連合赤軍と新自由主義の総括

2023.03.01

50年前の3月1日

 半世紀前のことですが、昨日のことのように覚えています。高校4年間がこの日で終了しました。51年前には1単位不足で追卒業すらさせてくれず、執拗に自主退学処分を迫ってきた当時の高校当局の言動は今思い出しても腹が立ちますね。母が支援してくれました。教師は自主退学を言い立てるだけの屑どもでした。

 大学と異なり高校は落とした単位だけ再履修ではなく、すべての教科の単位と出席日数が足りなければ卒業させてくれません。しんどい限りでしたがなんとか克服出来ました。全てが解放されました。人生の転機でもありました。

 何とか大学へも合格し、翌日から母と下宿探しに行きました。
 卒業式には出席などしたくなく、中学の恩師宅でごねていましたが、ご主人に説得され嫌々ながら行きました。

 終わると脱兎のごとく式場を去り帰宅しました。バカ息子を全面支援してくれた母に報告しました。母とは下宿探しに行きました。すでに条件のいいところはなく、駅から徒歩25分の民家がありました。そこに決め家主に母とあいさつに行きました。

 1972年(留年した年)は連合赤軍事件が起きました。なにより「仲間殺しの凄惨さに衝撃を受けました。1973年に大学へ入学したものの新左翼セクト間の内ゲバ(殺し合い)が激しくなり、社会運動や市民運動、政治活動をその後一切辞めました。それから50年経過しました。

 あと寿命が最長30年として、総括できるのだろうか?たぶんできないまま墓場へ行くようになるでしょう。でも考えてみたいと無謀にも思いました。

 浦島太郎さんのような気分です。

 

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2022.06.19

私には高校の「母校」などはない

 先日「母校」からのお知らせです。と表記された文章が送りつけられてきました。それは1972年の卒業出来す、1973年に卒業した県立高校の校友会とやらでした。
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 なんでも来年から別の高校と統合し、校名もなくなるらしい。同封されているのは「校友会名簿」の購入依頼と、名簿作成賛助金のお願い(一口10000円)表示された紙きれでした。

 

 即ゴミ箱に捨てました。今更「母校」でもあるまい。その高校には「苦い」思い出しかない。屈辱的な思いです。

 

 丁度50年前に1単位差で追卒業もさせてくれず、執拗に自主退学を迫った担任教師は県教祖(共産党系の教員組合)の活動家でした。生徒指導の教員はファシスト教員組合の連中であり、常時厄介者扱いをされていました。

 

 わたしもファシストと共産党系の教員には常に悪態をつき「お前たちは学校の犬だ。」と言うてましたから。とにかくその高校には人生相談するような教員は1人としていませんでした。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-d51007.html (50年経過しても悔しい思い出)

 

 

 当時の教員は80歳前後になっております。ですが50年経過しても、彼らに受けた屈辱は忘れてはいませんから。もし万が1同席するようなことがあれば、こちらも70歳前のお爺さんがスイッチが入り、元教員に暴言を吐き、発言次第によっては蹴とばしたりすると思います。

 

 ですのでその高校など「消えてしまえば」いいんです。高校時代のサークルの後輩たちとは今でも交流があり、「あんたはだれのおかげで卒業できたのかわかっちゅうかね。」などと執拗に今でもいわれてますから。それで十分です。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e58f.html (3月1日は何年経過しても悔しい思い出があります。)

 

 どうでもいい高校と許しがたい当時の教師集団などどうでもいいことです。

 

 その当時懸命に「バカ息子」を支援いただいた母(現在96歳)には恩義があります。
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 要介護5になって101日間の入院生活から戻りました。母の在宅介護の方はわたしには遥かに大事なことですから。

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2022.06.09

天安門事件からはや33年


 天安門事件(ろくしてんあんもんじけん)は、1989年6月4日(日曜日)に中華人民共和国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していたデモ隊に対し、軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件である。

 もう33年も経過しましたか。民族解放闘争の旗手として、欧米の植民地主義と対決するアジアの雄として中国共産党はそれなりの信望を集めていました。しかし1989年6月4日は、民主化を求めた天安門広場で集会を開いていた学生や市民労働者に、あろうことか武装した人民解放軍が武力鎮圧に回りました。水平射撃で多数の青年学生が命を奪われました。

 今年も6月4日は北京市天安門広場は警察によって閉鎖され、天安門事件は「なかったこと」に中国共産党はしています。今や経済大国になった中国はその経済力を世界平和や環境保全に費やすことなく、軍事的威嚇や侵略的挑発を繰り返しています。専制独裁主義の脅威を周辺諸国は感じています。

 近隣国を脅かすよりまずは、民主化し、天安門事件を当局者が反省し、検証すべきでしょう。

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2022.05.15

沖縄返還から50年

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 今年は「50年」という節目の意識する出来事が続きますね。2月は「連合赤軍事件」から50年でした。

