社会運動

2024.08.21

映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」

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 2024年8月18日(日)は高知市自由民権記念館にて、映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」(代島治彦監督作品・原案者樋田毅氏)を家内と一緒に見に行きました。

 

 1972年11月8日に早稲田大学構内で、一般学生の川口大三郎さんが、当時早稲田大学を支配していた革マル派の学生たちに対立セクトのスパイ容疑で執拗なリンチを受けて殺害されました。おぞましい事件を元にした深刻な映画でしたが。50人ぐらいの観客が1部には来ていました。

 

 率直な感想は「視聴して良かった。」と思いました。52年前の出来事がリアルに描かれています。「革命」のためと称して人殺しをしてしまう様子が丹念に描かれていました。

 

 川口大三郎さんのリンチ殺害事件後、早稲田大学では革マル派追放運動が盛り上がりましたが、夏休みや冬休みを挟むと関心が下がり、運動は衰退し、盛り返した革マル派に暴力支配されていきました。
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 以後対立セクト同士の内ゲバが盛んになり、場所が大学構内だけでなく、下宿先や路上や、駅構内で公然と内ゲバ殺人が行われ。殺害された人たちは100人を超えました。
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 映画上映後に代島監督と樋田さんのトークイベントがおこなわれました。
原作者の樋田さんは大学構内で革マル派学生たちに鉄パイプで乱打され重傷を負いました。活動を辞め、大学を卒業され大学院も行かれて朝日新聞社に勤務されました。各地を転勤されましたが、学生時代の書かれた文章や当時の資料を段ボール箱3箱を持ち歩いていたとか。50年間の思いを書いたノンフェクションが「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋社・刊)は秀悦でした。

 

 その作品が代島監督を動かし映画になりました。映画の中での壮絶なリンチシーンは早稲田のOBでもある演出家の鴻上尚史氏の関与もあり厚みのある映画になりました。

 

 インタビュー映像では、池上彰氏や佐藤優氏、内田樹氏などの有名人から、川口大三郎さんの同級生たちや樋田さんの運動にかかわりのあった人たちも数多く登場し奥行きを深くしていました。

 

 川口さん殺害の実行犯の5人のうちの1人のS氏と樋田さんは何度か面会し、詳細に当時の様子を聞き出していました。しかしS氏は活字にしないでほしいと
言われていましたので、活字媒体にはできませんでした。
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 警察の供述調書などにも同じ内容のことをしゃべられています。S氏の証言をも世に映画の中でも鴻上氏の演出の参考になったようで、よりリアルな場面になったことがわかりました。

 

 しかし残念ながら革マル派の当事者の登場はありませんでした。

 

 思想の力は殺人行為も正当化してしまう怖さを、人々は気が付かないといけないと思いました。より規模の大きな戦争でも同じです。

 

 日本社会で「連合赤軍の仲間殺し」と「内ゲバ殺人」の蔓延化が、社会運動を衰退させ、政治を劣化させた大きな要因であると思いました。
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 復活させていく手立てをこれから真剣に試していきたいと心底思いました。

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2024.08.16

8月18日は映画「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」を見に行きます。

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 2024年8月18日に高知市自由民権記念館で、映画「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」と「映画監督代治長彦さんと原作者樋田毅さんのトークイベント」があります。
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 私は中学生時代から「早熟な政治少年」でした。国政選挙があれば田舎町から高知市内の各政党の選挙事務所を訪ね、チラシをもらったり、事務所に人に政治活動の話を聞きました。

 1966年4月から1969年3月迄が、中学生時代。1969年4月から1973年3月迄が4年間の高校時代でした。1973年4月から1977年3月迄が大学生時代でした。この11年間は私らより数歳上の「団塊の世代」が世界的に突出して大学で反戦運動や学園闘争,街頭へ繰り出して警察権力とミニ市街戦を展開していました。

 またビートルズやローリングストーンズらのカウンターカルチャーの時代でもありました。それまでの時代とは変化する節目であり、今風の社会風俗の大半はこの時代に登場し流布していきました。

 わたしは彼らから数年おくれて青少年時代(疾風怒濤の時代)になりますが、ノンセクトの全共闘運動は、私らの高校時代から衰退期になっていて、その代わりにプロ集団(セクト各派)がはびこってきて、社会運動の「おおらかさ」が消え去りました。

 そして社会運動が後退局面に入るや否や、1972年2月に「浅間山荘・連合赤軍事件」がありました。当時毛沢東思想を信仰していた私は、思想的に崩壊してしまいました。なぜ仲間をリンチして殺害するのか。その原理が理解できませんでした。

 同じ年の11月8日に早稲田大学構内で一般学生の川口大三郎さんが、早稲田大学を当時支配し統制していたセクトの革マル派の活動家に執拗にリンチされ殺害されました。ノンセクトの学生が革マル派に対抗して決起し大騒動になりました。しかし早稲田大学の自治会を支配していた革マル派は豊富な資金と武装集団を組織化し、ノンセクトの学生たちを駆逐し、リーダー格の学生にはリンチを加え再支配をしました。
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 翌年1973年4月にわたしは首都圏にある専修大学に入学しました。早稲田大学での騒動は周辺の大学にも波及していました。ですが。すでに党派(セク)同士の対立構造になっていました。

 「セクトに対抗するにはセクトに入るしかない」状態になり、いつしかセクト(党派)の対立が言論ではなく、先鋭化した暴力行為、テロ行為(相手側セクトの幹部の下宿を襲撃し殺害する。)事態になり、「救殺隊」なるプロの殺人集団まであるセクトに現れました。

