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2018.03.01

46年前の出来事ですが未だに悔しい

 3月1日は高知県では県立高校の卒業式です。46年前の1972年にわたしは高校を卒業できませんでした。成績不良であり出席日数も足りませんでしたので当然です。わたしの責任です。

 当時の担任教師は自宅へやって来ては執拗に自主退学を勧めました。当時5人卒業できませんでした。話し合いをするとうち2人は転校しました。1人は自衛隊へ入隊。もう1人は「俺は松下幸之助になる」といって退学しました。

 私だけが1人留年し、1学年下の連中と1年間3年生をすることになりました。当時の高校は(今はどうだか知りませんが)、僅か1単位足りなくても「原級留置」と言い、全部の教科を再履修しなければなりませんでした。

 担任教師が、出席日数もクリアし、テストでも落第点を取らず卒業するのは無理であると思ったのは職業から当然でしょう。あまり執拗に自主退学を勧めるので、最期は母も激怒し、「息子を留年させ、卒業させ、大学進学させます。」と言いました。

 担任教師は「それは絶対に無理です。私が保障します。」と言い放ちました。そして春休みの間高校側からは留年するとの意思を担任教師に言っているにも関わらず何も連絡はありませんでした。

 4月の登校日。職員室へ行くと「お前は何しに来た!」と教師たちが言うから「留年しに来たんだ。何の連絡もないから。」と言いました。臨時職員会議をするから校長室で待ちよれと言われました。

 ようやくクラスが決まり1学年下の連中と一緒に授業を今度は真面目に受けました。教科書も制服も体操服も変更になっていました。教科書だけはないと困るので購入しましたが、体操服や制服は購入しませんでした。連絡しない学校側が悪いのですから。それで1年間通しました。

 10月頃になって母の友人の息子さんがある国立大学の医大生でしたが、なぜか高知に居ました。その人に英語の勉強の仕方を教わりました。

「お前はとにかく英語はダメだ。時間がない英作文は丸暗記しろ。英文読解は配点が大きいからきちんとした文章を書くように」とつけ刃的なご指導を受けました。にわか勉強をしました。そしたら15点しか模試で取れなかった英語が、50点ぐらいとれるようになりました。

 2月になりいくつか私立大学の文系学部を受験し、大学へ合格しました。高校教師は「奇跡だ」とか言っていました。大学は合格したものの高校の単位を取るのに苦労しました。前年と逆に1単位差で卒業することができました。

 けったくそ悪いので1973年3月1日の卒業式には行かないでおこうと思い中学時代の恩師の先生宅へ行って相談していました。ご主人が「そういわずに卒業式は行けよ」と言われ自転車で高校まで送ってくれました。行くだけ行って式が終わればすぐに帰りました。

 456年経過しても未だに「けったくそ悪い」苦い思い出です。

 よく高校時代の同窓会なんかやっている人達がおられます。わたしにはそれはありませんし、拒否しています。2人の子供たちも県立高校を卒業しました。わたしの高校時代に関わりの合った教師はその高校へ赴任してきませんでした。良かったです。

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