 5月15日は沖縄返還から50年です。実は家内は沖縄県出身。「知無どんどん」を一緒に見て沖縄について語ります。彼女は沖縄返還の前にパスポートを持参し首都圏の大学へ進学しました。
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 日中国交正常化で50年目です。なにかと「悪者」になっている中国ですが、隣国です。仲良くしたいものです。

 沖縄は中国と対立をことさら煽り立てる人たちは、「前進基地」の様にいう無責任な人たちの言動が気になります。
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 義母が存命中に何時も言われていたのは「沖縄は軍事基地があります。基地があれば攻撃されるので怖いです。」と言われていましたことを覚えています。
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 未だに米軍基地の存在は本島では過大ですね。悩ましい問題です。
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2022.04.14

現実のスピードと変化に追いつけません

 今年は私個人の「総括」は、2月の『連合赤軍事件から50年」ということで、「人は思想で仲間殺しが簡単にできるのか」「人を解放するための革命思想が何故仲間殺しに収斂したのか?」をしっくりと考えていくつもりでした。


 


 ところがロシア軍が2月24日に隣国ウクライナに正規軍25万人が軍事侵攻しました。ロシアの軍事攻撃はウクライナ軍の軍用施設にとどまらず、一般市民の住宅や学校や病院、教会や保育園、鉄道駅など無差別攻撃を行い、占領した地域ではウクライナ市民を拘束し、拷問の上多数殺害した戦争犯罪を繰り返しているようです。


 


 情報化の時代ですから、市民がスマホで撮影した動画か世界に流れる時代。毎日日にちロシア軍の悪逆非道ぶりが映像で見ることが出来ます。


 


 さらに生物化学兵器や核兵器まで使用される可能性がある屋に言われています。21世紀の時代に、前時代的な戦争が起きていることに、ついていくことが出来ません。映像で毎日見ているウクライナの惨状は現実であり、現在進行形なのです。


 


 過酷な現実に「何もできず放心」している情けない自分がいます。専門家筋も政治家も皆混乱していると思いますね。


 


 ウクライナ戦争は侵略者のロシアの勝利はありえず、ウクライナ解放軍がロシア軍を東部で撃退して勝利する以外に戦争は終結しませんね。案外近い将来ではないかと思います。

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2022.03.02

連合赤軍50年

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 2022年2月28日は、「連合赤軍事件から50年」の日です。軽井沢のあさま山荘に人質を取って銃器で武装した5人が、警官隊の突入で全員逮捕され、人質も無事でした。


 


 警察官2人が殉職しました。民間人1人も亡くなりました。


 


 1972年2月28日は、私は高校を卒業できなくなり、この事件を自宅で母と2人で見ていました。当時「信仰」していた毛沢東思想がこの事件で崩れされました。
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 偏狭で狭小な「革命史観」ですべてを解釈し説明することなど到底不可能。連合赤軍は、ロシア革命のカリスマ独裁者レーニンの「民主集中制」という組織原理から派生しているだけに、構成員は逆らうことが出来ず、仲間の殺害と絶望的な武装闘争に加担し破滅してしまいました。


 


 当時一時的に興隆した新左翼系の社会運動も道連れにして滅亡してしまいました。連合赤軍事件前後の新左翼党派間の「内ゲバ」抗争も重なり、絶望感もあり、国民各位が政治に対して失望感を抱きました。以来「政治のしらけ」「社会運動の停滞」が日本社会に続いています。


 


 「世界的な排外主義・差別許容の風潮を憂う。」


 


 多様性を否定する自国優位主義、民族優位主義、差別主義の台頭が最近世界各地で目立つ。日本でも「復古主義」で排他的な自民党の長期支配が継続している。「偏狭な復古主義的な世界観で、すべてを推し量り支配しようという強引さ」が目立つ。最近では「野党」の維新までが憲法改正を言い立てていますね。


 偏狭で排他的が故に、結果世界中を敵にまわし、多大な犠牲を自国民にも近隣諸国にも強いて無残に破たんした大日本帝国。その「破綻した国」に戻ろうとして憲法改正を叫ぶ理屈は、理解不可能です。排外主義と独善主義、差別主義が混じっている「復古主義」に政権政党の自民党が支配されていることが怖いです。

 本来なら社会運動が興隆して、偏狭な排外主義や差別主義を退治しないといけない筈。連合赤軍事件とその後の市左翼セクトの精細な内ゲバの蔓延で日本の社会運動は見る影もなく衰退しました。残念なことですね。

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2022.03.01

50年経過しても悔しい思い出

 2022年3月1日は、50年前に私がある県立高校を卒業できなかった日です。当日高知県の県立高校は卒業式でした。 当時わたしは1単位だけ足りませんでしたが、当時の高校の教師集団は、15日の追卒業さえ認めませんでした。担任の教師は自宅へ来て母に執拗に自主退学を勧めました。

