
「被災弱者」(岡田広行・著・岩波新書・2015年2月刊)を高知市の金高堂書店で4月に新刊本で購入しました。大災害の場合は、復旧・復興がむしろ大変。以前「復興災害 阪神淡路大震災と東日本大震災」」(塩崎賢明・著・岩波書店・2014年12月・刊)を読んでいまして、2015年1月17日に神戸市長田区鷹取東地区へ行きました。
地元のチョ・ホンリさんと話をし、まち歩きをして鷹取の20年の歩みを話していただきました。復興・復旧はとても難しい。簡単ではないことを思い知りました。
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神戸市長田区鷹取東地区との交流
やはり報道や行政や学識経験者のお話だけでは、地域の実態はわからない。そう思いました。未曾有の大被害の東日本大震災。映画監督や現地のボランティア組織の人の話も聞きました。
常に思いますのは、2011年以来高知市下知地域に取材に来られるTV局の人達や全国紙の記者の人達は「下知は石巻に良く似てますね。」「気仙沼に似てます」と言われ続けて来ました。でも東北は遠く、介護認定を受けている超高齢者の両親がいますので、なかなか東北を訪ねることは出来ませんでした。
昨年9月7日に、NHK仙台放送局の要請で、ラジオ番組に出演する機会があり、宮城県仙台市を訪ねました。しかし滞在したのは収録時と、夕食時のみ、翌朝は戻りました。少しだけ東北が身近になりました。
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いま災害を生き抜くための言葉 NHK仙台放送局制作に出演しました。
音声での地元の人達の語りを聞きました。まさに「津波てんでんこ」を実践して多くの人達が生きのびた岩手県洋野町の漁師町の人達。洋野町の消防団員は「率先して逃げる」ことをルール化していて住民も熟知している。)桂島では若手住民が高齢者を優先的に車を活用して高台に避難させ、避難が完了した後、津波が押し寄せましたが皆が助かりました。
そうしたお話を事前に聞き、また南海トラフ巨大地震について知れば知るほど、焦る気持ちが高くなりました。東北地方の罹災地には、地域代表の坂本茂雄さんが震災後10回現地を訪問されています。
坂本茂雄さんは「被災弱者」の著者の岡田広行氏とも直接の交流がありました。著書の中で出て来られる地元の住民組織の人や、ボランティア組織の人達を紹介していただいたそうです。坂本茂雄さんが、打診をし、高知から2015年6月20日から23日の予定で現地訪問し、意見交換することになりました。
それだけにどうしても読んでおかねばならない著作でした。
前置きが長くなりました。岡田氏は「はじめに」よりこう書かれていました。
「仮設住宅では高齢者の認知症が進み、世話役を務める住民が右往左往していた。津波浸水地区では、資金がないために住宅の修理が終わらない高齢者、復興事業のために住み慣れた我が家の立ち退きを迫られた在宅被災者がいた。
みなし仮設住宅では、震災前のような安定した仕事に就けず、転居の見通しが立たない働き盛りの男性にもであった。・・・・・・いずれも震災から四年がたとうとする現在のことである。」(はじめに)
「東日本大震災の集中復興期間終了を目前に、復興から取り残された人々がいる。くらしの再生に必要なものは、巨大プロジェクトの加速ではない。
「いつまでも被災者なのか」と弱者を切り捨てるのなら、社会はその負債を将来にわたって抱え込むだろう。被災は、誰にとってもひとごとではない。
災害多発国日本のあやうさを現場から問う。」(カバー表紙の言葉)
「2,014年の4月時点でも避難者数は23万9000人ですが、コミュニティ機能を失った津波浸水区域に残り、避難生活同様に劣悪な環境におかれている在宅の被災者は含まれていません。
津波に襲われた地域では、雑草の生い茂った空き地が目立つ荒涼とした風景の中に、ビニールシートやベニヤ板で覆われた家屋が点在している。多くは主を失った空き家だが、ところところに明かりがともっている家屋がある。
こうした家屋に住む被災者の多くは資金に事欠き、必要な住宅修繕もできないでいる。高齢ゆえに銀行から融資を受けることも出来ず、新たな土地での住宅再建もままならない。」(はじめに)
「国や地方自治体は住宅再建についての十分な手立てを持たない。そのため現在も津波浸水区域で暮らす人は、新たな津波被害の危険性が高いとされる災害危険区域からの移転で住宅困窮者向けの災害公営住宅(復興公営住宅ともいう)に転居または、防災集団移転促進事業(高台移転)等に参加する人を除き、今以上の支援を得られない。
このことは、被災地の復興が進んでも、暮らしぶりが改善しない人々が相当数に上ることを意味する。」(P2)
いきなりの深刻な事態の報告に、身につまされました。他人事ではない、明日の自分たちの現実であると思いました。

今回の下知地区被災地交流ツアーでは、宮城県石巻市を中心に回り、現地で奮闘されている住民団体やボランティア支援団体との意見交換会も予定されています。
そのなかの1人である支援団体の「一般社団法人チーム王冠」の伊藤健哉代表との意見交換も予定されています。著作の中では在宅被災者を巡回し、地域コミュニティづくりと維持をめざす「お茶っこバス」を運営されておあっれます。(P5)
「自治体は住いを失った住民を避難所から、仮設住宅へ移行させることが手一杯で、在宅被災者に手をさしのべる余裕はなかった。」(P6)であるからでした。
