父の年内最後の通院と整理作業
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結局情報の整理はつかず(夏ごろからたりたいと思っていました)が、流されてついに年内整理が出来ず年越しになりました。
2016年、地域防災関係の出来事を順不同で振り返ります。
1)内閣府主催「地区防災計画フォーラム」に参加させていただきました。
3月11日から」13日まで仙台市にて12日に地区防災計画フォラムがありました。前日に行きました。仙台空港から名取市へ行き5年目の慰霊祭へ出席しました。昨年お世話になりました格井直光さんと再会することができました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-31a0.html
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-2d92.html
2)高知市役所が「下知地区防災計画」を2年間支援していただくことになりました。
内閣府の「地区防災計画モデル事業」は1年限りです。高知市下知地区の地区防災計画は、「事前復興計画」でなければなりません。それゆえ地域の中での「意見交換会」の広がりとより多くの住民の参加と意見の集約化が必要です。
今年度と来年度の2年間、高知市が「地区防災計画モデル事業」として支援いただくことになりました。おおきな出来事です。
2016年9月22日に下知コミュニティ・センターにてJICA研修生(防災担当官)の皆さん方が来訪され、昨年に続き、座学やまち歩き、意見交換をしました。大変好評で、2017年3月2日にも下知地区でのコミュニティ防災の研修を行うことになりました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/jica/index.html
今年もだんだんくらぶさんのお世話で田植え体験(5月29日)、稲刈り体験(10月)、脱穀体験をしました。11月3日には「昭和秋の感謝祭」に食材販売に来ていただきました。
12月8日には、NHK高知放送局の取材に協力いただき、長者地区の空き家や公民館施設を見せていただきました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/cat43975382/index.html
5)下知地域の防災の取り組みについて取材対応をしました。
新聞社やテレビ局、ラジオ局での取材対応をさせていただきました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7d93.html
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-56bc.html
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-3e2d.html
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-98db.html
6)高知港海岸直轄工事整備着手式がありました。(5月28日)
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-e49e.html
1月31日は今治市防災士会が主催する「第5回自主防災研究大会」へ参加しました。高知市下知地区からは、横田政道(若松町)大崎修二(弥生町)、高木妙(高埇)、原池薫(丸池)、坂本茂雄(知寄町)、西村健一(二葉町)が参加しました。鷹匠町の宮本哲夫さんも参加していただきました
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-1012.html
応急手当と市民搬送トリアージを研修しました。
8)下知地区総合防災訓練が実施されました。
2016年12月18日下知総合防災訓練が早朝から夕方まで実施されました。
若松町防災会の早朝避難訓練。情報伝達訓練。昭和小での児童・教員・保護者・地域住民の合同避難訓練。午後からは下知コミュニティ・センターでの要配慮者支援訓練をしました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-77cd.html
9)五台山市民農園活動が始まりました
若松町防災会長の横田政道さんが知人に五台山東部の土地を市民農園として借用し、4月から雑草除去、土の運搬、野菜の植え付けを行いました。公益信託「まちづくりファンド」の助成も受けました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/cat66670257/index.html
10)徳島県美波町を土佐市宇佐地区防災会と一緒に訪問しました
2016年7月16日は、土佐市宇佐自主防災会連合会の皆さん方の「美波町・事前復興計画研修会」に便乗させていただき、高知市下知地域からは、横田政道、大崎修二。西村健一が参加させていただきました。
バスで一般道で片道4時間半(休憩時間含む)かかります。土佐市宇佐防災会が14人、高知市下知地区から3人、須崎市と高知市春野地区から1人の合計19人で美波町・由岐地区へ行きました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-28a7.html
11)二葉町消火・防火・炊き出し訓練をしました。
2016年6月12日(日曜日)は、9時より高知市青柳公園にて、消火器消火訓練、放水訓練、防災炊き出し訓練を実施しました。主催は二葉町自主防災会(森宏・会長)です。二葉町や近隣町内会などから50人が参加しました。
結構活動していますね。情報処理が追いつかない筈です。
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多くの企業や官公庁は28日に年内の仕事治めですね。29日にお終いのところもあります。うちは今日(30日)に掃除をしてお終いです。でも父の通院している植田医院は31日も診察していただきます。年内最後の診察と点滴と注射に明日行く予定です。
事務所の掃除が終わりました
ようやく弊社の「仕事治め」。椅子や備品を外へ放り出し、掃除機をかけ、床を乾拭きし、ワックスを掛け乾燥させて乾拭きします。
なんだかんだと昼前までかかりました。昼食後は母(91歳)と一緒に美容室へ行きます。それが終わりますと、「資料」(ごみとしか見えない)を項目別にファイル・BOXに仕分けする作業です。日のあるうちに終了したい。
アメリカ人はつくづく偉い。膨大な情報を仕分けし、整理するシステムをこしらえている。私は苦手。それでは米国人を凌駕することは到底できません。事務所に倉庫にとある膨大な仕事関係と地域関係と、思索関係の資料の山には辟易しますね。
母は美容室へ行きました。
仕事がようやく終わりました。午後から母(91歳)を連れて近所の美容室へ手を繋いで行きました。シャンプーとカットです。
母は高齢者ですが髪が多いので、時折カットしないといけないのです。シャンプーしてカットすると爽やかな気分になっていたようでした。今日は朝は冬型で寒かったですが、午後から緩んできたので暖かくなりました。
昨年は「渦に巻き込まれ」、「自爆」(救急搬送・亀裂骨折・ボヤ1歩手前)という事態がありました。今年はそこまでは追い込まれませんでしたが、頭の整理ができませんでした。
2年間継続した「下知地区防災計画」の意見交換会。この2年はお互い「言いたい放題」でしたが、大きく広げた風呂敷をたたむ作業も来年度はしないといけないでしょう。そうなると「頭の整理」をしないと対応できないと思います。
明日は父の通院と自宅の掃除。多分元旦はだらだらとTV見て自堕落な1日。2日と3日はどうするのか未定。初詣は夜須と決めています。4日は父の通院があります。5日から仕事。情報整理なんぞ出来そうもないですね。
1月と2月の予定がどんどん埋まって来ています。3月まであっという間に過ぎますから。
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(一般的なトイレです。)
30年前に自宅を新築した折には、両親を在宅で介護するという想定は全くしていませんでした。むしろ当時の主役は生まれたばかりの娘でした。育児対策ばかり念頭においていました。
作家・曽野綾子氏(85歳)が週刊現在に連載しているコラム「自宅で、夫を介護する」が面白い。曽野氏は「自己責任論」の権化のような人でしたが、御主人の三浦朱門氏〈90歳)が認知症になり在宅介護するようになって、言うことが変化しているらしい。
かつて曽野綾子氏はは「寝たきりの老人が生きることには「なぜ、そんなに生かすのだ」「眠り続けているだけの老人を生かす費用は一体誰が出したのだ」と否定的意見が出るこの社会では、高齢者のジェノサイドが当然のように起こる。〈老人を抹殺することには、一種の社会的必然ができている。或いはそれは暗黙の社会的正義だと感じる層さえ出るようになった〉のだ。」と言われていました。
人間立場が変われば、発言も変わると言う例ではあります。曽野綾子氏の「豹変」を揶揄するつもりはありません。ファシスト言論人もまた人間なんでしょう。
いつぞやのコラムの中で「うちはそんなときが来るかもしれないと思い、トイレを全部床なども水洗いできるように家を建築するときにしました。」と書いていることに感心しました。
以下引用します。
「トイレを汚すような事態になった場合に便器はおろかほとんど壁まで洗えるように、床に排水装置をつけることなどすべてを、その頃から用意してしまったのである。」(週刊現代)
そう言えば私なんぞが宿泊する安ホテルは、ユニットバスで、トイレと浴槽が同じ部屋になっています。FRP製ですね。曽野綾子氏の自宅はそうなっ¥ているのか)恐らくそうではないとは思いますが)、トイレを水洗いを出来るようにされているのでしょう。
超高齢者の両親は、最近は尿失禁や便失禁がありきたりになりました。特に認知症の母は、尿意や便意すらわからんことが多く、オムツにそのまま出してしまいます。トイレには行くことありますが、衣服とオムツを降ろす場合に、床に便が落ちる場合もあります。
父の場合は便意を感じても「間に合わない」(最近特に足腰が弱くなり、トイレに間に合わない失禁が増えて来ました。)トイレは両親の寝室がある3階と、茶の間のある2階にあります。酷い時は毎日トイレ掃除をしないといけないのです。
「トイレ全体を水洗い出来たら」随分と清潔になるでしょう。次に家を建てることがあるならば、是非そうしましょう。
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2016年12月25日に高知さんさんTVにて、12月18日に実施されました下知地区総合防災訓練の様子が、短時間でしたが放映されました。
自宅から超高齢者の両親(父97歳・母91歳)を徒歩にて避難しました。ヘルメットを被り、ライフジャケットを羽織り。避難場所である下知コミュニティ・センターを目指しました。母には家内が付添い、父には私が付き添いました。約10分で到着しました。
1階ロビーで休息しました。そして4階の受付まで階段で上がりました。一旦受付をしました。両親は「SOSカード」に父は「慢性腎不全です」「減タンパク食でないと駄目です」と表記しています。母は「認知症です」と表記しています。裏には個人情報と医療情報を書いています。両親のケアマネージャーさんも来てくれました。
「SOSカードを」提示すれば、受付の人が避難所登録書に書いていただいたので、楽でした。
そして付き添って屋上の5階まで階段で上がりました。さんさんTVの画面でも両親が階段を上っている姿が出ていました。
屋上でKさん達と記念撮影をしました。道路状況は平滑であれば、なんとか自宅から下知コミュニティ・センターまではたどり着けることがわかりました。大きな成果でした。
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2016年12月20日に岩手県宮古市から遠路来られました菅野和夫さん(宮古市在住・山田伝津館・消防庁委嘱災害伝承語り部))。菅野さんより岩手県の沿岸部を襲った東日本大震災時の大津波の映像を記録したDVDをいただきました。
「3・11東日本大震災 風化させないために TUNAMI 山田伝津館」と表に表記されています。東日本大震災にて岩手県沿岸部(野田村・宮古市・山田町・大槌町・釜石市・大船渡市)を巨大津波が襲い,港や市街地を破壊し尽くしました。その様子を克明に記録した映像です。
菅野さんご自身が撮影された映像もあれば、市役所などの自治体や、個人的に撮影された映像もあります。you tubeへ掲載された映像も菅野さんが連絡を取り、投稿者の承認を得て作成された映像もあります。
ある映像では津波の第1波に気が付かず、沿岸の護岸堤防近くを車が走っています。第2波の巨大津波が来ています。多分「早く逃げろ!!」と撮影した場所から(高い建物)から叫んでいるのでしょうが、あっという間に津波は護岸堤防を超え、港の船や、車、堤防外の家屋を押流し、破壊しながら市街地へ進入してきます。
別の映像では高台の坂道を懸命に逃げる人の姿や、大きな家屋が道路をどんどん流されていきます。何度見ても津波の破壊力は凄いもんです。通過した後は跡形もなくなっています。
山田伝津(でんしん)館の菅野和夫様ありがとうございました。あらためて津波の恐ろしさを再認識しました。とにかく高い所へ素早く逃げないとどうしようもないことを思い知らされました。
一般市民が逃げながら懸命に撮影された映像ですので、怖さが直接に伝わります。事前にできる対策はすべてしておかないと、沿岸部の人達は逃げられません。良く理解できました。
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2018年12月18日は午後から高知市下知(しもじ)コミュニティ・センターで避難所開設・運営訓練(今回のテーマは要配慮者支援訓練)をしました。下知コミュニティ・センターが参加者や周辺住民に「避難所である」ことを表示するために。国際信号旗を掲揚することにしました。
国際信号旗を訓練に使用することを提唱されている横田政道さんが、海上保安庁と施設管理者である高知市地域コミュニティ推進課へ行かれ、許可をいただいていました。
掲揚する国際信号旗は、避難所であることをしますV旗を単独で掲揚します。訓練中を表すU旗上に掲揚し、Y旗を下に2枚掲揚します。この意味は「訓練中である。」という意味です。
仮設で国際信号旗を掲揚しました。施設管理者側の現在の意向は「屋上の避雷針より高くしないように。」というものでした。避難旗(U旗)と訓練旗(U旗・Y旗)を掲揚しましたが、ポールの高さを「避雷針の下にしました。
そうしますと残念ながら、西方面から国際信号旗を確認できません。
今後は大雨・台風時の避難所開設の折にも掲揚する予定です。見えなければ情報伝達出来ませんので、意味がありません。
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2017年1月29日(日曜日)に、今治市防災士会連合会主催の「第6回自主防災研究大会」が、午前9時半から、今治市総合福祉センターで開催されます。
第1分科会:学校・地域防災研修訓練…災害時トイレスキル、備蓄知識
第2分科会:要援護者登録と日常福祉支援、災害時の情報収集と支援活動
第3分科会:災害時医療活動の現状と優先搬送トリアージ実地訓練
第4分科会:一般避難所の開設・運営(ワークショップ)天野和彦先生
第5分科会:企業事業継続計画の策定と地域防災協力(会社経営・従業員のBCP作成の研修、介護事業所)
午後からは全体講演会があります。
午後1時 :全体会【主催者挨拶・来賓激励挨拶】
防災講演『南海トラフ大地震、避難所準備・被災地支援どうする(仮題)』
