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2022.03.01

50年経過しても悔しい思い出

 2022年3月1日は、50年前に私がある県立高校を卒業できなかった日です。当日高知県の県立高校は卒業式でした。 当時わたしは1単位だけ足りませんでしたが、当時の高校の教師集団は、15日の追卒業さえ認めませんでした。担任の教師は自宅へ来て母に執拗に自主退学を勧めました。

教師「息子さんは男なら自主退学して大検に挑戦し、大学へ進学すべきです。」

母「息子は留年させ卒業させ、大学へもい活かせますから。」と毅然と言い返しました。

教師「お母さんそれは絶対に無理です。私が保証します。」と言い放ち退散しました。

 事実春休みの期間中はなしのつぶてでした。4月の登校日に職員室に行き「どうなってますかね。」と教師集団に言いました。

教師「お前はなにしにきた!」

私「留年しに来たがよ。何の連絡もいないきに」

教師「校長室で待っていろ。臨時職員会議でお前のクラスを決めるから。」とのことでした。

県教祖の活動家だった担任教師は、私を留年させますという母の意向を学校側に一切伝えていませんでした。偽物の民主化教員でしたね。

 独立教組系(ファシスト)の教員たちもとても冷たい態度でした。50年経過しても当時の県教組(共産党系)もファシスト系組合も許せませんね。

 どうにか留年が認められ1学年下の連中と一緒に授業を受けました。学校側の怠慢で教科書も変わっていました。」制服も体操服も変わっていました。

 教科書は必要なので自費で大橋通の南側の教科書販売会社へ行き買いました。制服と体操服は連絡がなかったので買いませんでした。

 ファシスト組合の体育の教師は「お前服装違反だぞ」とかわけのわからんことをいうので「留年することを担任教師に伝えたが何の連絡もなかった。学校側が悪いので買わない。」ということで突っぱねました。

 大学の場合は落とした単位だけ翌年再履修すればいいのですが、高校は全部の教科をすべて再履修しないと卒業できません。

 運動体も潰えたので真面目に授業に出て何とか卒業できました。大学へも進学できました。卒業できた翌年は卒業式には出たくないつもりでしたが、中学時代の恩師に説得されしぶしぶ出ました。式が終わるとすぐに帰りました。
 そんな事情もあり、校友会などには入会していません。50年経過しても当時の元教員に会えば、たぶん罵声をあびせるでしょうから。

 

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