アジア・カップはオーストらリアが初制覇
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高知県大月町龍ヶ迫地域のポテトファーム・ハマダさんところの「ひがしやま」は絶品です。絶品です。薩摩隼人とかいうニンジン芋です。干し芋ですが、手間暇が物凄くかかっています。
収穫した芋を釜で1日ゆでます。それを海沿いの崖にある干し場に運んで2~3週間干します。風の強い時期に天日干しされたひがしやま(サツマイモを干したもの)が、芋の糖分が吹き出して来て絶品の味です。
当然一切の添加物はありません。芋に含まれるベータカロチンや繊維質、ビタミン類は豊富です。甘さは芋の中に含まれる糖質が干して露出したものです。電子レンジで1分温めると美味しくいただけます。
10年ほど前に夏でしたが現地を訪問したことがありました。風光明媚な場所でした。
http://www.nc-21.co.jp/hoeru/higasiyama.html(ひがしやま物語)
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具体的には高知市青柳公園地下に埋設されている耐震性非常用貯水槽を浸水時にも有効に使用できるように改修の請願を12月高知市議会に提出していました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-7e14.html
高知市議会で地域代表の高木妙さんにも質問を市議会でしていただきました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-2e8b.html
高知市議会6会派のうち5会派の賛同は得ましたが、請願は「継続審議」になりました。
今回高知市水道局を招聘し、下知地域住民との耐震貯水槽の有効活用について意見交換会を実施いたします。
(会合名) 耐震性非常用貯水槽の有効活用についての意見交換会
(日時) 2015年2月5日 18時30分より
(場所) 下知コミュニティ・センター4階多目的室
その前に1月27日(火曜)に午前10時から12時までの間に、下知コミュニティ・センター3階会議室Bにて、改修方法のアイデアを募集・検討会を行います。関心のある方はご参加ください。
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正式名称は、なんというのかわかりませんが、両親の介護判定も出たことですし、関わりのあるケア・マネージャーさんと、ディ・サービス施設、介護予防通所リハビリ施設、福祉用品レンタル事業所の関係者が集まり、両親を交えた会合が、2015年月29日に事務所で開催されました。
まず母(89歳)ですが、認知症の進行の判定で介護度1から2という判定に。尿失禁や便失禁という排泄の失敗の頻度が多くなったということでしょう。対策として本人は脊椎間狭窄症でありますが、下半身系の運動療法、立ち上がり運動、散歩の増加を施設側にお願いしました。
認知症という事が判明して今年で7年目。症状は「横ばい」状態を維持しているとはいえ、いつどうなるか正直わかりません。オムツが外れ、尿失禁。便失禁がなくなることが家族の理想です。
父(95歳)は、昨年同様に要支援2の判定。施設でも意欲的に運動に励んでいるとのことです。父も母同様に立ち上がり系の運動(椅子から立ち上がることなど)をより多くするようにお願いしました。後回転系の運動療法もお願いしました。
超高齢者でも筋力トレーニングは有効です。「体力測定では同年齢の人から言えば間違いなく最上位になります。」とのご評価。「バリヤ・アリー(バリヤだらけの自宅・階段生活)とゴルフの練習をしたいという父の執念の成果でしょうか。
デイのほうから母について「お元気であるのですが、時折他の利用者さんにアドバイスがすぎて、励ましの意味で強い言葉ととられる発言をされたり、肩を叩いたりすることがあります・」との指摘が。元気であるので、他の利用者がまどろこしく見えるようです。
父の方も施設側から「メニューをフルにこなされていますが、前の人が遅いとイライラすることを表明されたりします。」との指摘もありました。高齢者になると「我儘」になり「感情のセーブ」も効きにくいという事なんでしょうか。
そこは介護施設の職員さんたちは、介護のプロ。上手にお互いの施設利用者のプライドを損なうことなく誘導されているようです。いいことですね。
母は「介護サービス計画書」があり、父は「介護予防サービス・支援計画票」というものがありますね。家族とすれば、現状の身体機能、認知機能、2本足直立歩行が出来る状態がベストです。そうでなければ「バリヤ・アリー」の狭い住宅では両親は生活できませんから。
打ち合わせ終了後は、昼食を慌ただしくとり、午後からは両親は介護予防通所リハビリ施設へ行きました。
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インフルエンザが大流行ですね。既に昨年のピーク時を上回っています。高知市内の小学校の学級閉鎖を聞くようになりました。我が家の超高齢者の父(95歳)は、週に2回通院して診察を受け点滴しないといけません。普段は見かけない若い患者さんたちがマスクをして待合に溢れています。
父もそうですが付添の私も大変。いつ罹患するのかわかりません。年明けからも仕事も地域活動も多忙。インフルエンザで寝転んでいる暇はありません。
「インフルエンザは発症48時間以内ならイナビルという吸引式の薬が良く効きます。2日間で熱や症状が納まりますが、全治は1週間。48時間を過ぎますと、なかなか治療法はなく2週間以上は回復にかかります。自分の平熱を調べ、異常だねと思えばすぐに医院へ行くことです。それしかないそうです。
防災・減災面からも避難所などの感染症対策は絶対に必要です。とくに高齢者や乳幼児の対策は急がれますね。平常時でも大変ですが、非常時であれば尚更です。
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昨年12月高知市議会に「耐震性非常用貯水槽の有効利用についての請願」を下知町内会連合会、下知減災連絡会、下知地域内連携協議会の3団体連盟で提出していました。結果は「継続審議」になりました。
1月27日に下知コミュニティ・センターに関係者が集まり、2月5日の午後6時半から開催される「耐震性非常用貯水槽の有効活用についての意見交換会」についての議論をしました。
多様な角度から意見が出されました。下知地域住民とすれば、高知県の試算でも「「地域が浸水した場合、最短で浸水の解消は13日」であると言われています。地震の最中に地盤が沈下し、最悪地震後5分で浸水する可能性が高い地域なので、飲料水を背負って避難ビルへ駆け上がることは、高齢者は無理です。
青柳公園下にある6000L貯水される耐震貯水槽の水を有効活用していただきたいというのが、下知地域住民の願いでもあります。今回も水を安全に汲み出す工法などが4つぐらい提案されてきました。
その提案と、震災時の飲料水の安定供給を高知市水道局はどういう方針などを拝聴し、意見交換会を2月5日にすることで、今日の検討会は終了いたしました。
(会合名) 耐震性非常用貯水槽の有効活用についての意見交換会
(日時) 2015年2月5日 18時30分より
(場所) 下知コミュニティ・センター4階多目的室
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ホームのオーストラリアが前半の早い時間に2点を挙げて完勝の試合。実力差があり過ぎますね。今回のアジア・カップ。日本とイランの優勝候補がいずれもベスト8でPK戦で敗れたので興味が半減ですね。
結局決勝へ進んだ韓国もオーストラリアも世代交代期で、きちんとした形が出来ていませんが、勝ち上がってきたのは、「決定力」があるからですね。日本は一次リーグで本田が4回、香川も2回決定機を外しています。それが思わぬ接戦になり、控えの選手を使用できませんでしたから。
日本は決定力のなさが最後まで響き、主力メンバーを固定して戦ったものの、決勝へも進めず最悪の結果になりました。ようするに「弱い」のですね。UAEのようなチームに負けるようでは、アジア予選も危ないかもしれません。
今日のサッカー解説の戸田氏は具体的で良かったです。ちゃんと戦術や技術の解説がわかり易い。そろそろ代表監督も日本人監督になっても良いとは思いますね。
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2014年の高知市議会にて、下知地域の代表の市議会議員である高木妙さんが、「非常用耐震貯水槽の有効活用について」の質疑を行っていただきました。
、
下知減災連絡会、下知町内会連合会、下知地域内連携協議会の3者会長名でも、12月高知市議会に「耐震性非常用貯水槽の有効利用に関する請願」を出しています。
防災寺小屋の西田政雄さんが、市議会の質疑の様子を動画にしていただきました。
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2015年1月25日は、高知市地域防災推進課が準備をされて、鍋島係長、前田課員の引率で、バスにて「松山市自主防災組織ネットワーク会議・視察」へ行きました。参加した高知市内の小学校校区単位を原則とする防災会は、下知減災連絡会を含んで16でした。午前9時間に高知市あんしんセンターを出発しました。
途中石鎚山パーキング・エリアで昼食タイムに。石鎚ラーメンを食べました。
そして午後1時前に松山市消防局へ到着しました。今日は松山市の消防関係者は」「「出初式」であり、意見交換会の開始がやや遅れました。
最初に松山市消防局警防課市民防災担当課長の金澤英雄氏が挨拶され、松山市自主防災会組織ネットワーク会議の古金茂会長が歓迎の挨拶をされました。
最初に金澤課長より、松山市の自主防災会結成促進の歩みと,消防局の考え方について説明がありました。高知市と松山市の大きな違いは、松山市は当初から消防局が危機管理部署を行っていて、自主防災会の活動の支援や、「防災士」を養成するための支援を積極的に行ってきた経緯を説明されました。
その経緯と消防局が市民の自主防災組織結成のための支援を強固に行い、今もされておられることにまず驚きました。高知市との「決定的」な違いですね。そのあたりが。
消防は市民社会の「アンカーマン」の1つです。火事や水害や救命救急など、災害・事故。緊急対応を業務で日常的にされておられます。また消防局―消防署ー消防分団ち市民生活と密接に関わりがあります。
高知市の場合は総務部から当初「危機管理室」として発足し、3年前に「防災対策部」としてスタートしたばかりです。消防活動の最前線を体験した市職員は皆無であり、災害に対応する意識からして全く違うことを感じました。
その表れが自主防災組織の結成経過状況を見ても明らかです。平成7年にわずか」2組織の自主防災会が、13年後の平成20年には92%を超えています。その年に松山市自主防災組織ネットワーク会議が結成されました。4年後の平成24年に自主防災組織100%を達成し、現在は760組織で、松山市の全世帯229.865が加盟する状態になっています。
更に驚くのは「防災士」の数が都市で全国1位であることです。政令市である仙台(1293人)、横浜(1184人)、名古屋(1168人)を上回る2332人が松山市におられます。
わたしも実は「防災士」の資格は持っています。持っていても高知市では「なんてことはない」のです。松山市は違います。「防災士の専任条件と言うのがあり」「自主防災組織で推薦を受けた人」「防災に強い関心があり、ボランティア精神旺盛な日値」「市かウ取得後は、おおむね10年間は自主防災組織の中核的役割を果たせる人」「資格取得後は、会長を補佐し年間を通じて地域住民及び組織内での防災組織の啓発及び防災教育の指導・田組織との連携や協力など、防災力向上に寄与できる人」とあります。
確かに「公的な役割を担うとの認識に立ち、自主防災会組織の推薦を条件」であれば、資格取得の必要な経費を全額公費で負担する仕組みになっています。高知とは「力の入れようが違います。」。
敢えて個人的な感想を言わしていただければ、「災害の少ない松山市で熱心に自主防災会の育成と、防災士の養成」をされているのは愛媛県の県民性ではないのでしょうか。なにかと我が強く、「わがまま」に高知県民には無理ではないかと思いました。
説明後高知の自主防災会との意見交換会もありました。松山市の活動に驚き,敬意を示す発言が多かったです。
消防局と自主防災会が一体化した活動は、羨ましくもありました。高知市とは全然支援体制が違いますので。
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高知市役所の防災部署というところは、4年前から二葉町自主防災会が、幾度となく「仁淀川町と二葉町の疎開を前提とした交流事業」への支援と同伴を要求していましたのに、全く真摯な対応をしてきませんでした。仁淀川町役場が熱心なのに比べて、「やる気」が全くありません。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-fd40.html
(2012年の高知市災害対策部からの回答)です。↑
いわば「0回答」に等しい。南海トラフ巨大地震が今起きれば、海抜0メートル地帯に住んでいる高知市民は13万人居り、避難場所も疎開場所も未だに明確になっていません。
「市町村災害時相互支援協定」すら未だに締結されておりません。一体何をしていたのでしょう?