講師: 福島大学 うつくしまふくしま未来支援センター:特任准教授 天野和彦先生
昨年も下知地区の有志他で7人で参加させていただきました。大変レベルが高く実践的な研修内容でした。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/cat61876293/index.html
日程調整して今回もなんとか参加したいものです。
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2016年12月25日は、朝から夜須へ行くことに。移動性高気圧に覆われ、「温厚な」お天気の筈。たぶん暮れの果てで、YASU海の駅クラブも今日で今年は終わりだそうですので、ハーバーに来てセーリングする人はおらんでしょうね。
残ったクリスマスケーキを朝食時に食べました。海はカロリーを消費しますから。いくら食べてもいいんです。とくに冬は寒いし、風が出ると体力勝負となりますから。チョコレートパンも持参しています。
たとえ1人でも安全に海へ出て、安全に戻ってこないといけない。いろいろと暮れも公私ともにせわしく、ドライスーツを手入れする暇もありませんでしたから。それでウエットスーツに合羽を持参しました。
しかしぎ装(ヨットの組み立て)をしていますと、暖かく暑くなり上着を脱ぎました。風も南風。ウェットスーツにしました。ほどなく押岡大樹さんも来られました。「風ないですね。」と様子見されるようでした。
年寄りは風が弱い方が安全ですので、おかまいなく海へ出ることにしました。慎重にぎ装し海へ出ました。本当に風はありません。が、波もないので、逆ヒールしていますと風を受けヨットは帆走しました。
気持ちの良い晴天。顔が熱いぐらいです。沖合で海水に触れましたが、暖かいです。手袋入りませんでした。なんせ12月でも氷が張ってませんから。暖冬なんでしょう。
一旦お昼前に上がって、YASU海の駅クラブのデッキでランチしました。おむすびと卵焼きは朝、訪で調達してきました。海の駅クラブは千波さんが1人だけ。横山さんはスリランカに滞在中。井土さんは入院されているようですので。
午後になる風が上がりました。押岡さんが艇を整備され出艇していきました。赤岡方面を目指しましたが、風向きが悪く、何度もタックしないとたどり着けそうもありません。
家内に午後4時に父(97歳)が入浴させるので戻ってこいとの指令がお昼にありました。それ故遠出の海の散帆は諦めました。でも午前・午後合わせて3時間余り海の上にいましたから大満足です。
押岡さんも今日が今年最後のセーリングだそうです。2016年の海の散帆治めも最高のお天気で何よりでした。
おっさん2人でクリスマス・バージョン
海の散帆を終えて、ヨットをぎ装解除し、備品を水洗し、セールをたたみ、備品は天日干し。その間に自分の体を洗いました。着替えて、艇を片付けました。
海の駅やすへ寄りました。いつもの山本宏幸さんとの「おっさん2ショット」です。クリスマス・バージョンでした。私はジャンパーも赤いので赤ずくめでした。やはり「いかれた・おっさんたち」ですね。
ヤッシーは夏に始めた道の駅やすの2階でのマナマナ(アイスとパスタの店舗)も好調なようですね。今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いします。
来年の初詣と初乗りセーリングは4日までに来れたら来ます。
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朝6時に横田政道さんの自宅に集合しました。真っ暗です。防寒着を着込みヘッドライトを頭に付着し行きました。今日は大崎さん。黒岩さん、吉本さんも参加され5人です。
自転車で15分ぐらいの道のり。途中五台山農協婦人部の良心市があります。今日はキャベツ130円、レタス120円、沢庵の漬物100円、ホウレンソウ150円を買いました。皆露地野菜なので美味しいです。
それからまだ暗いですが85段の階段を登坂し、市民農園へ行きました。それぞれが植えた、野菜の確認をしました。ネギもタイモも育ってはいます。玉ねぎも、エンドウも、キャベツも育ってはいました。
夜が明けますと下段の農園(果樹園)の柵作りや、雑草採りをしました。今年の農園作業は28日で終了。(私は参加出来ません)。来年は1月7日から始動するようです。
帰りにも五台山農協良心市へ立ち寄りました。たくあんも買いました。
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母(91歳)は朝から1日ディサービスへ行きました。
父(97歳)は、真田丸の再放送(最終回)を見てから散歩へ行くことにしました。が、トイレに失敗して尿失禁。靴下もズボン下も、トレパンも漏らしたのですべて着替えに。新しいおむつとズボン下、トレーナーも新しく履き替えました。
それで自宅を出ました。いつもは母がはりまや橋商店街サロンへ行くときに使用する歩行補助車を椅子代わりに私が後ろ歩きをして持って行きました。
疲れると歩行補助車の椅子で休憩。水分補給(OS-1)をします。ひところから言いますと歩く速度が速くなり、往路は2回の休息、復路は1回の休息ですみました。
少しですが、歩行のための体力は回復しつつあります。歩行が1番の基礎ですから。しっかり歩けるようになればより元気になることでしょう。
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いやはや驚きました。12月18日(日曜)の高知ローカル番組枠での3分程度の放映かと思いきや、1昨日千葉県の高校時代の同級生の片岡君から突然の電話がありました。
「南海地震は高知は大変だな。知らなかった。」
「俺は白髪のひなびた老人になっちゅうと思うたろう。」
「いやはやなつかしい。高校時代の面影があるから。」
「流ちょうな標準語で話すので誰かと思うたぜよ。」
「親も亡くなったし、実家もなくなったんで高知へは行くことないし。40年以上も高知とはご無沙汰してるしな。」とか。
そういえば1昨日は村上肇さんに、早朝にニュースで見られたとFBでシェアいただきました。徳島県美波町の井若和久さんも診られたとの連絡がありました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7d93.html
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今日は活き活き100歳体操(介護予防体操)はありませんが、金曜日午後ははりまや
橋商店街へいつも行くことになっていますので、昼食後に母(91歳)と一緒に行きました。
商店街近くのコイン・パーキングは満車。少し離れたパーキングに駐車し、歩行補助車
で歩きました。いつものようにコロッケ屋さんで、夕飯のコロッケを買いました。
谷ひろ子さんのお店で焼き菓子を買いました。寒いので暖かいぜんざいを母一緒に食べ
ました。パン屋さんもお休み(たぶんクリスマス対応)していました。
商店街を1周し雑魚天を購入し帰ることにしました。午後は風が強いですね。
父(97歳)のリハビリ・ゴルフを午前中の早い時間帯に連れて行って大正解でした
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今日は明仁天皇陛下の誕生日です。ひたすら戦没者への祈祷を行い、平和な日本を願い続けて来られました。高齢をおしての昨年のパラオの訪問は胸を打たれました。
日本国憲法で象徴天皇が第1条で制定されています。そして戦争放棄を高らかに提唱した第9条と見事にリンクされています。明仁天皇陛下は護憲・平和を貫いて戦没者の慰霊の旅を国内外で続けられました。
この明仁天皇の誕生日である1948年(昭和23年)12月23日に、東条英機以下7人のA級戦犯が戦争犯罪人として東京裁判で裁かれ処刑されました。GHQはわざわざ明仁天皇の誕生日に処刑したのです。これにはどういう意味があるのか私にはわかりません。
その翌日の12月24日にA級戦犯であった岸信介は何故か無罪放免・釈放されています。安倍晋三現首相の祖父です。アメリカ従属外交を後に首相になって強く推し進めた人物です。
「普通の日本人であった経験がないので、何になりたいと考えたことは1度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません。」と言う言葉は衝撃的でした。確かにそうですが、「当事者」の発言だけに重たいです。
11歳の時に日本の敗戦があり、疎開先の日光から東京へ戻って来られた時一面の焼け野原に衝撃があったと思います。15歳の時に職業選択の自由がないことを良く理解されていたのです。
「25歳で美智子妃と結婚する直前には、
「ぼくは天皇職業制を何とか実現したい。(略)毎日朝10時から夕方の6時までは天皇としての事務を執る。(略)そのあとは家庭人としての幸福をつかむんだ」
「僕は皇居内に住みたくない。皇居はなるべく早く開放して、大衆向きの公園に使ってほしい。(略)天皇になっても、ぼくは街の中に住む」(P9)
その願望は実現しませんでしたが、美智子妃殿下と一緒に、3人の子供たちを自分で育てることは貫徹しました。強い意志を感じます。
昭和天皇の誕生日の4月29日(1946年)に東京裁判でA級戦犯が起訴され、明仁天皇の誕生日(15歳)の12月23日(1948年)に処刑されたのは偶然ではありません。
「この裁判と処刑が何を意味するのか、天皇とその後継者は、絶対に忘れてはならない。」との占領軍のメッセージがこめられています。
「日本とは何か、敗戦とは何か、占領軍とは、憲法とは、戦争責任とは、新しい時代の天皇制とは・・・・。
この15歳の誕生日に受けた衝撃が、明仁天皇の長い長い、まもなく70年におよぼうとする「思索の旅」の根底に、つねにあったのだと思います。
そしてその思索にはもちろん、父である昭和天皇の戦争責任についての検証と、そうした問題を自分はいかにして克服し、過ちを繰り返さないようにするべきかと言う、大きな心の葛藤も含まれていたことでしょう。
その心の旅が長い手探りの時代を終え、ひとつの形を取り始めるきっかけとなったのは、東京からはるか遠く離れた島、沖縄との衝撃的な出会いだったのです。皇太子時代のひめゆりの塔の慰霊の時に、火炎瓶を潜んでいた男に投げつけられたことがありました。明仁天皇(当時は皇太子)はひるまず対処され、その後も沖縄慰霊の旅をされておられます。
サイパンの慰霊にも出掛けられています。硫黄島にも行かれました。
そして2015年は、80歳を超えてパラオ諸島へも巡礼の旅に行かれました。
中国に対する想いと謝罪もされています。
韓国に対する想いと謝罪もされています。
象徴天皇制という制約だらけの立場の中で、巡礼の旅を続けられています。国内では大災害の被災者に常に寄り添い、福島第1原子力発電所からの避難生活を続かられている人々への想いを常にされておられます。
終戦から70年の年(2015年)に、明仁天皇は平和への決意を一層、巡礼と言う形で表現されておられるように感じました。
安保法制と言う粗雑な「戦争法案」を安倍内閣は「数の力」で国会で採択しました。2013年の参議院選挙でも、2014年の衆議院選挙でもこのような「戦争法案」の話は安倍首相は国民に対して一切していません。国民の進路を決める重大事項こそ、正面から議論し、慎重に粘り強く国民各位の合意形成する努力が必要です。安倍内閣には胆力がありません。
国政選挙の時はひたすらご当地ネタか、アベノミクスという経済政策を誇らしげに語っていただけでした。選挙で戦争法案は信任されたわけではありません。そこを現在の自民党の幹部は理解していません。
明仁天皇が生涯をかけて先の大戦の戦没者の慰霊をされている。その強い意志に驚きました。いったい今の安倍内閣は何をしているのだろうと思う。明仁天皇の平和への想いを平気で踏みじる行為をしています。恥ずかしくはないのだろうかと真底思います。
きちんと敗戦後の日本の歴史を冷静に検証すべきであると思いました。
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宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区。海に近く住宅街でした。2011年3月11日の東日本大震災による大津波で甚大な被害を受け、多くの人達が犠牲になりました。
現在地域は復興工事の真っ最中。住宅再建予定地は盛り土工事化され、水産加工会社も新築されています。「閖上復興頼り」(編集長・格井直光氏)は、震災直後に発刊され、地域の情報を満載し、今回で41号になりました。
紙面からは地域コミュニティでの出来事が丹念に掲載されています。閖上神社の祈願祭や、芋煮会、。閖上中学の文化祭の様子や、熊本地震や鳥取地震への応援メッセージも掲載されています。
広告もすべて地域のお店です。地域のコミュニティを活性化しつつ、復興されている様子が紙面から伺えます。
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2016年12月20日は、下知コミュニティ・センターで、遠く岩手県宮古市から来訪されました菅野和夫さん(山田伝津館・消防庁委嘱災害伝承語り部)をおむかえして、いただきましたDVDを見ながら懇談をしました。
急な呼びかけでしたが、FBなどを見られた高知市民が10人集まりました。菅野和夫さんのお話は津波体験と復興支援の実践を踏まえておられますので、説得力がありました。
「避難タワーや避難ビルには、ロープ(丈夫なナイロンロープ。ヨットや登山で使用するロープ)を備えて置くべきでしょう。そしてロープにエイトノットでこぶをつくりますと滑りません。もやい結びを漂流者にすれば吊り上げ救助が出来ます。」
「物資を船から津波避難ビルに運び上げる時もロープが役立ちます。」
「津波被災直後にバールをもった人たちがうろうろしていました。何をすjるのかと思いきや、流された金庫や自販機、ATM機をバールで壊し,中にある現金を奪う窃盗団でした。震災直後は警察も機能せず、ボランティアのふりした窃盗集団が横行していました。」
「私が住んでいる地区は宮古市でも高台であり、津波の被害はありませんでした。地域コミュニティの繋がりは強く、沿岸部の津波被害に遭った知り合いや親戚を各世帯が自主的に受け入れました。津波当時逃げ込んできた人も受け入れました。」
「いつもなら相互に助け合うことが大事ですが、津波から逃げるためには時間との闘いです。津波てんでんこの言い伝えは、たとえ親でも子でも、とにかくてんでんに逃げて助かろうということです。昔からの伝承です。」
「震災直後から我が家は無事でしたので、避難所へ支援に行きました。なにが困っているのかと言われたのは、トイレットペーパーやガソリン不足を言われました。」
「後方支援は大事です。災害に遭わなかった地域はすぐに被災地を支援することをすべきです。それには普段からの地域間の交流や繋がりはとても大事です。」
「自分たちの地域はあえて防災組織をつくらなくても、絆が強くあり、互いの家の備品を出しあう体制がありました。でも高齢化してきますとそれもままならなくなる可能性があります。」
菅野和夫さんのお話は、実体験にもとづいているために説得力がありました。急な呼びかけにもかかわらず10人集まっていただきました。菅野さんと意見交換もしました。
参加された全員に「3・11東日本大震災 風化させないために TUNAMI 山田伝津館」のDVDをいただきました。菅野和夫さん遠路はるばる貴重なお話をしていただきありがとうございました。DVDは下知市民図書館に寄贈し地域で情報を共有化させていただきます。
また車座談義終了後、ささやかな懇親会を近くの居酒屋でしました。菅野さんは50年来のヨットマン。海の話でも盛り上がりました。