 相手セクトの幹部のマンションなどの居場所をつきとめ、電話線を切断し、警察に連絡出来ないようにして、屋上から縄梯子とロープで降りてきて窓ガラスをバールでたたき割り侵入し、容赦なく鉄パイプで頭部を乱打し殺害する事件などが多発しました。

 知り合いの同じ大学の先輩はあるセクトの人でしたが、自分のアパートで対立セクトの襲撃に逢い、鉄パイプで頭をかち割られて亡くなったと聞きました・

 銃火器はもってはいませんが、まるで幕末時代の天誅組や新選組のような殺人専門集団を各セクトは作り上げ、対立セクトの構成員を殺害すべく活動をしていました。1回のテロ襲撃で100万円ぐらいコストがかかったようです。

 こうなると本来国家権力中枢部を打倒すべきところが、刃がひたすら「対立セクトに向いて行きます。そうなれば学生集会に参加することも襲われる危険があります。社会運動や学生運動は衰退していきました。何故仲間殺しをしたり、議論ではなくお互い殺人集団を差し向け合い無限ループで内ゲバをやり続けるのか?その答えや解決策を私は見つけることができませんでした。

 アメリカの大学生はエリートです。その彼らがパレスチナの旗を振り、残虐なガザ市民への虐殺を繰り返すイスラエルと支援するアメリカ政府や企業を糾弾して行動をおこしています。アメリカでは日本のような陰惨な内ゲバ殺人は起きなかったんでしょう。だから健全な学生運動や社会運動が残存しています。日本ではほとんど絶滅してしまいました。

 コロンビア大学では50数年前の「イチゴ白書」の時代を見ているようです。現実です。アメリカ社会の健全性を垣間見ました。日本はどうなのか。自民党が驕り高ぶり政治資金疑惑で滅茶苦茶しているのに、街頭で抗議活動される人はごく少数にとどまっています。

 日本に政治運動や社会運動を忌避する風潮はこの50年間ありました。私が52年間うじうじしていましたが、多くの人も声を出しませんでしたが思いは同じでした。
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 「彼は早稲田で死んだ」の著者の樋田毅さんは、当時ノンセクト学生で革マル派と対峙し、リンチを受け重傷を負っています。その後卒業されて新聞記者となり退職後に当時の仲間たちを取材し、また当時対立していた革マル派の元幹部とも意見交換しています。そのレポートに感動しました。

 映画を鑑賞し、トークイベントを傾聴して、私の「暗いうじうじした52年間」の課題を振り返ってみたいと思います。

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2024.08.15

79回目の終戦(敗戦)記念日

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 日本が全世界を相手に世界大戦を引き起こし、無残に敗北し、凄惨な犠牲者を出し終戦した日から79年がたちました。世界を取り巻く情勢からは、ウクライナにしても中東パレスティナ・ガザ地区や東南アジアのミャンマーなども戦火が止む気配はない。

 また日本近辺の向こう3軒にあたる隣国の中国、北朝鮮、ロシアはいずれも独裁国家であり、核兵器を所有し、軍備増強に余念のない面倒な隣国です。

 その危険な隣国に対抗すると称して、沖縄の八重山地域に自衛隊のミサイル基地をこしらえ、自衛隊員も駐屯させています。

注意しないといけないのは、「災害対策」を口実に、国に権限を集中させる「緊急事態要項」を盛り込み憲法改悪に持っていこうと自民党などは画策をつねにしています。その理由は「人助けの国際貢献」止め、より自分たちが金儲けができる「人殺しの国際貢献」をしたいがためです。絶対的な間違いです。

 日本は「災害大国です」。「人助けの技術は、官民とも世界1」なんです。日本は。「人を救う国際貢献・世界1」を目指すべきです。

 戦争は人災です。防ぐことが出来ます。戦争をやって金儲けしたい人達を政治の世界から追放すべきです。追放できれば世界は平和になりますから。

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2024.07.26

自分の体も心も自然の一部

 先週末の休日にお腹を壊してからというもの、体のバランスが壊れたのか体調がよろしくない。それまで平気であった事務所の気温(31度程度)に耐えられなくなり、朝から1日事務仕事でもエアコンをいれています。

 

 こんな体たらくなことは、しばらくありませんでした。年始からの両目の手術と入院、療養、視力調整、6月の右手薬指の裂傷があり、半年間は仕事も地域活動もできないありさまでした。70歳という正真正銘の高齢者になったということでしょう。

 

 それは仕方がない。ただ大きなプラスの出来事は、18歳の高校生時代から今に至る52年間悩んでいたことが、ほぼ解決したことです。それはとてつもなく大きい。「さあやるぞ!」と意気込んだとたんの体調不良でした。

 

 体調と精神を焦らず整えて、前進しましょう。あとはやりきればいいことばかりですから。やりきりますよ。

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2024.06.04

有害無益な国の指示権拡大

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 2024年5月29日の高知新聞記事1面見出しには「国の指示権拡大衆議院通過へ」「自治法快晴案委員会可決」とあり、5面記事では『国の指示権拡大根拠薄弱」「具体的ケース示さず」「地方の井自主性損なう恐れ」とあります。

 国に権限を集めたら、災害対策は魔法のように片付くと言いたげですが、能登半島地震の「国の実績」「支援体制」はこころもとないではないか。輪島市の市街との瓦礫は震災後五日ゲルになるのに殆ど片付いていない。