それに引き替え自分たちの部署でこしらえることは素早く「突貫工事」すらやってのけます。実にすばらしい「実行力」でありますね。
昨年の2月頃配布された資料では高知市自主防災会連合会(仮称)は、1年かけて結成するようにするとスケジュール案まで配布しておりました。
音沙汰ないので立ち消えかと思いきや、どっこい第1回目の会合を暮れの果ての昨年12月24日に実施。明日(1月25日日曜日)に、「先進地松山市の見学」とか。
1年かかるスケジュールを何と「3か月」でやり遂げると言います。なんと素晴らしい実行力と言えますね。本当に行政は自分の都合で動くときは「一気呵成」なんですね。
いやはや「組織の力」は大したものです。感心しました。
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午前中は、父(95歳)のゴルフ・リハビリの付添をしないといけません。それで無事に終わり自宅へ戻ると10時40分。それから香南市夜須へ車で向かいました。到着すると11時20分頃に。上天気です。
移動性の高気圧に西日本全体が覆われていて、等圧線も横に伸びています。こういう時にシニア・ヨットクラブはセーリングしないといけない。既に海面には、高知大学ヨット部とジュニア・ヨットクラブが出艇しています。
慎重にぎ装(ヨットの組み立て)をして、ドライスーツ(古いもの)に着替えて出艇しました。風は弱いので恐怖心を感じませんね。わたしが出艇すると既に海にいたジュニアヨットクラブと、高知大学ヨット部はお昼休みで帰着しようとしていましてすれ違いに。
ワンマン・セーリングとなりました。ヤッシーパークの離岸堤を一周して、程よい風が吹き出したので、一路赤岡方面へセーリングしました。恐怖心のない程よい風でした。
保冷箱に今朝コンビニで購入したサンドイッチとおにぎりと昨日はりまや橋商店商店街で購入していたアンパンを入れてありました。それを食べ海の上でランチしました。」
今日は海からエネルギーをいただきました。お蔭様で疲れが癒えました。最高の海でした。冬でもこうした穏やかな日はあります。
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長田区鷹取東の皆さんと早朝からの交流を終え、山古志、南相馬の皆様と別れを告げて帰路になりました。幸運なことに高知から来られた甲藤雄司さんと山本雅幸さんの十乗用車に便乗させていただきました。帰路のバスをキャンセル。それで長距離バスでは見学することのできない淡路島にある北淡震災記念公園へ行くことになりました。
阪神・淡路大震災の震源地と言われる淡路島の野島断層。地上にむき出しになった断層が大きな建物で保存されています。野島断層は国の「天然記念物」だそうです。
最初に見た場所は、道路が地震で隆起し、側溝が折れ曲がっている姿でした。断層が100メートル建物のなかで保存されていました。壁のようになった断層では、粘度質の土と砂状の異質の土がずれていますので、断層の状態が良くわかります。
昔図鑑で断層を絵で見ましたが、現実の断層は初めて目撃しました。
野島断層記念館横にあるメモリアルハウス。当時あった民家がそのままの状態で保存されていました。台所も水屋が倒れ、食器が散乱した状態でした。電池切れになり撮影できませんでしたが、コンクリート製の塀も地震で折れ曲がっていました。
震度7を体験できる部屋もありました。なにより天然の断層を屋内保存しているところが凄いと思いました。直下型地震の怖さを思い知らされた施設でありました。
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昨日の高知市は3月下旬の気温で会社で荷揚げをしていると汗ばみました。今日は一転して冬型(西高東低の気圧配置)です。午後から風が吹きます。
それでも午後から母(89歳)を連れて車ではりまや橋商店街へ向かいます。知寄町の国道南側の慶光ハウスと書かれた看板を見ると母は「お爺ちゃんところが昔そこにあった。なぜ売ったんやろうか?」と38年前の出来事を思い出します。
城見町や菜園場の街並みを眺めては母は「シャッターが閉まっちゅう。街も活気がない。昔はもっと賑やかであったのに。」と嘆きます。母の言う「昔」が一体いつの頃かわかりません。昨日のことのように言いますから。恐らく50年から60年前の事であると思います。
新堀小学校の西側にある燃料店の隣あたりに子供の頃は住んでいたらしく、娘時代はその実家から高知郵便局に通勤していたそうです。しかし空襲で家は丸焼けになり、祖父の出身地の日高村に一時疎開していたとか。
時代考証の難しい母の昔話を聞きながら、今日もはりまや橋商店街へ着きました。歩行補助車を押しながら商店街を散策します。
今晩は私息子も別々の新年会で夕飯時には不在。ゆえにコロッケの購入はありません。それで谷ひろ子さんのお店で焼き菓子を母は買いました。
活き活き100歳体操(介護予防体操)の開始まで時間があったので、山岡さんの露店でぜんざいを母と一緒に食べました。
今日の活き活き100歳体操は、新規参加者が2人おられ、15人の参加者でした。寒い中屋外で高齢者の皆様もお元気なことですね。
はりまや寄合所が商店街の空き店舗を利用して開所していました。今日は音楽好きの人達が集まっておられました。サロンのようですね。
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阪神大震災から20年。長田区鷹取東第1地区でのあわせの地蔵様での慰霊祭に参加。炊き出しの豚汁とぜんざいを御馳走になりました。地元市議の浜崎ためしさんのご案内で地域人材支援センター(旧二葉小学校跡)を見学しました。
その後旭若松公会堂で「長田―山古志ー南相馬市―高知」との意見交換会に参加しました。昼食後、今回の行事の立役者の1人であるチョ・ホンリさんと新長田周辺のまちあるきをしました。
チョさんの事務所のある若松町。あわせ地蔵様がおられる日吉町界隈は震災時は殆ど火災で焼失した地域でした。古くからこの地域にお住まいになり、また建築設計士でもあるチョ・ホンリさん。変化する街並みを知り尽くしておられます。
空地も多いと言われました。
韓国製のプレハブ。工場が使用しています。韓国から輸入され今も使用しています。
前と現在の街並みの変化。良くなったところ、悪くなったところを指摘されながらの長田のウォーキング。大変参考になりました。
まずチョさん事務所周辺の地域は、新しく建築された3階建ての民家が多い。その理由は「市の区画整理事業で道路幅を確保するために減歩されたから。それでやむなく3階建てにしたようです。」
あわせ地蔵様にあらためてお参りしました。地域のお世話役をされている方からぜんざいをいただきました。ありがとうございます。
そして新長田駅前若松公園にそびえる鉄人28号。巨大です。鋼鉄でこしらえられています。さすが造船や鉄構造物建築で栄えた工業都市神戸です。鉄人28号の作者横山光輝さんは神戸市須磨のご出身です。
それから新長田1番街商店街を歩きました。こじゃれた商店も多いです。しかし建物2階部分はテナントが埋まらないとか。
「市役所は巨大なハコものビルをこしらえ再開発しました。家賃が高く皆入居できません。もともと長田は庶民的な街。独自のつながりやコミュニティがありました。猥雑者やごちゃごちゃしたところが長田の魅力。市の再開発計画は殆ど長田の特性を無視したものでした。」。なるほどそう思います。
大正筋商店街は、大正時代からつくられた歴史ある商店街。しかし大震災で壊滅的な被害を受けました。新しく再起しましたが、老舗の店が閉店したり、大きな問題をかかえています。
火事に遭っていない街並みと新しい町並みは歴然と異なります。六間道商店街は震災の被害は免れたので、古い商店が残されています。丸五市場もそのまま残しましたが、お店の撤退が相次ぎ今は店舗も少なく寂しくなりました。
チョ・ホンリさんはその一角のブースで震災の記録のメモリアルという事で、震災画を描き展示されていました。
西神戸センター街では、タレント南野陽子や地元アイドルグループのフリ―ライブがあるそうで、ステージがつくられておりました。
1月17日は、神戸市各地、長田の各地の公園や商店街にて記念の行事が数多く実施されていたようです。
チョさんのまち歩きでの解説を聞き、あらためて行政寄りの長田復興のパンフレットを読みますと、事業を行う場合の明暗がよくわかりました。
横山光輝さんは、神戸市須磨の出身。それで長田に巨大な鉄人28号や、「三国志」にまつわるキャラクターや「あやかりイベント」がたくさんあるのですね。現地へ来てはじめてわかりました。
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2015年1月17日に長田区旭若松公会堂にて、「阪神・淡路大震災20年に集い 協働と共感に向けて」の意見交換会に参加いたしました。
パネラーは鷹取東地区と双方の震災以来交流のある新潟県旧山古志村(現長岡市から田中仁さん(山古志商工会議所理事長)、西道典さん(南相馬市 男山八幡神社宮司)。司会は高知から西田政雄さん。地元からは石井弘利さん(日吉町5丁目自治会会長)高知から来た西村健一下知減災連絡会副会長も急遽パネラーになりました。
お互いがどういう立場なのかを自己紹介しながら説明をしました。
地元の石井弘利さん。震災直後から地域のリーダーとして奔走されてこられました。
「今朝地震当日の日の事を思い出しました。大きな揺れで飛び起き外へ出ました。恐らく寝間着で飛び出しました。家がつぶれたお隣の奥さんをご近所の人と助け出しました。
火事が起きて消防車も来ましたが、ホースを消火栓に繋いでも水が出ない。結局消防車3台ぐらい繋いで海から水を汲んで消火活動していました。も20年経ちました。21年目も22年目も大事です。
復興のまちづくりの区画整理事業については、勉強して行政側としつこく交渉しました。役人は「前例のないこと」はやりたがりません。前例がなければつくったらえいだけや。わしらもしつこいからやると言うまで動かなかった。それでいくつか要求がじつげんしたものもあった。住民側の要望はしつこく冷静にすべきですね。」
田中仁さんは、「山古志村では地震が起きたのが午後5時半過ぎ。日が暮れて停電して暗闇になる恐怖を感じました。全村避難を3年近く余儀なくされました。結果2000人の人口が今は1000人です。でも戻って来た人たちは元気があります。
隣の人をそれぞれ助けました。火事は起きませんでした。翌日夜が明け被害状況がわかると唖然としました。
山古志復興交流館など震災を忘れず訪問者と交流を続けています。特産の錦鯉も大きな被害を受けましたが、今は復活しています。今日も6人で来ました。」
西道典さんは「南相馬は津波被害と原発被害を受けました。幸い私の自宅は被害を免れました。とくに子供たちが避難をしています。ボランティアで子供の翼事業をやりまして、海や川や山で遊べない南相馬市の子供たちを、全国各地の地域へ出向き、少しの間子供を受け入れていただいています。長田も山古志も支援していただいています。」