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高知県や西日本各地に大きな被害をもたらした昭和南海地震は、1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分に和歌山県潮岬の沖合い約50キロメートルの海底で発生しました。地震の規模を表わすマグニチュードは8.0でした。
高知市下知地区は地盤が沈下し、堤防が壊れ海水が地域に流入。長期浸水状況が続きました。
高知県の沿岸には4~6メートルの津波が押し寄せ、大きな揺れと津波により679人が死亡・行方不明、1,836人が負傷したほか、4,846戸の家屋が全壊・流失するなど大きな被害が出ました。
今日は昭和難関地震から70年目。読売新聞に特集記事が掲載されていました。昭和南海地震を下知地区で体験された「生き証人」の岸田康彦さん。昭和小での避難訓練の様子も記事になっています。
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「読書と日本人」(津野海太郎・著・岩波新書・2016年刊)を読みました。出張で先日東京へ行った折、東京在住の下の子どもと新宿の紀伊国屋書店で待ち合わせしました。その折に購入しました。「読書の秋」でもありますし。
「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていは自分の部屋でー。」それがいま私たちがふつうに考える読書だとすると、こういう本の読み方はいつはじまったのだろう」(P3「はじまりの読書」)から筆者は書きだします。
どうやら1000年ぐらい前の源氏物語が公表された頃から、「黙読」はあったのではないかと筆者は述べています。
「9世紀から10世紀にかけて、宮廷の女たちのあいだで漢字の草書体をもとにした表音文字、つまり平仮名が日常的につかわれるようになった。そして、この日本語表記のための新しい文字によって、それまでの男の知識人が仕切る漢字文化のもとで沈黙をしいられてきた女たちが、和歌や日記や、随筆や手紙、ついには「源氏物語」のような巨大な物語まで、じぶんのことばで書いてみせるまでに変ぼうしてゆく。」(P11)
一方官僚のような知識人は、当時の先進国中国の書物や、先人の書物を今でいう「読書ノート」を作成しながら読書をしていたようです。
「巻子本(巻物)は保存や携帯に便利だし、立派にも見えるけど、必要な箇所がさがしにくい。そのために抜き書きをつくって貯めておく。
そのようにして複数の写本に当たり、比較し、正しいテキストをさぐりあてて注釈をつける。それが当時の「学問の道」の本筋であり、さきほど仮に(学者読み)と名付けた読書の型もそこから生まれてきた。」(P16)
昔は印刷技術も稚拙で発達していませんし、コピー機なんぞもありません。本は写本されていました。気の遠くなるような作業です。でもそれだけ精読し、要点を書き出し、自分のものにしていたのでしょう。
読書の目的は東洋と西洋とではかなり違っていたのではないかと筆者はいいます。
「ともあれ、こうして政権中枢の皇子や貴族たちが、中国学習の先達たちたる百済人の力を借りて、中国の古典を懸命に読みとくというしかたで、この国における(学者読み)の歴史がスタートする。
そのさい、かれらの読書法のお手本となったのが本場中国での学問の伝統です。漢代の中国で、紀元前2世紀に新しい国家教学としての儒教を軸に、「論語」「詩経」「書経」「礼経」「易経」「韓非子」「史記」「漢書」などの経典化・古典化が開始され、それが自分の頭で考えるよりも,さまざまな写本を集めて正しいテキストを定め、精緻な注釈をほどこす研究法として磨きあげられていった。」
そのやりかたが日本へ本格的に導入されたのが8世紀後半の文武天皇の時代です。大宝令(701年)になり、天皇中心の律令国家になるための学制であり、官僚制度を整えたようですね。
西洋の学問とは全く対照的ですね。
「科学史家の中山茂が、その著{パラダイムと科学革命の歴史}で、ヨーロッパの学問を推し進めるエンジンは「論争」だったが、中国の学問では「記録の集積」が優先された、という意味のことをのべています。
したがって中国の教育では、他人を説得する(弁論力)ではなく、紙や竹簡にしるされた先行者の言動(先例)を、繰り返し声に出して読み、そのすべてを頭に叩きこんで、必要な時に瞬時に思いだせるようにすること、つまり(記憶力)がもっとも重要視されることになる。」(P20)
古典の記憶力や、それを利用しての文章力が官吏としての優秀さの基本であるということで、科挙などで登用される人材はその勉強法を極限までしたのでしょう。
自国の国力が精強であった時代は、それでもいいですが、隣国や西洋諸国が力をつけてくるとそうした「秀才」や「読書人」の官僚が「役立たず」であったことは中国でも「小中華」の朝鮮でも同じでした。
中国の近代化は「アヘン戦争」であり、朝鮮の近代化の始まりは「日韓併合」から始まるのですから。」いかにアジア的な学問のやり方が陳腐化していた事例でしょう。
昭和の初めの頃に「硬い本」(哲学書)などが多くの市民大衆に読まれ、また岩波新書など気軽に読める教養本も刊行され、文庫本も出るようになり、一気に市民大衆へ読書熱が蔓延した時代もあったようです。
それが最近「若い人たちが本を読まなくなった。」と言って久しい。外国帰りの人達が、東京の電車の中で大学生や若い人たちが漫画本を堂々と読んでいて嘆かわしいと言われていたのが40年ほど前の話。
今は電車の中で観察しても昼間の空いた時間帯で、60人が一両に座っているとしてうち40人はスマホの画面を見つめてなにかしています。読書をしている人は2人ぐらい。漫画本を読んでいる人はいませんでした。
電子媒体の本が普及するかと言われたら、「ある程度」はするでしょう。紙媒体の本が全部なくなるかといえばそうはならないとは思います。
筆者の津野梅太郎氏は、編集者であり評論家。演劇もやっていたという経歴。文体は讀みやすく、学者や作家の「読書のすすめ」的な書籍とは変わっていました。面白い本でした。「読書の秋」ですから、気を取り直して読書をしようと思いました。
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2016年12月19日NHK高知で、夕方のローカルニュース枠「こうちいちばん」という番組にて、「「●災害に備える「シリーズ南海地震70年(1)長期浸水に備える」が放送されました。
私が居住している高知市下知地区は海や川に隣接した海抜0メートルの「島」高台はなく浸水被害が出れば人様の高いビルへ駆け上がるしか(垂直避難)しかありません。
海抜0メートル、軟弱地盤、地震が起きれば地盤沈下、津波の襲来、長期浸水状態と「絶望的な予想」しかたてられない地域です。
その対策をコンパクトに3分程度で表現することはとても難しいことが昨日の放映でわかりました。事前の情報提供や、説明もしましたが、なかなかきちんと伝達していませんでした。
下知コミュニティ・センターには毛布の備蓄はあります。飲料水も2000Lタンクに備蓄しています。しかし非常用食料品の備蓄はありません。
あの映像は若松マンションの防災備蓄倉庫です。若松町自主防災会の活動こそ、自助・共助のお手本です。建築年数が古いと言う理由で高知市指定の津波避難ビルではありません。
しかし横田政道若松町自主防災会会長と、若松マンション管理組合理事長との信頼関係で、独自に防災備蓄を行っています。素晴らしいことです。その凄いことが伝達できませんでした。
また仁淀川町長者だんだんくらぶ西森勇幸会長のご配慮で、地域の空家と公民館施設を見学させていただきました。西やんや大崎修二さんにも1日お付き合いいただきました。
「でも私たちは、地震、災害・浸水に負けない街づくりをしたい」と白髪のお爺さんが決意表明を言っていますが、簡単なことではありません。
18日の下知コミュニティ・センターでの避難訓練の当日、超高齢者の両親(父97歳・母91歳)を参加させ、自宅へ家内と一緒に連れ帰り、着替えさせて、総括会が行われている下知コミュニティ・センターへ戻りました。
近くの青柳公園にて頭の整理もなにも出来ないうちに撮影されました。短い言葉で表現することはとても難しいことであることを思い知らさえれました。
伝えきれないことは多々ありました。テレビ媒体の伝播力は大きなものがあります。へこたれることなく下知地域の現状や課題を訴え続けるしかありません。
「マスコミは真実を伝達する。しかし真実の1部しか伝達しない」ことを改めていもい知らされました。テレビやラジオは放映時間の制約。新聞は字数の制限があります。
あれもこれもと一気に脈路なしに話してしまう話法を改めないといけないと思いました。反省です。
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パク・ウネ大統領の即時退陣を求める韓国市民の街頭での抗議活動は物凄い。今のところ警備部隊との暴力的な衝突もなく、整然と行われています。大規模野外コンサートのように、ウエーブが起きたり、大合唱があったりして、週末のソウルの恒例行事になっています。
これを「民主主義の勝利」と称賛される人達もいます。週刊ポスト12月16日号の「逆説の日本史」を連載している井沢元彦氏は、伝統的な政治イデオロギーであった「朱子学」が韓国社会を蝕み世界観を歪めていたからだと言われています。
「韓国という国家、韓国人という民族ほど朱子学の毒に蝕まれている民族はいない。」(P71)
「朱子学は「亡国の学問」だと確信しているが、朱子学は民族に真実の歴史を忘れさせてしまうという、とんでもない副作用がある。」(P72)
「要するにこれは民主主義社会あるいは法治国家で定められるルールよりも、韓国人を厳しく縛り逆らうことを許さない絶対のルールがあるということだ。
それは言うまでもなく親に対する。「孝」そして血縁に対する身びいきを、国家や民族という「公」よりも重要視する儒教(朱子学)の影響であることは少し考えればわかる話である。」(P72)
「朱子学はインテリのヒステリー」と井沢元彦氏は言います。南宋時代に朱子は生まれました。中原の地域を異民族に宗は奪われ、揚子江の南に追いやられた南宋。その際,皇族をはじめ漢民族の女性の多くは連れ去られ、性奴隷とされました。
そのことで南宋の民は激しく外国を憎むようになりました。軍備を怠り軍事的に敗北した原因を冷静に総括せず、悪いことはすべて外国の「野蛮人」に責任を点火するインテリの負け惜しみ思想が朱子学であるようです。
司馬遼太郎さんも幕末期に日本で流行した「尊王攘夷」の思想は南宋が元祖で「薄っぺらな思想」と看破していました。
「この国のかたち」を読んだ読書感想文を2009年11月に個人ブログに書いていました。
「 司馬さんは「尊王攘夷」で幕末維新期は来たものの、明治政府は開国し、文明開化をなしとげ、当時の先進国にキャッチ・アップしようとした。「尊王攘夷」は、中国の宋時代の思想で「たいしたものではない、」と。結局明治政府は新しい国のかたちをもとめ、政府中枢閣僚が2年間も欧州に滞在し、ドイツなどの社会制度を性急に輸入し、プレハブ工法で社会制度をこしらえました。
ぎりぎりの国力と必死の外交的努力で日清・日露戦争に勝利したことがあだになり、昭和10年以降に無能な政治指導者や軍幹部が日本で台頭、結果明治国家を滅ぼしてしまった昭和10年から20年までの日本史を断罪されていることがよく理解できました。」
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6fb0.html
国家国民のことよりも家族のこと一族郎党の繁栄が何より大事という韓国に定着している朱子学の弊害が、歴代大統領一族の不正の繰り返しを生んでいるのでしょう。
またなんでもかんでも外国を悪にする思考、とくに韓国の反日運動・従軍慰安婦像を米国に立てる運動なども、いささか冷静さを欠いているように思えますね。
いずれにしてもパク・クネ大統領は辞任が解任されるでしょうが、再発防止の社会システムと韓国社会の思考システムの変革がない限り、韓国社会に未来はないのではないかと思います。
北朝鮮という「やっかいな独裁国」と隣接しているだけに、韓国の混乱は、隣国日本にとっても他人事ではありません。
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明日12月21日は昭和南海地震から70年。1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分に和歌山県潮岬の沖合い ... 地震の規模を表わすマグニチュードは8.0でした。
本日NHK高知放送局の夕方午後6時10分からの「こうちいちばん」という番組があります。高知地方のニュースと特集を放送しています。
2016年12月19日(月曜日)は、その番組の中で「●災害に備える「シリーズ南海地震70年(1)長期浸水に備える」が放映されます。
昭和南海地震を下知地区で体験された岸田康彦さん(二葉町在住・85歳)や、海抜0メートルで海に近い下知地区の現状。震災後の長期浸水対策として仁淀川町長者地区との「疎開を前提とした」地域交流や、地区避難ビルである若松マンションでの若松町自主防災会の取り組みなどが取材されました。
昨日の下知コミュニティ・センターでの「要配慮者支援」の避難所開設訓練の様子も取材をされていました。どう言う編集がされているのははわかりません。
放映予定時間は、12月19日午後6時10分から30分の間の数分の予定とか。取材や情報提供に多大な時間で関わりました。これも地域防災活動として、割り切り対応させていただきました。
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地方都市に住む私は、毎日仕事や仕様で自動車を運転します。その時感じることは、「大部分の自動車運転手、バイク乗りは一旦停止違反者」であるということです。
市街地には信号のない見通しの悪い交差点があります。「とまれ」と書いた道路標識が建てられ、道路にも「止まれ」と書かれた道路標示があり、白線で停止線が表示されています。観察していますとほぼ100%の車やバイクは「とまれ」の白線で止まりません。
一応は交差点前では徐行します。停止線で止まらず、左右が見えるところまで進んで、そこで止まり、徐行して通過します。でもそれでは「一旦停止違反」となります。
正しくは「とまれ」の道路標示の白線前で完全に停止すること。「3秒ルール」で3秒は止まること。わたしは1・2・3と数えます。そして徐行し、左右が見えるところまで行き、そこでも停車し安全を確認して車で交差点を通過します。
男性も女性も高齢者も中高年も若者も「とまれ」の道路標示で止まりません。やはり止まらないと「出合頭」の事故は防げないと思います。違反切符を切られたと怒る人もおられますが、道路の上は警察が王様なので逆らっても無駄です。
これから年末にかけて車も増えますから。一旦停止を怠らないようにします。
ちなみに私は免許取得から41年目ですが、無事故・無違反です。
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昭和小の避難訓練から戻り、超高齢者である97歳の父と91歳の母の避難誘導訓練をしました。なんせ超高齢者です。下知地区減災連絡会役員の業務はせず、両親の避難サポートに徹しました。
避難所の受付が混乱することが想定されましたので、あらかじめ「SOSカード」に、父は「慢性腎不全です」、母は「アルツハイマー型認知症」と表記し、裏面には医療関連情報も記入して行きました。
自宅でヘルメットを被りジャンパーや外套の上からライフジャケットを着用しました。私のヨット用の物です。そして父は杖を付き、私が介助。母は歩行用補助車を押て歩き家内が介助しました。
そして下知コミュニティ・センターへ到着しました。ご近所の左半身マヒのKさんや、隣町からシニア・カーで小川さんが来られました。普段お世話になっていますケアマネージャーの下村恵子さんや同僚の皆さん2人と社会福祉協議会の山本麻由さんもサポートに来ていただきました。
