五島正規さんを偲ぶ会へ行きました。
昨年11月に77歳でご逝去されました五島正規さん。2017年2月19日にクラウンパレスホテル高知にて、偲ぶ会が開催されました。偶然坂本茂雄さんご夫妻と同じ電車で行きました。1昨年6月1日にいずみの病院防治会理事長室で横田政道さんと一緒にお会いしましたが、その時はとてもお元気でした。未だにご逝去が信じられません。
中選挙区時代の1990年に旧社会党から立候補され衆議院議員に当選され、2005年までされておられました。民主党を設立されるメンバーであり、医師としての知見と幅広い知識で国政でご活躍されました。
「護憲と脱原発で新しい政治の動きをつくりたい」と言われていた矢先のご逝去でした。幅広い交流がありましたので、偲ぶ会にも大勢の人達が来られていました。知り合いにも多くお会いしました。
幅広い交流関係を表していますように弔辞を読まれた来賓も多種多彩でした。最初は山本有二さん(農林水産大臣・自民党)でした。
「私と五島先生は1990年の中選挙区時代ともに激戦を勝ちあがり当選しました。7万票を超える得票を取られました。本音は一致、表向きは対立の関係でした。反自民の巨星でした。時に一緒になり戦ったこともありました。10年前の2007年には、高知をなんとかせんといかんということで、尾﨑知事誕生の原動力になっていただきました。」
「私が子供時代に勤労病院の医師として五島先生に診察を受け励まされたことがありました。五島さんの提唱で、日本1の長寿県構想をまとめさせていただきました。」(尾﨑正直高知県知事)
「介護保険制度や社会保障のエキスパートとしてしばしば助言をいただきました。」(岡﨑誠也高知市長)
元官僚の人達からは、「介護保険制度をこしらえ実現できたのは五島正規さんがいたからです。官僚と政治家が夜な夜な真摯な議論をし、合意形成して作り上げたのが介護保険制度です。五島さんの医療現場で鍛えられた知見は素晴らしいものがありました」と言われていました。
「私が北海道知事時代から、リバラルの会でともに行動していました。後の民主党の結成になりました。1992年に五島さんが議員立法でアスベスト禁止法案を出しました。しかし建材業界などが自民党に働きかけ廃案にされました。その間1万6千人の人達が苦しみました。2012年にようやく全面禁止になりました。残念です。
交通バリヤフリー法や、NPOやNGOの育成とか市民の発意を大事にされた方でした。」(横路孝弘・衆議院議員・民進党最高顧問)
「わたしはいつも五島先生の叱られ役でした。社会の不条理を正すのが労働運動だ。非正規雇用を真剣に取り組め。と言われました。五島さんの精神を受け継いだ形で運動を展開しています。」(折田晃一連合高知会長)
最後に謝辞を奥様の五島保子さんが述べられました。
「2016年4月に高知医療センターで手術し、6月にはいずみの病院へ転院できるほど回復しておりました。しかし8月に再入院。口から食物が食べられなくなり胃瘻をしました。
食いしん坊の彼が食べられないのは辛かっただろうと思います。それでも面談の人には気丈に話したりしていました。しかし11月14日に治療のかいなく亡くなりました。
今日はたくさんの皆様においでいただきありがとうございました。主人も喜んでいることでしょう。家族を代表してお礼を申し上げます。」
会費の返礼として「五島正規を偲ぶ」というパンフと、「社会保障ー21世紀の課題」(五島正規・著・2011年・年友企画刊)の500Pの著作が同封されていました。
会場で春名直章さん(共産党高知県委員会委員長)と佐竹峰雄さん(共産党高知県委員会前委員長)にもお会いしました。大きな会場にたくさんの人が来られていましたので、600人ぐらいはいたと思います。
五島正規さんの言葉が印象に残りました。
「健康維持と生活の向上。時にこの願いは二律背反する。
これを止揚するには政治による制度設計と、医療の発展普及にある。」
五島正規さんは1979年に防治会をこしらえ、1990年に代議士になられました。そして制度設計として「介護保険制度」をこしらえました。
1昨年お会いした時に五島正規さんは日本社会を心配していました。
「護憲と脱原発で政治勢力や市民運動はまとまらないといけない。新自由主義と国家主義では日本国は救われない。」と。
各人それぞれの持ち場で五島正規さんの意思を伝承すべきでしょう。
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