高知の西村下知減災連絡会副会長は「今朝の毎日新聞・震災特集14面に「希望新聞 町おこしで備える 高知 長田の伝言体現」と大きな記事になっています。7年前もこちらの場所で二葉町自主防災会20人が訪問しお話を聞かせていただきました。
南海トラフ巨大地震はまだ来ていませんが、必ず来ます。1昨年高知へ来ていただいた石井会長に「南海地震は来ることがわかっているので行政と協力してまちづくり協議会をつくるべき」と言われました。それで昨年8か月かかって地域コミュニティの1歩である下知地域内連携協議会をこしらえました。
長田や山古志や南相馬の経験を学びたいと思います。」
司会進行は、西田政雄さんの適切な助言でスムーズに進行し、内容濃い意見交換会となりました。何より大きな震災被害を受けられた長田、山古志、南相馬市の罹災者同士が交流し、交流事業が継続していることです。素晴らしいことです。
震災当時山古志村村長であった長島忠美氏は、現在復興副大臣と言う激務の最中に、長田のポケットパークで早朝開催された20年慰霊祭に来られていました。
20年前は自主防災会も今より組織率が低かった。ボランティ元年と言われるほど、何もかにもが神戸がパイオニアです。苦労して培ったノウハウを長田の人達は、惜しげもなく山古志や南相馬市の罹災地に伝授されました。高知へも助言をいただきました。
1時間半があっという間に終わりました。毎日新聞の小坂剛志記者と、新潟日報の金子悟記者も会場へ取材に来られていました。高知から甲藤雄司さんと山本雅幸さんも駆けつけていただきました。
あっという間でした。
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2015年1月17日は、鷹取東第1地区の阪神大震災20年の慰霊祭に参加した後、地元長田区の市議である浜崎ためしさんのご案内で、長田区二葉町7丁目1番18号にある地域人材支援センターへ行きました。
私の居住しているのは高知市二葉町。同じ「二葉町」なので興味がありました。元は廃校になった二葉町学校の旧校舎を改築し、耐震補強を完成させ(7・5億円の国からの支援金があったそうです。)築80数年のレトロな旧二葉小学校校舎(2006年位に廃校)が、地域人材支援センターとして蘇り、地域コミュニティ形成や、長田区のまちづくりに大いに寄与しています。
まず小学校の教室そのままの研修室で、特定非営利法人ふたば事務局長の向恵子さんに、地域人材センターの設立の経緯や、施設の概要を説明いただきました。
「1995年の阪神大震災時には、多くの人達が避難され、避難所としての機能をはたしていました。その後2006年に閉校になりました。当初は古い校舎を取り壊し、売却するか、新しい建物を建てる議論が優勢でした。
「2007年になり地元長田区婦人会連合会が、婦人市政懇談会長田区総括集会で旧二葉小学校の活用を要望しました。当初は市の対応は鈍いものでした。
その後市民アンケートを実施し、婦人会、自治会、商店街、TMOなどが集まり検討員会が発足。ワークショップを実施しました。二葉小学校跡の活用方法についての前向きな具体的な方法が幾つかで始めました。」
「当初けんもほろろだった神戸市役所の対応が変化しました。婦人会連合会が、活用要望を出して2年後に市長が「校舎を残し耐震補強を行い活性化のために活用する。」ことを表明され事態は大きく動き出しました。」
「その後検討委員会は、3つの作業部会を創りました。(生涯学習)、(地域文化・震災学)、(交流・居場所)づくりです。各作業部会は熱心に討議を重ね、市への提案もしていきました。そして2009年に神戸市は7億4200万円で補正予算を提示し、旧二葉小学校校舎を地域活性化の拠点とすること決めました。そして運営主体のNPO法人化するための動きもあり、2010年11月19日に神戸市市立地域人材支援センターとして開所しました。」
「教室」での説明後向恵子さんに、地域人材センターの施設の説明をしていただきました。レトロな校舎の教室や研修室や施設を見せていただきました。
ロボット工作室がありました。共同研究しているそうです。震災学習が出来る展示がありました。。2階部は6つの会議室スペースと、3つのオープンスペースと高齢者ふれあい学びの場、エコエコひろばもありました。調理室もあります。
3階部分は防音設備が行き届いた音楽室が2室あります。大人気であるそうです。講堂は500人ぐらい収容出来るようです。
建物はレトロであり、床面は木でできています。漆喰壁風の壁面や柔らかい照明が利用者には大人気であるそうです。説明を聞き、資料もいただきました。神戸市長田区の市民の民度が高いなと感心しました。粘り強く市役所と交渉したり、前向きな活用法を提示し続ける「市民力」「住民力」のパワーをあらためて感じました。
2007年頃と言えば、高知市でも追手前小学校の廃校が決まった頃でした。100年の歴史のある小学校でしたが、簡単に廃校になり、現在県と市の合築図書館が建設されています。長田のこの取り組みを関係者が知っていて交流をしていたならば、追手前小学校の運命も変わっていたかもしれません。それを思うと残念です。
広報紙もシンプルですが素晴らしいです。感心しました。
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アジアカップ一次予選の最終戦はヨルダン戦。日本はヨルダンには公式戦では1勝1敗2分けと言う成績。ホーム以外では勝ってはいない。昔ジーコ監督時代のアジア杯でPK戦になりGK川口のファインセーブで辛勝した記憶があります。
またザック監督時代のW杯アジア予選でアウエーでの対戦で1-2と逆転前をした記憶があります。なにか相性が悪いのではないか。しかし世界を日本が目指すのであれば」、すっきり勝たないといけない試合。
とにかくゴールが見えたらパスではなくシュートをすること。ゴールまでパスをして相手に取られ逆襲されれば守備の負担は大きいからだ。ちゃんと決めないといけない。
と思い18時からの試合にTVにかじりついていました。今日の日本は各選手体のキレも良く、攻守の切り替えも早く、相手のカウンターを中盤で押さえていました。試合運びは危なげない。
前半11分だか香川が右サイド深く切れ込んでゴール前にクロス。乾が鮮やかなボレーシュートを決めたかに見えましたが、香川のボールがゴールラインを割ったと言う判定でノーゴール。
その後も日本の波状攻撃は続きました。長谷部―乾とつないで岡崎にパス。岡崎のシュートのこぼれ球に詰めていた本田が押し込んで先制ゴール・前半37分でした。
後半負ければ終わりのヨルダンが選手交代をして活性化。日本がしばらく押し込まれる展開に。しかしきっちり耐えてヨルダンの攻め疲れを待つ戦法に。イエローカードを前半もらった乾に代わって清武がはいりました。守備のバランスを取りました。
そして前半イエローカードをもらった岡崎に代えて武藤が出ました。交代選手が日本も頑張りチャンスをつくりました。そして37分に武藤が左サイドをえぐりゴール正面へクロスボールを供給。そこへ香川が右足で押し込んで追加点。香川の待望の初得点が生まれました。
その後遠藤に代えて柴崎を投入。無失点で日本は一次リーグを終え、首位通過。決勝トーナメントは中2日でUAEと対戦します。
見ていて日本はだんだん強くなった印象。調子がどんどん上がっていくようですね。
八百長疑惑でアギーレ代表監督は解雇の噂が出ていますが、采配や選手の登用や采配は良いのではないかと思います。歯切れがいい、見ていて面白い監督であると思います。優勝したら続投させるべきでしょう。スペインの裁判所で有罪判決がでれば別でしょうが。
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2015年1月17日は、阪神大震災から20年。神戸市長田区鷹取東第1地区のポケットパークのあわせ地蔵前で行われている慰霊祭に、西田政雄さん(防災寺小屋・主催)と一緒に駆けつけました。
前日の22時44分発の夜行バスへ乗り込み。17日の午前5時に三ノ宮駅に到着。34分発の電車で、新長田へ。徒歩10分で祈祷会場へ到着しました。
阪神大震災での地域の98人の犠牲者名が刻まれている地蔵前で、ボランティアで毎年祈祷に来られておられる僧侶の皆様のお経を聞きながら私たちも祈祷しました。地元の皆様以外に、新潟県旧山古志村から6人、福島県南相馬市からも来られていました。
旧山古志村村長で現在復興担当副大臣の長島忠美さんや、地元市議の浜崎ためしさんも来られていました。この鷹取の人達の素晴らしいのは、大きな被害を受け復興の途中でありながら、震災9年後の新潟中越地震時には、大きな被害を受けられた山古志村を訪問し救援物資を届け、罹災者同士の交流をその後続けておられることです。
2011年の東日本大震災では、津波災害と原発災害で苦しんでいる福島県南相馬市を訪問し、長田区鷹取と旧山古志村がタックを組んで支援されたことです。南相馬市でボランティア支援活動をされておられる西道典さんも来られていました。
私たち高知市の下知地域住民は未だ被害こそ受けてはいませんが、長田区鷹取東第1地区の皆様のアドバイスを活用したまちづくりをすることが「減災になる」という想いをあらたにしました。
鷹取東地区の住民の皆様、豚汁とぜんざいの炊き出しありがとうございました。冷えた体が温まりました。重ねてありがとうございます。
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95歳の超高齢者で、2本足直立歩行ができ、一応身の回りのこと(食事・排せつ・着替え・入浴)等が1人で何とかできるという事は、家族としてありがたいこととして感謝しなければならないと思いますね。父は努力家で懸命に歩いたり、介護予防リハビリ通所施設(週に3回)では全力でトレーニングしているようです。
今朝は朝1番に植田医院へ行きました。
「クレアチリン値も小康状態ですね。尿素窒素もカリウムもほぼ基準値で安定していますね。風邪をひかないようにしてください。」とのこと。
身体機能維持のためには年中週に2回(月曜と金曜)に点滴に父は来ています。今年はインフルエンザが大流行。既に昨年のピーク時を超えました。病院へ連れて行くたびにひやひやしています。
戻ると「介護保険 要介護認定。要支援認定結果通知書」が送付されてきていました。今回の父の判定は、「要支援2」でした。昨年と同じです。父なりに頑張っていると思います。
母(89歳)は、父が植田医院へ行っている間に、週に3回の1日ディ・サービス施設へ行きました。最近は通所者同士で仲良しになっています。明るいキャラ(ある意味ノー天気なのかも)なので、介護職の皆さんとも仲良くしているようです。
