
「コミュニケーションは、要らない」(押井守・著・幻冬舎新書)を読みました。作者は「うる星やつら」「攻殻機動隊」などの劇場用アニメ作品の監督。なかなか毒をいつも吐いています。
最近流行しているツイッターやフェイスブックなどにも言及。早速毒を振りまいております。
「ただ気分を吐きだすだけの言葉をネット上に書き散らし、真偽の不確かない情報に右往左往し、目的もなく自分のフォロワーを増やそうとする。
そんなものはコミュニケーションではない。高度成長以降、日本人は「現状維持」のために協調性ばかりを重んじて、本質的な問題について@議論」することを避け続けてきた。
そのツケが今、原発問題を筆頭とする社会のひずみとして表面化しているのだ。」(裏表紙)
確かに言われるとうりですね。わたしも誰かに「共感」してもらいたいがために、ブログやフェイスブックに書き込んでいるわけではありません。自分の想いの吐露であり、記録です。1番の読者は自分なのです。「つながりたい」とか全く私も考えません。
「東日本大震災以降の日本では「絆」という言葉が至るところで使われ、「コミュニケーション」の必要性を説く人い今更ながらに急増した。
そういう人たちが真っ先に飛びつくのが、「ツイッター」や「フェイスブック」などのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)だ。
これからの時代のコミュニケーションにはインターネットやスマートフォンは欠かせないツールであり、これらのツールが人々の想いを繋ぎ、エジプトの革命を成功させたような大きな力となって、新しい社会の枠組みを生み出していくのだという。
僕はこういう言葉を一切信用していない。」」
「今回の震災において、携帯電話が使用不能な状態の中で「ツイッターで情報交換した」「SNSがインフラとしての役割を果たした」という話がよく聞かれる。確かに安否情報を確認する。といった局面でそれらが有効に機能したことは僕も知っている。
あるいは、テレビ局では編集されるような政府や東電の記者会見を、インターネット上で「ユーストリーム」などの配信によってノーカットで見られるように、新たな報道の可能性を見出したというような話も耳にする。これはこれで、納得はできる。
しかし、これは果たして、コミュニケーションと呼べるのだろうか?」(「ツイッターはコミュニケーションの役にたったのか?」P20)
押井氏は幻想ではないかと言っています。「重大な被害にあった土地以外の日本は、あっという間に復旧していった。インターネットやSNSや携帯電話が、その間にどのように使われようとも、それらが同じ言語空間を共有しているようには僕には思えなかった。」(P21)
押井守氏は、コミュニケ―ンというのは2つの側面があると定義しています。それは「現状を維持するためのコミュニケーション」であり。もう1つは「異質なものとつきあうためのコミュニケーション」である。
「現状を維持するためのコミュニケーション」とは、
「ご近所づきあい」「会社づきあい」「先輩とのつきあい」や「友達とのつきあい」。更にいうなら「夫婦関係」「家族関係」「恋愛関係」を維持するためのコミュニケーションもふくまれる」と押井氏は言います。
「ここで重要なのは「いかに問題を起こさないか」ということだ。良い言葉で言えば「協調」や「協力」と言うことになるが、悪い言葉で言えば、ようするに「馴れ合い」である。ここには、なにか新しい価値観を生み出そうと言う意味はない。
日本人が「コミュニケーション」という言葉を使う場合、ほとんどはこちらの「コミュニケーション」を指しているように思う。」(P23)
よく言われる「同調圧力」であり、同調しないと「KY(空気が読めない人)となりかねません。
もう1つのコミュニケーションは「異質な世界や異質な文化といかにつきあい、新たな関係性を生み出すかという重要な目的をもっている。こちらは「議論」という行為に代表される。
会社や学校での「会議」や国同士の「外交」、企業間での「交渉」がそうであるし、「恋愛」や「結婚」においてもその初期段階は「交渉」に近いコミュニケーションが必要になる。この2つは完全に分離したものではなく。フェーズが異なるものだといえる。
僕が「コミュニケーション:というものにおいて問題にしたいのは、日本におけるコミュニケーション」が前者に偏りすぎているということである。(中略)
