私には高校の「母校」などはない
先日「母校」からのお知らせです。と表記された文章が送りつけられてきました。それは1972年の卒業出来す、1973年に卒業した県立高校の校友会とやらでした。
なんでも来年から別の高校と統合し、校名もなくなるらしい。同封されているのは「校友会名簿」の購入依頼と、名簿作成賛助金のお願い(一口10000円)表示された紙きれでした。
即ゴミ箱に捨てました。今更「母校」でもあるまい。その高校には「苦い」思い出しかない。屈辱的な思いです。
丁度50年前に1単位差で追卒業もさせてくれず、執拗に自主退学を迫った担任教師は県教祖(共産党系の教員組合)の活動家でした。生徒指導の教員はファシスト教員組合の連中であり、常時厄介者扱いをされていました。
わたしもファシストと共産党系の教員には常に悪態をつき「お前たちは学校の犬だ。」と言うてましたから。とにかくその高校には人生相談するような教員は1人としていませんでした。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-d51007.html (50年経過しても悔しい思い出)
当時の教員は80歳前後になっております。ですが50年経過しても、彼らに受けた屈辱は忘れてはいませんから。もし万が1同席するようなことがあれば、こちらも70歳前のお爺さんがスイッチが入り、元教員に暴言を吐き、発言次第によっては蹴とばしたりすると思います。
ですのでその高校など「消えてしまえば」いいんです。高校時代のサークルの後輩たちとは今でも交流があり、「あんたはだれのおかげで卒業できたのかわかっちゅうかね。」などと執拗に今でもいわれてますから。それで十分です。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e58f.html (3月1日は何年経過しても悔しい思い出があります。)
どうでもいい高校と許しがたい当時の教師集団などどうでもいいことです。
その当時懸命に「バカ息子」を支援いただいた母(現在96歳)には恩義があります。
要介護5になって101日間の入院生活から戻りました。母の在宅介護の方はわたしには遥かに大事なことですから。
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