 横倒しのビルも片付けられていまません。同じころ起きた台湾の地震では瓦礫は片づけられ、避難所は閉鎖され、被災者達は復興復旧に邁進しています。
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台湾の地震が、能登半島地震のすぐ後に起きました。避難所の設置も早く、また仮設住宅の設置も早く、すぐに避難所は閉鎖され、被害住民は生活再建に向かっているようですね。

 能登半島地震での国の対応の遅さ、動きの鈍さはあまりあるところがありますね。その原因の1つは専門の対策部署なり省庁が政府の中にないということがあります。危機管理省の設置は必要です。内閣府は各省庁の役人が2年程度の出向で「腰掛」行政をしているようにもおもいます。

 それと災害対策の最前線には住民と自治体がいます。その分野の機能を弱め、「無能極まりない」国に権限を集中させる発想事態が完全に間違っています。

 中国の独裁者である習近平氏がコロナ禍対策のために、執拗に「ゼロコロナ」を推進し、経済が失速してしまいました。中央政府に権限が集中しすぎたために、地域からの情報が上がらず致命的な失敗をしました。

 住民と自治体を無視して、国が出しゃばってあれこれしてもうまくいかない事例ですね。

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2024.06.02

「彼は早稲田で死んだ」を読んで

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 「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)を書店で購入し、一気に読みました。その後2回読みかえしました。

 

 私にすれば1972年という年は「人生の岐路」であり、大きな出来事が個人的にも2つありました。高校入学直後からやってきた高校生運動(高校反戦会議(高1)高共闘(高2)、高校生評議会(高3))が敗北し、仲間たちは退学処分や自主退学して各高校から去りました。私だけ1人留年した年でした。

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-d51007.html (50年経過しても悔しい思い出(2022年の個人ブログ記事)

 

 留年が確定した頃(1972年2月頃)に「連合赤軍事件」「浅間山荘時間」ガ起きました。当時私は毛沢東思想に傾倒していました。将来は京浜安保共闘に参加し、革命戦士になると夢見る世間知らずの田舎の高校生でした。

 

 渦の中にいたわけではなく、影響を受けた田舎者にしては、連合赤軍事件は大きなショックでした。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-b209d4.html (連合赤軍50年。2022年個人ブログ記事)

 

「なぜ些細なことで仲間殺しをするのか?」

 

「革命の名目で同志という仲間を簡単に殺害できる理由はどこにあるのか?」という疑問を持ちました。52年経過した今(2024年)でも持ち続けています。

 

 刃が国家権力の中枢ではなく、なぜ仲間に向かうのか?その理由は今でもわかりません。今なお考え続けています。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 

(個人ブログ 連合赤軍と新自由主義の総括)

 

 総括などできないまま、鬱鬱と52年が経過しました。

 

 また1972年11月には早稲田大学構内で、当時早稲田大学を支配していた革マル派活動家達による集団リンチで早稲田大学2年生の川口大三郎さんが殺害されました。

 

 連合赤軍の仲間殺しと違いますが、早稲田大学の校舎内で、活動家でも対立セクトの学生でもない、一般学生の川口大三郎さんに執拗に暴力を加え続け殺害し、遺体を東京大学に遺棄した異常な殺人事件でした。1972年には詳しく知りませんでしたが、大学入学した1973年に「川口大三郎君殺害事件」として知りました。

 

 「彼は早稲田で死んだ」の著者樋田毅さんは当時早稲田大学の学生。川口大三郎さんのリンチ殺害事件に憤慨し、大学構内から暴力を一掃するために仲間たちと運動をされていました。

 

 著作では50年前の出来事であるのに、リアルで迫ってきます。当時は早稲田大学第1文学部、第2文学部の自治会が革マル派の重要な拠点施設でした。

 

 革マル派が早稲田大学で台頭してきたのは1960年の安保闘争の敗北後でした。早稲田大学の文学部の自治会を組織的に支配し、党派の人材確保と、活動資金の確保、自治会費文学部だけで900万円を確保するためでした。

 

 当時の1万円は今の貨幣価値ではいくらなのかわかりませんが、外食で「かつライス」が最初は170円で食べられました。今は800円です。4倍になっています。4倍なら3600万円の活動資金(文学部自治会だけで)を革マル派は早稲田大学当局から徴収していたことになりますね。凄い金額です。
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 1962年頃と言えば、当時早稲田の学生であった北村正志さんが「 大学の2~3年の頃「あれが内ゲバの最初」という乱闘が起こる。

 

「当時、6尺の、すぐ折れる角材やったですよ。東京中から集まってきた500人の学生がそれを持って,革マル相手に5時間も6時間もやっていた。」と北村さんは語ります。

 

http://blog.livedoor.jp/map211/archives/52375943.html
(個人ブログ記事「爽やかな北村正志さん)

 

 革マル派は以後早稲田大学を1大拠点化し、党派の人材をリクルートし、同時に自治会費などを徴収することにより豊富な活動資金も手に入れることが出来ました。早稲田の全学部や早稲田大学祭からも資金を得ていたようですから現在の貨幣価値で言うと億単位で活動資金を確保していたと言えると思います。

 

 また当時の早稲田大学当局は革マル派の自治会を「公認」し、暴力行為を黙認していました。そのことで学内の秩序を維持するために番犬」の役割を期待していたのだろう。」
(P30[暴力を黙認していた文学部当局」)という状況であったことを著作で知りました。