1階ロビーで少し休み、屋内階段を使用して4階まで昇降しました。父を介助しながらですので写真はありません。なんとか4階までたどり着きました。受付にSOSカードを出し、避難者名簿に記載していただきました。その間両親は椅子で休んでいます。
そして5階の屋上まで上がり集合写真も撮影しました。皆おおらかで良かったです。
そこで両親の避難訓練は終了。慎重に階段を4階まで下りました。帰りは疲労を考慮しエレベーターで1階へ降り、家内と2人で付添して戻りました。そして自宅の急な階段を昇降し、家内に引き渡して、総活会がおこなわれるであろう下知コミュニティ・センターへ戻りました。
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2016年12月18日(日曜日)は午前9時45分から昭和小学校で、児童・教員。保護者、地域住民を含めた浸水・津波避難訓練が行われました。当日は参観日。大勢の保護者も来ていました。それに加え学校の周辺地区の弥生町、日ノ出町、丸池町からも避難訓練に参加。二葉町や宝永町、若松町からも参加しました。
南正門で待機し、待機場所へ誘導しました。9時45分位に南海トラフ地震が発生。緊急地震速報が発令されました。そして児童、教員、保護者、地域住民が慎重に慌てず一斉に南校舎屋上を目指しました。大勢の人数でしたので階段は大渋滞でした。
屋上は満杯。主催者発表では児童・教員・父兄・住民合わせて1500人が詰めかけました。狭くて身動きできません。
伊藤校長先生が保護者や住民に挨拶されました。
「今日は昭和南海地震から70年の避難訓練です。下知地区は浸水し大きな被害を受けました。今後30年以内に南海地震は起きます。今日の訓練を各家庭で話し合い対策をしましょう。」
避難誘導で体調不良の方が1人出ました
南校舎屋上にいて結構寒空で全員が20分ぐらいいました。校長先生の挨拶が終わり、生徒から退出し各教室へ戻りました。退出する間高齢者も含め長い間屋上に立っていました。。そしてようやく屋上から降りました。
地域住民は南校舎屋上から一旦3階まで降り、3階屋上から北校舎4階まで上がる指示でした。その折、1人のご婦人(88歳)が体調を崩され階段で動けなくなりました。
運が良いことにその場に医師と看護師がいました。いずれも昭和小の保護者の人で若い。医療専門の方なので「たぶん大丈夫いでしょうが、念のため救急車を呼びましょう。」という医師と看護師の判断で119番しました。
救急隊員が駆けつけ、階段からてきぱきと降ろして,救急車へ搬送し、救急病院へ搬送したそうです。元気そうになりましたので、大丈夫でしょう。
6年生の減災授業の発表は良かったです。身近な課題で「減災」について考え、クラスで討議し、問題を自分たちなりに整理し解決策を提示されていましたね。
「0円防災」と言って、身近な品物を最大活用して、防災備品にする工夫は優れものでした。生徒や先生たちは頑張っているにで、保護者の皆さんがもっと「燃えて」頂きたいものです。
今朝の高知新聞の記事で弥右衛門地区の30代の女性の声がありました。「地域防災についてなにもわからない。県庁のホームページもわかりにくい。」と。
情報は自分でとるもの。防災会がなければ近所に呼びかけてつくればいい。なんでもかんでもアマゾンや楽天であるまいし、ネットで注文して届けてくれると勘違いしてますね。
自主防災会や町内会に入ってい居られなければ、原則地域の情報は入手できません。出来なければ自分から情報を取に行かないといけない。自己責任の世界です。
生徒たちのいい発表の途中でしたが、自宅へ戻りました。97歳の父と91歳の母の避難訓練の準備のためです。
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早朝6時半からは若松町防災会の訓練からスタートです。3つの班が独自に訓練をされるようです。見学に行きました。
まずは若松町1班、福谷若松町町内会長と橋本副会長が、担当町域のパトロールをされていました。夜明け前の暗い中、家屋の外観の点検をされていました。
空き家も多く、老朽化した家屋も多い若松町です。若松町唯一の高知市指定津波避難ビルはマイセルというマンションです。階段部や廊下の共用部に60人程度は一時退避は可能です。
次に3班の様子を見学しました。地区の地区指定津波避難一時退避所は西日本科学技術研修所です。その前に6人が集合し安否確認をされていました。災害時にはもし鍵が開いていない場合は、蹴破って入り避難してくださいとのことです。施設管理者と若松町防災会との合意済みです。
若松町2班は若松マンションの住民と共同してのマンション6階部への避難訓練です。周辺住民とマンション住民との合同早朝避難訓練です。今年で4年目になります。20人ぐらいの住民が集まっていました。
防災備品置き場の備品の説明と点検、避難者名簿の作成の必要性を横田政道若松町自主防災会会長が説明されていました。国際信号旗もマンション非常階段部に掲揚されています。避難所の表示と訓練の表示です
2階の防災倉庫前では、若松マンションへ避難してくる周囲の住民各位の避難訓練が行われていました。
今回二葉町はとくに早朝訓練はしておりません。午後14時からの要配慮者の支援訓練に超高齢者の両親(父(97歳・慢性腎不全)と母(91歳。認知症)の避難訓練想定で頭が一杯です。
これから下知コミュニティ・センター開所と同時に屋上に国際信号旗の避難所の表示と訓練の表示を行うために行き、若松町自主防災会の避難受け入れと、各津波避難ビルとのトランシーバーで交信を行った後に、昭和小学校へ移動します。午前中の避難訓練は昭和小です。
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人口が毎年1000人減少している高知市。にもかかわらず狂気のようにコンビニが出店しまくり。とくにセブンイレブン。ドミナント戦略かなんか知りませんが、同一商圏内にいくつも出店してますね。
この種の禿鷹コンビニは何故高知市へ執拗に出店するのか?地元経済はますます疲弊するばかりですから、いいことでは全然ありません。
とある日、植田医院近くの元ルイビトン高知跡のセブンイレブン。訪問した目的は鈴木敏文氏の「売る力」のなかにあった、セブンイレブン独自のPB製品を購入するつもりでした。食パンで「金の食パン」を買いに行きましたが、そこにはなく、150M離れた高知橋のセブンイレブンへ行きますとありました。なんと256円します。
いつもは南国スーパーで特売のヤマサキかシキシマの98円の食パンしか購入しておりませんので。価格が2・6倍です。2・6倍美味しいかどうかは食べてみないとわかりませんから。
通常スーパーなどのPB商品は、大手メーカーのNB商品より安めに設定されていますが、こちらは真逆。能書きもこう書かれています。
「金の食パン 産地や品質を厳選した原材料を使用し、こだわりの製法で進化し続けます。
風味豊かなフランス産発酵バターと北海道産生クリームを使用し、そのまま食べても口あたりが良く、トーストすると香りたつ素材や味わいを楽しめる金の食パンをお楽しみlください。」と書かれています。
家内に聞くと昨日近くに数日前に開店した禿鷹スーパーに買い出しに行ったが食パンを購入することを忘れたとか。食パンは朝食で家内と母がいつも食べています。(父は減タンパクの食パン)。私と息子は和食なので食べません。明日の朝食は鈴木氏の言うように本当に美味しいかどうか試食してみます。
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今日は家内の言いつけで、風呂掃除とトイレ掃除をしました。午後1時すぎから3時半までかかりました。
お風呂は湯垢が床面や浴槽についています。バスマジックロンを吹き付けます。こするのは800番の耐水ペーパー。何度もこすりますと湯垢が良く落ちます。1時間ぐらいかかりました。
トイレは2階と3階にあります。「奥の床面が汚れているから」と家内に言われましたので、手を伸ばしトイレマジックロンとトイレきれいとかいう衛生布で拭き取りました。3階のトイレは両親が就寝前後に使用します。尿失禁や便失禁を時折しているので、入念に掃除しました。2階のトイレは共用で1番使用頻度が多いので、汚れる頻度もあるので掃除も手間取りました。
終わると今日の1日が終わってしましました。年末の大掃除の前倒しです。
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昨日はりまや橋商店街にて活き活き100歳体操(介護予防体操)後に母(91歳)が転倒しました。一晩おいて打撲した左足が痛いといいますが、歩けないことはなくすり傷yもも乾いていたので、迎えに来られたディ・サービスの職員さんに事情をお話し、引き渡しました。もし具合が悪そうなら連絡してくれと言いました。今のところ連絡はありません。
さて今日は寒いのでどうしようかと思いましたが、父(97歳)はゴルフ・リハビリに行くと言います。帽子と首巻を貸して、行くことに。往路のラビータの気温表示は4度です。先週は6度でしたから一段と寒いです。
ところが打ち放し練習場へ着きますと、風はなくぽかぽかした日差しがあり暖かい。父はいつものように自己流の体操をして、水分補給[経口補水液OS-1)を飲んで球を打っています。
先週より見ていて調子がいいようです。ただ父は「飛ばなくなった。成績が悪い。」と不機嫌でした。前向いて真っ直ぐ球が飛んでいるので良いのではないかと思いますが。
日向ぼっこが気持ちが良く、空いている打席との椅子に座っていました。来たときは空いていましたが、風が吹かないことを察知したのか帰り際はほぼ満席になっていました。
父の歩行は牛歩のごとく遅く、階段昇降も心もたない。随分手助けするようにしまいsた。母のように転倒しても「とっさ」の機転が効きません。なんとか自宅へ戻れました。
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今朝は寒い。しかし昨夜は高知沖縄県人会の忘年会で久しぶりに飲酒をしたので、目が早く覚めました。5時すぐに朝食を済ませ、横田政道さん宅へ自転車で行きました。今日の作業は横田さんが知り合いの畳屋からもらったというゴザがあり、それを雑草が生えないように畑に敷くための運搬作業です。
弘化台の横田さんの倉庫にあるゴザを自転車に積み込み五台山を目指しました。そして階段を登りゴザを畑に敷きました。
途中五台山農協婦人部の良心市で、レタスとほうれん草を買いました。
ネギもタイモも育っています。黒岩さんがえんどうの世話をしていました。みんなで柵をこしらえました。7時過ぎになりますとようやく明るくなります。雑草をひいて今日の作業は終わりました。
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2016年12月18日(日曜日)の下知地区総合防災訓練のタイムスケジュールが決まりました。午前中は昭和小学校。当日は参観日で2時限目の冒頭で南海地震が起きたとの設定で、シェイク・アウトし、安全確認後に決められた避難場所へいくことに。
地域住民は北校舎に避難し、待機します。避難行動の終了後は体育館へ移動し、6年生の発表(防災活動の)や、チェックされている高知市地域防災推進課の講評を聞きます。
一時解散。午後1時半集合で会場を下知コミュニティ・センターへ移動します。こちらは高齢者やハンディを持たれている人達の支援をテーマの避難所開設訓練です。福祉分野からは、県庁生協介護福祉センターから3人、高知市社会福祉協議会から1人サポートに参加いただけます。とても心強いです。
要配慮者にどういう対応すれば良いのかを、実践することで課題を見つけて行きます。
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2016年最後のはりまや橋サロンとなりました。本格的な西高東低の気圧配置になりましたので、冷たい空気が南下し風も強くなるようです。それでも母(91歳)は「元気です。
母の場合は夏場はぐったりとして食欲もありませんが、冬になると元気になるようです、食欲も旺盛,間食もしますから。
いつものように歩行補助車を持って行きました。コロッケ屋さんで夕飯のコロッケを買いました。
谷ひろ子さんのお店で焼き菓子とチョコケーキを買いました。またコーヒーと焼き菓子を買い母と一緒に飲みました。
少し早く着いたので、はりまや橋商店街を往復し、寒いのでぜんざいを一緒に食べました。
今日は昼間でも冷たい風が吹いて寒いです。囲われたテント下で活き活き100歳体操をしました。10人の高齢者が参加しました。今年最後の体操でした。
体操が終わって片付けしてましたら、母が何故か椅子にすがっていて転倒し、左ひざを擦りむいていました。歩いて帰れましたので打撲その他は大丈夫なようです。
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慢性腎不全の父(97歳)ですが、植田医院での診察と点滴と注射があり朝1番に付き添いました。今朝の高知市は寒い。今までが暖かでしたから余計にそう思います。
北方面と西方面を見ますと、白い綿菓子のような雲が山の稜線にへばりついています。雪雲なんでしょう。時折高知市みぞれもぱらついています。(ちなみにこういう天気図でこういう雲が出ている場合は下手くそは海へ出てはいけない。
そのせいなのかいつもは座る場所がないほど混んでいる植田医院が空いていました。植田先生に診察いただきました。
「今日も血液を採取させていただきます。結果は来週出ます。腎性貧血だけが気になります。今日から効果がより高い注射を打ちます。」との事でした。
父はこの半年で一段と歩行スピードが遅くなり、ふらつくと言うています。転倒のリスクも高まりました。貧血予防注射が効果が上がることを願っています。
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2016年12月14日は、午後6時半から下知コミュニティ・センターにて、18日に実施されます下知地区総合防災訓練の関係者事務会が開催されました。
下知地区減災連絡会の役員と高知市役所地域防災推進課、高知市社会福祉協議会から10人が集まり、検討をしました。
今回は「要配慮者支援訓練」も大きなテーマです。また防災会の役員が避難所訓練のリーダーになるのではなく、参加した住民からリーダーを選びともに訓練をし、リーダーとなる人たちを広く養成して行く目的もあります。
想定される事態を予測し、意見交換をしました。このなかで要配慮者の支援の対策は、専門家が出動するまでの発災直後から、「命を繋ぎ」「専門家にお任せする」までが実は1番大変。一切合財を地域で担うことは大変です。そこへの支援と仕組み作りが大きな課題であることが理解できました。
とにかく18日は地域の高齢者やハンディを持たれている人達に参加を呼びかけ、ともに避難訓練にしなければなりません。
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2016年12月19日(月)に午後6時10分からのNHK高知放送局での番組「高知いちばん」のコーナーで「災害に備える」という南海地震対策の高知市下知地区での取り組みを放映するようです。
下知地区防災計画意見交換会の様子や、昭和南海地震の体験者岸田康彦さん(85歳)の取材。仁淀川町長者地区での「疎開を前提とした交流風景」や、若松町自主防災会の地区指定津波避難ビルの防災備品装備の様子などを撮影されていました。
そして今日が下知地区の「屋外ロケ」。白髪のお爺さんが下知の現状を下知の風景の中で説明しました。まずは電車通りにある「海抜0メートル表示」、宝永町歩道橋の上で道路交通量の多さ。もし今この場で地震が起きて、大津波警棒が出たら、皆どこへにげるのでしょうか?