教師「息子さんは男なら自主退学して大検に挑戦し、大学へ進学すべきです。」

母「息子は留年させ卒業させ、大学へもい活かせますから。」と毅然と言い返しました。

教師「お母さんそれは絶対に無理です。私が保証します。」と言い放ち退散しました。

 事実春休みの期間中はなしのつぶてでした。4月の登校日に職員室に行き「どうなってますかね。」と教師集団に言いました。

教師「お前はなにしにきた!」

私「留年しに来たがよ。何の連絡もいないきに」

教師「校長室で待っていろ。臨時職員会議でお前のクラスを決めるから。」とのことでした。

県教祖の活動家だった担任教師は、私を留年させますという母の意向を学校側に一切伝えていませんでした。偽物の民主化教員でしたね。

 独立教組系(ファシスト)の教員たちもとても冷たい態度でした。50年経過しても当時の県教組(共産党系)もファシスト系組合も許せませんね。

 どうにか留年が認められ1学年下の連中と一緒に授業を受けました。学校側の怠慢で教科書も変わっていました。」制服も体操服も変わっていました。

 教科書は必要なので自費で大橋通の南側の教科書販売会社へ行き買いました。制服と体操服は連絡がなかったので買いませんでした。

 ファシスト組合の体育の教師は「お前服装違反だぞ」とかわけのわからんことをいうので「留年することを担任教師に伝えたが何の連絡もなかった。学校側が悪いので買わない。」ということで突っぱねました。

 大学の場合は落とした単位だけ翌年再履修すればいいのですが、高校は全部の教科をすべて再履修しないと卒業できません。

 運動体も潰えたので真面目に授業に出て何とか卒業できました。大学へも進学できました。卒業できた翌年は卒業式には出たくないつもりでしたが、中学時代の恩師に説得されしぶしぶ出ました。式が終わるとすぐに帰りました。
 そんな事情もあり、校友会などには入会していません。50年経過しても当時の元教員に会えば、たぶん罵声をあびせるでしょうから。

 

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2022.02.28

激動日本左翼史を読んで

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[激動日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972」(池上彰・佐藤優・共著・講談社現代新書・2021年12月刊)を読みました。

「いかがわしい」社会評論家と私は池上彰氏と佐藤優氏についてはそう思います。仮に彼らがそうであるとしても今回の著作は、時代考証をキチンとしながら記述されています。

「なぜ、過去の遺物と化した新左翼の思想を今読むのか。それは、自分の命を投げ打ち、時には他人を殺すことも正当化する思想の力というものを、現代に生きる読者に反省的に学んでほしいからです。
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 危機の時代には必ず激しい思想が現れます。こういう過去があったということを知るだけで、危険な思想への免疫ができるはうです。」(P43「序章60年代前史」・佐藤優)

 佐藤優氏の言われる「自分の命を投げ打ち、時には他人を殺すことも正当化する思想の力というもの」とは一体何かという疑問をわたしは、50年前の高校生時代から考えてきました。

 高校生反戦会議(高1)、高共闘(高2)、高校生評議会(高3)と形と名称を変えながら新左翼に影響された高校生組織づくりに勉強もせずに奔走していました。惨めに敗北し、卒業も出来ず暗澹たる気分でいたところに『連合赤軍事件」が起こりました。信じていた当時の「革命思想」は崩壊しました。

「私たちが学ぶべき左翼の「失敗の本質」が見えてくるでしょう。崇高な理想から始まったのに、次第に暴力に覆われ、分裂を繰り返すうちに暴走して自滅する―。左翼がたどった歴史を反復することがないように、現代の教訓につなげていけたらと思います。」(P43池上彰)

 また歴史小説家と言われていた司馬遼太郎さんも講演集の中でこう言われていました。(引用が長くなります。)

「子供の時からお酒を飲みつけていて、お酒をしょっちゅう飲んでいるような人は、お酒が切れるとだめですね。アルコール中毒と同じで、いらいらしてしまう。

 イデオロギーもそうですね。違うお酒が必要なんです。日本人のそういう心理の中で、戦後のマルキシズムが果たした役割があります。」(「うその思想」)

 司馬遼太郎は、ヨーロッパ世界のキリスト教原理も、東アジア儒教も「飼い馴らし」の原理といった。当時日本では高く評価する向きがあった文化大革命と紅衛兵に冷静な批評的発言をし(71年)、日本人のほとんどが心情的に加担した南ベトナム民族解放戦線に対しても、「歴史や政治的正義はそこまでは崇高ではない」(「人間の集団について」-ベトナムから考える)」と言い切ったのである。73年と言う時代相を考えれば、これは果敢な発言であった。」(P402 「解説「思想嫌い」の思想」)「司馬遼太郎全講演1 1965-1974」(朝日新聞社・2003年刊)

