49年経過しても悔しい思い出
1972年の3月1日は、通学していた県立高校を卒業出来ませんでした。出来が悪く、教師たちに悪態をついていた私は、執拗に「自主退学」を薦められました。2月に担任教師が自宅へ来て母も交え話をしましたが、物別れに終わりました。
4月の登校日まで高校側から何の連絡もなく、仕方がないので職員室へ行くと教師たちが「お前何しに来たんだ!」と言いました。「留年しに来たんだ!」と言いますと、教師たちは想定外だったしく狼狽し、「お前を受け入れるクラスを決める臨時職員会議をするので、校長室で待て。」とかいう展開。
30分ほどしてようやくクラスが決まり、指示された教室へ行くと中ほどの席が空席になっており、着席し、1学年下の連中との高校生活が始まりました。
大学と異なり、当時の県立高校は、留年(原級留置と言います)は、全科目再履修しないと卒業出来ません。当時の私は1単位足りなくて卒業出来ませんでした。大学であれば落とした単位の科目だけ翌年に再履修し、出席日数と試験で合格点を取ればOKでした。担任教師が「自主退学」を執拗にすすめる理由がようやくわかりました。
全科目を再履修することは、出席日数も足りないといけないし、試験で全科目合格点を取らないといけない。制服を着用し、時間内に登校し、遅刻もいけない。いわば執行猶予のついた罪人扱いです。
ではなぜ卒業できなかったといかと言いますと。当時の社会運動に熱中し、高校1年時から、学外の高校生組織の結成に加わり、その中での離合集散や対立にエネルギーを注いでいたからですね。偏狭な社会理論に傾倒し、バカであったと今は思います。
学業を疎かにして打ち込んだ社会運動の殆どが「間違いであった。」という現実は、精神的に耐えられなかったところがありました。ただその苦い経験から得た結論は「自分にとって面白いことはやるべきだ。」「おもしろくないことはどんなに社会的な意義があろうとやってはいけない。」ということです。
以後その考え方で判断し、その後の人生を過ごしてきました。判断軸は「面白いか、面白くないか」であり、「社会的な意義があるのかないのか」ではありません。
仕事や家族の関りは、面白くなくてもしないといけない場合があります。でも極力「面白く」するように心がけますと、不思議にうまく行くようになりました。最近では地域活動もそうしています。
今年はコロナ禍で、連合赤軍事件もメディアが殆ど取り上げません。東京五輪ファシズム運動も強烈に展開されてますから。
でも田舎の高校生に49年前に刻まれた体験は、いまでも「卒業」の季節が来る前に思い出します。「総括」などはたぶんできないでしょう。でもこだわりは一生持ち続けることだと思います。
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(連合赤軍と新自由主義の総括)
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