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2015.11.20

「天災から日本史を読みなおす」を読んで

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 「天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災」(磯田道史・著・中央公論新社・2014年・刊)を読みました。10月に0泊2日で出張で大阪へ行った折、梅田の長距離バスターミナル近くの阪急3番街にある紀伊国屋書店で購入した新刊本です。

 筆者の磯田道史氏は、1970年生まれで45歳と若い歴史研究学者の人。「日本の歴史の中で地震、津波、火山噴火、異常気象と天災が歴史に与えてきた影響」を克明に調べています。

 その前書きの中で磯田氏が強い影響を受けたというベネデット・クローチェというイタリアの哲学者であり歴史学者の人の事は、わたしはよく知りません。子供時代に、家族がイスキアでの休暇中、カサミッチョラの地震で家屋が倒壊し家族を失い兄と2人だけ生存し親戚に引き取られたクローチェの世界観に影響を受けたとの事です。

「すべての真の歴史は現代史である」との歴史哲学の言葉ですが、その観点から行きますと韓国や中国の主張する「歴史問題」なるものも「現代史」のなかで考えて行かないといけないですね。決して「過去の問題」ではありません。国際社会で「日本のイメージダウン」を狙う側面もあるので。まさに現代史なんですね。

「震災がおき、天災を目のあたりにして、我々の歴史の見方や価値観も変わりつつある。近代化以前の社会は自然環境の影響を大きく受けた。農業が中心の自然経済だから当然である。震災後の歴史学、いや科学全体は、自然に対する人間の小ささを謙虚に自覚せねばならぬだろう。
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 天災を勘定に入れて、日本史を読みなおす作業が必要とされているのではなかろうか。人間の力を過信せず、自然の力を考えに入れた時、我々の前に新しい視界がひらけてくる。あの震災で我々はあまりにも大きなものを失った。

 喪失はつらい。しかし、失うつらさのいなかから未来の光を生み出さねばと思う。過去から我々が生きるための光をみいだしたい。クローチェのように。」(P4)

 著作の中では,天下人となった豊臣秀吉が天正地震と伏見地震の影響を強く受けたと言います。

 天正地震では、長浜城が崩壊し、山内一豊の娘が死去しました。同時にこの地震は、秀吉が、徳川家康を討伐するための大軍を編成し、まさに出撃しようとした矢先に、前線基地であった大垣城や長浜城や坂本城が地震で壊滅、秀吉は大阪へ撤退しました。」家康は滅亡を免れ、秀吉と和議を結びました。秀吉は10万の大軍を揃え、小牧・長久手の敗戦の汚名をそぐために家康追討を決意していました。一方の家康は3万人ぐらいしか動員できませんでした。

 この当時家康の作戦参謀を長年続けてきた石川和正が秀吉側に寝返ったという事件まで家康にはありました。本当に危機が迫っていたのです。その矢先に伏見で地震が起きました。

 伏見地震では、豪勢な京都の聚楽第が壊滅しました。美女400人も圧死したそうです。当時朝鮮へ遠征軍を派遣し、ようやく講和の兆しが出始めた矢先の地震でした。秀吉は聚楽第の再建を全国の大名に命じ、講和を破棄し朝鮮へ更なる派兵を命じました。

 伏見地震で秀吉の天下に陰りが見え、人心が離れて行ったのです。この時、僅かな部下で、小屋に逃げ込んでいた秀吉を討つべしとの意見も敵対していた家康の部下から出ていました。しかしそれをすれば「明智光秀の二の舞になる」と家康は進言を退け、秀吉の和解案に乗り、力を蓄える作戦に切り替え、滅亡をまたしても免れました。そして家康は健康には自信があったこともあり、秀吉の死を待って、行動を起こし、天下を取りました。その分岐点がまさに伏見地震であったと磯田氏は言います。なるほどと思いました。
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 そして江戸時代初期に大きな地震が日本を襲いました。宝永地震(1707年)は、巨大地震でした。東海地方から中部、関西(大阪)、紀伊半島、四国まで広域に被害に遭いました。

 高知に関する記述も著作にあります。当時種崎に住んでいた下級武士が9歳の時宝永地震に一家が遭遇。海の近くの家屋から津波に追われ脱出した体験の話もありました。そこには貴重な教訓もつづられています。

宝永地震の語り部となった柏井貞明は9歳の時に、高知市種崎で地震と大津波に遭遇しかろうじて一命をとりとめています。当時自宅は種崎の南の端にあり、門の外はすぐ海であったようです。現在の種崎の貴船神社付近らしい。家から一家がようやく脱出。茫然自失状態だっららしい。

「だかその時、この一家の運命を決める幸運な情報が耳に飛び込んできた。東の海辺の町の方から、こう呼ばわる声が聞こえてきた・「大浪が市中に入るぞ。みな、山に入れ」。その声で一家は津波の危険に気付いた。山へ向かって、逃げることにしたのである。」

「これは大切な歴史的教訓である。津波から逃げる時、率先避難者が大声で「津波が来るぞ、高台へ避難」と呼ばわると、その声で周囲も我に返り逃げ始める。声を出して逃げることで、地域の生存率が高くなる。

 津波から逃げるときは、勇気をふるって声を出しながら逃げるようにしたいものである。」(P63「山に入れの声で高台へ避難」)

 下知地域でも、防災教育を受けている小学生たちに是非とも「率先避難」を呼びかけたい。
「津波が来るぞ!ビルへ駆け上がれ!」と大声で叫びながら、最寄りの津波避難ビルや地区防災会指定の地区避難ビルへ逃げ込んでもらいたい。

 子供たちは体が小さいので、大人を背負って助けるなんてことはできません。でも元気がよく大声で「津波が来るぞ!早くビルへ逃げろ!」と走って駆け上がることで、率先避難の実行と呼びかけで、多くの地域の人を救うことが出来ます。

 また筆者の母親が徳島県牟岐町の出身で、昭和南海地震で津波からの避難を実体験されていました。当時満州からの引き揚げ者で知人を頼り牟岐町に滞在していた後に俳優になった森繁久彌は、隣町の海陽町で津波に遭遇し避難した体験をされていたそうです。

「津波は押し寄せてくる波よりも、引き波の方が遥かに恐ろしい。」と森繁久彌は証言されています。

「津浪というのは、最初2メートルほどの波が襲ってきて、あっという間に入口から窓から侵入する。そして畳や箪笥を浮かし,みるみるうちに鴨居近くまで上がってくる!

 かと思うや、それより早い勢いですーっと引いて行くのである。この力が、来るときの何倍かで、四方の壁をついでに引っさらっていく。」(P176「ある満州帰りの男の被災」)

 つくづく防災の歴史を先人に学ばないといけないと思いますね。

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