 司馬さん流に言うと、私は中学3年生の事から高校4年間、大学4年間の9年間「極左新左翼イデオロギー」に酔っぱらっていたのでしょう。

 そのあたりは左翼も右翼も関係ないようです。閉ざされた小さな組織や集団では、より過激な意見が優勢になり、状況が見えなくなり、自滅する行動に駆り立てられ破綻していきますね。

 また幕末の頃日本国中で流行していた「尊王攘夷」という思想ですが、薄っぺらな思想であり、討幕運動の原動力になっても、新しい国づくりには全く役立たないものでした。

 そのため明治の初めに政府閣僚の主要メンバーが2年間も欧米に滞在し、先進列強の制度を研究し、アレンジして急ごしらえしたのが明治国家でした。尊王攘夷では国づくりが全く出来かったからでしょう。

 老舗左翼の体たらくと新左翼の登場

 日本の左翼運動で1番の老舗は日本共産党。今年結党100年であるとか。西欧型民主主義国で、共産党と名乗って国政や地方議会で議席を獲得しているのは日本共産党ぐらいでしょう。

 しかしその歴史は決して輝かしいものではありませんでした。戦前は特高警察などに弾圧され、最盛期でも党員数は1500人程度でした。しかも非合法。1928年頃には主要な幹部が検挙され党組織は壊滅しました。

 日中戦争や二次大戦など無謀な戦争を阻止できません江した。

 敗戦後は占領軍により刑務所から幹部が一斉に釈放されました。その時当時の共産党の指導者は致命的な間違いをしました。アメリカ主体の占領軍を「ファシズムから日本人民を解放した解放軍規定」をしてしまいました。

 1949年の中国革命の影響からか、山村工作隊などの武将闘争を展開し、さしたる成果を上げることなく壊滅しました。1955年に再建大会を行い武装闘争を廃棄しました。その後も党内で旧ソ連派と中国派が対立、路線が右往左往していました。

 その後宮本顕治氏が党の実権を掌握し、旧ソ連や中国共産党とも対峙し独自路線で党運営をするようになりました。

 旧社会党は、戦前の労働派の流れを源流に敗戦後結党され。共産党の路線争いに嫌気した人たちや、朝鮮戦争前後のえん戦気分の国民を取り込み党勢を拡大していきました。

 旧社会党の平和革命路線の内実は、旧ソ連の軍事力を背景に社会主義革命を成し遂げるということを提唱していました。

 旧ソ連がアメリカと対峙していた頃は。それなりの説得力がありましたが、旧ソ連が崩壊するとほどなく旧社会党も崩壊してしまいました。一時期は国会の衆参両議院あわせて200人を超える時期もあった日本社会党でしたが、その後は見る影なく衰退し、分裂し党名すらなくなりました。

 1959年からの三井三池闘争と1960年の安保闘争などで、新左翼の活動家たちも社会党と共闘したりしていました。共産党は党組織運営に従わない新左翼を徹底的に排除しましたから、旧社会党は一時期は「新左翼の培養器」のような役目をしていたようですね。今回この本を読んで改めて思いました。
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 ブント(共産主義者同盟)の登場は颯爽としていました。

 当時東京大学の学生であった姫岡玲治氏(本名青木昌彦・スタッフォード大学教授)の小論「民主義的言辞による資本主義への忠勤-国家独占資本主義段階における改良主義批判(1959年・ブント機関紙共産主義)は突き抜けていました。

 佐藤優氏は、P188で引用しています。出典は日本経済新聞に1か月単位で連載される「私の履歴書 人生越境ゲーム」の中で青木昌彦・著で書かれたものでした。

「論争の相手は主にソ連を盟主とする共産党正統派(日本共産党主流を含む)、(イタリア共産党の影響を受けた)共産党構造改革的改良派、第4インターであったが、私の重要な論点は次のようなことにあった。

①ソ連は官僚の特権的地位を維持する国家に変質したので、革命運動の指導者の立場にもなければ、擁護の対象にもなりえない。

②日本の資本主義は、戦中・戦前から小農などの古い要素を抱えつつも、それを利用しつつ高度の発展を遂げた。

 したがってそれはアメリカ資本主義に益々従属するというような後進性によっては特徴づけられない。

③強力な独占企業体性は国家の援助によって出現したとはいえ、それは資本主義の独自の運動法則の発展の表現である。(国家独占資本主義)。それは政府の政策の結果として生まれたものでなければ、それによって民主化されうるものでもない。」(42~43頁)

 なおそのすぐ後の箇所には、当時この姫岡国独資論に対して、日本共産党構造改革派の代表格である不破哲三が噛みついてきてきたこととその後の顛末も書かれています。

「このような20歳になったばかりの私の書いた一連のいわゆる「姫岡理論」に対して、後に共産党の党首となる不破哲三は氏は、党機関誌「前衛」1959年6月号誌上で「現代トロキズム批判-平和と社会主義に敵対する「世界革命」論を発表して、論理にならない罵詈雑言を浴びせたすえ、「もはや理論的批判の必要はない」「この反革命的反社会主義的本質を徹底的に暴露して、政治思想的に粉砕しつくすことだけが残っている」と締めくくっていた。

