現代日本社会の病理・自称「意識髙い系」の人々
週刊現代の先週号(2月10日号)の佐藤優氏のコラム「名著。再び」の書評は、うなずくことが多い文章でした。佐藤優氏が論じた著作は「意識髙い系」の研究」(古谷経衡・著・文春新書・2017年刊)でした。
「努力する覚悟も能力もない それでも承認はされたい!「現代病」の実態」と今回の佐藤優氏のコラムの題名です。冒頭から引用します。
「大学生や20~30代の青年で、承認要求が肥大化しているが、実力が伴わない人がときどきいる。こういう人に勉強法を指南しても、継続的な努力が出来ないために、成果を全くあげることができない。
自分の力は標準に達していないのにかかわらず、他人を見下す傾向がある。また、こういう人は
ノマド(遊牧民)、シンギョラティ(特異点)などのカタカナ用語をあちこちに千ラバめるが、その意味を正確に理解しているとは思えない。
こんな生き方をしても滑稽で、誰からもまともに相手にされなってしまうことくらいわかる筈なのに、立ち居振る舞いを矯正することができない。本書を読んで、こういう人たちは「意識髙い系」というカテゴリーに括られ、独自の内在的論理をもっていることがわかった。」(週刊現代2月10日号 P116)
なるほど、そういわれてみると該当する様な人物が過去にも何人かいました。私自身も大学時代に「その種」の傾向があったと自省します。「高校時代は浅薄な革命思想に被れていたので、大学では経済学などを真面目に勉強しよう」と思ったものの、勉強は3か月も続きませんでしたから。
佐藤優氏の指摘は鋭い。「意識髙い系」の人達の願望は持論が公共性を獲得し、社会から認められたいという欲望がことさら強い「厄介な」存在であると。
また1昔前と異なり最近ではインターネットの発達で、手軽にSNS(フェイスブック、ツイッター、インスタグラム等)で、「意識髙い系」は、加速度的に「可視化」されるようになっているそうです。
「(うざい、痛々しい、不愉快、とだけ形容される「意識髙い系」は漠然とした忌避や嘲笑の対象としてネット空間のみならず、いまやドラマなどのテレビ番組の中でも使われるほど単語として市民権を得た)古谷氏は指摘する。」(P117)
自己顕示欲のせいであるとは思えませんが、日本社会で「護憲運動」や「反原発運動」が市民各位に広がりがないのも、運動体に意識、無意識に「意識髙い系」と見える振る舞いや言動が感じられるからではないかと思います。
「自分たちは正しい事をやっている。」「自分たちは間違っていない。間違っているのは安倍政権」「安倍政権を無批判に支持するB層の政治的無関心な市民が悪いのだ。」と言い続けている限りは、広がりはないと思いますね。
最後に佐藤氏はこう言います。
「学生時代と社会に出た初期に、自分を評価してくれるまともな大人との出会いがないと「意識髙い系」になりやすいのだと思う。」(P117)
わたしの場合は、社会人2年間に森雅弘さんと言う許容量の大きな上司に恵まれました。営業のスーパースターでありましたが、持論を押し付けることもなく、生意気な若造の主張を根気よく傾聴していただき、「そこまで言うならやってみろ」と背中を押していただました。今でも交流を続けている人生の師匠です。
また担当していた得意先のオーナーの荻野正吾さん、正宏さん、賢二さんとの出会いがあり、ご指導いただいたことが、社会人のスタートとしてはとても幸運でした。仕事の意義。営業のやりかた、商売人の心得を叩きこまれました。
せっかくのご指南をほぼ40年近く活用できませんでした。わたしは無能でした。昨年からそのことを思いだし、真摯に努力しますと少し結果が出ました。「遅れてきた青年」は初期高齢者となりましたが、「人生125年」の老師の教えに従い「人生まだまだこれからだ」と奮闘してみようと決意しているこの頃です。
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