 

 北村正志さん達が、1963年当時革マル派と大学構内で乱闘されたとに記述がありましたが、革マル派はその年から文学部を中心に組織的に大学を支配するために浸透していったようですね。

 

 冷静に考えますとセクト活動の優秀な若い学生もリクルートできますし、資金源も確保できるので、早稲田を支配することは革マル派にはとても旨味があったと思われます。

 

 確たる証拠がないのに文学部2年生の川口大三郎さんを対立セクトの中核派活動家と決めつけ、スパイと決めつけて校舎内に拉致し、暴力行為を加えていたことは異常です。

 

 例えば武装した対立セクト同士が街頭で乱闘し、一方が勝ち、負けたセクトのメンバーが逃げ遅れ、対立セクトの「取り調べ」を受け、その中で暴力行為があるというのであれば、賛同は出来ませんが、理屈はわかります。(それでも戦争中捕虜への暴力行為はジュネーブ条約で禁止されています。)

 

 セクト同士の軍事的な衝突は「内ゲバ」なので、国家間の戦争とは異なり、ルールもなしで無制限に暴力行為はエスカレートしていきますね。

 

 暴力行為を川口大三郎さんに続けていた学生たちは、対立セクトの影に怯え、スパイ容疑をかけて執拗に暴力を繰り返していたのでしょう。
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 川口大三郎さんは革マル派学生たちの執拗な暴力で殺害され、遺体は東大病院前に遺棄されました。殺人事件として警察が動き、報道され、容疑者の革マル派学生が複数逮捕されました。

 

「大学構内の教室の中で起きた事件なのに、大学当局は、必要な措置をとらなかった。革マル派は普段から、反対派の学生や教授への暴力事件を頻繁に起こしていたのに、教室に連れ込まれたまま戻らない学生を救出できなかった。

 

 言うまでもなく教室の施設管理権は、大学当局にある。様子を見に行った2人の教員は川口君の身の危険を十分に察知できたはずであり、施設管理権を行使し、警察に出動要請をしておれば、川口君の命を救うことは出来たのだ。
 半世紀前の出来事であることを承知のうえで、大学当局の責任は免れないと思う。」(P62「第1章大学構内で起きた虐殺事件」)

 

また著者の樋田さんは革マル派の武装集団の様子を克明に描いています。

 

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

 

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」

 

 この記述を読みますと、革マル派の武装集団は、にわか仕立ての「武闘派」ではないですね。どこかで武装訓練を集団でやっているプロ集団と言えますね。鉄パイプの効果的な使用と活用の仕方を熟知しています。
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 樋田さんは革マル派活動家に大学構内で鉄パイプでめったうちにされています。

 

「突然、物陰から10人前後の見知らぬ男たちが現れた。その中で見覚えのある学生風の男が私を指さし。「こいつが樋田だ」と叫んだ。

 

 彼らはすごい形相で私を睨めつけ、明らかに殺気立っていた。上着のポケットに隠し持っていた短い鉄パオプを取り出すのを目にして、これはまずいと直感した。いつは襲われるとという予感はあったが、突然、その日が訪れたのだ。

 

 用心してはいたつもりだったが、まさか、一般の学生が往来する構内のこんなに目立つ場所で襲撃さっるとは思ってもみなかった。どこかに油断があったのだろう。

 

・・・すぐに「足を狙え」という声と共に、足首.膝、すねに一斉に鉄パイプが振り下ろされた。

 

 致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器と違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけに何度振り下ろされることで、激痛とともに、その恐怖で心身が冒されていく。まさにあらゆる意欲が削がれていくのだ。

 

 腕と頭部にも鉄パイプで叩かれたそうです。十分な打撃を与えと考えたのか、その場から去って行った。」
(P160[鉄パイプで滅多打ちにされる恐怖」)

 

 実際に樋田さんは鉄パイプで滅多打ちにされた経験があるのでリアルです。

 

 私が通学していた大学でもセクト同士の抗争があり、私はノンセクトであり「鋭い活動家」なんでもなく、セクトの両方のメンバーと知り合いでしたので、対立を2回ぐらい止めたことがありました。

 

 「おかしなことをする奴はマグロにするぞ!」とかあるセクトの人が言いました。」私は、意味が分からず「マグロにするって何ですか?」と質問しました。

 

 そしたらセクトのリーダーは「魚市場にマグロが横たわっているよな。○○セクトに逆らえばまぐろになって地面に転がるんだよ」と説明してくれました。彼らはブレザーに短い鉄パイプを隠し持ち数人で取り囲まれたこともありました。恐怖を感じました。

 

 幸い私はセクトでの活動歴がなかったので「釈放」されました。「また革命運動を共にやろう」とか言われて別れました。

 

 後日談では、そのセクトのリーダーは対立セクトの活動家に下宿で襲われ、頭を勝ち割られて亡くなられたと聞きました。ご冥福を祈るしかありません。おぞましいことです。

 

 そして著作の後半に、筆者は「半世紀を経ての対話」を書いています。「暴力支配を象徴した人物の転身」をかかれています。

 

 その人は当時早稲田大学の革マル派のリーダー(1文自治会副委員長)の1人であった大岩啓之助さんでした。

 

 その人が「100万人のキャンドルナイト運動の創始者となり、革マル派から離脱し、大学で教鞭もとられていました。2021年にほぼ50年振りに再会し語り合われています。大岩さんの言葉を記述します。

