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2019.03.01

47年経過しても苦い思い出

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 3月1日は高知県では県立高校の卒業式です。47年前の1972年の3月1日は、わたしは高校を卒業できず、自宅待機をしていました。1単位が足りませんでしたが、追卒業は3月15日にできましたが、それすら学校側が認めてくれませんでした。

 担任の教師(県教祖の活動家)は、自宅へきて執拗に自主退学を進めました。「男なら大検の資格を取得して大学進学をすべきである。」といいました。
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 留年した原因は、当時高校生運動に深く関わっていて、真摯に「革命戦士」を夢見ていましたから。しかし運動体は解体し、同学年の他校の2人は退学処分。別の高校の2人は自主退学し、1人は市役所に就職、1人は大検受けるようでした。
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 同じ高校でも私を含め5人が卒業できませんでしたが、5人で協議した結果、2人が別の私立高へ編入することになり、1人が自衛隊へ行くことに。もう1人は「商売人になる」といい大阪へ丁稚奉公に行きました。同じ高校へ留年(原級留置というそうです)したのは私だけでした。

 1972年当時は。わたしは今思えば阿保でした。毛沢東思想に心酔し、まかり間違えれば、連合赤軍に参加していたかもしれなかったです。事実その党派からのスカウトもありました。
 躊躇しているうちに連合赤軍事件が起こり、浅間山荘事件もありました。留年が確定していたときに自宅で母と2人でテレビを見ていました。勉強せずに信仰していた毛沢東思想が崩れましたから。
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 学校側は春休み中なんの連絡もないので、4月になって登校日に職員室に行くと「何しに来たんだ!」と教師たちはたじろいでいましたね。「留年しに来た」と言うと、30分ほど校長室で待機させられ、臨時職員会議で所属のクラスが決まりました。1学年下の連中と一緒に1年間授業を受けることになりました。

 担任の教師の言うのも一理あり、今でもどうかしりませんが、わずか1単位足りなくても卒業できなければ、全科目やり直し、再履修しないと卒業できません。出席日数も足りないといけないし。
 時代は連合赤軍の悪影響と内ゲバに時代になり、社会運動が急激に下火になり、高校生組織も崩壊しました。

 やることがなくなったので、一応授業には出て、勉強をまじめにして単位をすべて取得、大学受験も合格して卒業できることになりました。

 しかし「けったくそわるくて」1973年の卒業式は行きたくありませんでした。高校の近くの中学時代の恩師の先生夫妻と相談したら説得され、しぶしぶ卒業式へいきました。今度は1単位差で卒業できました。1年間回り道をしました。
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 県教組系の教師(共産党)とも独立高等教組の教師(ファシスト)とも徹底的に対立してましたから、余計な話は一切なしで式が終われば一目散に退散しました。2年連続して「けったくそわるい」思い出です。

 留年して卒業して、大学へ進学しそこで家内と知り合い結婚し、家庭をつくり、零細企業の主になり、両親の在宅介護をし、小市民になりました。

 人間誰でも「疾風怒涛」の時代があります。その時代に、誰かをケガさせたり、自分がケガさせられたりなくてよかったです。「若気の至り」で一生を限定されるのは嫌ですから。

 連合赤軍と新自由主義の総括に関する雑文

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 卒業できたのは、1学年下のガールズの皆様の支えがあればこそでした。
「あんたは誰のおかげで卒業できたんか、わかっちゃうがかね。」と46年経過しても、言われています。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/43-35aa.html

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