人の命には限りがあり、皆いつかは終末が来ます。元気で明るく楽しい人生を過ごす権利は人間だれでもあると思います。わたしも家内も還暦を過ぎました。私たちもいつどうなるのかわかりません。
お互い納得のいく、後悔しない人生を全うしたいと思います。父は今日は介護予防通所リハビリへ元気に行きました。
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阪神大震災20年に西やんと一緒に参加した「神戸・長田弾丸ツアー」の情報整理は今日行います。その最中ですが、第1報です。
2015年1月17日毎日新聞全国版に、阪神大震災特集として14面に「希望新聞。町おこしで備える 高知 長田の伝言体現」と.大きく掲載されていました。昨日長田のコンビニで購入、高知でも家内に購入してきてもらいました。
http://w.mainichi.jp/eq/kibou_news/20150117ddm010040017000c.html(毎日新聞)
昨年11月3日に開催されました「第3回昭和秋の感謝祭」会場の昭和小学校に、毎日新聞奈良支局の小坂剛志記者とカメラマンの川平愛さんが直接取材に来られていました。早速昨日の長田区旭若松公会堂での意見交換会「阪神・淡路大震災20周年の集い 協働と共感に向けて」の席上でご紹介させていただきました。
高知市下知地域と、神戸市長田鷹取地区と、旧山古志村(2004年中越地震罹災地)と南相馬市(東日本大震災罹災地)との連帯・協働を確認をいたしました
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今日は昨日と異なり「温厚なお天気」。6時の天気図でも高気圧が張り出し、横へ等圧線が伸びています。こういう時にシニアヨットクラブへ海へ行かないといけない。が、昨日の「神戸・長田弾丸ツアー」の情報整理をしないといけない。家人からの言いつけも多分あるので。自宅待機の1日です。
父(95歳)は、ゴルフ・リハビリに張り切っています。今日も125発のゴルフボールを休み休み打ちました。水分補給は暖かい番茶を自販機で購入して飲みました。
父のゴルフ・リハビリの間は私は読書タイム。「復興(災害)-阪神・淡路大震災と東日本大震災」(塩崎賢明・著・岩波新書・2014年刊)を読んでいます。
昨日の「神戸・長田弾丸ツアー」を思い出しながら読んでいます。
元気で階段も登りました。
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「歴史のなかの大地動乱 奈良・平安の地震と天皇」(保立道久・著・岩波新書・2012年刊)を読みました。
日本の歴史は文字で記録されているのは、たかだか3000年に満たない。著作を読みますと奈良・平安時代(奈良時代は710年から794年。平安時代は794年から」「1185年まで)に時代にも、日本列島は地震・津波・噴火・異常気象・疫病の流行に見舞われています。
著作の中に掲載されている年表を見ても、日本国はつくづく天変地異が多い国であることが理解できます。
筆者は2011年3月11日の東日本大震災の後、8・9世紀の地震・噴火の検証が、今日の地震学、地球科学の研究に必要であるとの思いから執筆されたようでした。
「奈良・平安の世を襲った大地の動乱。それは、地震活動期にある現在の日本列島を彷彿させる。貞観地震津波、富士山噴火、南海・東海地震、阿蘇残噴火・・・。相次ぐ自然の災厄に、時の天皇たちは何を見たか。
未曾有の危機を、人々はどう乗り越えようとしたか。地震・噴火と日本人の関わりを考える。歴史学の新しい試み。」(カバー但し書き)
筆者によれば、日本の地震学の創始者である今村明恒が、歴史上の地震を研究し、1649年の地震、1707年の宝永地震、1855年の安政地震の間隔からして、東京での地震発生の可能性を危惧し覚悟しなけらならないと1905年に発表したそうです。しかし「社会不安を煽る浮説をふりまくもの」とされ、長らく不遇でした。
しかし今村の予測どうり、相模湾海底を震源とする関東大震災が1923年にJ発生し、汚名はそそがれました。それで私財まで投じて観測体制の整備をしましたが、戦争のお蔭で十分なことが出来ませんでした。それをご本人は悔やんでいたと言います。
奈良の大仏も聖武天皇が国家の安定のための1大国家プロジェクトとして建立したといいます。
「そもそも聖武は対新羅戦争計画には消極的であった。聖武の重視した華厳の思想は平和思想という側面を持っており、聖武が戦争計画に賛同しなかったのは十分な理由があったのである。
しかも大仏造営は国家の大事業であって、対新羅戦争を同時に遂行することは、実際上も無理な話だった。
中略
少なくとも史料による限り、この8世紀の美濃地震では死者が出ていない。この地震が、結局、紫香楽宮、恭仁京をはなれ、平城京に遷都することになった重要な理由であった。
中略
聖武ー称徳が、戦争の道を選ぶことなく、仏教事業を推進し、日本を1種の仏教国家にしたことは、後々の国制にまで根本的な影響をあたえたのである。」(P39「大地動乱の開始」)
聖武天皇は、奈良の大仏を建立し、全国各地に国分寺を建て、その元締めが東大寺であったようです。それは天変地異の大災害を自分の政治の力が劣っているからと反省し、自己責任を自覚していたからでしょう。今の政治家よりも遥かに潔い指導者でした。
またこの著作は日本の古代史や、神話の世界まで記述していますので、浅薄な無教養な私には理解不能なところもありました。わからないところはすっ飛ばして読みました。
「かぐや姫は火山の女神であり、竹取物語は、より古い時代の火山神話を物語風に書き直したものだはないか。」(はじめに)
白鳳南海地震(684年)は南海トラフ全域が動いた海溝型の大地震であったようです。
「大潮高く騰がりて、海水ただよう」日本史において初めて津波を描いた文章である。当時の土佐(高知)も大変な被害が出たと言われています。
「今村明恒によれば、これは江戸時代1704年(宝永地震、1854年(安政地震)の2つの津波で高知市の東方平地(現在の高知市下知・高須など)が津波に襲われた時の様子に良く似ており、震源となった海底断層の位置も、陸側の沈降して海となった地域もほぼ同じであったと言う。」(P13)
つまり貞観地震は東北の大地震ですが、その痕跡や記録をたどり現代地震対策をきちんとしておれば、少なくとも福島第1原発の被害は回避できた可能性は大きい。しかし当時の原子力関係者は、一部の地震関係者の提言を無視し続け、全く津波対策をしませんでした。その結果が大事故に繋がりました。
この本を読んでいて日本は有史以来「災害大国」であるとつくづく思います。地震と津波、噴火だけでも大変なのに、大雨災害や台風や大雪もあり、人災として火災も日常的に発生しています。
そういった歴史的な観点に立ったならば原子力発電は日本の国土や風土にはそぐわない危険極まりない施設であることが誰にでも理解できると思います。
国防の観点からも原子力発電の再稼働をやめ、ただちに廃炉の工程をとるべきなんです。
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サッカーアジア杯オーストラリア大会一次リーグ2戦目の日本VSイラク戦。の日本は本田のPKで逃げ切り1-0と辛勝。本田も3点ぐらい決めなければいけない。香川も2度外しました。
それでもなんとか勝つから昔に比べると日本は実力が向上したのでしょう。アギーレ監督の首が繋がるのかアジア杯が瀬戸際ですね。優勝すれば続投。途中で敗退すれば解雇でしょうか?
しかし若い女性のファンもおられますね。日本のサッカー文化は健全であるおもいますね。いいことです。
今日の試合でもイラクは若手主体で体力があり、球際が強い。前半の繋ぐサッカーと攻守の切れ替えが日本が早く前半20分までに決着がつきました。後半は両チーム消耗していました。
「ドーハの悲劇」で日本がイラクにしてやられたのは22年前。最後まで体力がきれないだけ進歩しました。本田選手が言うように調子が上がってくれば日本は優勝できるでしょうから。
個人的な希望ですが乾をもっと活用していただきたいですね
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2015年1月15日に母(89歳)を連れて車ではりまや橋商店街へ行きました。商
店街近くのダイセイはりまや橋第6パーキングに駐車し、トランクに収納していた歩行補
助車を出して母は歩行し商店街を目指します。
まずコロッケ屋さんで、夕飯の野菜コロッケを購入しました。432円なので、お財布
の小銭をさらばえて、432円を支払いました。これも頭のトレーニングになると思いま
す。
続いて露店でのせんべいを販売している福祉施設のブースへ行き、せんべいを何種類か
母は購入しました。
谷ひろ子さんのお店で焼き菓子と、蒸しパン(?)等を購入しました。活き活き100
歳体操が始まるまで少し時間がありましたので、母とコーヒーを一緒に飲みました。
今日の活き活き100歳体操は13人の高齢者の参加がありました。昨日の木曜日に
「もくもく歌声サロン」がこの広場であったようですが、雨でしたのでテントをアーケー
ド側に寄せたようですね。
帰りに体操に参加している叔母と母はまたお菓子を買いました。わたしが会場の準備を
している間に母は和菓子の露店で買い物をしたようです。買い物好きですね。
さて戻ろうと、母と叔母を車に乗せ、自動精算機械で駐車料金を支払い、領収書をもら
いさ車を出そうとしたら出ません。お金を払えば駐車バーが下がるのですが下がりません。
困り果てて管理会社のパーク・ダイセイへ電話しました。ほどなく係りの人が来てく
れました。事情を説明しますと、どうやら母と叔母(83歳)が事前に車に乗り込んだた
め、車高が下がり駐車バーが下りなかったようです。係りの人がバーを蹴ると降りました。
やれやれでした。
今晩23時頃の夜行バスで西やんと一緒に神戸の長田区鷹取へ行きます。阪神大震
災20年の意見交換会へ参加します。
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いやはや今年はインフルエンザの流行が早いようですね。父(95歳)を連れて、毎週月曜と金曜日の朝1番に植田医院へ行きます。診察と点滴のためです。父は慢性腎不全です。水分補給を的確に行わないと腎不全が進行するので。週2回の診察と点滴は必要です。
いつもは見かけない若い人たちや中高年の男女が朝1番からマスクして待合室で診察の来るのを待っています。父の点滴の時に看護士さんとお話しました。
「今年は流行期が早い。昨日も一杯の患者さんでした。皆インフルエンザです。高齢者は若い人がインフルエンザになったら近づいたらいかんですよ。最近多いのはお孫さんから移される事例が多いですよ。」
「うちの子供も昨年2回もインフルエンザの予防接種をしましたが、今年初めに罹患しました。耐性がウィルスにできるんでしょうかね?
