100歳の叔母のお通夜に行きました。
2016年10月3日は、叔母である田植益猪(享年100歳)のお通夜にいの町波川にある葬儀所へ両親と一緒に行きました。父(97歳は)介護予防通所リハビリへ行っておりました。母(90歳)は1日ディ・サービスの日。2人とも午後4時過ぎに戻り、おやつを食べて一服。ほどなく喪服に着替えることに。
それがなかなか難航。母の方が家内がサポートして着替えました。父は私がしましたが、ズボンがややきつめ。最近はスーツなども着用しないので、黒のネクタイを結ぶことも忘れています。なんとかかんとか着替えさせました。
午後6時からが通夜式なので、5時過ぎに事務所を出ましたが生憎の渋滞。遠回りですが高速道路経由でいのインターから西バイパスを走行し、なんとか時間前に着きました。
田植家は喪主の田植光男さんの兄2人が2年前に相次いで亡くなり親戚が少ない。叔母の兄弟姉妹は父を含め3人生存していますが、2人は入院中で出て来れないとか。90歳代の参列はうちの両親だけでした。
これから僧侶の読経が始まる直前に、父が会場に響き渡る大声で「トイレへ行きたい!!」と叫びました。父をともないトイレへ。それが意外に遠い。なんとかもらさずに間に合いました。
僧侶の読経が20分ほど続きました。浄土真宗西本願寺のお経だそうですが、何を言われているのかは不明。やがて焼香の時間です。父も足元がふら付くので一緒に昇降しました。母は何故か「焼香をしたくない」とごねるので強引にひっぱり焼香させました。
「母は大正5年生まれです。今年の9月2日に100歳になりました。15日付で内閣総理大臣安倍晋三名の表彰状と銀杯を23日に頂き喜んでいました。30日にも午後4時まで一緒に病室で話していました。また明日ということで別れ、それから眠りにつき、午後8時に永眠しました。苦しむ様子もなく眠るような最後でした。
若い頃は苦労し、父の仕事で大阪へ行ったりしていました。戻って来てからも農業仕事以外に紙漉きへ行ったりしていました。ゲートボールに打ち込んだりもしていました。みなさんにお世話になり100歳まで生きることが出来ました。母の人生はいろいろあったんでしょうが幸せであったと思います。」
父の兄弟姉妹は8人で、叔母は2番目で父は3番目です。
叔母の嫁ぎ先は、戦前ブラジルへ渡り、うまくいかなくて引き揚げ借金だらけでした。叔父と叔母は懸命に働きすべて返済し、田畑もすべてとりかえしたそうです。
叔母には3人の男の子がいましたが、1人は兵庫県の教員、1人は県庁職員、1人は東京で福祉事業所に勤務していました。元気な人でご近所のゲートボールチームで活躍していました。叔父が亡くなった頃から弱っていました。
でも末っ子夫婦である従兄弟の田植光男・慧子さんたちが戻ってきて、各段に元気になりました。光男さんご夫婦は東京時代のマンションを売却し、実家の田植えの古家を大改造してバリヤフリー住宅にして叔母の介護をしておられました。
慧子さんが在宅介護の無理もあり、叔母は2年前から通所していた施設へ入所していました。超高齢者ですが認知もなく元気な人でした。ただ最近は口から食べれなくなり弱っていたと聞いていました。
叔母は柔らかな表情で写真に写っています。100歳の表彰状と銀杯も撮影しました。
光男さんの奥さんの慧子さんとうちの両親の3ショット写真を撮りました。
明日も葬儀に連れてこようかなと思います。やはり元気とは言え超高齢者2人のケアはしんどいものです。今日はわたしの誕生日でしたが、100歳の叔母がお祝いしていただきました。苦労していても苦労していることを表情に表さないタフなおばでした。
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