宝永町歩道橋からは東の葛島の橋が見えます。久万川と浦戸湾。北は一文橋で江ノ口川、南は鏡川大橋で、堀川と鏡川に下知南部地区は囲まれています。更に江ノ口川と堀川は新堀川という運河で繋がっています。
ランドサットから撮影した2.5万分の1のデジタル標高地形図。水色の部分は高知災市街地。すべて標高3M以下です。「1000年前の高知の予想図」を見ていただきました。私の住んでいる二葉町は海の底です。
最後のメッセージとしてこう申し上げました。
「高知は関東と違い地震は起きる回数が少ない。避難訓練に参加しない人が大半。また訓練してもすぐに忘れます。下知地区は海抜0メートルで自然の高台はありません。
いつ何時地震が起きるかもしれません。それは仕事の最中、授業の最中、自宅での就寝中、車や自転車の通勤・通学中かもしれません。そこで南海地震が発生しても、下知地区は海抜0メートルですので、すぐに近くの津波避難ビルに駆け上がり、垂直避難しないと助かりません。
70年前の昭和南海地震は、過去の南海地震からすれば大きな地震ではありませんでした。それでも高知市下知地区と潮江地区は地盤が沈下して水没していました。
想定どうりの南海トラフ巨大地震が起きれば、1000年前の高知市のように水雄没する可能性があります。という話をしました。
それでも下知地区で生活し、仕事をして、学び、通過する場合は、いつなんどき地震が起きても、命を守る行動をとりましょう。
下知は防災・減災は文化であり、たしなみです。避難袋を持つのは当たり前。耐震補強するのも当たり前。揺れたら近所の津波避難ビルへすぐに書け上がること。隣近所で助け合いしましょう。個人も家族も学校も企業も、地域も事前対策を進めましょう。
そして「命を守り」「命を繋ぎ」「生活を再建する」ために「下知地区防災計画=事前復古まちづくり計画」を下知地区みんなで意見交換し、議論し作り上げましょう。ということを申しあげました。
12月19日の「こうちいちばん」http://www.nhk.or.jp/kochi/program/b-det0003.htmlにて、編集され、ほんの僅かな時間放映されると思います。
二葉町歩道橋の上で撮影されながら、そのような事を申しあげ、最後の「ロケ」は終了しました。その最中に警察と消防の車がサイレンを鳴らしながら疾走し、ご近所へ行きました。
何事かと集まっているご近所の人に聞きますと、事情はわからないが建物から人が落下したらしく、消防が懸命の救命活動をしているようでした。やがて救出され、救急搬送されていきました。
いろんなことが起こりますね。
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2016年12月12日は、若松町にある若松マンションのNHKの撮影を見学に行きました。仕事を済ませ少し遅れて駆けつけました。
若松町自主防災会会長の横田政道さんが、防災備品について説明されていました。備品置き場は若松マンション6階のスペースに透明な化粧箱のなかに」あります。
米や缶詰、レトルト食品、防寒用品、コンロ.鍋、消毒液、ソーラーランタン、ガスコンロ、携帯ガスボンベ、簡易トイレ、トイレ用錠剤、トイレットペーパー、トイレ用カバー等[ほかにもありました)が在庫されています。
若松マンションは居住者が若松町町内と一体して防災に取り組まれていることがわかりました。鉄筋の6階建てですが、建築年次が古いため、高知市指定の津波避難ビルになれません。
(高さは申し分ないのですが・・・・)
それゆえ高知市の支援は一切ありません。すべて若松町自主防災会が主体になり揃えたそうです。凄い防災備品の在庫です。そのほかに、マンション住民以外の若松町町内住民が駆け込んできた場合の、簡易式ベットを階段につくる資材なども在庫されています。
凄い事であるとただただ感心しました。横田政道さんの行動力、実行力は凄いものです。
下知を取材されたNHK高知放送局制作番組は、12月19日午後6時10分からの高知1番で放映される予定です。
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2016年12月12日(月)は、NHK高知放送の依頼で「昭和南海地震を下知地域で実体験された岸田康彦さんの話を傾聴する」エキストラ出演しました。今日は寒くて途中から雨になり大変でした。
高知新聞に掲載された岸田康彦さんの昭和南海地震体験
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-7f1d.html
昭和南海地震当時は岸田さんは、昭和小の前に居住。揺れで外に飛び出し、」倒壊した隣の家族の救出を行っていたそうです。屋根を剥ぎ、奥さんを救出。その後ご主人を探しましたが梁の直撃で亡くなられていました。2歳の子供さんをかばって亡くなったとか。、子供を救出後、浸水が始まったので、すぐに昭和小の2階まで逃げたそうです。
一時期は500人の避難者で溢れていました。戻れたのは翌年の2月頃であったとか。」
岸田康彦さんは体験者としてこう言いました。
「水や食料は支援が必ず来ます。わたしは避難後3日ぐらいは飲まず食わず。でも人間は死にやしません。それよ理大事なのは持病のある人は、薬です。それを余分に持っていないといけないです。
12月18日の下知地区総合防災訓練のポスターは所所に貼られています。まだまだです。しかし回る時間がありません。12月13日は午後から下知コミュニティ・センター内の防災倉庫を案内します。
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2016年12月13日(火曜)ですが、父(97歳)と母(91歳)を連れて植田医院にて2回目のインフルエンザ予防接種をしました。今まで1回の接種でしたが、植田先生のお奨めで2回の予防接種を今回からすることにしました。前回は10月20日頃にしています。
生憎の雨でした。乗り降りに神経を使います。火曜日は植田医院も比較的空いていますので、感染症患者との接触機会が少ないので、前回(10月)も火曜日に1回目の予防接種をしました。
予防接種は腕をまくり上げますと、看護士さんが手際よく予防接種をしていただきました。植田先生は毎年3回以上、看護士さんや事務職員の方達も2回植田医院ではスタッフ一同がインフルエンザの予防接種をされているそうです。
1回目は65歳以上の高齢者は公費負担があり両親は1100円で予防接種が出来ました。2回目は公費負担がないので、3500円かかりました。これから寒くなり、流行期になりますので、「とりあえず」は安心です。
雨が降りますと歩くことも、車の乗降も超高齢者については細心の注意が必要です。植田医院が契約しているタワー・パーキングから車を出庫し、両親を乗車させますが、1人1人注意してドアを閉めないといけないですね。
今日は乗り込んでいるものと思い込み、後部座席のドアを閉めたら、母の足が挟まれました。強く閉めなかったので怪我はありませんでした。超高齢者の車の利用は、介助に最新の心づかいが必要であることを思い知りました。
心の余裕が超高齢者相手では必要ですね。幸い母の足はなんともありませんでした。
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東日本大震災で大きな被害を受けました岩手県山田町。山田伝津館の震災語り部である菅野和夫さんがこのたび下知コミュ二ティ。センターへ来てくれます。
(日時) 2016年12月20日(午後5時半過ぎ~
(場所) 下知コミュニティ。センター 3階会議室C
山田伝津館 http://denshinkan.jp/
山田伝津館では、3.11東日本大震災の記録を収集・保存し、
大震災の教訓を後世に残すため、写真集・記録集・映像(DVD)を編集・出版しています。
12月21日は昭和南海地震から70年目です。岩手の大津波の貴重な経験をざっくばらんに傾聴いたしましょう。
菅野さんは津波記録のDVDを高知県の自治体防災部署に配布するために、12月20日は早朝から室戸方面へ訪問され、夕方高知市へ戻ります。そのため時間は多少遅延などあるやもしれません。
震災を知る機会ですので、ご都合のつく方は是非ご参加ください。
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3週間前ぐらいから右下の奥歯が、食物を噛むと痛いと感じるようになりました。既に被せている歯なので、歯の中が虫歯なのか、歯周炎になっているのでしょう。我慢できなくなったので歯医者へ行きました。2年ぶりとか。
レントゲンや医師の診断ではやはり炎症を起こしているとか。過労などで免疫力が劣ると歯が腫れる場合もあるし、実際に炎症をおこしている場合もあるとか。少し腫れていると言う事なので、3日分の抗生物質を処方されました。様子見で判定は1週間後で。
超高齢の両親(父97歳・母91歳)は、歯が丈夫で全部自分の歯。遺伝するとすれば歯の丈夫さは継承しているとは思います。しっかり治療したいです。母大事であることは、10月の雄勝診療所の河瀬聡一郎先生の講演でも言われていましたから。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-f9c0.html
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久しぶりに休日にハガタカ・イオンのシネコンに家内と一緒に行きました。
昨夜家内と一緒に「この世界の片隅で」というアニメ映画を見ました。広島から呉に18歳で嫁いだ絵を描くことの好きな主人公の日々の生活を淡々と描いています。呉の高台にある嫁ぎ先にも戦争の影があり、脅威も迫って来ます。
描かれている戦災前の呉や広島の街の風景が印象に残ります。また戦争が銃後の市民生活にも大きく影響を受けています。シネコンで見た映画では観客が多かったです。
アニメ映画と言えば「君の名は」がヒットしておりますが、娘によれば「今世界の片隅で」のほうが断然えいとの推薦がありました。映画を見て、うちの娘もお絵かき職人をしていますが、80年前なら絵の上手い主人公にように嫁ぎ、主婦としての生活をしていたのだろうかと考えていました。
この映画製作費が当初なく、クラウドファンティングという手法で資金を集めたとか。良い映画と思います。観賞されることを勧めします。
公式サイト http://konosekai.jp/
ユーチューブ動画予告編
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2016年12月6日は、来年3月2日(木曜日)に予定されているJICA防災担当官の高知市下知地区での研修会・意見交換会の事前打ち合わせが、下知コミュニティ・センターにて行われました。
研修担当の高知大学大槻知史先生より。プログラムの目的と研修スカジュール案が提示され、意見交換をしました。今回は「コミュニティ防災」をメインとする研修になるようです。
当日午前中は「高知の地域防災について」と言うテーマで大槻先生と、高知市地域防災推進課山中晶一係長からのプレゼンテーションが行われます。
昼食は下知コミュニティ・センター屋上のLPガス災害対応ユニットを稼働させお湯を沸かし、非常食を参加者皆で食べます。午後からは下知地区を2つに分けてまち歩きをします。下知がいかに低地であり、海に隣接しているという地域特性を参加者に理化していただきます。
続いて「下知地区の災害リスクとコミュニティ防災の役割」と「街の未来をつくる地区防災計画」について下知地区減災連絡会副会長の西村健一が報告します。本来なら地味局長である坂本茂雄氏がすべきですが、生憎3月定例県議会の真っ最中ですので出席できません。
続いて「みんなのコミュニティ防災を目指す新しい取り組み」を[マンション防災」(橋本氏)「地域内連携協議会の取り組み」(国見俊介氏)、「芸術と子供防災」(藁工ミュージアム)、「五台山市民農園の役目」(横田政道氏)をスピーカー予定者として報告いただきます。
大槻先生によれば、9月22日のJICA研修が参加者に高い評価を受けたとの事です。今回は「コミュニティ防災」なので3月に決まったと言う事です。
平日で受け入れ側も大変ですが、責任は重大ですね。
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冬型の気圧配置は徐々に緩んではくるようですが、今朝は放射冷却現象で寒いです。でも高知市はまだ霜が降りたり、氷が張ったりはしていません。暖冬なんでしょう。ラビータの気温は6度の表示。肌寒いです。
いつものように父(97歳)は自己流の体操をして、水分補給をしながら球をゆっくりと打ちます。気温は低いですが、朝のうちは風が打席に当たらず、日差しが暖かいです。
本来なら父は調子よく球を打つのですが、今日は珍しく「しんどい」と言って、10発打つとすぐに休み、休み時間が長く「今日はしんどいから辞めようか」なんていいました。
それでもいつもより休憩時間を倍取りますと、回復したのか打ち出しました。結局普段の倍かかってようやく125発打ち終えました。
後片付けを手伝い、歩いて行って、階段昇降をしますが、こちらもしんどそうにしていました。普段の倍かかりました。父の身体能力は懸命に努力していますが、衰えが顕著です。なんか対策はないだろうかと思案しています。
母と近所の菓子屋さんまでお散歩
父(97歳)のリハビリ・ゴルフが予想以上に時間がかかりました。自宅へ戻りますと、母(91歳)がお出かけの格好で待ち構えていました。
家内が「随分前から下へ降りてきてうろうろしていて目が離せない。用事が出来ないので、散歩に連れ出してほしい。」と言います。
ご近所の電車通り沿いにあるお菓子屋さんまで母と手を繋いで散歩しました。お菓子屋ではお茶をご馳走になりました。どら焼きなどを買いました。おやつに両親が食べることでしょう。
母の方は「腰が痛い」と泣き言を言いますが、足腰は父よりしっかりしています。
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五台山農園の作業が終わり、高齢の両親も快調なようなので、家内に留守番をお願いして海の散帆へ行くことにしました。ヤッシー・パークに到着しますと、夜須駅前にある弁当屋の訪れでおむすび3個と卵焼きを昼食用に買いました。550円です。
ハーバーへ到着は9時半前。すでに高知大学ヨット部が出艇準備し、出艇した行きました。わたしも自分の艇をぎ装しました。ぎ装中は穏やかですが、なんせ西高東低の気圧配置なので、のちに強風が吹く可能性があるので慎重にぎ装しました。
沖合を目指しましたが、赤岡沖を見ると強風域があるのが見えました。高知大学ヨット部は沖合で練習していましたが、わたしは臆病者なので、行かずに、ヤッシー・パークの離岸堤の内側の海へ入りました。
ヤッシーの海でセーリングしていますと、建設中の津波避難タワーが見えます。海の上で帆走していたならば、ヤッシー・パークへ逃げ来んで津波避難タワーへ駆け上がります。
入ってすぐに突風が吹きました。その後風が強くなりました、吹きやみがありません。沖合を見ますと高知大学ヨット部のヨットが何艇も沈(転覆)しているのが見えました。
今日の風は北西が吹いたと思うと、北風になり、また北西になるという具合に、一定方向からの風ではありません。しかもパワーのある風なので、コント―ロールして沈しないでいるのが精一杯でした。
