「文書の書き方」を読んで
「文書の書き方」(辰濃和男・著・岩波新書・1994年刊)を読みました。筆者は朝日新聞記者。1975年~1988年にかけて朝日新聞の1面のコラム「天声人語」を執筆されていたそうです。
一応私も毎日日にち文章を書く仕事しています。メールで全国各地から錆対策に関する質問が来ます。私が解決できる防錆塗装のことを平易な文章で記述する毎日です。たまに感謝され、注文もいただくことがあります。参考になればと書籍を古本屋(ブック・オフ)で購入し読みました。
「異質のものに出あうには、たとえば雑談があります。違う分野の人と雑談をしているうちにひらめくものがあることを、みなさんも日常の暮らしで経験しているはずです。
アメリカのある研究所では、所内のレストランの大テーブルにメモ用紙を入れた箱を置いてそうです。食事をしながら、専門を異にする人々が雑談をする。話をしながらひらめいたことがあれば、そのメモ用紙を利用する、というわけです。
異なる分野の人とのとりとめもない雑談がいかに大切か、ということの1つの例です。」
「雑踏も大切です。都会の雑踏にはさまざまな色があり、音があり、においがある。昔の朝日新聞社の社屋があった数寄屋橋には、街頭募金もあれば、右翼の演説もありました。流行の衣装がゆく。ソニービル前の装飾が季節を告げる。そういう雑踏を呼吸することが時代感覚を刺激します。
「雑」と言うと、「雑兵」(ぞうひょう)、雑音、粗雑といった言葉を思い出しますが、一方では、雑記帳、雑木林、雑誌、雑炊(ぞうすい)などの言葉もあります。人が暮らしてゆくうえで、「雑」という文字を切り捨てるわけにはいきません。
雑多な現実に出会えるのが現場です。」(P30 現場―見て、見て、見る)
SNSというソーシャル・メディア(フェイス・ブックなど)がありますが、総じて観察していますと、自分と似たような境遇の人たちと交流している人達が殆どのようです。私の場合は、年齢や性別、立場や、考え方の違っている人達との交流を敢えて望んでいます。
現在の私は、小さな商いと、超高齢者の両親(父97歳・母91歳)の在宅介護ケアと、自宅まわりの地域防災活動以外はほとんど出来ません。とても世間が狭く、社会的な制約だらけの生活ですので。「雑踏で観察する。味わう。」感覚は東京ならではですね。7年間居た東京ではそう感じていましたので、筆者の想いは理解できますね。田舎町ではそうはいかないものですから。
「比喩がいかに人々を助ける」かという実例を作家丸谷才一氏の文章を引用されています。
「明治憲法の場合、現行憲法の前文にあたるものが告分や発布勅諭であると見立てて差し支えないならば、その告分や勅諭が荘厳にしてチンプンカンプン,勿体ぶって曖昧模糊、何を言っているのやらさっぱり見当もつかないことは、わざわざここに引用するまでもない。
すなはちそれは虚飾に身をやつしながら、しかし文章基本の機能をあっさり忘れ果てている。
さながら数年風呂に入るのを怠って白粉(おしろい)を塗りたくっているようなもので、醜悪極まりない。こうなれば現行憲法前文のほうが、数等ましなことは言うまでもないから、それはすくなくともときたま風呂にはいって、しかしかはいそうに紅白粉には手が届かない様子なのである。」
中略
「現行憲法の文章は、明治憲法に比べればはるかにましだけれども、決してほめそやすものではない。こめそやしほどのものではないけれども、伝統という文章の最低の条件にはかろうじてかなっているという複雑な思いが、この風呂の比喩で十分に説明されているのです。
上等の比喩を生むのは、上質の遊び心でしょう。」(P143 平均遊具品の巻―遊び)
具体性に欠けるお役所の文章の特長について、筆者は例をもちいて解説していただいています。
「議会答弁などを聞いていますと、政治家や役人の多くは、いかに具体性を取り去るかに腐心しています。「まことに傾聴に値するご意見を拝聴いたしました。出来るだけ前向きに検討いたしまして、善処したい所存でございます。」などという答弁があっても、これは結局、具体的なことはなにひとつ言っていません。
篠崎俊夫の「議会答弁心得帖」にこんな答弁が並んでいます。
①おっしゃることはごもっともでございますので、前向きの姿勢で研究し、善処したいと考えております。いろいろお教え頂きましてありがとうございました。
②たいへん示唆に富んだご意見を頂戴いたしましたので、今後充分に研究し、積極的に対応してまいりたいと存じます。
③傾聴にあたいするご高説を賜りましたので、今後あらゆる角度から検討し、可能な限り善処してまいりたいと存じます、
④貴重なご意見を頂戴いたしましたので、今後極力、検討を重ね、慎重に努力をしてまいりたいと思います。本当にありがとうございました。
饒舌なくせに、大事なことは何1つ述べられていません。こういう不思議な文章は、議会の傍聴に通うのが早道であると筆者はいいます。
「こういう言葉の使い方こそが、政治、行政をわかりにくくしているのです。ごまかしを助長しているのです。
文章の具体性を大切にする訓練は、同時に「具」抜き文章のウソを見破る力を身につけるということにもなりましょうか。」(P163 平均遊具品の巻―具体性)
ファシスト小学校「森友学園」の設立をめぐり、財務省や大阪府の過度の「親切ぶり」「えこひいきぶり」には驚く小市民です。国会に参考人として呼ばれた国家官僚幹部の答弁も上の文章と同じで、聞いていて「何を言っているのかわからない」ものでした。
「愛国ビズネスマン」の籠池氏の証人としての発言は潔さに比べ、官僚の発言や安倍首相や稲田防錆大臣の答弁は、「はぐらかす」ものであり、何の真実性も感じられませんでした。
この書籍を読んで思うことは、やはり文章を書くと言うことは「わかりやすく」「論点を明確に」「簡潔に書く」ことを心がけたいと思いました。
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