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2015.05.15

”沖縄返還”から43年目

 1972年5月15日は沖縄返還の記念日です。1951年のサンフランシスコ講和条約の結果、日本国と切り離され米軍統治されていた沖縄が日本国に「返還」されました。43年も経過しました。
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 沖縄返還の東京での式典の写真です。当時の首相である佐藤栄作氏は、沖縄返還の功労で「ノーベル平和賞」を受賞しました。確かに米国から平和的に施政権は返還されましたが、沖縄の人達の願望である「基地の本土並みでの返還」の願いは、全く無視されました。返還後も過大な米軍基地が、沖縄の発展の桎梏となり続けています。

 下の写真はサンフランシスコ講和条約の締結風景です。吉田茂首相が調印し、7年間にわたる占領軍統治が終了。日本本土は国際社会へ復帰しました。一方沖縄は日本本土と切り離され、米軍統治が引き続き20年継続しました。その間に米軍の銃剣とブルドーザーで多くの土地が奪われ、米軍基地は米軍統治の間に拡大しました。日本本土では米軍基地が縮小・統合され、沖縄では逆に拡大されました。4月28日は「沖縄屈辱の日」として沖縄では位置づけられています。
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 沖縄出身の家内は、それまでは東京へ行くのにも、パスポートの申請が必要であったと聞きました。「基地があることでいつ攻撃されるのかわからない。」と不安を漏らしておられた家内のご両親も今はお墓で眠っています。先月でしたか義弟夫婦から清明祭をこじんまりやったよとのメールが来ていました。
Nisihirahaka


 施政権が日本になったものの、米軍統治の間に拡大した米軍基地は、1%の面積の沖縄県に74%の米軍基地が遍在する異常な事態が未だに継続しています。米軍の太平洋西海域の最大の兵站基地として沖縄の重要性は時代は変われどあるようです。でもそれは覇権国家(帝国主義国)アメリカの国益の話であり、日本や沖縄の人達とはそれほど関係の深い話ではありません。
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 「日米地位協定」は日本国憲法の上位にあります。米軍基地の外で米軍兵士が、地元沖縄の婦女子に暴行を加えても、米軍基地へ逃げ込めば、身分は保証されます。地元警察は逮捕することも米軍の協力がなければ出来ません。米軍犯罪者はぬけぬけと米国へ帰国し、犯罪はうやむやにされてきました。

 2004年8月13日の普天間基地の米国海兵隊軍用ヘリが沖縄国際大学へ墜落し、炎上しました。基地外の施設であったにも関わらず、米軍は墜落現場付近を軍事力で閉鎖し、地元警察や消防の現場検証作業を阻止し、墜落した部品一切を基地内に持ち帰りました。
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 日本国の主権も警察権も何もない異常な事態でした。当時の日本政府は一切の抗議もせず、ひたすら米国の要請でイラクへの自衛隊派遣に熱心であり、政府要人が墜落現場へ来ることもありませんでした。その卑屈さと主権国家日本よりも「日米地位協定」がより上位にある現実を今一度日本人は正しく知る必要があります。

 沖縄の人達にとっては日本政府は、「米国政府の顔色ばかり見て、国民とまともに向き合わない」と言う存在です。まして米軍の銃剣により米軍基地はつくられてきた歴史があり、米軍基地を日本政府が手先になって建設するなどということは、「あってはならない」ことであります。
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 「辺野古基金」に僅かな資金を寄贈させていただきました。どうか沖縄の事を想う皆様は辺野古基金に資金を提供ください。そして政府の強引な民意を無視する辺野古基地建設を阻止しましょう。
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 70年前の4月1日に米軍は沖縄本島の読谷付近に上陸。凄惨な地上戦が行われました。多数の非戦闘員の沖縄の人達も犠牲となりました。6月23日は、沖縄での終戦記念日です。家内に聞くと学校は休みになったそうです。

 戦闘や巻き添えで亡くなられた人たちの慰霊の日です。平和記念公園にある「平和の礎(いしじ)」は、国籍に関係なく、沖縄での戦闘で亡くなられた日米両軍兵士や、民間人、中国や韓国の人達の亡くなられた人の氏名が刻まれています。その場へ行くと真摯な気持ちになります。
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 現在の安倍政権は、不平等条約のような「日米地位協定」を改定する気持ちも全くなく、ひたすら米国と米軍に卑屈にへりくだり、覇権国家(帝国主義国)アメリカの先兵として自衛隊を世界中に派兵しようとしています。全く馬鹿げた話です。70年間日本の自衛隊は1人の外国人も殺すことなく来ました。1発の銃弾も発射しませんでした。そのことは恥ではなく誇るべきことなのです。

 今や安倍内閣はあれほど騒いでいたアベノミクスの経済政策の事も最近は言いません。台風が来て、噴火活動が盛んになり、東北でも地震がありました。「災害大国・日本」で、新たな災害(戦争)を日本に持ち込むことを絶対にやめていただきたいと思いますね。

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