 しかし20年後のソ連崩壊に関して、彼は①に準じたことをいわざるを得なくなったし、②についてはやがて沈黙を守らざるを得なかった。」(43頁)佐藤優)

 池上彰氏は「本来、共産党にとっては取るに足りない弱小勢力の若者の論文に過敏に反応した。それだけ姫岡論文は影響力があったんですね。」(P189)と述べています。

 当時の20歳の大学生姫岡玲治氏の社会的影響力は、現在の将棋界を席巻し五冠を19歳で達成した藤井聡太氏のような存在でしたね。

 その後の「新左翼」の論客は姫岡氏を超えるレベルの人達は出て来ませんでした。’

また革共同革マル派の創業者であり教祖的存在であった黒田寛一氏も独自の理論構築を行い、当時の旧ソ連―日本共産党の理論と対峙できるだけの内容がありました。

「黒田の疎外論の特徴は,今を生きている我々1人1人が疎外された人間であり、真の問題はその自分が疎外されている状況にさえ気づけていないことなのだと指摘したこと。

 そしてその「気づく」ということはすなわち、プロレタリア的な人間になること以外ないと言い切ったことにありました。

 我々はプロレタリア的な人間になり共産主義革命を実現することによって、そこで初めてプロレタリアだの資本家だのといった階級による断絶を受けない、すべての人が手をつなぎ合えるようなような人間のあり方を回復することが出来るだろうという社会観が黒田の思想の根本にはあります。

 黒田のこの疎外論は、ルカーチからの影響を非常に強く受けていると思われますが、マルクスの考えた疎外論をヘーゲルと結び付けて捉えなおしているという点で、本当に考え抜かれたものです。」(佐藤優・174頁 「思想家黒田寛一の凄み」・第3章新左翼の理論家たち)

 革マル派は黒田の理論と旧国鉄の労組員であった松崎明氏との連動で動労という労組に確固とした組織基盤をつくりました。警察側の資料によれば現在も5500人の勢力を持っています。共産党や社会党とも別の運動体になることに成功しています。

 また社青同解放派も一時期ユニークな存在でした。それは新旧左翼を問わず「神格化」されていたロシア革命の象徴であるレーニンを徹底的に批判したことでした。

「解放派の代表的理論家の一人であり第二代議長も務めた滝口弘人(弘人)は、解放派の綱領的文章である「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還する為の闘争宣言(草案)(1961年5月社青同東大班機関紙「解放」NO6掲載 のちの高見出版より刊行)で次のように書いyています。」

「レーニン主義=ボルシェゥビィズムは、プロレタリアートが階級意識=共産主義的意識を生み出すことを否定し、sレと共にこの意識を体現する自分自身の党を生み出すことを否定する。

 プロレタリアートの党は、プロレタリアート自身が生み出すのではなくて、プロレタリアートの外部から与えられる他はないとされている!

 従ってレーニンの”前衛党”は、厳密にはプロレタリア党ではない。それは社会主義的中間層の支配する党、完全に”観念とされたプロレタリア”の党である。この党は、全プロレタリアに完全に超越した党である。

 ・・・社会主義理論を純粋に護持する”理論家”がただちにプロレタリアート解放闘争の実践的「前衛」つまり「党」であであることは正しいのか?

 我々はこれには、はっきりと答えなければならない。それは共産主義=革命的マルクス主義への決定的な背反である。」(199頁 佐藤優「社青同解放派「レーニン批判の論理」

「レーニンを否定した解放派が依拠したのが戦前のドイツ共産党の指導者であり、1919年の「スパルタクス団蜂起」(ドイツ共産党がドイツ・ワイマール共和国に対して武装蜂起しベルリン各地の主要施設を占拠したものの鎮圧された事件)で民兵組織に虐殺された女性革命家ローザ・ルクセンブルグの理論でした。

 ロシア革命以前からレーニンの「前衛党」や「民主集中制」論を批判してあくまで労働者階級が主体となった、言い換えれば民衆の力を信ずる革命を志向したローザの理論に立脚することで、解放派は官僚主義的独裁を排した、より民主的な共産主義革命が実現できると考えたんです。」(201頁)

 佐藤優氏によれば、解放派のルーツは労農派の山川均であると。同じ社会主義協会の向坂逸郎氏がレーニンを賛美していましたが、山川均氏は全くしなかったそうですから。

 また「外部収奪論」は説得力がありました。資本家が労働者から収奪するだけでなく、富裕層が貧困層から、日本がアジア諸国から収奪しているということなどが資本主義の最大の悪と主張し、ブントや中核派等にも影響を与えました。