 

「僕は人生を何かに向かって組み立てていく感じはなくて、先のことを深くj考えずかなり、行き当たりばったりで生きてきた。それは子供の時からそうだった。」

 

 大岩さんは都立戸山高校で反戦高連という革マル派の高校生運動をやっていて、2浪して早稲田へ入学されました。最初いから「幹部候補生」扱いだったらしい。「表のリーダー」として要請され学外活動もしておられ、川口大三郎さんの事件の時は早稲田大学にはいなかったそうです。

 

 ですが大岩さんは当時は「誰にも気を許してはいけないという緊張感で活動」をしていたようです。

 

大岩「一般学生を装っていろんな党派が全国から結集していると聞かされていましたから。そういう先入観があったんでしょうね。当時の早稲田は政治運動の拠点で、外部からあらゆる活動家が集まってきた。だから常に警戒していた。」

 

 後日に仲間たちとマンションで集まって会合していた時に中核派に襲われ恐怖体験もされたようです。マンションの6階の部屋でしたが、襲撃者は屋上から縄梯子で降りてきて、バールなどで窓ガラスを割られ部屋の中に侵入され、鉄パイプや木刀でめった打ちされたとのことでした。

 

 襲われた側なのに警察に逮捕され、留置されたそうです。その時に「もっとコーヒーが飲みたい」とか「いい音楽が聴きたい」とか学生運動とは無縁な欲求を生じ、その後組織を離れると組織の上司に伝えたそうです。

 

 大岩さんは「理屈で説明したら噓になる。」と言われています。

 

「人間ってそんなに筋道を立てて、そのとうりにいきているわけでもないでしょう。

 

 理屈で説明したら嘘になると思うんです。組織を去るのを止める理由をもう自分の中に見つからなかった。」(P266)

 

 大岩さんの以下の言葉には感銘しました。

 

大岩「そうは言っても、その場だけ見れば寛容は不寛容にかなわないわけですよ。絶対的に劣勢です。

 

 しかも残念なことに、この数10年、世の中はどんどん不寛容に向かっています。でもそれを押し返す力が本来、人には備わっているはずです。

 

 僕は人間の本質は寛容だと思っているんです。人類は寛容の方向に進化してきたというのが僕なりの結論です。僕は残された人生で、自分なりの性善説を広めて社会の役に立てばと思っています。」
(「不寛容を押し返す力」P281]

 

 1994年に早稲田大学は奥島孝康総長が就任して事態が変化しました。wikipediaにこう書かれています。

 

「大学側は革マル派の影響力を排除するため、1995年7月に商学部自治会の公認を取り消し、2005年3月には社会科学部自治会の公認を取り消した。

 

 また、革マル派が主導する「早稲田祭実行委員会」が、長年にわたって早稲田祭の収入や助成金を同派系の偽装サークルに1000万円単位で横流しするなどの犯罪行為を行っていたことが判明したことから、大学側は1997年から2001年まで早稲田祭の開催中止を決定し、同派系の偽装サークルの公認も取り消した(この時、公認を失ったサークルの一つに「早稲田大学新聞会」がある)。これにより革マル派は早稲田大学の資金源を失った。

 

 この大学の厳しい処分に対して、革マル派は1997年、「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」を起こすという反撃に出て、大学側と革マル派との対立が激しくなったが、大学側は革マル派の関係者を大学から徹底的に排除するなどして、大学側の勝利に終わった。

 

 それ以降、革マル派の残党は、サークル活動などを通して巧妙に学内で一定の活動を展開しようとしているが、かつてのような影響力はほとんど無くなった。」

 

 とのことです。

 

 「不寛容な強い組織」におられた大岩啓之助さんは今では「人間の本質は寛容だ」と言われて行動されていることに希望を持ちたいと思いました。

 

 確かに今の世界を見ても「他社に不寛容な独裁者が跋扈しています。」。ロシアのプ-チン、中国の習金平、ミュンマーの軍事政権、アメリカのトランプ一派、独裁的な傾向は日本でもありますね。

 

 でも焦らずに、「寛容な世界」をこしらえたいと思います。私の場合は小さな地域社会の中ですが。つくりたいものです。

 

 個人的に52年間うじうじ悩んで来た問題は、「半分ぐらい」すっきりしました。大岩さんがいわれるように理論的に整理する総括することが無意味であることも納得しました。

 

 要は意見が異なっても、辛抱強く他社の意見を傾聴して、合意点を見出す努力をし続けることが、無意味な争いを避ける唯一の方法なんでしょう。

 

 全く利害や利権のない小さな地域の防災会や町内会の活動こそが、「合意形成の訓練」をしているのであると改めて納得しました。

 

 そこには経済団体や同業者の団体のような「均質性」などまるでなく、いろんな立場や生い立ちの人達が地域というくくりで繋がっているだけです。でもそれが「原点」であり、1番難しいことであり、1番価値があることであると思いました。

 

 そうした市民・住民の視点から底上げをしながら合意形成し、政治にも関心を持ち自治体や国に対してもきちんと発言する人間になりたいと思いました。

 

 8月18日の映画「ゲバルトの杜 かれは早稲田で死んだ」も見にいきます。

 