ここの医院は看護士は3回、先生は4回予防接種をしています。それでも毎日患者さんと接していますので、怖いですね。」
「予防法は、熱があるなと思ったらすぐに病院へ来院してください。インフルエンザは発症後48時間以内なら、イナビルという吸引式の特効薬があり良く効きます。ただし48時間すぎますと効果はありません。」
インフルエンザの特効薬はタミフル以外に開発されています。
吸引療法の イナビル http://www.influ-news.info/inhalation/usage.html
「そのためには、普段から自分の平熱を測定し知っておくことです。熱が高いなと思ったらすぐに医師に診てもらうことです。女性は低体温の人が多いです。37度であれば普通の人なら平熱ですが、そのひとはいつもは35度台が平熱。
医院で検査したらインフルエンザでした。今年はA型が大半ですが、B型も現れました。4月まで油断されないように。」とのことでした。
そういえば父も昨年3月5日にインフルエンザになり、すぐに植田医院へ連れて行き、イナビルを処方いただきましたので、2日ぐらいで良くなりました。
超高齢者の健康管理は冬場もまた大変ですね。2本足直立歩行していただくので家族は助かっていますよ。
インフルエンザの特効薬はタミフル以外に開発されています。
吸引療法の イナビル http://www.influ-news.info/inhalation/usage.html
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阪神大震災20周年にて、神戸市長田区の皆さまとの意見交換会へ、高知から夜行バスにて西田政雄さん(防災寺小屋主宰者)と一緒に行く予定です。出発は2015年1月16日23時頃です。
1月17日早朝長田区鷹取のポケットパークへ到着。炊き出し訓練などが行われているそうです。そこで鎮魂の式典が町内で行われるとか。午前9時か10時ごろに若松公会堂へ移動。意見交換会が行われる予定です。
長田区鷹取町内会の市民有志と、新潟中越地震で大きな被害を受けた旧山古志村(現在の長岡市)の元村長長島忠美氏(現衆議院議員)や、錦鯉生産者の田中さんたちや、東日本大震災で大きな被害を受けられた宮城県東松島市の人達もご参加されます。
派手な式典ではありませんが、長田区鷹取、新潟県旧山古志村、宮城県東松島市、高知市からの参加者でより実践的な意見交換会が行われると思います。
2008年より西田政雄さんの仲介で、二葉町自主防災会は、長田区鷹取町内会とは交流しています。
http://futaba-t.cocolog-nifty.com/blog/cat31916625/index.html(2008年)
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/2-4326.html(2013年)
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高知県出身の作家、宮尾登美子さんが、昨年12月30日にご逝去されたそうですね。宮尾さんの生家跡は、現在の二葉町にあり、土佐稲荷神社の裏のアパートの駐車場のところでした。
昨年高知県立文学館と下知市民図書館の主催で「宮尾登美子ゆかりの地を訪ねる」という学芸員がゆかりの地を訪ねて開設する行事があり、少数派のおっさん(20人の参加者のうち18人は女性)として参加していました。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-3493.html
料亭のモデルとなった跡や、生家跡、ゆかりの神社も訪ねましたが、痕跡はありませんでした。
後で作品も読みましたが、文体になじめず、最後まで親近感や共感しませんでした。何故だかわかりません。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-decd.html
文章は上手で描写もいいのですが、どうしてなのかわからずじまい。きっと作品に「社会性」のかけらを感じなかったからではないかと思います。
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木造の低層住宅が密集して建っている二葉町。2014年1月7日午後7時30分頃木造2階建ての家屋が全焼。類焼は隣家の2軒に及びました。幸い居住された人はご無事だったとのことでした。近隣の人達もお怪我はありませんでした。
3年前不審火で全焼した空き家跡は解体され更地になっています。そこから50Mも離れていません。
昨夜は冬型の気圧配置になっていましたが、幸い風が弱く、消火活動も手早くされましたので、類焼が最小限で済みました。消防関係者の皆様、警備の警察の皆様ありがとうございました。徹夜でパトカーが止まって警戒されています。
防災の観点からも防火対策も大事であると思いました。
高知新聞2015年1月8日朝刊社会面に火事の記事が掲載されています。
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週明けはなかなか忙しい。父(95歳)は朝1番には植田医院へ診察と点滴へ行きました。混んでいると予測し、始業診察時間前に行きましたが既に数人は来院していました。
普段は高齢者が多い医院ですが、今日あたりはマスクをされた若い人たち、30代40代の人が多い。インフルエンザですね。今年は蔓延しています。看護士さんが「お父さんを近づけないように」と配慮してくれていますが、大変です。
昼食を手早く済ませて12時10分に、介護予防通所リハビリ施設の送迎車がきます。母(89歳)は「今日はどこぞね?」「ジョイリハぞね。」「お爺さんもいっしょかね?」「お爺さんも一緒よね」と短めのループ会話でした。
今日は今から集金です。支払いもあります。老師の月に1度の整体もあり、夕方は地域活動の打ち合わせもあります。はやくも「渦巻き」が出来つつあります。
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「戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回 思想家吉本隆明」を視聴しました
録画してあったETVの番組。夕食後じっくり見ました。結論は「わかりやすい」番組でした。なにかと用語の難しい(独特の表現が多い吉本隆明氏。自己表出とか指示表出とか)ので、著作を読んでいても途中でとん挫することが多い。
「大衆」の寄り添い、つねに「大衆」の中を意識する社会思想家なんでしょうが、その表現は、「大衆そのものの」無教養な私はわからないし、退屈する部分が多い。
しかし今回の番組は、大変わかり易かった。なぜ吉本隆明氏が戦後知識人を徹底的に批判したのか。「借り物」の西欧思想から日本社会を評論するのではなく、独自の概念構想で、独自の思想を展開できたのか。その背景が良くわかりました。
600冊を超える著作と180回を超える講演。関わった多くの人達の証言から吉本隆明氏の生い立ちや考え方の背景が理解できました。(うちにも結構吉本さんの著作はころがっております。)
東京の下町の佃島の職人の家庭に生まれた吉本隆明氏。工業系の高校から大学へ進学するときも世の中にすぐに役立つ「実学」を志向していました。学友にも同じ境遇の人たちがおられました。
工業高校や大学の同窓会も90歳で生存されていて、人となりを話していました。理工系の技術者でしたが、完全な軍国少年であり、いつ死んでも良いと言う覚悟に満ち合われていた人物であったそうです。
それが8月15日の敗戦を契機に、価値観が180度転換し、軍国主義が否定され、弾圧・抑圧されていた民主主義や社会主義の思想が敗戦後の日本社会に一気に蔓延しました。それはおかしいのではないか。
吉本隆明氏は意識は「軍国少年」のままで、戦後社会の知識人を批判します。その根拠は本人いわく「6年間研究に没頭した。」アダムスミスからマルクスまでの社会思想を勉強して世界の理解を得たということです。
弟子であったともいえる高橋源一郎氏(小説家・評論家)は、「浮かない気分、腑に落ちない気分こそ吉本思想の肝要です。」と言われていました。おかしいことを、おかしいと言い切るために、吉本氏独自の猛勉強をしたのでしょう。
吉本隆明氏同様に戦後思想を批判していた同世代哲学者の梅原孟氏は「丸山真男は、知識人の側にあって大衆を見下していた。知識人と大衆は対立する。吉本隆明は常に大衆の側側にいて戦後知識人を徹底批判した。大衆の現像は下町の職人生活にあるんだろう。生活の中に真実がある。」
番組の中で吉本隆明氏は「言語にとって美とはなにか」の解説をしていました。
「人とコミュ二ケーションできなくても自分とコミュニケーション出来れば自己表出が出来ている。これが幹であり根であります。沈黙の幹であり沈黙の根であります。
コミュニケーションは枝葉です、言語はコミュニケーションの1手段にすぎません。
少しメモ書きしましたが、いまでもなんだかよくわかりません。
また著作「共同幻想論」については、大衆原像の参考にしたのは民俗学者や柳田邦夫の「常民」・。個々人の生活が国家や共同体より大事である。人間の意味、社会の意味を徹底的に考えた人でした。
上野千鶴子氏(社会学者は)「国家と個人の対立の概念は従来も言われていましたが、吉本隆明は重要な概念として対幻想(男女の性愛)を提示した。性愛を思想的に評価したパイオニアであり、自分のジェンダー論にも影響を受けました。空前絶後の思想家で世界に誇れる人であると思う」と言いました。
そのあたりは納得できますね。個人の生活のほうが国家より大きい。今まさに安倍政権が国家主義的な政策を露骨に推進していますが、全く滑稽でおかしなことですね。
父は失語症で言葉が不自由。母は認知症で「独自の世界」があるようです。言葉が不自由で、」社会常識に少し外れても、親子の対話は出来ますし、信頼関係があります。超高齢の両親とも生活能力はかろうじてあり、人格破壊までにはなっていません。
「300M四方の町内から出られない私」ですが、海抜0メートルの地域から脱出は現在不可能ですが、家族を守り、会社を守り、地域社会を守るためには国を動かさないと駄目であると思うようになりました。
思想的営為を構築する「参考書」に吉本隆明氏の著作のいくつかはなるとあらためた思いました。、また時間をこしらえて読んでみたいと思いました。
「真贋」(吉本隆明・著・講談社・2006年刊)を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-0616.html
「悪人正機」(吉本隆明・糸井重里・著・新潮社・2004年刊)を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-d918.html
「老いの幸福論」(2011年刊。青春新書]を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-8bfc.html
比較的読みやすい著作しか読んでいません。
吉本隆明さんが2012年の3月16日にご逝去されました。それに関する追悼文や感想文も個人ブログに書きました。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat23170957/index.html
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今日は朝から寒い。FBのお便りでは山間部は雪であるとのことでした。朝は母(89歳)の1日ディの日です。待っているのが退屈そうにしているので。ご近所を手を繋いで散歩しました。毎日2キロが目標ですが200Mでおしまい。
「今日はどこへ行くがかね?」
「結(ゆい)さんくよね。」
「お爺さんは一緒かね?」
「お爺さんは昼から別の場所へ行くが」とのループ会話が送迎車が来るまでは母と続きます。
9時15分ことにディ・サービスの送迎車が来ました。元気でいきました。
父(95歳)は手早く昼食をすませて準備万端で送迎車を待っています・帝国の2時15分位に介護予防リハビリ通所施設の送迎車が来ました。元気に乗っていきました。
ようやく時間的な余裕が。両親が戻る4時半までに、ヤッシーへ持っていく雛人形を納戸から降ろしてこないといけないです。(さきほど3階の納戸と4階の天井裏から急で狭い階段を降ろしてきました。)
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1月11日のセーリング。午前中は穏やかで「まったり」と微風でしました。昼食をとり午後の部と思った時に、突然強風になりました。陸置きしていた高知大学ヨット部の470艇が強風でジブセールが煽られ横転しました。片付けが大事でした。午前中と午後で風向きと強さが全く変わりました。
佐賀県知事選挙でも「安倍政権公認候補」が敗れました。これで滋賀、沖縄と続いて3連敗。昨年12月の身勝手な総選挙で圧勝した安倍政権ですが、風向きが変わったように思います。
「原発再稼働」「オスプレイの駐在」も大きな争点の佐賀県知事選挙。当選したのは、元官僚で知名度の低い人。安倍政権公認のなにかと「個性的」な樋渡啓祐氏(前武雄市長)は敗北しました
昨年武雄市の民営図書館を運営している民間会社の人の講演会があり、樋渡氏の著作を購入し読みました。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-1203.html
図書館にジャンク・グローバル企業のスターバックスを入店させることが良いことなんかはわかりませんね。地元企業でやれなかったのか事情はわかりません。
佐賀県は農業県。TPPなど日本の農業をアメリカの大企業に売り渡す政策に農協組織や農業関係者が結束し、フル回転した結果でしょう。無党派層も知名度の低い農協推薦候補に投票しました。また樋渡氏の「企業経営的な発想と実績」が県民から批判を受けたのではないでしょうか?
