年賀状じまいについて考える
郵便料金の大幅値上げの影響もあるのか、今年は「今回をもって年賀状をじまいをさせていただきます。」という表記が多い年でした。
年賀状の作成作業は、すべて個人の領域ですので、「しんどい」と思えば辞めることは自由であると思います。しかしなぜか「寂しく」想うのはわたしだけなんでしょうか?
考えてみれば、師走のせわしい時期に,あえて年賀状を作成することは、負担はありますから。枚数にもよりますが、個人負担は軽くはありません。
しかしながらご無沙汰している人たちの近況を年賀状で知る。こともあり、私個人はやりとりに意義があるとは思います。1年間の活動履歴を小さな字でびっしり記入されている人もいますし、家族の近況写真や、社会活動状況を報告いただく年賀状もあり、読むことが楽しい。
そういえばその昔には、年賀状を書くことにこだわる先輩もいましたね。とてもご多忙な会社の業務の合間に、11月から手書きで年賀状を書いている人がいました。数百枚は手書きでかかれていました。ネット社会になっても続けられていましたから。
お亡くなりになって久しいですが、共産党の代議士で山原健二郎さんがいました。常時手書きで支持者や知り合いに、はがきを出されていました。うちへも地元新聞に掲載された私の投書に「わが意を得たり」とかかれた、直筆で達筆な筆書きのハガキをいただいたことがありました。
母が感動して、小さな額を買ってきて、山原健二郎さんから来たハガキを飾っていました。当時聞くところによりますと山原健二郎さんは手書きで数百枚ハガキを書いていたとか。自筆のお手紙をいただくと印象に残ります。書かれることは凄いですね。党派を超えた支持者が多かった山原健二郎さんの特技であったと思います。
私などは悪筆ですので、手書きハガキなど無理ですね。デジタル全盛時代でも、特色のある手書きハガキや手紙は存在感を増すのではないでしょうか?
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