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2018.05.19

父・吉正を偲ぶ


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 父が亡くなって1週間が経過しました。仏教用語では「初七日」と言うそうです。葬儀の時に僧侶に「初七日の法要」も一緒にお願いしましたが、改めて現在社会ではそうしないと無理であることが、当事者になって初めてわかりました。娘は昨夜帰りました。

 月曜は通夜、火曜は葬儀。水木金は父の「死亡届」をいの町役場町民課へだし、後に年金事務所へ行きました。法務局と税務署の手続きは来週以降です。せわしいし、役場の対応には爆発寸前です。

 従来FBやブログには「父・日赤・ICU]とか「父・いずみの」とかいう入院経過の報告や、在宅介護の様子もその都度記録のために書いていました。「初七日」でもあり、父の略歴や死因なども書いてみたいと思います。

 父の病歴と死因について

 若い時代に結核で長期の療養生活した以外は、よくお酒を飲んでいましたが、病気らしい病気はしませんでした。父は小柄でしたが元気者でした。(結核は戦前の日本では死亡率1位の国民病。亡くなる人が多い中で生きのびました。)

 10年前の2008年9月8日、89歳の時に前日に自分で車を運転して錦山CCにて1ラウンドゴルフをし、翌日昼食時に倒れ近森病院へ緊急搬送されました。脳血管障害が疑われていましたが、血管に損傷はなく原因がしばらくわかりませんでした。

 腎臓に大きな負担を与える造影剤の使用が打診され家族として許可しました。硬膜動静脈ろうという脳の静脈の異常が発見、開頭手術で無事に除去され、身体麻痺もなく無事に退院できました。しかし腎臓に大きな負担がかかり慢性腎不全になりました。

 主治医の横田哲夫先生から、腎臓専門医の植田一穂(いっすい)先生をご紹介され、透析治療することなく在宅療法で頑張っていました。「減タンパク食」、「適度な運動「点滴治療」でした。週に5回介護予防通所リハビリに行き、週に1度はゴルフ練習場へ行き、125発のボールをゆっくり打っていました。(最後に行ったのは昨年の10月28日でした。)
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 今年の1月19日に植田医院へ行きました。利尿剤が利かなくなり植田一穂先生の連絡で高知日赤病院に緊急入院しました。緊急透析を2回行いました。70日間入院して。3月29日にいずみの病院に入院しました。腎臓治療を見守りながらリハビリに力をいれていただきました。

 父が亡くなる前日に昼食前にリハビリをして覚醒した後に、入浴した後にゼリー食を自分でスプーンで食べていました。また明日海の帰りに来ると言って父と別れました。亡くなった当日は上天気でしたので、私は朝から夜須の海でセーリングをしていました。その間に危篤状態になっていたようです。防水仕様の携帯電話は海の上にも持参していましたが、風が案外強く着信音は聞こえませんでした。海から上がって携帯を見るとたくさん着信記録がありました。片付け(1時間程度かかります。)て自宅へ戻り家内と母と駆け付けた時(午後3時には、父は亡くなって冷たくなっていました。死亡時刻は13時25分。死因は老衰でした。

 当日父は私に心配をかけず海で遊ばせてくれたのです。父に感謝しています。今思えば父は10年前に亡くなっていた可能性が大でした。仕事こそできませんでしたが、私たちを毎日見守っていただきました。父には感謝しかありません。

父・西村吉正の略歴

大正8年(1919年)6月24日、現在のいの町大内(おうち)で8人兄弟の2男として生まれる。旧制高知工業土木課を卒業後、朝鮮総督府に鉄道技師として勤務。測量の仕事をしていました。

 程なく徴兵され、朝倉44連隊に入隊。訓練中に結核を発症。除隊し自宅療養しました。結核は当時「不治の病」とされていましたが、父は我慢強く静養し完治しました。
 完治したところで2度目の招集を受けました。運よく幹部候補生試験に合格し、内地で訓練している最中に終戦となりました。(落ちた人たちは沖縄戦に動員され殆どが戦死したと聞いています。)

 終戦後に高知県庁土木部に勤務し、神田川改修工事などを担当していたそうです。ある人の紹介で南国パルプ工業へ入社、製紙会社の営業職として長年勤務しました。その間春子と結婚しました。測量技師と言うキャリアを捨て、製紙会社の営業職として1からキャリアを積んでいきました。

 昭和41年、48歳の時に株式会社エヌシー商会を創業しました。当時は55歳定年の時代ですから思い切った決断でした。それから50年。会社は大きくなりませんでしたが、小さくても維持してきました。

 若い頃は身勝手な私でしたが、2011年9月からの父の在宅介護を7年間したおかげで、他人を思いやる心が自然に芽生え、お困りの高齢者がいたら見知らぬ人でも駆け寄り声がけし、体が自然に動き手助けができるようになりました。介護状態になっても人間の生き方あるべき姿を教えていただいた父に感謝しています。

病人でも介護状態でも、人を導くことができる
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 慢性腎不全で身体機能が衰えて来始めたのは2011年頃。介護認定を受けました。そして最初は週に1度、介護予防通所リハビリ施設へ行くようになりました。やがて2回になり、3回、週に5回通所し、週に1度は父の大好きなゴルフ練習場へ連れて行きました。
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ステージ4でしたが、透析をすることなく在宅療法「減タンパク食」「適度な運動」「水分補給」「点滴治療」で植田医院で8年間治療を行い頑張って来ました。

 元気な父でしたが、昨年11月頃から少し歩くと息切れ状態になり、心不全と言われるようになり、自宅での階段生活がきつそうでした。

 父の歩行介助や、排泄介助、入浴介助もしました。介護体験は貴重です。やることで人としての思いやりが出来るからです。していなかったら「身勝手な人間」で終わっていたでしょう。政治家や高級官僚は、国民の「道徳教育」などと偉そうな事をのたまっていますが、介護体験をしたころがないからアホーな事を言っているのです。

 2011年9月から6年8カ月の父の介護でした。いろんなことを学びました。父に感謝です。医療関係者や介護関係者の皆さんにも感謝以外ありません。

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