4月の統一地方選挙は、間違いなく風向きが変わります。思わぬ強風が安倍独裁政権を「ひっくりかえす」かもしれませんね。昨年12月の身勝手解散で大勝利した安倍首相。風(民意)は一定ではありません。自然界の風でもこの日は午前と午後では、方向も強さも変わりました。
民意が変わる気配がします。4月の統一地方選挙がどうなるでしょう。
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1月4日に続いて1月は2回目のセーリング。冬型崩れですが、等圧線が横へ広がる気配があるので、下手くそなシニア・ヨットクラブでも海へ出れると判断し、夜須へやってきました。
しかし意外に風は強い。まだ新しいHHのドライスーツは調整中。25年物のしかも背中のファスナーが壊れたドライスーツを着用してのセーリングですので、沈(転覆)はしたくはないという、手前勝手な意気地なしですから。
今日はジュニア・ヨットクラブや高知大学ヨット部も海へ出るので、先週のようなワンマン・セーリングではありません。他の艇の帆走ぶりでより多くの海の上の情報が得られます。
慎重にぎ装してこわごわ海へ出ました。風は弱く、海は凪いでいました。少しずつ風が出て来ましたが微風ですね。でも気持ちの良いセーリングを楽しみました。
ジュニア・ヨットクラブは最初は井土コーチがアキレス艇で曳航して沖合まで行きましたが、沖合は風がありました。わたしものったりと沖合へ出ると風がありセーリングを楽しむことができました。
ヤッシー・パークの離岸堤を3周することができました。お昼前に着艇し、昼ご飯を訪へ買いに行きました。シニア・ヨットクラブのKさんが来られましたので、お昼からも出艇するつもりでした。ところが・・
12時半過ぎから突然風が強くなりました。沖合は真っ白になり白波が立っています。ヤッシー・パークの椰子の木も大きく揺れ始めました。これは強風の証です。個の風ではシニア・ヨットクラブは出艇禁止ですね。風はまずます強くなり、またしても陸置きしてある高知大学ヨット部の470艇が強風で横転しました。
後始末するのが結構大変でした。なんとか片付けました。新年2回目の海の散帆は最高でした。強風の前に辞めていて正解でしたね。
来週は16日の夜夜行バスで神戸行。西田政雄さん(防災寺小屋主宰者)とともに、長田鷹取の人達との交流会へ参加。阪神大震災20年の行事です。来週これないので、午後もセーリングをたくらんでいましたが、この風と波ですと私の技量ではご迷惑をかけますので諦めました。でも海からエネルギーをたくさんいただきました。
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前の所有者が「国際信号旗」が表示されたシールをディンギーに貼りつけられていました。ヨットレースのなかで使用されていたのでしょう。
NPO法人YASU海のクラブの井土事務局員さんが、不用になったボートセーリングのマストを譲っていただくことになりました。2本つなぎになるそうです。
アルミの芯にFRPが巻かれているので腐食することはありません。
下知減災連絡会では「国際信号旗」を避難所に掲げようとしています。下知コミュニティ・センターにも国際信号旗を購入しました。
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今朝の高知市は冬型の西高東低の気圧配置。放射冷却で気温は低い。しかしこういうお天気一般的には午前中は風が弱い。それで父(95歳)のゴルフ・リハビリへ連れて行きました。
打席は日差しがあり風がないので、寒くは感じません。父は自己流の体操で体をほぐし、ゆっくりと球を打ちました。休み休みして1カード125発を打ちました。
私はその間は読書。今回は「歴史の中の大地動乱 奈良平安の地震と天皇」(保立道久・著。岩波新書・2012年刊)を読んでいます。
打ち終わった後階段も昇降しています。自宅まで戻るのに30分ぐらいかかりますが、その間父は気持が良いのか居眠りをします。そうすると到着時意識がぼけ、立ち上がって歩くまで覚醒するのに時間がかります。きちんとさせないと転倒するからです。
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「街場の戦争論」(内田樹・著・ミシマ社・2014年刊)を年末に1728円を支払い新刊本で購入しました。「街場の ○○論」といういうのは内田樹氏の評論本・随筆本のシリーズものの表題ですね。
内田樹氏の著作と言えば、11月に上京した時に購入した「大市民講座」(朝日新聞出版)以来です。読みやすいし、常識的な言葉で淡々と書いているところが、年寄り向きですね。
「内田樹・大市民講座」を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-6461.htm
「街場」(まちば)と言う言葉も、塗装業界の関東地方の業界用語。「街場のペンキ屋、野丁場のペンキ屋」(街中の仕事場の事を「まち場」と言い、野丁場はその反対の意味で「郊外の現場」と言う意味です。)。そういう親しみがあり読んでみたわけです。
2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原子力発電所の大災害を最近の日本社会は「なかったかのような」振る舞いを安倍政権がしています。
「福島原発の廃炉のためのロードマップも描けない状況」で、関係者の懸命の作業にもかかわらず、事故後3年9か月を経過しても、大気や地中、海洋への放射性物質の大量流失が止まらない。未だに原発からの罹災者12万人が自宅へ地域へ戻れません。
そんな状況など「なかったかのように」、安倍政権は鹿児島県川内原発の再稼働を認めました。そして「再稼働する自治体には手厚い交付金を出し、そうでない自治体には出さない」ことを露骨に始めました。
2014年12月の総選挙で、安倍自民党政権は連立している公明党と合わせて衆議院の3分の2の議席を獲得しました。憲法改正も可能な議席を獲得しました。
「特定機密法の強行採択」や、「集団的自衛権の閣議決定」など、国民主権と基本的人権の尊重、平和主義の日本国憲法を冒涜し破壊する政策を矢継ぎ早に行いました。
一方で「消費税は1年半後に10%に課税する。」「社会保障費用と医療費用の国負担を減らし、個人負担を増やし、大企業には減税する。」「非正規雇用を増やし賃金を引き下げる」政策ばかりし、国民の間の経済格差を拡大する政策ばかりしています。
極端な円安誘導と大規模な金融緩和策で、株価こそ上昇しましたが、株式市場と無縁なだ多数の市民大衆一般は、実収入の減少と増税感と不況感で消費マインドは冷え凍りました。また安倍内閣閣僚の言動と行動で、アジアの近隣諸国(中国・韓国)との外交関係は最悪になりました。
しかしなぜこうした「人でなし安倍内閣」をなぜ多数の日本人は支持(選挙を棄権した白紙委任も含めて)したのか?日本人が「人でなしに」なっているのではないか?そう思い内田樹氏の本を読みました。お正月の「課題図書」でありましたから。
内田樹氏は、その原因を「先の世界大戦で日本国は立ち直れないほど惨めな敗戦をした。未だに精神的に立ち直っていない。」ところに要因であると言っています。
また最近の安倍内閣の「人でなし政策の実行」は、「国民国家を破壊して、日本国を株式会社化しようとているのではないか」との仮説で説明しています。その2つの論旨は明快であり、「なるほど」と思いました。
1つめの「負けかたが酷すぎる」と内田樹氏が表現していることは以下の言葉に体現されています。少し長いですが引用します
「日本は戦争でいったんは灰燼に帰したけれど、その後奇跡の経済成長によってみごとに復活を遂げました。という話を僕は信じません。
日本人はあの戦争によって取り返しのつかないくらい多くのものを失った。それはもう少しの知恵と気遣いがあれば守れたものでした。それを日本人は惜しげもなく投げ捨ててしまった。僕はそれが口惜しい。
(中略)
「たとえば、僕たちはいまだに韓国から先の戦争中の従軍慰安婦制度について厳しい批判を受け、謝罪要求をされています。日韓条約で法的には片がついているとか、韓国には十分な経済的な補償を済ませているから、いつまでも同じ問題を蒸し返すなというようなことを荷立たしげに言う人がいますけれど、戦争の被害について敗戦国が背負い込むのは事実上「無限責任」です。
定められた賠償をなしたから、責任はこれで果たしたということを敗戦国の側からは言えない。戦勝国なり、旧植民地なりから、「もうこれ以上の責任追及はしない」という言葉が出て来るまで、責任は担い続けていかなければならない。」
「先日ある雑誌の取材で、韓国に対する謝罪をいつまで続ければいいのですか?という質問を受けましたので、「相手がもういいと言うまで」と答えました。
実際にドイツの大統領はそうしています。かつての占領国に行くたびに、ドイツ大統領は第2次世界大戦の戦死者の墓地に詣でて献花をして、ドイツ国民を代表してナチスの所業をについての謝罪をしています。
ユーゴスラビアへ行って謝罪し、ギリシャに行って謝罪し、ヨーロッパ中のどこの都市でも謝罪し続けています。ほとんどそれが大統領の主務であるかのように。戦争が終わって70年経っても、この謝罪の儀式は終わらない。戦争に負けるというのは、そういうことです。」
「自民党のある政治家が、戦争をしたのは私たちではなく先行世代である.彼等の罪について私には謝る義務がないと言い放ったことがありました。
この政治家はたぶん国民国家を「株式会社のようなもの」だと思っていたのでしょう。株式会社なら、政策判断を誤っても、倒産すれば、それで終わりです。倒産すれば登記上消滅する。それだけです。株式会社は法的擬制ですから、誰も逮捕したり、死刑にすることはできない。事業の過程でどれほどの損害を与えていたとしても、社員(株主のことです)には出資額を超える責任は求められない。それが「有限責任」ということです、」
「でも、国民国家は株式会社ではありません。隣国との間に確執があった場合、そこには、目には目を、歯には歯をという同罪刑法の原理が適用される。もちろん現代社会ではそのまま適用されるわけではありません。
賠償や謝罪に置き換えられます。けれども、それは「目には目を、歯には歯を」という苛烈な原理の適用を寛大にも手控えている。どの程度まで手控えるかは報復する側の善意と自由裁量に委ねられている。そういう理屈です。国民国家の過失については事実上の無限責任が問われる。」
「アメリカが日本を占領し続けているのも、ロシアが北方領土を占領し続けているのも、同罪刑法の原理を適用しているからです。彼等は日本に対して十分な貸しがあり、それはまだ完済されていないと思っているからそうしているのです。
アメリカは日本に勝つことによって、好きなところに、好きな期間だけ軍隊を置く権利を手に入れました。これはのちに国務長官になったジョン・フォスター・ダレスの言葉です。この「好きな期間」は解釈上無限に延長可能です。」
中略
「自分の親や祖父母たちの世代がしたことだから、わたしには責任がない。というような泣き言が通るはずがない。そう言いたければ韓国や中国に向かって言う前に、まずアメリカに向かって言ってみたらいい。アメリカにあの戦争をしたのは私じゃなくて祖先であるから、沖縄を返せと言ってみたらいい。」
「僕たちが敗戦で失った最大のものは、「私たちは何を失ったのか」を正面から問う知力です。あまりにひどい負け方をしてしまったので、そのような問いを立てる気力さえ敗戦国民にはなかった。その気力の欠如が戦後70年続いた結果、この国の知性は土台から腐食してきている。僕にはそのように思えるのです。ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人は何を失ったのという痛々しい問いを自分に向けなければならないと思います。」(P37「日本人は戦争に負け何を失ったのか」)
内田樹氏は、せめて1944年に敗戦しておれば「普通の敗戦国」になれたはず。1944年以降に230万人と言われる日本軍兵士の犠牲者の大半が出ているからです。
内田樹氏は当時の日本国が「なぜ普通の敗戦国になれなかったのか」という設問を立て説明しています。1942年にミッドウエー海戦で海軍兵力の大半を喪失した日本帝国。あの時点で潔く「投了」(敗戦)を決断しておれば、「普通の敗戦国」でいられたのにと内田氏は仮説します。
「1942年時点で講和していれば、講和条件として、おそらく日本は明治維新以後,日清・日露・第1次世界大戦によって手に入れた海外領土と海外権益のすべてを返還させられていたでしょう。
満州国はもちろん、朝鮮半島も台湾も手放さなければならなかった。これはしかたがない。でも江戸時代に隣国から日本領土として認知されていたものはそのまま手元に残される筈です。
そして、高い確率でわれわれは今も大日本帝国憲法下の帝国臣民であった。そして主権国家の国民であった。今の日本は主権国家ではありません。アメリカの従属国です。
この違いに日本人はあまりに無自覚であるように思います。「戦争に負ける」という事と、「戦勝国に従属する」ということは別の次元の事です。敗戦即従属というようなものではない。しかし、日本人はこの「命がけの跳躍」を軽々とおこなってしまった。