P202には興味深いやりとりがありました。

池上「大阪市立大学准教授の斎藤幸平さんが書いた2020年のベストセラー「人新世の「資本論」(集英社新書)でも外部収奪論は特に強調されている点ですね。

 その点でも解放派の思想は現代に通じる部分もありそうですね。」

佐藤「そのとうりでしょうね。ただ佐藤幸平さんがまさにそうなのですが、彼のようにヨーロッパでマルクス主義を学んでくると、基本的にレーニンは傍流で、ローザが主流なので、自然にそこに注目するようになるんです。

 日本みたいに資本主義国でありながらスターリン主義のマルクス主義が強い国は実はかなり珍しいのです。」(P202)

 連合赤軍などは、外部注入論のレーニン主義を踏襲しているし、党員は党幹部に絶対服従というレーニン主義の民主集中制の権化で暴走し、仲間殺しを行い自壊しました。

 大学時代のサークルの先輩たちが関わっていたブント(共産主義者同盟)叛旗派も「党大衆構造の止揚・変革」などと党幹部を絶対視する党運営とは無縁の様でした。叛旗派と解放派は一時期「仲良し」の時代があり相互影響し合ったかもしれないですね。

 初期のマルクスが提唱していた「疎外論」は、1960年代当時の日本共産党には抜け落ちていて、少数会派に過ぎない指導者たちの知的水準はブントにしろ革マル派にしろ社青同解放派にしろ高かったと思いました。
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 しかし佐藤優氏は、新左翼の弱点も指摘しています。

池上「たしかにあの当時の学生運動のリーダーたちの知的水準は今考えると驚くほど高かったですね。さきほど言ったように60年代末期は大学の大衆化の始まりのじきではありましたが、そうはいっても今とは全然違い、大学生は紛れもなく知的エリートでした。」

佐藤「末端の方は継承できるだけの知力がありませんから次第に殺しの話しかしなくなってしまったかもしれないけれど、それでもやはり運動を始めた人たちは非常に賢かった。ですからなおのこと、これほど多くの知的な人たちが運動を指導した半世紀後の日本がこうなっていることが不思議です。

 もはや社会で交わされる言葉に思想性もなんて欠片もありません。

 だから左翼というのは始まりの時点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。そしてその仕組みは、リベラルではなく、左翼の思想のどこかにあるはずなのす。」

[私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てらっると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけでは割り切ることもできない。

 人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築できると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚出来ないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。」(P209)


 欧米とは異なり政治に何も残せなかった新左翼

 わたしは中学生時代から政治に興味があり、総選挙などでは各政党の選挙事務所を訪問して話を聞いたり、資料をいただいたりしていました。

 人生の多感な時代、1番楽しい時代、いゆゆる青春時代U15からU23までは時代の影響もあり。政治活動や社会運動に打ち込んでいました。しかし成果が出たことは殆どなく、惨めな敗北体験しかありません。

 佐藤優氏は新左翼の政治への影響力については、「まるでなかった。」と突き放しています。

「哲学・思想の面で新左翼に優れたものがあったのは間違いありません。しかし、政治的には全く無意味な運動であったと言わざるを得ないでしょうね。

 革命を成就させられなかっただけでなく、その後の日本社会に何らかのポジティブな影響を及ぼしたわけではありませんでした。

 正義感と知的能力に優れた多くの若者たちが必死に取り組んだけれども、その結果として彼らは相互に殺し合い、生き残った者の大半も人生を棒に振った。

 だから彼らと同形態の異議申し立ては今後決して繰り返してはならない、ということに尽きると思います。」

 同時期のフランス5月革命も挫折はしましたが、社会的な成果はたくさんありました。女性の社会参加、男女平等がその後フランス社会では各段に進展したそうですから。

 ドイツなどでも環境保護を唱える「緑の党」などは国政へ進出し今や連立政権で閣僚も輩出しています。かつての英国首相のブレアや米国のクリントン元大統領も学生時代はベトナムは寝ん運動をしていました。日本だけは「なにもない」状況を作り出し、政治に無関心な層を大量に生み出しました。

{日本の新左翼も暴力に走らなければ、あるいは暴力に走ったとしても権力に対する暴力にとどめておれば一定の存在感を残せていた可能性もあったのでしょうが、内部での殺し合いに走ったことが致命的でしたね。
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 あるいは日本の新左翼運動が残したものは、島耕作型のサラリーマンを大量生産したことかもしれません。

 個としての自立にはこだわるけれど、目の前の利益にだけ執着するという生き方です。
島耕作は社内の派閥には属さないけれど仕事はでき、出世のチャンスは逃さないという男でしょう。

 新左翼の連中は信頼していた仲間に裏切られ、党も何も信用できず頼れるのは自分だけ、という局面を程度の差こそあれ経験しているから、運動から身を引いた後にこのタイプのサラリーマンになった人たちは多かったとはずです。

 もうひとつは「最後に信用できるのは家族だけ」という意識から発する生活保守主義です。政治など社会の問題に対して、自分たちと地続きの問題として真剣に捉えず、多摩に話題にすることがあっても居酒屋論議レベルの無責任な議論しかしない。

