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2016.12.21

「読書と日本人」を読んで

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 「読書と日本人」(津野海太郎・著・岩波新書・2016年刊)を読みました。出張で先日東京へ行った折、東京在住の下の子どもと新宿の紀伊国屋書店で待ち合わせしました。その折に購入しました。「読書の秋」でもありますし。

「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていは自分の部屋でー。」それがいま私たちがふつうに考える読書だとすると、こういう本の読み方はいつはじまったのだろう」(P3「はじまりの読書」)から筆者は書きだします。

 どうやら1000年ぐらい前の源氏物語が公表された頃から、「黙読」はあったのではないかと筆者は述べています。

「9世紀から10世紀にかけて、宮廷の女たちのあいだで漢字の草書体をもとにした表音文字、つまり平仮名が日常的につかわれるようになった。そして、この日本語表記のための新しい文字によって、それまでの男の知識人が仕切る漢字文化のもとで沈黙をしいられてきた女たちが、和歌や日記や、随筆や手紙、ついには「源氏物語」のような巨大な物語まで、じぶんのことばで書いてみせるまでに変ぼうしてゆく。」(P11)

 一方官僚のような知識人は、当時の先進国中国の書物や、先人の書物を今でいう「読書ノート」を作成しながら読書をしていたようです。

「巻子本(巻物)は保存や携帯に便利だし、立派にも見えるけど、必要な箇所がさがしにくい。そのために抜き書きをつくって貯めておく。
 そのようにして複数の写本に当たり、比較し、正しいテキストをさぐりあてて注釈をつける。それが当時の「学問の道」の本筋であり、さきほど仮に(学者読み)と名付けた読書の型もそこから生まれてきた。」(P16)
 
 昔は印刷技術も稚拙で発達していませんし、コピー機なんぞもありません。本は写本されていました。気の遠くなるような作業です。でもそれだけ精読し、要点を書き出し、自分のものにしていたのでしょう。

 読書の目的は東洋と西洋とではかなり違っていたのではないかと筆者はいいます。

「ともあれ、こうして政権中枢の皇子や貴族たちが、中国学習の先達たちたる百済人の力を借りて、中国の古典を懸命に読みとくというしかたで、この国における(学者読み)の歴史がスタートする。

 そのさい、かれらの読書法のお手本となったのが本場中国での学問の伝統です。漢代の中国で、紀元前2世紀に新しい国家教学としての儒教を軸に、「論語」「詩経」「書経」「礼経」「易経」「韓非子」「史記」「漢書」などの経典化・古典化が開始され、それが自分の頭で考えるよりも,さまざまな写本を集めて正しいテキストを定め、精緻な注釈をほどこす研究法として磨きあげられていった。」

 そのやりかたが日本へ本格的に導入されたのが8世紀後半の文武天皇の時代です。大宝令(701年)になり、天皇中心の律令国家になるための学制であり、官僚制度を整えたようですね。

 西洋の学問とは全く対照的ですね。

「科学史家の中山茂が、その著{パラダイムと科学革命の歴史}で、ヨーロッパの学問を推し進めるエンジンは「論争」だったが、中国の学問では「記録の集積」が優先された、という意味のことをのべています。

 したがって中国の教育では、他人を説得する(弁論力)ではなく、紙や竹簡にしるされた先行者の言動(先例)を、繰り返し声に出して読み、そのすべてを頭に叩きこんで、必要な時に瞬時に思いだせるようにすること、つまり(記憶力)がもっとも重要視されることになる。」(P20)

 古典の記憶力や、それを利用しての文章力が官吏としての優秀さの基本であるということで、科挙などで登用される人材はその勉強法を極限までしたのでしょう。

 自国の国力が精強であった時代は、それでもいいですが、隣国や西洋諸国が力をつけてくるとそうした「秀才」や「読書人」の官僚が「役立たず」であったことは中国でも「小中華」の朝鮮でも同じでした。

 中国の近代化は「アヘン戦争」であり、朝鮮の近代化の始まりは「日韓併合」から始まるのですから。」いかにアジア的な学問のやり方が陳腐化していた事例でしょう。

昭和の初めの頃に「硬い本」(哲学書)などが多くの市民大衆に読まれ、また岩波新書など気軽に読める教養本も刊行され、文庫本も出るようになり、一気に市民大衆へ読書熱が蔓延した時代もあったようです。

 それが最近「若い人たちが本を読まなくなった。」と言って久しい。外国帰りの人達が、東京の電車の中で大学生や若い人たちが漫画本を堂々と読んでいて嘆かわしいと言われていたのが40年ほど前の話。

 今は電車の中で観察しても昼間の空いた時間帯で、60人が一両に座っているとしてうち40人はスマホの画面を見つめてなにかしています。読書をしている人は2人ぐらい。漫画本を読んでいる人はいませんでした。

 電子媒体の本が普及するかと言われたら、「ある程度」はするでしょう。紙媒体の本が全部なくなるかといえばそうはならないとは思います。

 筆者の津野梅太郎氏は、編集者であり評論家。演劇もやっていたという経歴。文体は讀みやすく、学者や作家の「読書のすすめ」的な書籍とは変わっていました。面白い本でした。「読書の秋」ですから、気を取り直して読書をしようと思いました。

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