40分ぐらい頑張りましたが、年寄りには疲れたのでハーバーへ行き返すことにしました。ヤッシーの内海からハーバーへ戻るにはジャイブ(方向転換)しないといけないです、その時思わぬ突風が吹き、ワイルドジャイブになり、ブームが頭の上を飛んで行きました。かろうじてよけましたが、お気に入りの帽子が風に煽られブームによって海へ落水してしまいました。
拾うためには強風下で苦手なジャイブをしないといけないです。3回ぐらいジャイブを繰り返して拾い上げました。ということで約1時間で今日の「海の散帆」はお終いです。優雅な散帆どころではなく、沈して海水浴は嫌でしたので、風を逃がして、バランスをとることで精一杯でした。
なんとか無事に着艇し、沈せずに済みました。そしたら後から高知大学のヨットも戻って来ました。着艇の手伝いしながら聞きますと、「沖で風が強く何回も沈したので午前中で終りです。」とのことでした。
昼食はベランダで食べました。終わるころハーバーを見るとヨットが沈して起こせなくなっていました。高知大学ヨット部OBでYASU海の駅クラブ指導員の井土さんに連絡しました。様子を見に行きました。
スナイプという2人乗りのヨットでした。艇内のハッチが沈して開いたらしく、海水が本来密室の部位にが入りこみ重くなり沈没寸前であったとか。引き上げるとドレインから海水が勢いよく長時間出ていました。
ということで年寄りは午前中の1時間でお終いです。でも4時間セーリングした疲労度でした。片付けして海の様子を見ましたが午後から余計に風が強くなりました。下手は早めに辞めて正解でした。
山本宏幸さんとおっさん2ショットです。
片付けが終わりますと道の駅やすへ行きました。キューバの独裁者カストロ議長が先週亡くなりました。盟友のゲバラさんのTシャツを着用してきました。昔娘が芸大時代にプリントしたものです。
山本さんがトナカイの角を持って来てくれました。なんだかよくわからない「おっさん2ショットです。」
小池百合子現東京都知事が、10年前に環境大臣であった頃、ヤッシー・パークに環境の良い海であるということで表彰状が、道の駅やすのホールに掲示されていました。
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朝6時に横田政道さんの自宅に集合。冬至も近いので真っ暗だし、寒い事。自転車で出発。五台山へ向かいます。途中五台山農協婦人部が主催する良心朝市で野菜を調達します。の予定ですが、別のイベントに出店するとかで良心市はお休みでした。
まだ真っ暗な状態で五台山市民農園(下知愛のふるさと農園。農場主横田政道さん)へ行きました。津波雛入道等の太陽光ソーラー街灯がついています。、足元は暗いです。
農園では大崎修二さんが植えた葉キャベツ(?)が成長しています。ネギも成長していました。タイモも育っているようです。
下の果樹園で雑草引きをしている間に夜が明けました。横田さんと大崎さんが竹を組んで梯子をつくりました。自生している文旦の収穫です。わたしは5個だけいただきましたが、ほかの人は袋が一杯になるほど収穫していました。
両親がなにごともなければ、海の散帆に出かけます。
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2016年12月4日に高知市あんしんセンターにて開催されました「第5回市民とつくる防災フォーラム:(主催・市民とつくる防災フォーラム実行委員会(委員長中岡久幸氏)」の講演会と研修でした。
講師の高砂春美氏は(南阿蘇復興支援センター)を運営されています。過去阪神大震災や東日本大震災での復興支援ボランティア活動の中で、感じておられたことや、コメントを話され、また資料にまとめていただいています。
「避難所運営に関する自主防災組織の取り組みについての課題・問題点」という資料は、経験を踏まれて的確な言葉が多く出て来ます。
「被災者の安全と当面の衣食住を確保する(一次機能)と、生活復旧を支援する(二次機能)に区別する。」
「行政職員・教職員が出勤できない事態を想定した組織づくり。避難者中心の避難所運営のための組織づくりを支援する。」
「災害時にもリーダーシップを発揮する人材を養成する。」
また「避難者をお客やゲストにしない。」「避難所は避難者が運営することを原則にする。ノロウィルス対策と言われますが、トイレを清潔にし、手洗いを励行すれば防止できることです。避難者自身でできることです。」と実践を踏まえているだけに説得力がありますね。
「内閣府の避難所の班構成は12人も人がいります。実際には安否確認や救出支援活動で精一杯。班分けはおろか、避難所の開設さえままならないことが多い。」
「班分けや役割分担をつくって(安心してしまう)傾向が多い」
「班編成や組織や原則にこだわった避難所運営マニュアルや訓練では、避難所運営本部により管理という面が強くなる。管理からは自治は生まれないという実態があります。」
「自治・自立は交流から生まれ、ボランティアなどはそこを支援する」という避難所運営のあるべき姿を事例から学ぶべきではないか。」
また資料の中で「受援力の考え方」という提起は的確であると思いました。
「大規模災害に対しては、地域の防災力だけでは限界があり、支援要請の判断と受援体制の整備が必要。」
資料を画像にしました。熟読しましょう。
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2016年12月9日の午後はは、母(91歳)と一緒にはりまや橋商店街へ行きました。晴れていましたので歩行補助車で行きました。
コロッケ屋さんで夕飯のコロッケを購入しました。谷ひろ子さんのお店で焼き菓子とチョコレートケーキを買いました。10円饅頭も購入し、パン屋さんではクッキーを買いました。
活き活き100歳体操(介護予防体操)にはまだ早いので、母と一緒に谷ひろ子さんのお店でコーヒーと焼き菓子を頼みました。お茶をしました。
今日の活き活き100歳体操も屋外でしました。それほど寒くはありませんでした。
15人の参加者でした。来週(16日)で、はりまや橋サロンでの活き活き100歳体操は終わりです。翌週の23日が祝日で、年明けの1月6日から再開するようです。
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2016年12月9日(金)は、今年最後の二葉町の資源・不燃物ステーションです。朝6時から二葉町町内会副会長荒木三芳さんの指導の下、各町内の班長が仕分けをされています。
「高知方式」と言われる細かい資源物の分類は、瓶であれば「透明」「茶・黒」「青」と仕分けされています。段ボールは無地と印刷段ボール(雑紙)にしw消されています。この資源・不燃物ステーションの運営は町内コミュニティの大事な事業の1つです。
月に一度二葉町民が挨拶を交わし、知らない人とも顔見知りになる効果があります。高知市は町内会の事業により大規模な中間処理施設を建設する必要性がなくなりました。その分町内会に手厚い支援をすべきでしょう。
今日は午前中は父(97歳)の植田医院への通院の付添です。午後からは母(91歳)の付添ではりまや橋商店街へ行く予定です。今年もあと20日でお終いです。
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朝日新聞2016年12月5日と6日の両日は、NHK仙台放送局のアナウンサーである津田喜章さんの「てんでんこ」という記事が連載されています。
見出しは「番組のキャスターは。ときに怒れるアナウンサーと呼ばれている。」(5日)。「番組で被災者に呼びかけた。がんばれる人だけが、がんばって下さい」(6日)記事を読むと津田喜章さんが熱い人であることを思いだしました。
昨年坂本茂雄さんが企画された「東北被災地交流ツアー」に参加した折、参加者の懇親会の席に津田さんは同僚の塚原さんと一緒に来てくれました。
「防災避難訓練に、30代や40代の参加者が少ない。それでは駄目だ!!。子供たちを守るのはその世代ではないか!」と強く言われました。坂本茂雄さんのFBへの投稿で思いだしました。
12月18日に開催される下知地区防災訓練。若い子育て世代がどれだけ参加し、真剣になれるのか。地域の未来はかかっています。
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仁淀川町長者地区と高知市下知地区との地域間交流の様子を取材したいとNHKから申し入れがありました。長者だんだんクラブの西森勇幸会長と岡﨑守信副会長にご無理をお願いし、一緒に取材対応をしていただきました。
昼食は農村レストランだんだんの里でしました。長者小学校の児童が長者のゆるきゃらであるいのほし(いのししと星ケ窪の愛称)と一緒に仁淀川町をPRするCM撮影をしていました。
取材には大崎修二さんと西田政雄さんにもご協力いただきました。
西森会長にお願いし、長者地区の空き家の様子を見せていただきました。外見からは空き家と思えない家屋が多かったように思います。数件古城(こしろ)通り沿いの空き家の説明を西森さんにしていただきました。
「昭和43年(1968年)頃の長者は人口が2400人いました。古城(こしろ)通り二は、映画館やパチンコ店もありました。今は長者地区の人口は609人です。つい最近までお住まいされていた人の空き家もあります。」とのこと。
長者の広域公民館と、空き家の内部も見せていただきましたが、取材対応に追われ写真を撮影出来ませんでした。
4年前から高知市下知地区の二葉町と仁淀川町長者地区との交流が始まりました。田植え体験や稲刈り体験、花ショウブ祭り、七夕祭り、キャンドルナイトなどに有志で参加しました。とても楽しい体験でした。また11月3日の下知地区での「昭和秋の感謝祭」ではだんだんクラブの皆様に食材販売をしていただきました。
やはり「顔の見える地域間交流」をしたうえで、「疎開を前提とした話し合いを」しないといけないと思います。南海トラフ地震の高知市民12万人に「広域避難」を言われていましすが、高知県庁も高知市も未だに具体化していません。
どうか近日中に、私たちの「地域間交流」に高知市役所や仁淀川町、高知県庁も加わっていただきたいと思います。南海トラフ地震も迫っています。仁淀川町他ちゅ山間部の過疎高齢化も急速に進んでいます。今なら手を打てます。1日もはやく行政も参加いただいて、南海地震に怯える下知住民と過疎高齢化に悩む長者地区の皆様との「WIN WIN」の関係を盤石なものにしたいと強く思います。
12月19日のNHK高知の夕方のニュース枠の南海地震特集で放映されるやに聞きました。
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パク・ウネ大統領の即時退陣を求める韓国市民の街頭での抗議活動は物凄い。今のところ警備部隊との暴力的な衝突もなく、整然と行われています。大規模野外コンサートのように、ウエーブが起きたり、大合唱があったりして、週末のソウルの恒例行事になっています。
これを「民主主義の勝利」と称賛される人達もいます。週刊ポスト12月16日号の「逆説の日本史」を連載している井沢元彦氏は、伝統的な政治イデオロギーであった「朱子学」が韓国社会を蝕み世界観を歪めていたからだと言われています。
「韓国という国家、韓国人という民族ほど朱子学の毒に蝕まれている民族はいない。」(P71)
「朱子学は「亡国の学問」だと確信しているが、朱子学は民族に真実の歴史を忘れさせてしまうという、とんでもない副作用がある。」(P72)
「要するにこれは民主主義社会あるいは法治国家で定められるルールよりも、韓国人を厳しく縛り逆らうことを許さない絶対のルールがあるということだ。
それは言うまでもなく親に対する。「孝」そして血縁に対する身びいきを、国家や民族という「公」よりも重要視する儒教(朱子学)の影響であることは少し考えればわかる話である。」(P72)
「朱子学はインテリのヒステリー」と井沢元彦氏は言います。南宋時代に朱子は生まれました。中原の地域を異民族に宗は奪われ、揚子江の南に追いやられた南宋。その際,皇族をはじめ漢民族の女性の多くは連れ去られ、性奴隷とされました。
そのことで南宋の民は激しく外国を憎むようになりました。軍備を怠り軍事的に敗北した原因を冷静に総括せず、悪いことはすべて外国の「野蛮人」に責任を点火するインテリの負け惜しみ思想が朱子学であるようです。
司馬遼太郎さんも幕末期に日本で流行した「尊王攘夷」の思想は南宋が元祖で「薄っぺらな思想」と看破していました。
「この国のかたち」を読んだ読書感想文を2009年11月に個人ブログに書いていました。
「 司馬さんは「尊王攘夷」で幕末維新期は来たものの、明治政府は開国し、文明開化をなしとげ、当時の先進国にキャッチ・アップしようとした。「尊王攘夷」は、中国の宋時代の思想で「たいしたものではない、」と。結局明治政府は新しい国のかたちをもとめ、政府中枢閣僚が2年間も欧州に滞在し、ドイツなどの社会制度を性急に輸入し、プレハブ工法で社会制度をこしらえました。
ぎりぎりの国力と必死の外交的努力で日清・日露戦争に勝利したことがあだになり、昭和10年以降に無能な政治指導者や軍幹部が日本で台頭、結果明治国家を滅ぼしてしまった昭和10年から20年までの日本史を断罪されていることがよく理解できました。」
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6fb0.html
国家国民のことよりも家族のこと一族郎党の繁栄が何より大事という韓国に定着している朱子学の弊害が、歴代大統領一族の不正の繰り返しを生んでいるのでしょう。
またなんでもかんでも外国を悪にする思考、とくに韓国の反日運動・従軍慰安婦像を米国に立てる運動なども、いささか冷静さを欠いているように思えますね。
いずれにしてもパク・クネ大統領は辞任が解任されるでしょうが、再発防止の社会システムと韓国社会の思考システムの変革がない限り、韓国社会に未来はないのではないかと思います。
北朝鮮という「やっかいな独裁国」と隣接しているだけに、韓国の混乱は、隣国日本にとっても他人事ではありません。
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月曜・水曜。金曜の午前中は、父(97歳)の付添で植田医院で診察を受け、点滴をします。5年前に横田哲夫先生の紹介で通院するようになりました。
「減タンパク食(主食のご飯・パン・餅・ラーメン)に変更してから、数値が改善されました。特に尿素窒素が80台でしたか、今は20台になっています。減タンパク食を実践されない方は、同じ数年で皆透析になりました。
減タンパク食と適度な水分補給と、適度な運動がお父さんの腎機能を維持し、踏ん張られています。年齢から言えば奇跡的なことです。」とのことです。
(確かにクレアチリン値は横ばいで小康状態。毒素を示す尿素窒素は劇的に減りました。尿酸値はわたしより数値が良いです。)
点滴にはだんだん時間がかかるようになりました。歩くスピードが遅くなりました。いつまで健康を維持できるのかわかりません。戻ると冬になって初めて灯油ストーブを炊きました。でも午後は消します。
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一般社団法人日本損害保険代理業協会のチラシをいただきました。