 「政治」や「社会」と、自分たちの「生活」だけ大事にし、後は自分のキャリアアップの為だけに頑張る。そういう新自由主義の母体をつくったという意味では新左翼運動の影響は大いにあったと思います。」(P248)

 その後「しらけ世代」や「政治に無関心層を大量に生み出してしまったことも新左翼運動の悪しき影響であると思います。
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 また代議民主主義制度を「戦後民主主義の否定」と当時の新左翼党派は主張していました。私なども影響を受けました。では代議制民主主義、議会制民主主義(間接民主主義)を否定すならば、どのような仕組みで民意を集約し、国政を動かすのかという仕組みの提案も結局新左翼は出来ずじまいでした。

 佐藤優氏が70年代後半に同志社大学である教授から言われた以下の言葉が、とても印象に残りました。長いですが引用します。

「佐藤君、政治には「大人の政治」と「子供の政治」がある。私は、君たち学生が学友会(ブントが握る同志社の学生組織)で活動することも、神学部自治会がアナーキズム運動をやることも全くかまわない。君等は怒るかもしれないがそれは「子供の政治」だからだ。

 その「子供の政治」を経験しながら、様々に試行錯誤していくのは学生にとって必要なことだし、同志社は元々そういう経験を許容する空間だった。

 政治の世界で起きることはパターンとしては全部同じだから、人をまとめるのがどれほど大変で、どんなところから諍いが起きるか小宇宙での体験を通じて知っておけば、卒業後に大きな政治に遭遇したときに、それが保守系であろうが革新系であろうが、あるいは企業内の政治であろうが過度に戸惑わずに済むからだ。

 ただし民青や中核派、あるいは統一教会は違う。これは「大人の政治」、大人が自分たちの組織的目的のために子供たちを利用する政治だ。

 我々は教育的観点で、そうした「大人の政治」から君たちを守る義務がある。というんです。(P258)

 寛容な管理者が多様な価値観を認め「小宇宙空間」をこしらえているところは羨ましいと思いました。卒業後に「小宇宙」を体験したリーダーたちは、民間企業やアカデミズム、ジャーナリスト,教会、政界などで活躍しています。

池上「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている。」


 不毛な議論、不毛な仲間同士の殺し合いを防ぐための処方性の1つは、佐藤優氏は「だら幹(堕落した幹部)を作っておき、その現実主義を認めることであるです。(P261)

 仲間殺し際限のない不毛な内ゲバの負のスパイラルになってしまう大きな原因の1つが「戦前共産党の社民打撃論に由来しているようだ」と佐藤優氏は言います。

「革命を成就させるためには、自分たち「真の革命勢力」の周辺にいる革命を装っている連中を殲滅して革命の隊列を1本化しなばいけないと考えた戦前の日本共産党の理論と体質。

 これを新左翼が断ち切ろうとせず、無自覚に継承しまったことによる過ちです。ですから内ゲバの入り口としての社民打撃論を学び、その上でこれを克服することは、現代でも社会変革を目指す人にとっては非常に重要だと思います。」(P261(過激化する新左翼)

 私個人のテーマである『連合赤軍と新自由主義の総括」ですが、今年も総括はできませんでした。連合赤軍事件から今年は50年目。総括こそ出来ませんでしたが、なんらかの足がかりを得たように思います。

 共産主義運動におけるレーニン主義の悪弊は新旧左翼全般に浸透しています。「外部注入論」:「民主集中制による党運営」、「社民打撃論」による独善主義への転落。

 日本の新左翼運動が大量の白け世代を生み出し、政治への無関心層を生み出してしまいました。

 私個人としては53年前の高校1年生の4月に高知大学へ高知県下の30人を超える高校生たちと集まり高校生反戦会議に参加しました。高校生運動や社会運動に関わり、50年前の1972年3月に県立高校を卒業できなくなりました。

 翌年だだ1人で留年し、やっとこさ卒業し関東の大学へ進学しました。そこで大学闘争(学費値上げ反対闘争)に関わりました。しかしほどなく凄惨な内ゲバの時代になりました。

 私はどの党派にも属しませんでしたが、本来なら仲間である人達が殺し合いをし、現実に知り合いの先輩が対立党派の襲撃で亡くなりました。なんとも悲しくおぞましい出来事でした。

 2022年になりロシアが兄弟国であるウクライナに対して軍事力で侵攻しています。なにやら日本でも「勇ましい議論」がされています。

 でも頭を冷やしましょう。コロナ感染症対策も満足できない体たらくの日本が戦争へ参加するんぞ出来るはずありません。
天安門1986年
 専制国家中国は短期間で100万人の市民のPCR検査が出来ます。日本は全くできません。すでに国力の差が大きく中国に引き反されています。こと軍事論に関しては「感情的な議論」はすべきではありません。