ある共同体を維持するためには確かにそういうコミュニケーションも必要だろう。けれども、戦後半世紀以上が過ぎ、そろそろそういうコミュニケーションだけでは日本と言う国をささえきれなくなってきている。
最大の問題は。こうしたコミュニケーションを続けてきた結果、日本にはまともな言語空間と言論空間がなくなってしまったということだ。
まともな言葉が育まれる世界がなければ、まともな議論は成立しない。今回の東日本大震災とそれに付随する福島県の原発問題は、その末期症状を露呈しているように僕には思えるのだ。」(P25「コミュ二ケーションができない日本人」
つまり「方法論」ではなく、「本質論」を押井守氏は言っていますね。映画をつくるという作業は「説得」の連続。それも異質な人たちを毎日日にち説得して協力していただかないと、良い作品はつくれない。その現実の中から出てきた言葉であると思います。
「自分が何かを成したいのなら、自分なりのコミュニケーションのシステムを作ればいい。人と会うのがどうしても嫌ならば、そんな自分でも可能なコミュニケーションの方法論を生み出せばよい。
でも何より大切ななのは、何かを成したいと言う意志だ。それを実現するために誰かの協力が必要ならば、その誰かを説得する必要がある。
説得と言うのは論理的でなければできないことだ。だから、人を説得しようと思ったら自分のロジックを鍛えるしかない。
喩を出し、事例をあげ、結論を先に言うようにしたり、あるいは最後までひっぱったりする。相手が中学生なのか、オヤジなのか、奥さんなのか、1対1で話す場合と壇上で話す場合でももちろん違う。それはその場で合わせていくしかない。
ただ、共通して言えるのは、「相手は自分を信用していない」という前提から始めるということだ。信用していない相手を説得する。だから、様々なテクニックを屈指して言葉を尽くしてロジックを強固にする。
議論とはそういうことだ。その過程を経ているのであれば、結果としてどういう結論に達するのかということは本当はどうでもいい。
大切なのは、そこでもれなく語れたかといおうことだ。語らうことの総量が問題なのであり、その語らいの中でより深く思考していく。」(P137「ひとを説得するということ」)
押井守氏の真骨頂は本質論を徹底して主張することですね。
「まず信じない。ということによって自分で考える。それが今の世の中を生き抜くために必要なことだと僕は思う。
信じるか信じないかというのは二者択一ではない。すべてを嘘だと疑えと言うことでもない。信じないと言うことはまず判断を保留するということだ。
与えられたひとつかみの情報に一喜一憂するのではなく、まず信じないという選択によって、そこから自分の頭で考えてみる。「自分がしらないことがあるんじゃないか?」という強迫観念ほど根拠のないものはない。それはまさに現代人特有の病だ。自分が知らないことがこの世の中にはまだまだあるんじゃないか?「あるに決まっている」と。
どんなにネットが発達しようがテクノロジーが発達しようが人間はさらなる万能感を欲する。そして、その万能感を手に入れる方法はひとつしかない。
それは知識を増やすことでも、アンテナを張りまくることでもない。通信傍受システム、エシュロンで世界中の情報に聞き耳を立てる賢者になることでもない。
結論は、まっとうな価値観を持つことだ。人間が生きることに関して、その延長上に社会がどうあるべきなのかを見出すことだ。
人間が考えることなんて最終的にはひとつしかない。自分の人生とどう向き合うかだ。今生きている人間にとって、1番大切なのは、死生観であり、もっと言えば死とどう向き合うかだけだ。
死と対峙したとき、そこから自動的に生きるということの意味が明らかになってくる。生についてばかり考えているのとは順番が違う。どんなに知識を積み重ねても死と向き合えない限り、その知識はなんの役にも立たない。
問われるべきは知識ではなく、覚悟なのだ。
そういえば、沖縄出身の家内と結婚し、沖縄の実家へ行った時に、義父が私を連れ出し一族の墓へ2人で行きました。御先祖様にわたしのことを報告していたようでした。
今頃の年齢になって義父の気持ちが少しわかります。その義父も義母とともにこのお墓で眠っています。沖縄へ行くと常に死と向き合うようになりますね。確かに。