そして「戦争に負ける」ことと、「戦勝国に従属する」ことを無媒介的に接合したことによって、「なぜ戦争に負けたのか」「戦争で何を失ったのか」という問いを組織的に回避した。」(P42「なぜ普通の敗戦国になれなかったのか」)
日本と同様に敗戦した枢軸国のイタリアは、米軍がシチリア島に上陸する(1943年)や否や蜂起し、独裁者、ムッソリーニを捉え処刑しました。そのパルチザンの人達は敗戦後のイタリアの再建を担いました。
ドイツの場合もヒトラーを倒そうとしたドイツ軍将校シュタインベルグ大佐と言う人物がいて、ヒトラーとナチスとは異なる「ドイツの良識」モデルが大戦中に存在したと内田樹氏は言います。「戦前のドイツの良き伝統を一身に体現していた人物が、同時に戦後ドイツが範とすべき理想的市民に置き換え可能であった。」(P52「ドイツとイタリアの負けから」)
つまりそれは「ヒトラー独裁という「一時的な」病的逸脱はあるけれども、それをかっこにいれてしまえば、戦争をはさんでもドイツの国民的アイデンティティは揺るがない」ということです。
戦争体験者の小説家司馬遼太郎はそのあたりにこだわり徹底的に調査もされました。そのあたりも内田樹氏はわかりやすく書いています。
「司馬遼太郎は幕末から日露戦争までの日本(「竜馬が行く」から 「坂の上の雲」の日本)が「ほんとうの日本」であり、それが1906年から45年までの40年間の「魔の季節」において「いつわりの日本」になり、敗戦後また本態に戻ったという「物語」をつくろうとしました。戦後ドイツ人が国民的規模でつくった「物語」を単身でつくろうとしたのです。
中略
「鬼胎を取り除いて、戦前と戦後の日本のアイデンティティを連続させるために司馬は「日本のシュタウベルク大佐」を探り出さなければなりませんでした。でも昭和の軍人のうちにはそのような「戦前のよき伝統」を体現し、「戦後の新しい理想の正しさを担保してくれる人をひとりとして見出すことができなかった。」(P54)
確かに司馬遼太郎氏は「この国のかたち」や「対談集」でもそのようなことを言われています。松山市の坂の上の雲ミュージアムで購入した「昭和と言う時代」にも同様の嘆きを司馬氏は書かれていましたね。
「昭和という国家」を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-e9b9.html
「日本という国の森に、大正末年、昭和元年くらいから敗戦まで魔法使いが杖をポンとたたいてのではないでしょうか。
その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略あるいは国内の締め付け、これらは全部変な、いびつなものでした。
魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略が現れ、太平洋戦争も現れた。」
司馬遼太郎が、軍部官僚の「統帥権」という、正義の体形が充満して、国家や社会を振り回していた、”昭和という時代”を骨身に軋むように想いで「解剖」する。日本のあすをつくるために。」(司馬遼太郎「昭和という国家」)
また江藤淳と言う評論家が、米軍の敗戦統治が執拗であり徹底した言論統制と検閲で当時の日本人のアイデンティティを奪い去ったのではないかと主張していました
そのあたり江藤淳氏の著作を読んで唖然とした思いがありました。
「「閉ざされた言語空間」を読んで。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-3602.html
「江藤氏がアメリカのメリーランドに滞在し、GHQの検閲の様子を懸命に調査されていたからです。
敗戦後の日本の言論機関、出版社に対するGHQの検閲は大がかりで組織的なものでしたが、広報する組織ではないために実態が殆どわからぬままだったのです。
二次大戦の敗北は、当時の多くの日本人は「一時的なもの一過性なもの」と思っていました。米国占領軍の意図はそうではなく、戦争で「悪いのはすべて日本軍国主義なのだ」と思い込ますために、ありとあらゆる方策で検閲をしたとのことでした。
本では検閲で不可とされた句が例として上げられていました。
「焼跡の菜園雨に打たれをり」
「1円と20銭なる竹槍で みいくさせしも夢のまた夢」
ひそやかに、人目につかぬようにいま日本で検閲がおこなわれている。この検閲の質がどのようなものを知るかは次の(上の俳句が)良い目安になるだろう。
俳句は17シラブルからなる日本の詩だが、この俳句は事前検閲のため米軍当局に提出され、米国の利益に反する題材を含むという理由で没になったものである。」(P216)
敗戦直後には、当時の日本人の歴史観や戦争観が米軍により全否定されます。
「つまり、昭和20年暮れの、8日から15日にいたる僅か1週間の間に、日本人が戦った戦争、「大東亜戦争」はその存在と意義を抹殺され、その欠落の跡に米国人の戦った戦争、「太平洋戦争」が嵌め込まれた。
これはもとより、単なる用語の入れ替えにとどまらない。戦争の呼称が入れ替えられると同時に、その戦争に託された一切の意味と価値観もまた、その総入れ替えられずにはいないからである。
すなわち用語の入れ替えは、必然的に歴史的記述のパラダイムの組み替えられずには措かない。
しかしこのパラダイムの組み替えは、決して日本人の自発的な意志によって成就したものではなく、外国占領軍権力と禁止によって強行されたものだったのである。」(P231)
「つまり、極東国際軍事裁判は、それ自体が大仕掛な「ウォー.ギルド・インフォメーション・プログラム」であったのみならず、日本人から自己の歴史と歴史への信頼を、将来とともに根こそぎ「奪い」去ろうとする組織的かつ執拗な意図を潜ませていたのである。」(P267「アメリカは日本での検閲をいかに実行したか」)
江藤淳氏は単なるファシスト文学者ではありません。きちんとした検証を行っています。
内田樹氏の言う日本の支配層に、ドイツ人将校の「シュタインベルグ大佐」がいなかっただけではなく、アメリカ占領軍は統治期間中に「先の世界大戦はすべて日本国軍人がすべて悪いのだ」という事を日本国民各位に広範囲に徹底して刷り込みました。その影響は甚大なものがあると思いますね。
アメリカには逆らわず、へりくだることで自分たちの意志を通す。敗戦後の日本の保守政治家はすべてやりかたはそれぞれ異なるにしろ踏襲してきました。
安部内閣の「解釈改憲」や「集団的自衛権行使の閣議決定」や。「特定機密法の強行採択」は、本来はアメリカ合衆国の憲法の精神には全くなじまないものです。
しかし安倍内閣はアメリカにへり下り「アメリカの国益を日本国が守るためには必要な法律であり処置でした。」と言う「言い訳」「宗主国米国への忠誠心」を示してアメリカに「黙認」していただいたものですから。
内田樹氏の最近の安倍内閣の動向とアメリカの動きの観察は見事です。
「機密漏洩に厳罰を科せばアメリカの国益を守れるという話に書き換えた。アメリカにしてみれば「国内の反対を押し切っても、アメリカの国益を守るために努力をしているのです」という説明を聞かされて「止めろ」とは言えません。実質改憲をアメリカに「呑ませる」ために,官邸はすべてアメリカの国益を確保し、増大させるためのものです」という話にした。」(P154[アメリカが改憲を受け入れない2つの理由」
「解釈改憲は憲法第9条の文言そのものはいじらないで、アメリカの海外での軍事行動に参加できるように憲法解釈を変えたものです。集団的自衛権の行使が既成事実化すれば、第9条第2項は事実上空洞化する。
アメリカが嫌がる「憲法理念の書き換え」は手控え、アメリカが「ノーと言えない」理由をつけて実質改憲する。そして、官邸が知恵を発揮したのは、このような「限定的改憲」であるかぎり、アジア諸国からの反発も抑制できることを読んだ点です。」
中略
「むしろ、日本のような豊かで安全な国でさえ、治安のために強権的な言論統制が必要であるから、治安の悪い我が国においてや、という自国の強権的統治を正当化する根拠として活用することが出来る。
まことに気鬱なことですけれども、日本政府が自国の民主化度を他のアジア諸国レベルまで引き下げることは国際社会から歓迎されこそすれ、外交的緊張を高める可能性はないのです。
というわけで、13年の5月に安倍政権は全面改憲を放棄した代わりに、「東アジアに緊張関係を作り出さす改憲の実を取る」という宿題に「解釈改憲による集団的自衛権の行使」と「特定秘密保護法による反政府言論の抑制」という「プランB」を以て回答して、アメリカに「合格点」をもらい、みごとに第9条と第21条の空洞化に「王手」をかけたのでした。」(「P156「アジアからも反発されない限定的改憲」」)
著作の大半は大きな話ばかりで、「300M四方の町内から出れない小市民」の私には、いささか大きな国家レベルの話でありました。「さもあり何」と言うほかはありません。
最後の方に記述されていた危機管理の極意については、いつ南海トラフ巨大地震に海抜0メートル地帯に居住して怯える小市民は共感を覚えました。
「危機的状況で生きのびる役に立つフォロワーとは一言でいえば「技術者」です。「技術者と言うのは、与えられた環境の下で手持ちの資源を用いて自分には何が出来るのかを言える人です。
中略
「生きのびる道を指示できる「リーダー」と、ありものを使いまわして「総体として無秩序である世界」に局所的、部分的な条理を立ち上げることのできる「技術者」それが非常時対応人材です。そのような人材を育成すること。それが集団としてのリスクヘッジの基本戦略だと僕は思っています。」(P27「非常時対応能力とは」
国民の生活よりもアメリカにへつらうことを「最優先する」安倍政権。
仕事で「とりあえず防災」しかしない地方自治体防災部署。権限と予算と情報を独占して市民側に譲渡しようとしません。
私たちが困難な状況の環境下で、人としてまっとうに生きていくには「何をしたらいいのか」「どういう発想をすべきなのか」を暗示していただけた書籍でありましたね。
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母(89歳)を連れてはりまや橋商店街へ、午後1時半過ぎに来ました。2時から活き活き100歳体操(介護予防体操)をしている間に、同じ商店街の電車通りに事務所を構えている久保博道さんを訪問しました。
昨年10月に高知県庁観光部長職で退職し、今年4月の県会議員選挙(高知市選挙区。定数15人)に挑戦されています。少しだけお話が出来ました。
「自宅のある高知南ニュータウンや蒔絵台の住宅街は土日の休日でないと在宅されておられません。前職の観光部署や道路課部署の知り合いは多いですが、一般県民には私の知名度はありません。それではりまや橋近くに事務所を出しました。」とのことです。
久保さんとは同年齢世代ですが、トライアスロンに挑戦されたり、活力のある人です。「即戦力」の人材であると思います。写真も撮らせていただきました。
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父(95歳)ですが、朝1番に植田医院へいきました。診察と点滴と注射(貧血防止)です。「年末に体調を崩されていました(感染性胃腸炎)でしたが、軽く、今は復調されていますね。」との診察。「むくみもないし上等です。」との植田一穂先生の話でした。
昨年12月29日の血液検査で、クレアチリン値が「2.12」、今年1月5日が「2.23」で小康状態を保っています。正月休みには1月2日と3日連続でゴルフ・リハビリしましたから健康な状態を父は維持しています。
午後からは、母(89歳)を連れて、はりまや橋商店街へ行きました。昨年最後の活き活き100歳体操(介護予防体操)は、ノロウィルスの影響で回復はしてましたが遠慮して欠席していました。久しぶりの参加です。
いつも最初に魚の棚商店街のパン屋さんで、たまごドーナツ、黒糖ドーナツを購入していましたが、昨年11月末で店主がお病気になり廃業されたようです。張り紙がありました。
いつものコロッケ屋さんで夕食のおかずを購入。今年初めてのはりまや橋商店街金曜露店市で母は買い物をしています。
谷ひろ子さんのお店でも焼き菓子を買いました。活き活き100歳体操の前に、母とお茶をしました。
今日の活き活き100歳体操には、元気な高齢者が参集していました。
戻りますと今度は父も一緒に主治医である横田哲夫先生(横田胃腸科内科)の診察へ行きました。2人とも健康で元気なようです。超高齢者でも健康であることは何物にも代えがたいことであると家族として思いますね。
血圧は、父(午前9時10分 110-58 植田医院)(午後3時半146-74 横田胃腸科内科)、母は(126-65 横田内科胃腸科)で、正常値の範囲内でした。
横田先生の診察も問題はありませんでした。今日訪問した2つの医院も季節柄インフルエンザを罹患された患者が多くおられました。今年のインフルエンザは、A香港型(AH3亜型)だそうです。病院から戻りますと石鹸での入念な手洗いをうがいを徹底履行させました。
超高齢者にはインフルエンザは大敵です。わたしも含め罹患しないようにしなければいけないですね。
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最近はマスコミ情報で、福島原発のその後についての報道がめっきりすくなくなりました。その一方で安倍内閣は強引に各地の原子力発電所の再稼働を推し進め、再稼働を容認した冶自体には手厚い交付金を出すことまでやり始めています。