8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催いたします。
映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』高知市上映会
代島治彦監督 原案者・樋田毅さんトークイベント
8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催!
約50年前の1972年11月8日、早稲田大学キャンパスで一人の若者が殺された。第一文学部二年生だった川口大三郎君。自治会を牛耳り、早大支配を狙う新左翼党派による凄惨なリンチが死因だった。学生運動終焉期にエスカレートした“内ゲバ”の嵐。その死者は100人を超える。理想に燃えた当時の若者たちが、革命という名の下に肯定していった「暴力の論理」を今、解き明かす―。
内田樹、池上彰、佐藤優と当事者たちが“あの時代”を語り、鴻上尚史・演出の短編劇が炙り出す“内ゲバ”の不条理。
死んでいった者たちと生き残った者たちの、悔恨と鎮魂を刻印するミクスチャー・ドキュメンタリー作品です。
本作の監督 代島治彦さんと、原案本『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の著者 樋田毅さんをゲストにお迎えして、上映&トークイベントを行います。
・・・・・━━━━━━━━━━━・・・・・
■日時:2024年8月18日(日)�※開場 9:30
�<映画上映 >
①10:00~12:14
②14:30~16:44
③18:00~20:14
�<トークイベント>
1回目 12:14~13:00
2回目 17:00~17:45�※ トークイベントは、映画の半券をお持ちの方が、
どちらか一方に参加できます。
■会場:高知市立自由民権記念館ホール�(高知県高知市桟橋通4丁目14-3)
■鑑賞料:
前売1,300円 / 当日一般1,500円 
(シニアも一般と同じ)�小中高生は当日のみ1,000円�※ 未就学児入場不可
■前売券販売所:�高知県立県民文化ホール�高知県立美術館ミュージアムショップ�かるぽーとミュージアムショップ�金高堂書店本店�コープよしだ、コープかもべ�ローソンチケット(Lコード:81665)
※シネマ四国の電話・メール・Facebook
LINEトークでも前売券のご予約ができます。
【主催・お問合せ】シネマ四国�電話:088-855-9481�メール:cinema-shikoku@sweet.ocn.ne.jp
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2024.06.01

爽やかな北村正志さん

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 高知新聞2024年5月24日の特集記事「時代の旅人 あの人に聞く」はとても良い記事でした。実業家北村正志さん(高知市出身)の人生を取り上げて浅田美由紀記者がまとめられていました。

 北村正志さん(83歳)は、高知初のカメラ販売店チェーンである「キタムラカメラ」をつくりあげた2代目経営者であり、中興のその人でした。私は全く北村正志さんには面識はありません。ですが、亡き母が、北村兄弟姉妹の1人と学校時代からの友人であり、北村一族の動向については子供の時から母から聞かされていました。

 桜井町の理髪店がご両親で、兄弟姉妹が多くいたという北村家。高知初の全国展開したキタムラカメラは、2代目の北村正志さんの会社。北村商事や桜井水道という会社も兄弟姉妹が創業者です。1932年のロサンゼルス五輪の水泳で金メダルをとった北村久寿男さんも、兄弟姉妹の1人でした。

 記事によると北村正志さんは1959年に土佐高校から早稲田大学に入学。60年安保闘争の最中でした。東大生樺美智子さんが亡くなっ他国会デモにも参加されていました。
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「すぐ近くで死んだぞ。と言うてね、追悼抗議になって、京大の奴が朝までアジっていた。僕なんか群衆の1人。それからだんだん学生運動にのめりこんでいったんです。」

 大学の2~3年の頃「あれが内ゲバの最初」という乱闘が起こる。

「当時、6尺の、すぐ折れる角材やったですよ。東京中から集めっまってきた500人の学生がそれを持って,革マル相手に5時間も6時間もやっていた。」と北村さんは語ります。

 懲役1年8カ月の執行猶予判決を受け、大学からは除籍処分。学籍はなくても毎日大学の自治会室へいかれたとか。同じ大学で奥さんもいて生活に窮して、お父さんに泣きつき、九州の取引先の会社の倉庫番gとして勤務。あまり退屈だからまた学生運動をしようと企んでいたら、奥さんがお父さんに「密告」され、お父さんが現れて高知へ連れかえられたとのこと。26歳になっていたそうです。8年間も学生運動、社会運動をなさっていたようですね。

 北村さんはきちんとした会社にしたかった信念があったようです。「学生の頃は左翼でしたから。とにかく因業な(悪い報いの原因となる悪行」経営者のにはなりたくないと強く感ずるもんがありました。」

 北村さんは「就業規則の作成」「労働組合もつくり入らないと社員にしなかった」「社内での呼び名はさん付けで肩書ではなく」「座席はフルーアドレス制」にされたとのこと。

「学生時代の価値観が経営に響いたとすれば、姑息な会社にはしたくはないという気持ちがありました。会社らしい会社をつくろうと。会社の中にリベラリズムを貫こうとしたんです。」

 学生運動で鍛えた社会思想と、企画力、プレゼン力と行動力、指導力が会社経営でも活きたのでしょう。また北村さん自身がゴリゴリの古ぼけた「経営者は悪」という左翼理論や労働運動至上主義からは無縁な存在であったと思います。お父さんの寛容さ、優しさもプラスになっています。

 未だにあり程度高知で名前のとおった会社でも「残業代の不払い」や「労働組合を作ろうとしたら解雇された」「共働きのどちらかが退職(多くは女性)に追い込まれる」、せこい企業が多い高知の会社経営者のなかでは北村さんは秀悦な存在ですね。

 北村正志さんが家業に専念しだした時代は、お父さんが拡大していた現像所事業が好調で卸の利益が多き時代でした。チェーンストア理論を1から学び、研修に打ち込み、小売店拡張展開し、郊外店をつくりました。

