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2016.03.14

「槇村浩が笑っている」を読みました


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 フェイスブックで交流のある藤原義一さんから先日「槇村浩が笑っている」(藤原義一・著・2016年1月刊)を贈呈されました。いろいろ雑用があり読むことができませんでした。
 このたびようやく読み終えました。槇村浩(1912年―1938年)は、天才詩人だったようですが、当時の治安維持法違反で逮捕され、拷問と収容生活で体調を崩され26歳の若さで亡くなられています。

 高知市城西公園に槇村浩の代表作の詩の「間島パルチザンの歌」の一節が刻まれています。1989年に市民有志の手で、桜馬場に建立されました。以下の言葉が刻まれています。
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「思い出は、おれを故郷へ運ぶ
白頭の嶺を越え、落葉樹の林をこえ
蘆の根の黒く凍る沼のかなた
赤ちゃけた地肌に黒ずんだ小舎の続くところ
高麗雉子が谷に啼く咸鏡の村よ
雪解けの小径を踏んで
チゲを背負い、枯れ葉を集めに
姉と登った裏山の楢林よ
山番に追はれて石ころ道を駆け下りるふたりの肩に
背負(しょい)縄はいかにきびしく食い入ったか
ひゞわれたふたりの足に
吹く風はいかに血ごりを凍らせたか」

と刻まれています。

 横には革命詩人槇村浩と刻まれたプレートもありました。
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 藤原義一さんは、丹念に槇村浩(本名・吉田豊道)の経歴や周辺も取材されておられます。少年時代は神童と言われ、当時の名門土佐中学へ入学。しかしそこでは古今の文学作品や社会評論等を次々と読破。しかし平均的な成績は低下、やがて海南中学へ転校。しかし陸士や海士の予備校的な要素の校風に会わず退学し、岡山の関西中学へ転向し卒業したとか。

 槇村浩の母親は看護師であり、父親は槇村浩が6歳の時に逝去、職業婦人として家計を支えていました。1912年(大正元年)から槇村浩が生きていた1938年(昭和13年)の日本の時代は、日本国が国際社会から孤立し、中国大陸への侵略戦争を拡大させ、反対する国民を強権的に抑圧し、帝国主義戦争に突っ走っていた時代でした。

 幼少時代は神童と言われ、自宅が県立図書館にほど近かったので、古今東西の文学書や社会思想は中学生時代に殆ど読破していたようでした。文学的素養を未成年の時代に身に着けていました。

 社会思想に目覚め、マルクスの資本論なども読み込んでいたそうでしたから、当然中学での軍事教練や偏狭な国家観ににもとづく教育には反感、若くして当時非合法であった共産主義青年団の活動にのめりこんでいったのは、早熟な少年らしい。

 わたしも中学時代から政治思想に関心があり、マルクスやレーニンや毛沢東の著作は読み漁っていて、謄写版で新聞をこしらえ校内外で配布したりしていました。槇村浩と同じ早熟な政治少年でした。私と槇村浩と決定的に異なるのは、私には「文学的才能が全くない」ということでした。

 当時の時代風景や雰囲気を表している事例として。藤原儀一氏は、詩人北原白秋が子供向けに書いた詩をあげられています。

「戦ごっこ

 鉄の兜に、機関銃

 機関銃、

 進め、名誉の聯隊器。

  ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 走れ、野砲に装甲車、

 赤い夕日だ、満州だ。

  ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。

 駆けよ、蹴飛ばせ、雪、氷、

 雪、氷、

 零下二十度、こりゃすごい。

  ツラ、トラ、タッタ、チテタッタ。 」

   (以下 略)

 北原白秋 作  

 「子供たちを戦争に誘い込むといえる詩といえるのではないでしょうか。」(P63)

 北原白秋という日本を代表する詩人が、こうした戦争翼賛詩や、戦意高揚のための詩を書いていたとは藤原義一さんの著作で初めて知りました。

 一方、同じ時代に槇村浩は「生きる銃架  満州駐屯軍兵卒に」という詩を書いています。

「 高粱(こうりゃん)の畠を分けて銃架の影はけふも続いて行く

  銃架よ、お前はおれの心臓に異様な戦慄を与えるー

  血のような夕日を浴びてお前が黙々と進むとき

  お前の影は人間の形を失ひ、お前の姿は背嚢(はいのう)に隠れ

  お前は思想を持たぬただ一個の生ける銃架だ

  きのふもけふもおれは進んで行く銃架を見た

  列の先頭に立つ日章旗、揚々として肥馬に跨る将軍たち

  色蒼ざめ疲れ果てた兵士の群-

  おお この集団が姿を現すところ、中国と日本の圧制者が、手を握り、

  犠牲の鮮血は22省の土を染めた
  
  そして終りに近く

突如鉛色の地平に鈍い音響が炸裂する

  砂は崩れ、影は歪み、銃架は血を噴いて地上に倒れる

  今ひとりの「忠良な臣民」が、ここに愚劣な生涯を終へた

  だがおれは期待する、他の多くのお前の仲間は、やがて銃を後に狙ひ、

  剣を後に構へ

  自らの解放に正しい途を選び、生きる銃架たる事を止めるであろう」(P64)

 確かに北原白秋の詩は。「戦争賛美」としか言いようのない表現となっています。
 それに比べ、槇村浩の詩は「お前は思想を持たぬただ一個の生ける銃架だ」と
 帝国陸軍兵士を意志なきゾンビのような存在であると強烈に批判しています。

 そして

 「 突如鉛色の地平に鈍い音響が炸裂する

  砂は崩れ、影は歪み、銃架は血を噴いて地上に倒れる

  今ひとりの「忠良な臣民」が、ここに愚劣な生涯を終へた」と戦死を美化せず、淡々と
 描くことで、帝国主義戦争に動員される市民大衆の運命を暗示しています。そして力強い反戦の意志を表現しています。

「だがおれは期待する、他の多くのお前の仲間は、やがて銃を後に狙ひ、

 剣を後に構へ

 自らの解放に正しい途を選び、生きる銃架たる事を止めるであろう」

 俗にレーニンが言う「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」と言う兵士による体制打倒の動きは、日本ではロシアやドイツの様にはなりませんでした。

 槇村浩は、関西中学卒業後は高知へ戻り、高知の中の20人程度の共産主義青年同盟活動と、プロレタリア文学雑誌に詩を投稿したりしていました。朝倉44連隊への命がけの反戦ビラ配りをしていました。

 しかし1936年の「2・26事件」以降の日本は急速に戦時体制に向かい、ナチス・ドイツとの同盟も締結したりしてより全体主義体制の強化に向かいました。20人程度の組織員も一斉検挙され、市民大衆に運動が広まることもなく壊滅してしましました。

 また一方で当時の青年たちが「理想」としていたロシアの共産主義体制も、スターリンの独裁主義が権力を把握し、陰惨な強制収容所国家に変容していく事態でしたが、槇村浩は知る由もない。

 当時の商業新聞の小さな記事から、満州に思いをはせ、日本帝国主義に抵抗している朝鮮と中国国境の間島地区の抵抗運動の詩を書くなど、国際的な詩を書いた人でした。

 あらためて78年前に高知市に、天才的な詩人がいたものであると感心しました。著作を贈呈いただきました藤原義一さんに感謝です。
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