的な事態の中に、すべての人が正確な情報を基に、自由な人間として判断し行動しうる社会への推転の必然性が表われている。」(P32「読むことと聴くこと)

 内田義彦氏が著作された1989年の時代はパソコンも未だ一般に普及されてはいません。またインターネットという膨大な情報を気軽にやり取りする情報化社会も登場していない時代でした。それでもちゃんと物事の本質を見抜かれています。

 情報化時代の洪水に飲み込まれないためには自前の「概念装置」をもつことが肝要であることを言われています。

「概念装置を脳中に組み立て、それを使ってものを見る。物的装置をもたないという心細さは残りますが、概念装置を使うことによって、肉眼では見えないいろいろの事柄がこの眼に見えてくる。

 それも、ある程度ながらー用いられた概念装置にかかわりのある限りにおいては、否応なく、好みを超えて、否定しようにも否定しがたく見せつけられるかたちで見えてくるんで、その限りだれでもが同じ地盤に立つ。同時に先人の発見の伝達と蓄積g可能になってきます。

 ソクラテスの天才をもたないわれわれでも、一定の努力を払って概念装置を脳中にしつらえ、それを使ってみればこの眼でものを、ある点についてある程度まで明確にとらえられる。少なくとも見えるところと見えないところをはっきりさせることはできる。

 逆に言えば、専門家でも変なことを言えばすぐボロが出る。相手が素人でも、-権威や世論に」盲従せず―自分の眼で見、自身の頭で真剣に考え抜く人である限り、納得しうるかたちでものをいうことを、可能にもするし必要ともされる。

 天才のもつ深い洞察の意味と役割を否定するわけではありませんが、発見と伝達を天才人からわれわれ一般の人間に開く。それが概念装置の機能です。」(P145「創造現場の社会科学)

 学生時代にゼミなどにも入らず真面目に勉学しなかったつけが関連過ぎて」回ってきた感じでしょうか。「わかったようで今ひとつわからない」のですが、内田義彦氏のいう「概念装置を意識して社会科学の書籍を読むべきである。ということはなんといか理解できました。

 今後南海トラフ巨大地震を意識して、どのように地域社会を安全・安心の観点でこしらえていくのか。このところにも「概念装置」を導入し考えてみようと思いました。

 あとがきの中で内田義彦氏はこう述べています。

「氾濫する情報の中で、情報に左右されず、「私の古典」を根城に、柔軟で」頑固に私を貫いていく不屈な人間、自由にして自由を希求する自在な人間として強固な意志を持たなければ、「自前の概念装置」を持ち、それを根城に、きらびやかな学説の正体を見極めながら、人と社会を社会科学的に解明する操作を仕遂げることは不可能だろうと、わたしは思う。」(P212 あとがき)

 学生時代に頭のトレーニングをしなかった報いに苛めれるつつも、しろうとなりに考え抜いて地域社会の再構築を考えてみたいと思いました。

 

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