いつ起きてもおかしくない大地震です。
「地震保険の保険金は、被災時の”生活再建資金”となります。」「地震・噴火・またはこれらによる津波を原因とする損害は地震保険で補償します。」「火災保険ではお支払できません。」「地震保険は火災保険とセットで加入することができます。(単独では加入できません)」とか。
地震保険は火災保険で補償されない地震・噴火・津波により家屋や家財が火災・損壊・流出・埋没の損害を被った時に、保険金が支払われます。
政府と損害保険会社が共同で運営している保険ですので、確実に支払われます。地域によって保険料は異なりますが、最低限の火災保険と地震保険に入る必要性はありますね。
日本は地震列島です。どこで地震が起きるのかわかりません。2012年時点では熊本や鳥取で今後30年以内に震度6弱以上の地震に見舞われる確率は、4%台でした。高知などは60%以上ですから。
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さすがに師走で仕事も忙しい。超高齢者の両親は寒くなると感染症のリスクが高まります。父(97歳)を週に3回植田医院へ通院の付添をするのが怖いです。18日は下知地区総合防災訓練です。下知地区の活動についての関連取材がありました。これからもあるかもしれません。20日は岩手から津波の語り部の人が来られるとか。こちらは岩手国体のヨット選手であった海の駅クラブ事務局の人の紹介。
販売製品への問い合わせに対する回答もしないといけない。時期的に多いんですね。丁寧な文章による説明も必要ですから。わたしはある意味「プロのライター」です。ホームページを丁重に読まれた人から問い合わせのメールが来ます。主に午前4時過ぎに起床し、お返事を書いています。納得いただければ製品の購入になりますから。
個人的にお世話になった人にも手紙を何通も書かないといけない。相手は電子メールをしない人。お手紙を書くのも労力です。案外大事な情報はアナログの世界にありますから。軽視することはできません。
すべてはできず「積み残しに」。そのうちまた情報やイベントがあり、整理のために報告文章を書かないといけないですね。忘れるから。また私は「今日の出来事は、今日のうちに記録文章を書いて、ブログやフェイスブックに掲載する作業もしています。」今日中にしないと明日はまた別の出来事があり、振り返ることができないからです。
振り返り、反省するのは自分の書いたブログを落ち着いた時間が取れる後日に読んで。検討します。最大の読者は自分であり、そのために毎日日にち記述しています。
あれやこれやと積み残しています。焦らず的確に処理したいものです。昨年のように「自爆」(救急搬送・ボヤ1歩手前・亀裂骨折)をしないように注意します。ですので100%処理は目指さないので、どうしても「積み残し」状態になります。でもそれは仕方がありません。
天気図では雨を降らした低気圧が東へ去り、3つの低気圧が表記されていますが、しばらく晴れ間が続き、週末までは晴れのようですね。
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2016年12月4日(日曜日)は、午後12時半から16時半の予定で、「その初動が命を守る!」という講演会とワークショップが開催されました。
主催は「市民とつくる防災フォーラム実行委員会」(委員長中岡久幸氏)です。場所は高知市総合あんしんセンターです。下知地区減災連絡会の森宏会長と一緒に電車で行きました。
到着しますと講演が既に始まっていました。
講師の高砂春美氏(南阿蘇復興支援センターよろず相談室)は、阪神淡路大震災の最中に避難所運営本部を立ち上げ、被災者の自立と復興を目標に活動をされてこられました。東日本大震災後も支援活をなさっておられます。現在は熊本地震の被災地の阿蘇と南阿蘇地域を支援されておられます。
「繰り返される自然災害での対応を見ていると、被災者側にも支援者側にも、災害の教訓が活かされていない場面が散見される。
行政には対応の限界がありますので、早い段階から外部の応援部隊を頼るべきですし、被災者は自らニーズを発信して、少しでも置かれた環境を改善して行く努力をすべきです。」
「当初熊本県は県外からのボランティア支援を拒絶していました。大災害時に平時の対応をしていました。市町村の要望がない限り動かないと決めていました。熊本市は50万都市で自力で何とかなりますが、益城町や阿蘇や南阿蘇はどうにもありません。
われわれは地元の要請もあって阿蘇と南阿蘇の支援に入りました。」
言われていることは実にもっともなことです。いただいた資料でべつにまとめます。
春野東小学校取り組みの発表がありました。5年生6人の発表でしたが、堂々としていました。防災訓練の様子や、防災授業の様子もわかりました。地域と連携した取り組みが行われています。
南海中学校では、防災への取り組みを寸劇にしていました。校区内にある若宮八幡宮の長宗我部元親にちなみ「一領具足」の考え方で「いつでも避難・防災」を意識した生活を送るようにしているとのことでした。
休憩の後に7つの体験・体感コーナー(シェイクアウト・簡易トイレ・自分の部屋・緊急・救命処置・避難所運営・ガラス飛散防止・アルファ米試食)などもあり、実践的な内容となっています。
各地防災会のメンバーに多くお会いしました。下知からも8人参加しておりました。18日の下知地区総合防災訓練の参考になりました。市役所の山中晶一さん、主催者の中岡久幸さん、西田政雄さんご苦労様でした。
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2016年12月4日は、父(97歳)のリハビリ・ゴルフの付添に行きました。今朝は南国高知でも少し寒い。ラビータの温度表示は11時でした。でも曇っていて風がないので、しのげます。
いつものように自己流の体操をして、OS-1(経口補水液)を飲んで水分補給をしています。ゴルフクラブを杖替わりにして最近は歩行も遅くおぼつかない父ですが、球を打ちだすとしっかり打っています。
休み休みで125発打ちました。歩行は本当の遅い。階段昇降にも苦労しています。でもそれ自体がトレーニングですから。敷地の狭い自宅では階段1段の高さが22センチもあります。(下知コミュニティ・センターは半分の11センチ)。足腰が弱ると自宅で生活できませんから頑張らないといけないです。
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「売る力 心をつかむ仕事術」(鈴木敏文・著・文藝春秋・2013年刊)」を古本屋で購入して読みました。2013年と言えば、まだまだ全盛期の鈴木敏文氏の時代でしたね。
2016年2月に「なんだかよくわからない」社内の争いに嫌気がさしたのか、セブン&アイ・ホールディングスの役職を退任されました。今の心境はいかに。
成功した人に共通する「武勇伝」の連続ですが、ライターが上手いのか嫌味はさほど感じません。本人によれば、レジ打ちも現場での販売も未経験ですが、お客の立場に立って一貫して販売戦略を考え、実行し」、成功した人でした。
前人未到の道を突き進み、成功事例を豊富に作り上げた人なんでしょう。コンビニエンス・ストアという「本部だけがぼろ儲けするシステム」「果てしなく店主や店オーナーは収奪され続ける奴隷経済システム」の生みの親でもあります。悪徳商人と言ってもいいでしょうね。
「ごほうび消費やメリハリ消費 イベント消費こそチャンス」
「現在の消費者は消費を正当化する理由を求めている」(P73)
このあたりは「つかみ」のお話でした。
鈴木氏は「私が提案して反対された13のプラン」(P82)を説明されています。いずれも後日すべて実現されたものです。提案当初は関係者各位から猛烈に反対され田プランでした。
1)トーハンの弘報課時代、20代でPR誌の「新刊ニュース」の抜本的なリニューアールを提案し、上司や役員に反対された。
2)30歳の時に転職したヨーカ堂では管理部門を担当し、資金調達のため株式上場を上層部に進言し、社内外の顧問弁護士やメインバンクからも反対された。
3)スーパーのような大型店と小型店とは共存共栄が可能であることを示すため、日本初めての本格的コンビニエンス・ストアチェーンであるセブン・イレブンの創業を提案し、会社の幹部、業界関係者、学者・・・・とあらゆる方面から反対された。
4)多くの品目を扱うコンビニ経営を成り立たせるため、大口配送が業界の常識だった時代に、小口配送を求め、問屋から猛反発された。
5)コンビニは正月も営業する以上、新鮮なパンを提供できるよう、製パンメーカーに正月中も製造を求め、猛反発された。
6)セブンイレブンの店舗への納品車両台数は創業当初、1日70台にも上ったので(現在は9台)、これを減らすため、牛乳メーカーに他社製品も混載する日本発の共同配送を提案し、これも猛反発された。
7)コンビニで販売する日本型のファーストフードが必要と考えて、弁当やおにぎりの販売を提案し、そういうのは家でつくるのがぞ常識だからと売れるわけがないと」反対された。
8)ヨーカ堂が三越を抜いて経常利益日本1になった翌年度の1981年度中間決算で創業以来のの減益に陥った。売り手市場から買い手市場への転換に対応するため「豊富な品ぞろえ」から、「売れ筋商品の絞り込みと死に筋商品の排除による在庫削減」へと根本的な政策転換を唱えたところ、「在庫を減らすと売り上げが落ちる」と反対された。
9)消費税が3%から5%へ引き上げられた1997年の翌年、不況突破企画として「消費税分還元セール」を発案した際、普段の売り出しで10%、20%引きでも必ずしも売れるわけではないのに、5%では魅力を感じてもらえない。と営業幹部の大半から反対された。
10)セブン―イレブンの店舗で顧客にいつでも焼きたてのおいしいパンを提供できるよう、製造工場を出来るだけ店舗の近くに配置換えし、製造から配送まですべてを組み直す提案に対し、製パンメーカーから拒否の意向が示された。
11)セブンイレブンの店舗にATMを設置するため。自前の銀行(現セブン銀行)を設立する案に対し、素人が銀行を始めても必ず失敗する。と金融業界を中心に否定論の嵐が巻き起こり、メインバンクからも頭取が直々に来られて、反対された。
12)低価格優先ではなく、質を優先するPB商品を開発すること。それを、グループのどの業種でも同じ価格で販売することに、社内から反対の声があがった。
13)ワンランク上のPB商品、セブンゴールドの開発を提案すると、価格を高くすると売れないのではないかと消極的な声が聞かれた。( P86.)
まさに鈴木節の真骨頂ですね。
「実現する方法がなければ、自分たちで考えたらいい」
「お客さまのためにはうそ、お客様の立場でが正しい」
「変化に対応すれば市場飽和はありえない。」(P202)
「目の前の石垣を1つい1つ積んでいかなければ、いくら先を読んでも仕方ない。」
「売る力は挑戦と努力で高まる」
実践家ならではの言葉で最後のページを締めくくっています。
「仕事の現場にいる人たちは、けっしてサボったり遊んだりしているわけではないでしょう。人それぞれに一生懸命で必死でやっていることでしょう。それでもうまくいかないときは、いますぐに自分の目の前の状況を洗い出し、考え方を1度すべて白紙にして戻し、原点に立ち返って考えることです。」
「そしてすべてお客様の立場で考えて、毎日真剣勝負で、1歩踏み込んで挑戦し努力を重ねることです。
自分に言い訳するくらいなら、懸命にやったほうがいい。失敗したらこれはやむを得ないと覚悟しながら、恐れることなくやるだけのことはやったほうがいい。自分の能力いっぱいの力を尽くす。もし転んだら反省してまた挑戦すればいいのです。
真剣勝負で本気の人には必ず、チャンスがめぐってきます。」(P243)
今年は騒動があっただけに書き出しした言葉を「神格化」することはなく、いいものはいいという観点で読んでみました。13の無理難題も、結果すべて実行し、成果を上げたものばかりです。
提案力と実行力はたいしたものであると感心しました。自分などはまだまだ工夫も実行力も足りないと思いました。反省します。
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2016年12月3日の早朝は五台山下知愛のふるさと農園(横田政道・代表)での草むしりに行きました。夜明けが遅くなりましたので、作業時間も繰り越されますね。
自宅を出たのは9時過ぎに。夜須へ到着しますと大勢の人達がハーバー隣のビーチの清掃活動をされていました。だいたい終わりかけの頃に少しだけ清掃作業をしました。
それからぎ装し、」着替えて海へ出ました。早朝は寒かったですが、海へ出艇する時間帯(11時前)には暖かくなっていました。暖かいのですが風がまたも弱いです。でも下手くそな年寄りは怖くないからいいです。
いつもは遠くの沖合の海面で帆走練習をしている高知大学ヨット部やジュニア・ヨットクラブの皆さんたちは、ハーバーほど近くの海面でブイを打ち模擬レースをされていました。
ヤッシー・パーク内の津波避難タワーの建設もされていました。海側から確認しました。もしもの津波警報発令時には、ヤッシー・パークの津波避難タワーに着艇後、駆け上がるのが安全ですね。完工は来年3月末と聞いていましたが遅れるようです。
午後も風がなく、まったりと浮かんでいました。お蔭様で四国巡業の疲れがとれました。まったりと海の上で出来ましたので。最高でした。
久々のおっさん2ショットです。
なにかとせわしく、また悪天候も続きました。しばらく山本宏幸さんとのおっさん2ショットが出来ませんでした。私が赤い服を着用していたせいか、クリスマス・バージョンになっておりました。
12月にもう一度来れるかどうかわかりません。
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「日本会議の研究」(菅野完・著・扶養桑社・2016年刊)を読みました。安倍内閣の政治姿勢に大きな影響力を発揮していると言う「日本会議」。その実態は不明であり正直不気味な存在であると感じていました。
菅野完氏と言う1974年生まれの42歳の若い執筆者の真摯な調査活動により、実態が判明いたしました。「日本会議」は政府・自民党に強い影響力を今や持っており、著者は「市民運動が嘲笑の対象にさえなった80年代以降の日本で、めげずに、愚直に、地道に、そして極めて民主的な市民運動の王道を歩んできた「一群の人々」によって、日本の民主主義は殺されるだろう」と記述しています。
筆者は1年間「日本会議」を調査するために毎日図書館に通い。古書を漁り、人に会い続け調査ノートを作成し、資料を集め取材を続けてこられました。2015年に作業を続けておられたそうですが。「安保法制の国会審議」を横目に見ながらの作業でしたが、何故メディア各社や学者が、今や日本社会に大きな影響力を有している「日本会議」を研究しないのか、調査しないのか常に憤りを持っていたそうです。
「速報性と正確性が何よりも必要とされる大手メディアの仕事の範疇ではないのだ。調査・報告はやはり新聞やテレビ以外の仕事だ。また学問の範疇でもないだろう。学問の対象とするには生々しすぎる。
テレビ・報道がカバーをするには歴史が長すぎ、学問の対象とするには歴史が短すぎる。そういう間(はざま)に「日本会議」は存在している。(P296)