 そして小売り店のチェーン化で2007年に1000店舗展開を達成されました。誰もがカメラを持ち、当時のコンビニ店に現像を依頼すると翌日プリントしてくれた時代でした。デジカメが登場する前のじだいでした。

 うちの子供たちは1980年台に生まれましたが、幼少期から小学生時代の行楽写真はフィルムカメラで撮影、あるいはインスタントカメラで撮影し、現像とプリントしてもらっていました。その仕組みはすべて北村さんたちがこしらえていたということがよくわかりました。

 しかしその後IT時代になり、フィルムカメラがデジタルカメラに置き換わり、それがスマートフォン内蔵型カメラに置き換わりました。2017年に熊本地震に伴うデジタルカメラの減産が、初の赤字決井さんとなり、翌年の2018年にTOBでCCCの完全子会社化になりました。

「事業の継続と社員の雇用を守る」という信念が北村正志さんにあり、円滑な会社の譲渡になったようですね。記事では2020年に新宿東口に創業当時の名前を冠した「北村写真機店」をこしらえました。背か負い有数のカメラやレンズの在庫を持つ旗艦店とか。希少なライカの在庫もあり、1台数千万円の名機も扱っておられるとか。

 8年間の学生運動・社会運動の体験も、自慢するわけでも、卑下するわけでもなく、さりげなく語る北村さんは格好良いと思います。それから家業を継いで、50年間で企業に育て、小売店展開も成功させ、時代の流れで縮小均衡をしいられますと、信頼できる企業体に株式を譲渡し、雇用と事業を守りぬきました。「軟着陸」させました。なかなかできることではありません。

 業界団体や経済団体にも入会せず、また家族を後継者にせず、まさに記事の見出しどうりの「企業は人のためにある」経営者の人生でした。あこがれる経営者ですし、何より爽やかですね。

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2024.05.03

77年目の憲法記念日

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 5月3日は「憲法記念日」です。「1946年11月3日に公布された日本国憲法が1947年5月3日に施行されたことを記念して、1948年に公布・施行された祝日法によって制定された。」 ウィキペディアより。

 最近ごく一部の政治勢力が「憲法改正」「「憲法9条改正」を言い立てています。今すぐにすべきことなんでしょうか?政権政党の自民党の1部に改憲論者が存在すること自体がおかしいことではないのか。
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 そもそも日本国憲法第9条は、自民党のご先祖の保守政治家幣原喜重郎氏の発案です。日本国統治の最高権力者のマッカーサー元帥は「腰を抜かした。」と言われています。第九条は長年、GHQから押しつけられたものという「俗説」が広まってきました。しかし、憲法九条を提案したのは日本政府の最重要人物でした。その名は、時の首相・幣原喜重郎――。幣原が九条の提案者でありました。

 左翼政党の共産党や旧社会党が「考案」したものではありません。日本国憲法公布当時の共産党は、9条に反対してましたから。今では「護憲勢力」と標榜していますから変化するものです。

 憲法9条のおかげもあって「自衛隊は1人の外国人兵士を殺害せず、1人の自衛官も戦闘で命を落としませんでした。それは「恥ずべきものではなく、世界に誇るべきことです。」日本の自衛隊は「人助けをする組織」であり、「人殺しの国際活動」はしませんでした。素晴らしいことです。
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 また私見ですが「憲法9条」と「憲法第1条の天皇」とは相互リンクしています。戦前は天皇は陸海軍を統率する存在でした。ドイツ帝国を真似たもので、本来鵜の天皇の姿ではありませんでした。日本国憲法では「国民の象徴」となり、明仁天皇は災害地の国民の慰問と、戦没者の慰霊を国内外で行ってきました。象徴天皇のあるべき姿を体現されました。それは現在の天皇家にも継承されています。真摯に被災地を訪問され、国民と真摯に向かい合う姿は、多数の国民に支持されています。
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 自民党の軽薄としか言えない改憲論には辟易する。大規模災害が起きると「緊急事態法の制定で憲法改正」と言い立てる。1月1日の能登半島地震から4か月経過するのに未だに市街地の倒壊した家屋の解体は進展していない。国民の命と生活を守れない連中が改憲論などおかしい。

 ロシアとウクライナは戦争していますが、欧州はイタリア以外は地震も噴火も津波もない。戦争や内乱、クーデターが「災害」ですから。日本は世界の災害大国。世界の大地震の20%が日本で起きている。世界の活火山410のうち110は日本にあります。地震津波、噴火があり、台風や大雨災害は毎年あります。「戦争」などやっている暇はない。政権政党ならそのあたりはわかるはず。
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 アメリカ追随の軍拡など辞めるべき。災害対策で積み重ねてノウハウで「人助けの国際貢献」をすべきです。国連でも平和外交を主張してほしい。自民党が本気でないのなら、政権交代しかあるまりまん。kenchan - コピー

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2024.04.16

4月13日・14日は完全休養日

4月13日・14日は完全休養日にしました。視力調整も微妙な段階です。

こしらえた3つの眼鏡でいいのかいけないのかを見極めないといけないからです。

1月に両目の手術をして人工レンズを埋めこんでいます。自分の体で「自動焦点が出来ない」からだ(目に)になりました。メガネで運転用メガネ、パソコン作業用の眼鏡を調整しないといけない。かつて経験したことのない体験をしています。