 今の国政の与野党では、コロナ禍にも、近隣国との適切なお付き合いも難しいと思います。きちんとした活動をしてきちんとした政治を行うためには、国民1人1人が政治に関心を持ち、多様な意見早を言い合い、押し切るのではなく、地道に合意形成を図るべきです。つくづくそう思いました。

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2022.02.11

連合赤軍から50年目

日経・連合赤軍50年特集1_NEW
 日本経済新聞2月7日の記事は,「現代史メモランダム」の特集記事。第1回目は連合赤軍事件を取り上げています。

「連合赤軍 問いは今も」

「漫画レッドが描く事件 言葉が人間支配」

「学生時代は合唱団 傾倒した「普通の若者」と見出しにはあります。

 私は直接連合赤軍に関わっていたわけではありませんが、当時関わっていた高校生運動が敗北し、中心的な仲間たちは退学処分になり、あるいは自主退学しました。私はと言えば卒業できなくなり、担任教師は執拗に自主退学を勧めていた時期でした。

 連合赤軍事件は自宅で、母と2人で見ていました。積雪のあるなかに人質をとって立てこもる連合赤軍。警察が重機に大きな鉄球を吊るして、建物を破壊し、そこへ放水を繰り返す。

 報道では3人の警察官が銃で撃たれ殉職されました。長い時間の攻防性があり、警官隊が突入し、全員が逮捕され事件は終わりました。立てこもっていた連合赤軍の中には、私と同年齢の高校生もいました。
日経・連合赤軍50年特集2_NEW
 母の励ましと支援もあり、私は同じ高校に留年することになりました。母は世間体を気にせず支援してくれました。おかげで私はは翌年卒業し、大学へも進学することができました。

 大学でも学生運動気分を味わいましたが、夏休みでロックアウトされました。そして時代は陰惨な内ゲバ時代になり、殺意が国家権力に向かうのではなく、同じ新左翼の党派同士の殺し合いになりました。

 今にしても思いますのは『連合赤軍」と「内ゲバ」が、日本の社会運動のブラックホール的な存在になり、「政治に無関心層」を大量に生み出すことになりました。

 記事では裁判での判決文も「差別的感情剝き出しで」あり、事件の教訓をかんがえにくくさせている。とも指摘しています。
 生真面目な社会的使命に燃えた若者たちが、おぞましい仲間のリンチ殺害を平然と行う原因が何だったのかが、50年してもわかりません。

 私は10年ほど前から個人ブログ記事で『連合赤軍と新自由主義の総括」と称し考え込んできました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 しかし「総括」することが50年経過してもできませんでした。

 私が100歳になる頃にはできるのでしょうか?僅か32年後のとこですから難しいとは思いますね。

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2021.11.23

長年の課題も宿題も解決できず経年劣化の人生


 自分の少年期から政権期前期に関わった社会運動と2000年以降日本政府を覆いつくした「新自由主義」。テーマとしていた「連合赤軍と新自由主義の総括」という課題は、いまだに解決できないまま、年寄り見習の年齢になり、高齢者初期になりました。

 連合赤軍と新自由主義の総括

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 今年は高校を卒業できないことが「確定」して50年目。来年は「連合赤軍」から50年目になります。

 1つの価値観で優劣を決め、格差社会と階級社会を生み出し、対立と憎悪を生み出す考え方や社会システムが「連合赤軍」であり「新自由主義」であると私は思います。

 日本の新旧左翼の弱点は「些細な違いに拘り、執着し、対立し、憎悪し、不毛な内ゲバを繰り返し、怒りの矛先が国家権力に向かうことなく仲間同士の殺し合いに熱中することでしょう。

 生真面目ゆえの性分だろうが、「おおらかさ」がなく、社会運動を再構築することなく運動体から離れていく人たちがお尾lく出て、結果的に格差社会や階級社会を許容してしまう社会になってしまいました。

 自民党のような「いい加減さ」「おおらかさ」がないので、運動そのものが面白くないし、いつまで経過しても多数派には慣れなかったし、今後もなれないでしょう。

 

 2000年以降政権政党の自民党を支配した「新自由主義」は、1980年からの英米のレーガン。サッチャー路線の模倣でしたが、結果は日本の経済力も知的生産力も低下させ、格差社会を拡大しただけでした。

 英米両国ですら、「新自由主義経済」の放棄を宣言し、富裕層からの増税政策に切り替えました。コロナ禍も猛威が政策転換を促したこともあるでしょう。

 遅ればせながら日本でも自民党が同様なことを言い出しました。しかし具体像は何ら見えません。

 市井の田舎の零細企業の親父が懸命に考えたところで、解決策は見えないことでしょう。でも考え続けたいと思います。

 今年も来年もたぶん解決策は見えませんが、考え続けることは今後もしつこくしていきたいと思います。戸籍年齢は毎年津見kさなりますが。眼が見えづらくなったり、運動機能が落ちたりします。まだなにも成し遂げていないのに。

 焦らず考え続けていくことが、私の人生であると達観するようになりました。

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