未だに12万人の福島県に帰れない原発罹災者がいます。にもかかわらず、老朽原発(建築後40年経過)したものや、ウラン燃料にプルト二ウムを混入して原子炉で燃やすことまでやり始めようとしています。
FBでの友人からのご紹介です。きちんとしたラジオ番組でした。
20141231 報道するラジオ年末特番『もう、だまされないぞ!2014』
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2014年12月31日の高知新聞の記事「避難所マニュアル作成支援」「県がひな型 運営は住民主体」との記事が掲載されていました。
写真も掲載されていまして、昨年10月26日に実施されました高知市総合避難訓練で実施されました「避難所開設訓練」の様子が出ていました。
記事に寄りますと「災害時の混乱で行政の支援が十分に行き渡らない可能性があるため、避難所の運営は住民主体にし、高齢者への対応も盛り込んだ。」とあります。
10月26日当日、行政側がこしらえたマニュアルで避難所開設訓練をしました。」担当は受けつけ。仮想現実で対応しましたが、避難者がどんどん来ると対応は不可能でした。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-8853.html
下知減災連絡会主催で、11月8日・9日に下知コミュニティ・センター全館を活用した「避難所開設・宿泊訓練」を実施いたしました。
こちらも10月の高知市総合防災訓練を教訓として、受付業務は専任担当者を設置し、、趣旨を訓練参加者各位に説明して実施しました。今回は上手く行きましたが、実際は無理であることが理解できました。
行政側の罹災者支援のルール上必要な措置であるとは思いますが、より実践に即した対応が必要であると思います。
既に二葉町では全世帯を対象に「防災世帯調査」を実施し、地域の住民各位の情報を自主防災会で把握しています。(防災世帯調査表・参考)
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-847b.html
西田政雄さん(防災寺小屋主宰)の提唱による「SOSカード」は、事前に配布し、傷害や疾病を自己申告していただく仕組みです。これを提示すれば、即福祉避難所へ行っていただきます。
女性の視点を災害対策に活用することもとても大事な視点です。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-ce70.html
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父(95歳)も早めに昼食を済ませ送迎車を待ち構えています。時間には厳格で遅れると機嫌が悪い。
母(89歳)は「今日はなんぞね?」を連発。「ジョイリハぞね。」「中種かね?」「それは金曜日に連れて行きゆうろう。」「お爺さんも行くがね。」「お爺さんも一緒よね。」と会話は新年になってもループします。
12時10分前に送迎車が来ました。元気に乗り込みました。ジョイリハのスタッフの皆様、今年1年よろしくお願いします。
今日の個人ブログのテーマは「日本の高齢者福祉」を読んででした。20年ほど前の古本ですが、介護ケアの本質を書いています。その感想文をブログに書いていました。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-7cd3.html
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「日本の高齢者福祉」(山井和則・斉藤弥生・著・岩波新書・1995年刊)を読みました。例によってブック・オフで108円で購入した書籍の1つです。
タイトルは「体験ルポ 日本の高齢者福祉」とあるように、筆者たちは介護施設などで、実勢に寝泊まりし、その施設で暮らしている高齢者と同じ生活を体験しレポートを書いています。時に大人のおむつも着用されたとありました。
著作が発行されたのは介護保険が日本へ導入されスタート(2000年)した以前の1995年。既にその時点で筆者は、兵庫県加西市の取り組みを評価しながら、以下のように述べています。
「早期発見、早期治療、リハビリがあってこそ、寝たきりを未然に防いだり,痴呆の悪化をやわらげたりすることができる。
「恥」と思って、家族が介護を抱え込むのではなく、早いうちから行政のサービスを上手く利用することが必要だ。寝たきりや痴呆について、家族が役所に気軽に相談できる体制にすることが大切と、加西市の保健婦さんたちは口をそろえる。
今までの行政といえば、「申請主義」で、福祉サービスを利用する人は少なければ少ないほうがよい、という「待ちの行政」であった。しかし加西市では。福祉サービスの利用を積極的に勧めるという早め早めの対応により、寝たきり老人を減らすことに成功した。
さらに加西市の保健婦さんたちは,市立病院とも密接に連絡をとりあい、保健、医療、福祉のコーディネーター的役割を果たしている.同市の調査(1991年)によれば、看取り満足度は高い。これは在宅ケアには医療・保健・福祉のすべてのサービスがもれなく切れ目なく提供されることが必要であることを物語っている。」(P148「在宅福祉の充実で寝たきり減少」)
13年前に既に介護予防の重要性が指摘されていますね。介護保険がスタートされる前から、「介護予防」の重要性が指摘されているのに、十分に行政側が予算と支援をしてきたようにありません。今事になって慌てて「掛け声」をかけ始めました。
それなりに参考になりました。うちも早くから「介護予防」の対策をしてきました。、無駄ではないことを改めて認識した次第です。介護予防リハビリへ両親は行き、運動能力低下を防いでいます。母は更に1日ディにも通所し、生活能力低下を予防しています。
私にすれば「自分事」。うちには95歳の父と89歳の母が在宅で同居していますから。狭い2階3階の住居で普通にいつまでも生活してほしいと思うから、介護予防に全力を尽くしています。
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今年もうちには飾れないお雛様(家が狭いので)をヤッシー・道の駅やすのホールに2月・3月と展示していただくことになりました。その打ち合わせにセーリングの後来ていました。
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2015年のセーリングのスタートは正月3が日が強い冬型であるので避けました。4日と言う遅いスタートです。今日は移動性高気圧に覆われ、下手くそなシニアヨットクラブ員でも大丈夫なお天気となりました。
まずはヤッシー・パーク入口にある海の神様である「恵比寿堂」に初詣です。今年は出遅れました。海の安全、家内安全、商売繁盛を祈願しました。
管理されている地元の内田さんにお聞きしますと、左側が大黒様で、右側が恵比寿様。海の神様だそうです。漁師さんの神様ですので、ヨットの安全祈願にもなるとのお話でした。今年の海の安全を祈願してきました。
新しいドライスーツは着きましたが、まだ調整中なので、25年物の古いドライスーツを着用しました。そして慎重にぎ装し海へ出ました。
海は温厚で風がほとんどありませんでした。出艇はしたもののほとんど帆走せず、ヤッシー・パークの離岸堤の外と赤灯台の間をうろうろするだけ。それでも2015年の初乗りは気持がいいです。
ジュニア・ヨットクラブも初乗りでしたが、風がないので井土コーチがゴムボートでヨットを引っ張り沖合まで行っていました。
1時間ほど波間に漂い、2015年の初乗りセーリングは無事に終了しました。
ところで国際信号旗の表示しているシールがヨットに貼りつけられています。ヨットレースの時に使用するのでしょう。前の所有者が活用されていました。
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この20年間地方の商店街をことごとく破壊し、「まちこわし」をしてきたイオンが、今度は一転地方都市再生の鍵となるかも?の記事を見ました。にわかに信用できません。
2015年展望:イオンは地方創生のカギとなるか?(yahooニュース)
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20141230-00000012-wordleaf-nb
大量販売ー大量仕入れー大量廃棄で今まで成り立ってきたイオンが、その原理とそう反する地域社会と共存できるとは思えません。
車を大量に集めて環境に負荷をかけ続けてきたハゲタカスーパーは、「レジ袋を削減しています。」で環境派を名乗るセンスですからね。
まやかしとしか思えません。
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父(95歳)のゴルフ・リハビリを2日連続でしました。母(89歳)のほうも運動不足でだらだらしていますので、ご近所のお菓子屋さん(西川屋老舗)まで手を繋いで散歩しました。
母「ここいらの店は全部シャッターが閉まっちゅう。活気がないねえ。」
私「お正月休みやきに閉まっちゅうがよ。うちも休みながやきに。5日から皆会社は始まりますよ。」
母「お菓子屋さんはやりゆうがかね?」
私「かき入れ時やきにやりゆうと思う。」
今日は「言い争う」こともなく仲良く手を繋いでお菓子屋さんまでたどり着きました。
お菓子屋さんのおかみさんが母と2人の2ショット写真を撮影していただきました。「来年もまたお元気で来てくださいね。」と言われました。
何種類かのお菓子を買いました。そしたらお茶と和菓子のサービスがありました。これもお正月らしい。甘党の母は大喜びでした。
帰りは心なしか足取りが軽く、いつものように「腰が痛い」と言いませんでした。やはり散歩の運動は必要ですね。
昨年受講した「認知症重度化予防実践塾」では、「1日2キロは歩きましょう。」と言われましたが、今日はせいぜい往復で300メートル足らず。なかなか道のりは厳しいものがあります。
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昨日に続き、今日も父がゴルフ打ち放し練習へ行きたいと言います。昨日調子がいいので、京良いので、今日ものリクエストです。今日も朝から冬型の気圧配置。午前中は風が弱いので連れて行きました。
昨日より今日はシニアの皆さんがたも多い。さすがに2日は家族で正月。今日あたりは爺さんたちは「自由行動」になったんでしょう。
いつものように入念に自己流の体操をして、ゆっくり父は球を打ちます。水分補給もしながら、125発を打ちました。昨日と合わせて250発の球を打ちました。ゴルフ・リハビリになったようですね。
今日は昨日よりやや暖かめでしたので、読書をしました。正月の課題図書「街場の戦争論」(内田樹・著・ミシマ社。2014年刊)を読んでいます。
戻ると両親の昼食準備もあります。昼食後は正月休みでだらだらしている母(89歳)の散歩をさせます。新年早々の親子の「罵り合い」が始まります。
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今朝は父は午前5時半ごろから、いそいそし、朝が待ち遠しかったらしい。今頃は夜明けは午前7時頃なんですが。高齢者の朝は早い。
今日もお雑煮を食べ、餅も小さく噛んで食べて事故は起こませんでした。母(89歳)もです。朝から寒い日でしたが、8時過ぎには出発しました。
父にせかされたこともあり、デジカメを忘れて行きました。それでガラケー携帯から2枚の「証拠写真」を取りました。
さすがにゴルフ練習場も空いています。寒いと思っていましたが、ゴルフ練習場は風はなく日差しがありましたので、意外に暖かでした。父は125発の球を打ちました。
冬型の気圧配置(西高東低)は、朝のうちは風が弱めです。11時過ぎごろから風が強くなります。父の新年体育初めは無事に終了しました。わたしの初乗りセーリングは4日に予定はしています。
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2015年も静かにスタートしました。
うちも家族皆で穏やかな元旦を迎えました。
父(95歳)、母(89歳)も元気で年を越しました。お雑煮のお餅も元気で食べました。家内も私も息子も元気です。東京の娘は仕事が立て込んで帰省しませんでしたが、羊さんの絵を送ってくれました。
父は6月に、母は11月に誕生日が来れば、父は96歳の年男、母は90歳代に突入。私ら夫婦は60歳代ですので、「老・老」介護にならないように家族一同頑張ります。
一段落つくと両親はDVDを見ながら活き活き100歳体操(介護予防体操)です。全く普段着のお正月です。料理は高知流で家内がこしらえていただきました。感謝です。
昨年はなにかとせわしい1年でした。今年もまたせわしさを増すでしょうが、家族の健康と地域のために今年も少しだけ頑張ってみたいと思います。
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