昨日は家内とドライブして県立美術館で「大錯覚展」を鑑賞して、夜須まで遠征してYASU海の駅クラブに行き、会費と1年間の艇置き代金を支払いに行き、夜須のハーバーを散策しました。

今日は久しぶりに自宅で映画鑑賞。少し毛色の変わった映画です。「金子文子と朴烈」という韓国映画です。ユーネクストで見ました。

http://www.fumiko-yeol.com/

俳優陣も監督も韓国の人達。皆日本語が上手だし、1923年の関東大震災時の東京近辺の朝鮮人虐殺についても丁寧に描いています

金子文子と朴列はアナーキストで当局側にマークされていました。朝鮮人大量虐殺の事実が諸外国に知れるにつれ、それは朝鮮人の無政府主義者や社会主義者がにひん帝国転覆の内乱を起こすための謀議を働いていたように事件をすり替えていくさまが丹念に描かれています。

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2023.11.27

気の置けない仲間との懇親は最高

2023年11月21日でしたが、1988年の高知での日本青年会議所全国会員大会に関わった当時の高知青年会議所メンバー有志10人が集まり懇親をしました。最高齢は70歳、若めの人は61歳でした。言われて見れば皆高齢者です。35年前は私は35歳、若めの人は26歳という若者でしたから。

 

 私以外は経済的には裕福な皆さんでした。経済団体の会長や業界組合の会長など、自分の会社以外でも要職に就かれている人が多い。そうかと思えば、家督を子供たちに譲り、リタイヤされた人もおられる。

 

 集まった飲食店は和室でしたが、膝や腰が痛いとのことで2人は椅子に腰かけていました。年齢を感じますね。お酒はビールから始まり、ハイボールを飲む人が多い。日本酒を飲む人は皆無。私はというと目の治療中なので、ノンアルコールビールでお付き合いしました。近況報告では皆それぞれの人生を歩んでいることがわかりました。子供や孫たちが海外へ移住された人も何人かいました。

 

 見かけこそ皆爺さんですが、「熱い心」を皆持っています。心は35年前に戻ります。青年会議所活動は、学校時代とは異なります。互いに経営者。企業の大小は関係なく、委員会ごとに事業計画を立案し、事業予算を立てて事業を遂行します。理事会は真剣勝負の場でしたから。

 

 皆が思い出したように「お前さんが理事会で反論しだすといつまでも審議が終わらない。皆後で飲み時間やマージャンする時間が亡くなるので、談合してお前さんの提案はすべて賛成ということにもなったことがあるよ。」とか言われましたね。

 

 お陰様で1987年にわたしは高知青年会議所入会3年目で初理事委員長になり、夜須町のマリンタウン計画事業に関わり委員会事業で突っ走りました。私はヨットで夜須町で年中冬でも休日には夜須町の海にっヨットで遊んでいました。それを「事業化し」「公共性のある事業」に仕立て上げました。

 

 「高知市の青年会議所が何故夜須町の事業に関わるにか」「南国j青年会議所や安芸青年会議所に任せる事業ではないのか」「全国大会の前年に予算を法外に使う事業はおかしい」と厳しい批判を理事会で受けました。ごもっともな理屈です。

 

 わたしは「夜須町の事業ではなくマリンタウン計画は県政の重要課題である」「JC事業は1年の関りですが、わたしは地元の商工会青年部やマリン関係者と一緒に継続的にかかわりますので事業予算をご承認願いたい。」と申し上げました。徹底的に実例と活動履歴を説明しました。

 

 徹夜理事会となりましたが、理事各位の賛同を得られました。道は険しかったですが、夜須での事業は、ヤッシーパークとして実現し、サマーセミナーIN・YASU(中学生のためのヨット教室)は、2002年の高知国体後の2004年にNPO法人YASU海の駅クラブとして形になり現在も事業は継続しています。もちろん私1人尾力ではありません。夜須町や県の支援や夜須町の住民力のお陰です。

 

https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/yasu4/index.html

 

 

https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/whatnew1/maruoka/maruoka1.html (ヤッシーパークの原点はアメリカ西海岸)

 

 

https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/whatnew1/nakura/s-s-yasu.html
(青少年ヨット教室の原点は高知JCのsummer seminar in yasuでした。)

 

 そして1988年の全国大会では記念事業として野外ロックコンサートを開催することが出来ました。いまでも高知県最大だった野外コンサートです。

 

 
https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/whatnew1/okamura/f-tosa1988.html(1988年のふりーじやきにTOSA・ビックロックフェスティバル)

 

 

 極左暴力高校生(留年して4年在学)が、大学へ進学しそこで家内と知り合い50年。家族をつくり、人様から勧められ対極の自民党青年部的な青年会議所に入会しました。当時は思い切り予算を使い、思い切り大きな事業が出来ました。何とか破綻せずにやり遂げました。「お前さんのお陰で年会費を値上げした。」と言われています。左も右も経験しました。

 

 今はわたしは零細企業の主であり、2008年からは両親が介護状態になりましたので、青年会議所を卒業したら多くの人達が入会する経済団体へ入会できませんでした。自宅周りの小さな町内会と防災会の世話役しか出来ない15年間でしたから。それも人生です。

 

 普段は逢えない人達と、気の置けない交流が出来ました。いろいろ参集者にはご事情もありますので、写真の公開や名前の公開はしません。主に私の感想だけを今回は書きました。

 

 いまのわたしは小さな地域活動をしています。それも人生です。

 

 

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/ (二葉町防災新聞)

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