3月1日は何年経過しても悔しい思い出があります。
3月1日は高知では県立高校の卒業式。平日ですがするのでしょうか?。
私は44年前の1972年は、1単位足らずに卒業できませんでした。担任の教師(高教組の活動家)は、執拗に自主退学を薦め「男だったら自主退学し、大検を取得し、進学しなさい。」と自宅へ来て言いました。
さすがに母もブチ切れて「息子を留年させて卒業させ、大学へも行かせます。」と言いました。担任教師は「お母さんそれは絶対無理です。わたしが保証します。」とのたまいました。
春休みの間高校から全く連絡がなく、4月になった新学期の登校日に高校へ行き、職員室の戸をあけました。教師たちが一斉にこちらを見ます。
「西村何しに来た!!」
「留年しに来たがよ。なんちゃあ連絡がなかったきに。」
教師たちは「想定外」の出来事で狼狽していましたね。
「おまんを受け入れるクラスを決めないきに、きまるまで校長室で待ちよれや。」と教頭にいわれ、応接セットのある校長室に隔離されました。けったくその悪い事。待つこと30分。「お前のクラスが決まったぞ」とのことで、ようやく留年生活が始まりました。
教師たちが「来るはずがない」と言う理由もわからない訳ではない。当時活動していた高校生組織は崩壊、一緒に活動していた仲間は、別の高校野2人が退学処分。2人は自主退学しました。大検で進学したものと、市役所へ臨時で入りましたから。担任教師の言い分も一理はあります。
大学と異なり当時の高校は、たった1単位足りなくても進級させてくれないし、落とした科目だけ再履修したらそれでOKではなく、原級留置といってすべての教科を再履修し、出席日数もクリアしないと卒業できないのです。
冷徹にわたしの行動を観察していた担任教師は「留年しても卒業は無理だ」というのはおおむね正しい意見でしょう。仲間は皆退学しましたから。しかし留年すると言ったのに、何も連絡をしなかった高校は最低ですよ。今思い出しても腹が立ちます。
女子の制服も変わっており、体操服も教科書も変わっていました。1学年下の連中と一緒に授業を受け、体育もしました。教科書は買わないと授業が受けられないので、教科書販売会社に1人で買いに行きました。学校側のサポートは全くありませんでした。体操服は「連絡をしない当局が悪い」ということで、新しい体操服を買いませんでした。1人だけ違う体操服でしました。
なんとか卒業できたのも、両親の支えがあったからです。それと先日43年ぶりの同窓会を行った当時のガールフレンドの皆さんが、サポートしていただいたからです。お2人とも当時は彼氏がいました。でも親切にノートを見せてくれたり、ここが試験に出るぞねと教えてくれました。
遠足の時も余分に弁当を作って来てくれました。そんなサポートもあり、翌年は1単位差で卒業でき、進学も出来ました。2人とも私の嫌いな教職員の仕事をされていました。その間に会うことはありませんでした。2人とも退職したので、今年の1月「同窓会」を開催した次第です。
「あんただれのおかげで高校を卒業できたと思うちゅうぞね。」と執拗に今でも2人に言われております。高校生当時からおばさん化していましたが、今や正真正銘の無敵のおばさんなってますからね。
最近その高校の校名が変わるとか、合併するとか言われております。留年してしまったわたしは執着は全くありません。当時の教師たちに再会すればおそらく44年前に戻り暴言や暴行を加えるかもしれませんので、コメントや行動はさしひかえさせていただきます。
文章は4年前のブログ記事です。写真は今年1月9日の「43年ぶりの同窓会」です。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/…/post-a09d.html
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