現実の日本社会に大きな影響力を与えているにも関わらず、正確な実態がそういった事情でわからず不気味でしたが、菅野氏の渾身のレポートでその正体がようやくわかりました。
日本会議が目指ものは、6項目あるようです。
1・美しい伝統の国柄を明日の日本へ
2・新しい時代にふさわしい新憲法を
3・国の名誉と国民の命を守る政治を
4・日本の感性をはぐくむ教育の創造を
5・国の安全を高め世界への平和貢献を
6・共生共栄の心でむすぶ世界との友好を
という美辞麗句で,記述されておりよくわかりません。筆者の「解説」は下記にありますが、読んでも曖昧であり、めざすべき彼らの言う「あるべき日本の姿」は今1つわかりません。
「(1)皇室を中心と仰ぎ均質な社会を創造すべきではあるが、(2)昭和憲法がその阻害要因になっているために改憲したうえで昭和憲法の副産物である行き過ぎた家族観や権利の主張を抑え、(3)靖国神社参拝等で、国家の名誉を最優先とする政治を遂行し、(4)国家の名誉を担う人材を育成する教育を実施し、(5)国防力を高めたうえで自衛隊の積極的な海外活動を行い、(6)もって各国との共存共栄をはかる」(P23)です。
「キーワード的には「皇室中心」「改憲」「靖国参拝」「愛国教育」「自衛隊海外派遣」といったものでしかなく、「日本会議が目指すもの」に示された内容の思想性や政治性に目新しいさは一切ない。」(P24)が実態のようです。
内容が陳腐で新規性のないものであったとしても「いまや日本会議は、閣僚の8割以上を支える一大勢力である。現実に、彼等は「なんら新奇性のない古臭い主張を」確実に政策化し、実現化している。」(P24)
わたしは戦前の思想家大川周明に注目していました。かれは米英諸国の「片手に民主主義」「片手に帝国主義」のダブル・スタンダードを厳しく批判し、英米帝国主義からアジア人民を解放するために日本帝国の役目はある。と主張し、現実に語学学校をこしらえ、塾生を東南アジア各国に派遣(フィリピン・ビルマ・インドネシア・マレーシア・ベトナムなど)し、現地の民族解放運動を担う指導者層に食い込んでいました。
「大川周明 アジア独立への夢」を読んで
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-892d.html
日本会議に大川周明のような、大きな思想はありません。ありませんが何故時の政治権力者に影響力を与えることができたのでしょうか?その検証にこの著作は役だっています。
「思想による影響力」というよりも、活動方法は「手順を踏んだ民主的な地道な市民運動の手法を執拗に全国展開でやり続行けている」ことではないでしょうか。
「日本会議の特徴は、個別目標の相応した分科会的な別働団体を多数擁している点にある。
例えば改憲と言う目標。この目標を達成するため、日本会議では冒頭で紹介した「美しい日本の憲法をつくる国民の会](通称1000万人ネットワーク)をはじめとし、「新憲法研究会」や「21世紀の日本と憲法有識者懇談会](通称・民間憲法臨調)など複数の別働団体を擁している。
これら各種別働団体は、特段、日本会議であることは名乗らないものの、日本会議系団体であることを隠しもしない。あくまで別働部隊として、個別にシンポジウムを開催したり署名活動を行ったり、街頭演説を行ったりと実に様々なチャンネルで自分たちの主張を繰り返している。」
「また、活発な地方活動も特徴の1つだ。日本会議自体が「日本会議地方議員連盟」なる組織を擁しているのみならず、個別別働団体が、それぞれの地方組織を持っており、それら地方組織が地方議員を支え各自治体の議会での影響力を行使している。」
中略
「中央に置いて、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」を通じ、1000万人の改憲賛成署名を集めることを目標として活動する一方、地方の活動にも抜かりはない。
日本会議はその地方支部を通じ、あるいは別働団体の地方支部や地方協力団体を通じ、地方議会の議員に働きかけ、次々と早期実現を求める地方議会決議」を行った地方議会は、25府県議会・39市区町村議会にのぼる。」(P26)
2014年2月の石川県議会で最初に採択されその後、熊本、千葉、愛媛と採択された居ます。高知県議会でも採択されていました。最初の事例となった石川県議会の意見書は、日本会議の案文しのまま。自民党本部から各都道府県支部に、石川県議会に続けと言う通達がされ、2014年から15年かけて意見書採択の動きが広まったようです。
教科書採択運動やや男女共同参画反対運動などの活発な市民運動を繰り返し、民主主義的な手法を屈指し、改憲運動を全国展開しています。
地方議会への請願は、地域防災の観点からしたことはあります。各会派を巡回し、主旨を説明し、委員会審議にかけて採決していただくもの。書類の作成や各会派訪問など手間暇のかかることです。
日本会議は全国規模で、地方議会への請願という民主主義的な地道な方法で執拗に継続し、改憲運動を「草の根」で展開していることがよくわかりました。
また筆者によれば、その運動のルーツは1969年の長崎大学での民族派学生によるバリケード封鎖解除、学園正常化闘争に起因しているとか。学生自治会も支配し、成功体験をこしらえたとのこと。それ以後47年間地道な民主的な手法で、改憲運動をやり続けてきたようです。
多くの新左翼党派や運動が1969年をピークに解体し、分裂し、内ゲバで抗争し続け消滅、今や市民層に何らの影響力を持たない体たらくとは対照的に長崎大学のたった1つの成功体験を保持し、半世紀にわたり地道に改憲運動を執拗に民主的なやりかたで継続している日本会議のやりかたに驚きました。
安藤巌氏と言う表に出ない優秀な組織工作者の存在が大きいのでしょう。
「むすびにかえて」で菅野完氏はこう述べています。
「事実を積み重ねて行けば、自ずと、日本会議の小ささ、弱さが目に付くようになった。活動資金が潤沢なわけでも、財界に強力なスポンサーがいるわけでもないほんの一握りの人々が有象無象の集団を束ね上げているに過ぎない。」
中略
「しかしながら、その規模と影響力を維持してきた人々の長年の熱意は、特筆に値するだろう。本書で振り返った、70年安保の時代に淵源を持つ、安藤巌、椛島有三、衛藤晟一、百地章、高橋史朗、伊藤哲夫といった「一群の人々」はあの時代から休むことなく運動を続け、様々な挫折や失敗を乗り越えて、今安倍政権をささえながら、悲願達成に王手をかけた。
この間、かれらはどんな左翼・リベラル勢力よりも煩雑にデモを行い、勉強会を開催し、陳情活動を行い、署名活動をしてきた。かれらこそ市民運動が嘲笑の対象とさえなった80年代以降の日本において、めげずに愚直に市民運動の王道を歩んできた人々だ。
その地道な市民活動が、今「改憲」と言う結実を迎えようとしている。彼らが奉じる改憲プランは。「緊急事態条項」しかり、「家族保護条項」しかり、おおよそ近代的とも呼べる代物ではない。むしろ本音には「明治憲法復元」を隠した、古色蒼然たるものだ。しかし彼らの手法は間違いなく民主的だ。」
「私には、日本の現状は、民主主義にしっぺ返しを食わされているように見える。
やったって意味がない。そんなの子供のやることだ。学生じゃあるまいし・・・。と日本の社会が寄ってたかってさんざん馬鹿にし、嘲笑し、足蹴にしてきた、デモ、陳情、署名、抗議集会、勉強会といった「民主的な市民運動」をやり続けていたのは、極めて非民主的な思想を持つ人々だったのだ。
そして大方の「民主的な市民運動」に対する認識に反し、その運動は確実に効果を生み、安倍政権を支えるまでに成長し、国憲を改変するまでの勢力になった。このままいけば「民主的な市民運動」は日本の民主主義を殺すだろう。なんたる皮肉。これでは悲喜劇ではないか。」
筆者はにもかかわらず希望をすてないようにしようと言っています。
「だがもし、民主主義を殺すものがが「民主的な市民運動」であるならば、民主主義を生かすのも「民主主義の市民運動」であるはずだ。そこに希望を見いだすほかはない。賢明な市民が連帯し、かれらの運動に習い、地道に活動すれば、民主主義は守れる。」(P298)
とても複雑な気持ちになりました。1969年というわたしとほぼ同時代に社会活動をはじめた人たちが、その後も執拗に自分たちの運動を継続し、国政に影響力まで持つようになりました。
わたしといえば1976年以来社会運動はしていません。「連合赤軍と新自由主義の総括」がここ数年来の私のテーマでした、日本会議の連中は「明治憲法の復活」という懐古思想で彼らなりの回答を社会に主張していました。
ほぼその思想はかつての生長の家の考え方の踏襲であると思います。中学時代に生長の家の幹部の人に冊子を送っていただき読んでいましたからよくわかります。精読はしましたが、共感することは全くありませんした。
復古調の荒唐無稽な考え方が。日本国政に大きな影響力をもっていることに危機感を覚えます。かといって今の制約だらけのわたしには何もなす事ができません。それがとてももどかしい。
推薦図書の1つです。
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金曜日の午後は、母(91歳)と一緒にはりまや橋商店街へいきました。晴れていましたので、歩行補助車を持って行きました。
いつものコロッケ屋さんで夕飯のコロッケを購入しました。10円饅頭も買いました。
谷ひろ子さんのお店で焼き菓子とチョコレートケーキを買いました。
今日は活き活き100歳体操の前に、NHKの取材がありました。偶然横田政道さんも来られたので、お話を聞いていただきました。昭和南海地震の特集があるそうです。
母も元気に活き活き100歳体操をしていました。
戻って父(97歳)と合流し、主治医の横田哲夫先生(横田胃腸科内科)の診察を受けました。両親とも「特に医学的な所見はない。」(つまりは健康)であるということでした。
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2016年12月1日に、高知市城見町9-21に、画材・額縁の店舗である龍文堂が開店しました。8月31日に閉店した水谷龍文堂を継承する形で、西森慶二さんが経営者となりスタートしました。
開店の日は徳島へ1日行っておりましたので、2日に伺いました。店内は絵具や鉛筆などの画材や額縁なども綺麗に陳列されていました。オリジナル額縁を制作する小型工具もあり、フラットな店内は明るく雰囲気です。
末永く繁盛されることを願います。
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2016年11月18日に、下知コミュニティ・センターにて「JICA課題別研修・コミュニティ防災実施」についての事前打ち合わせが行われました。高知大学からは大槻准教授と中原さん。下知地区減災連絡会事務局長の坂本茂雄さん。下知知己内連携協議会会長の国見俊介さんが出席されていました。完全に打ち合わせ日であることを忘れていて、遅れて参加しました。
それで来年(2017年)3月2日に下知地区での研修と意見交換会をすることになりました。今年9月22日に実施したJICA研修生の皆さんとの交流や意見交換、下知まち歩きが研修生の皆様に好評であったからでした。再度のリクエストが高知大学からありました。
しかも今回はテーマが「コミュニティ防災」です。研修コースの意義と目的には以下のように記述されています。
研修コースの意義と目的
「阪神淡路大震災、東日本大震災を経験した日本ではコミュニティ防災の取り組みが活発化している。発災時、行政の対応(公助)だけでは限界があり、自分の身を努力によって守り(自助)、地域や近隣の人々が互いに協力し合う防災活動への組織的な取り組み(共助)の重要性が認識されたからである。
日本の災害対策の根幹となる災害対策基本法においても、市町村は自主防災組織の充実や、住民の自発的な防災活動の促進を図るように努めなければならない旨規定されている.(第5条第2項)
本研修では、開発途上国の防災担当行政官を招き、コミュニティにおける自助、共助の考えをベースとした自主防災組織活動、地方自治体と住民との関わり、都道府県の役割等についての視察、講義、実習により理解することを目指す。また、学んだ研修成果を自国へどのように応用できるのか話し合い、帰国後の各国の防災対策アクションプランを作成することを目的に実施する。」とあります。
現在下知地域では、「下知地区防災計画=事前復興まちづくり計画」が、昨年度より取り組んでいます。6回の地域全体のワードカフェ実施により意見の取集を計っていて、現在はより細かな町内単位の意見交換会を実施しています。
都市部のコミュニティが衰退している地域をいかに再生し、「災害にも強い魅力的なコミュニティ下知」をこしらえようと取り組んでいるにで、現在の状況を発表し、優秀な国家官僚の防災担当官と意見交換ができることは、ローカルの1住民とすれば幸運です。
じっくり考え取り組んでみたいと思います。
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徳島方面へ巡業(需要家訪問)に行っておりました。一般国道の時代では片道4時間はかかり、日帰りではとてもきつかったですね。今は2時間半で行けるようになりました。楽ですが高速道路代金は髙いですね。
インフラがとても貧弱な高知県ですが(四国には新幹線も絶対来ません。特に高知へは)、高知自動車道路が4車線と言うのは「革命的」ですね。山岳道路でトンネルと橋の連続。建設費が1Mが900万円かかったと言われていますが、よくぞこしらえてくれました。ありがたいことです。
それに引き替え徳島自動車道路は対面通行の高速道路。怖いです。
全国的にも対面通行の高速道路での正面衝突が多発しているそうです。
http://response.jp/article/2016/06/07/276511.html
(高速道、対面通行で死亡事故相次ぐ…暫定2車線は全体の30%)
中央分離帯はゴムですから、何の抑止にもなりません。もし対向車が居眠り運転していて突っ込んでこられたらよけようがないし、お互い90キロ前後のスピードですから重大死亡事故になりますね。髙い通行料金を取っているんですから、道路管理者はなんとかする義務がありますね。
さて 徳島市も相変わらず「川の街」ですね。市内中心市街とは川に囲まれ低地でしかも海も近い。南海地震が発生すれば甚大な被害が出る可能性がありますね。海抜表示は目立ちませんが、2Mとか3Mという表示ですね。
助任川の橋も市街地から盛り上がっています。吉野川大橋も市街より数メートル高く、市街地は2M程度。徳島市中心市街とは助任川と新町川の間の海抜の低い島。海抜0メートルの島である高知市下知地区と同じです。
池田(三好市)へも寄りました。こちらは標高が高く、吉野川の河岸段丘に形成された街ですね。徳島県西部の拠点都市。「四国のへそ」と呼ばれています。
古い街並みも残っていますね。うだつマルシェもこの町並みで開催されています。
脇さんにもお会いしました。池田の中心街のバスターミナルと商業施設の前にあります。お元気そうでした。娘さんはネール・アーティストになられておられました。神戸と池田でシフトを組んでお仕事をされておられています。
帰路に大豊で降りて国道32号線を走りました。高速が出来る前は走行していました。まったり走行するには良い道路ではあります。
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