チーム王冠は北は女川町から、南は山元町までの広範な地域の在宅避難の5000世帯に及んでいます。支援の内容は、食料や物資の提供、住宅の修理、草むしり、農業や漁業の手伝い、スポーツ教室、子供のケアに至っています。
罹災地の学校が元の地域の場所で再建されることは、地域復興のシンボルになります。湊東地区まちづくり協議会代表世話役の今野清喜さんとも意見交換の予定です。
今野さんと一緒に活動されてこられた千葉眞良さん(石巻市議)には、旅行1日目に石巻駅前にバスに同乗いただき、震災時の様子やその後の復興・復旧の動きをお話していただくいことになっているようです。
「土地区画整理事業に期待する今野さんは、迷路のように狭かった道や行き止まりをなくし、子供が安心して学べるまちを取り戻したい。すべてを子供優先になるように、行政に要望をあげていった。」
「湊小と統合された湊2小の跡地は、TOTO(サッカーくじ)の助成金を活用して人工芝のスポーツ公園にしてほしい。太陽光発電を用いて街路灯を整備できないか」とまちづくり協議会ではこんな要望を石巻市役所に提出しています。(P126)
高知でようやく始まった「蛍プロジェクト」の実例も見学する予定です。
「湊小に二女を通わせている斎藤建彦さんは、「震災対応減災ファイル」をPTAで提案・作成した。消防士である斎藤さんは学校区内をすみずみまで歩いて危険のある個所を点検したうえで、学校の外にいるときに災害に遭ったときの心構えや避難の仕方、避難経路を一冊の冊子にまとめた。」(P126)
「今回の災害では、情報がなかった人がずいぶん被害に遭った。こどもたちには幼いうちからきちんと情報を入手して自分で行動できるようになってほしい。そうした思いからPTAの資金をもちいて作りました」(P126)
「震災対応防災減災ファイル」を作成された斎藤建彦さんとも意見交換する予定です。
津波のリスクをゼロにしようと高台移転計画を押しすすめた結果、住民の多くは雄勝町以外に移転してしまう誤算も起きています。
「リアス式海岸の入り江ごとに小さな漁業集落が点在する石巻市雄勝町は、明治時代には15浜村の村名を称した。その名のとうり、1つ1つの集落が固有の歴史と文化を持つ雄勝町にあって「町中」(まちなか)と呼ばれる中心地区は大きな口を開けた形の雄勝湾の喉元に位置する。
水深が深く、天然の良港として知られる雄勝湾はかつて、遠洋漁業の船舶も出入りし,町中は発展をとげていた。
しかし、200海里規制と石油ショックでを契機とした漁業の長期低落過程の末に大震災は雄勝町からすべてを奪った。中心地区では96%の家屋が全壊となり、総合支所、公民館、駐在所、消防署、郵便局、小中学校すべての公共施設が失われた。雄勝町全体でも,全壊の家屋は80%近くに達し、震災直前に4300人いた住民は4分の1強にまで減ったとされている。
雄勝町の悲劇が色濃いのは、復興計画での選択肢が、津波浸水エリアからの高台移転しか示されなかったことに原因がある。」(P175)
雄勝地区復興まちづくり協議会の阿部晃成事務局長さんとも意見交換する予定です。阿部さんは高台ありきの復興の道筋に異議を唱えられています。
「行政を巻き込んで復興のあるべき姿を提言するのが、本来のまちづくり協議会の役目だったはず。しかし実際には行政主導でまちづくりの青写真が描かれ、協議会は行政が決めた方針を追認する組織になった。」(P175)
阿部さんは「このままでは中心部は成り立たなくなる」との危機感から「雄勝町の雄勝地区を考える会」をこしらえ活動されています。高台移転んと浸水地域のかさ上げを提唱した中心部の復興案を提示しても行政側は対応しませんでした。
事業を行政側が急ぐゆえに、町中心部の住民の意向を十分に汲み取らなかった帰結が、人口流出加速の原因ではなかっただろうか。」(P184)
筆者の岡田広行氏は問題を掘り下げて行きます。
「政府によれば、東日本大震災からの復旧復興に用意された予算は、「集中復興期間」とされた2011年度からの5年間に26・2兆円に達している。
これだけの予算がありながら、被災者の多くは復興を実感することができないのはなぜだろうか。」(P202)
その原因は予算配分に問題があるのではないかと著者の岡田広行氏は指摘しています。
「政府による「東日本大震災からの復興の基本方針」や東日本大震災復興基本法」に基づくとして、」実は被災地の復興とは関係ない事業が全国各地で実施されてきた。
中略
阪神淡路大震災や新潟中越地震時と比べた時に、大きく異なるのが、復興の取り組みへの住民参加の度合いだ。
住民の生活上のニーズにきめ細かく対応するために「復興基金」が創設された点では共通しているものの、今回の震災復興の過程ではその資金の使い道に関して住民やボランティアの意見反映の場が欲しい。」(P203)
1995年の阪神大震災の折も、地域が丸焼けになり地域の人々が懸命に自宅まわりの方づけに追われいる最中に、神戸市は長田駅前の巨大な再開発の青写真を持ってきたとか。
その時も故石井弘利さんやチョ・ホンリさんから「神戸市はあらかじめ考えていた長田復興プランをいきなり出してきました。見れば長田のコミュニティや寄合の破壊につながる行政主導の復興・復旧プランだそうです。
鷹取に人たちが凄いのは決してあきらめず、腐らず他の地震被害者との意見交換会などを前向きにしておられるところでしょう。
読後感は、到底他人事と思えません。現時点で大地震に遭遇した場合、落ち着いて対応できるのでしょうか?「その時」慌てない肝を持たないといけないですね。
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