連合赤軍と新自由主義の総括

2016.09.24

「完本・情況への発言」を読んで

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 ようやく5年間かかって読み終えました。分厚くて、知らない人たちを罵倒する文章が多くて、正直しんどい所がありますした。読後感は「今は爽やかな」気分です。


 学生時代に入っていたサークル関係者にご縁が深かった吉本隆明さん。4年前の2012年3月16日にご逝去されました。大正13年生まれですので、うちの母より1つ上で、父より5歳年下の人でした。

当時個人ブログに「追悼文」を書いていました。

「吉本隆明氏の逝去を悼む」(2012年3月16日)

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-8f43.html

 5年前に大枚3240円で「完本 情況への発言 吉本隆明」(洋泉社・2011年・刊)を高知市の本屋(金高堂)で見つけ購入していました。当時は吉本隆明氏の死期が近いと思い購入していました。

 購入したものの700Pもあり、1962年から1997年まで発刊されていた「試行」という雑誌に吉本隆明氏が寄稿したものすべてをまとめてありました。

 読むと、今となってはわたしも知らない論敵を罵倒し、こきおろす文章が大半。もはや古典の世界です。この種の文章はリアルタイムでないとわかりません。吉本隆明さんはずっと存在し続けましたが、吉本さんが当時罵倒した相手の人達は、「消えて」いるからです。
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 そのなかに「切れ切れの観想」(1976年9月)に書かれた文章がありました。
「三上治に依頼されて6月18日に「情況の根源から」と題する講演に出掛けた。  

 中略・・・。

 ところで、事は、三上治の属していた政治党派の内部で、十分な決着がついてなかったらしく、講演会は叛旗派の面々の妨害により中断せざるを得ない混乱に終始した。
 わたしは、あまりに馬鹿馬鹿しいので、檀上に駆け上がって騒いでいる連中には懇談してもらって、じぶんの喋りたい思って用意してきた情況論は、しゃべることにした。

 なぜならば集会の主人公は、身銭を切って講演を聞きに来た公衆であり、それ以外の何物でもないという原則をもっていたからである。」(P257)
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 私の記憶が正しければ、吉本さんの講演は、1976年6月18日に東京・品川公会堂で行われた共産同叛旗派解体集会でした。三上治と、神津陽の一党が対立し、罵倒しあっていました。吉本さんがなだめたという記憶はありました。私は「いくばくかの参加費を支払い」見学に行っておりました。

 それは40年前の出来事。その後共産同叛旗派は解体し、再興されることもなく40年経過しました。あのことの清新な政治理念はどうなったことだろうか?40年経過して現れないものは、今後も未来永劫現れないでしょう。

 今「情況への発言」を読み返しても、「古典」を讀んでいる感じですね。
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 災害列島日本で「何事もなかったかのように」原発を再稼働し、沖縄の声を全く無視し軍事基地づくりを政府は強行しています。

 ヘイトなファシストの声が大きくなるが、きちんとした政治党派は影も形も見えません。やはり40年前に滅んだものは、再興されないまま、風化したんでしょうか?そのことを思いだすたびに、情けない気分になるのはわたしだけでしょうか?
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 巻末に松岡祥男さんが「解説」を書かれています。高校時代の社会運動でご一緒したことがあります。高校生時代の私はアホな毛沢東主義者でしたが。松岡さんは「吉本隆明という人は凄い」とか言われていました。先見性がある人でした。

「試行」という雑誌は、60年安保闘争敗北後の1962年に発刊されています。同人に村上一郎や谷川雁らがいたようです。そのあたりの時代背景を松岡さんは記述されています。

「ブントは分裂し、全学連幹部は日和見と組織エゴに凝り固まった小日共さながらの革共同に屈服転身するものが続出した。
 吉本は、権力の側からも、共産党をはじめとする対立党派やその同伴知識人からも、また行動を共にした転身メンバーからも、標的として集中砲火を浴びることになった。この孤立の中から「試行」は生まれたのだ。」(「試行とはなにか」P688)

 なるほど「孤立無援」ななかで「試行」は創刊されたのですね。だから相手を罵倒する文章が多いわけですね。多くは歴史上消え去った人たちだけに思想的にも社会運動的にも今思えば大したことはないようですが、当時としては幅をきかせていたんでしょう。「事情」は松岡祥男さんの解説で理解できました。

「「情況への発言」は1970年10月(試行第31号)から、論敵たちの言説(批判や攻撃)を引用し、それに反批判を加えるコメント方式をとっている。時代の急激な変容に即応するために、このスタイルが選ばれているといえる。

 吉本隆明は、この時期、「心的現象論」「最後の親鸞」「初期歌謡論」といった体系的な思索と古典に打ち込んでおり、思想的主題の深さに比例して、それは心身の動きを重くする作用が伴うものと思われる。

 吉本にとって、この即興的なスタイルは、寸暇をみつけて身を起こし、その時々の情況に対応しようとするものだ。たとえ、それらが時事的な泡沫で、すぐ時の流れの上に消えてしまうものであったとしても、そのアブクにしか見えない現象の中に、実は永続的な課題が内在していることもありえる。

 生々しい関心の持続、それ自体が思想の生命線の1つなのだ。しかし、このスタイルは、さらなる即時的な反発や憎悪を呼び起こし、荷立たしい様相を呈することも否めない。」(「根源的な志向性」 P691)

 分厚い書籍に中で、論争相手への罵倒と罵詈雑言の類も多くのページに記述されています。当時はワープロなんぞもなく、手書きで原稿を書いていたんでしょう。わたしなどは文章書くことで、相手への怒りは昇華され、案外冷静になりますが、吉本隆明さんの怒りは収まらず、とめどなく記述される理由が判明されましたね。それにしてもしつこいキャラクターですね。

「吉本はこの時期、埴谷雄高らの内ゲバの停止を求める「声明」の呼びかけ人への参加の要請を拒否している。これら知識人や自称オルガナイザーの無原則的な、ろくでもない妥協と密通を否定するとともに、腐敗した新左翼党派の延命に手を貸すことを拒絶したのである。

 これが同時にデマゴギーや匿名攻撃を粉砕する実践的態度であり、「情況への発言」に一貫するリアリティなのだ。」(「根源的な志向性」 P693)

 1973年の大学へ入学した当時は、70年安保闘争敗北後の党派闘争の時代でした。なぜささいな違いで殺し合いまでするのか。その刃は国家権力に向かうことなく対立党派の構成員に向けられていました。

 事実、教科書を譲っていただいた別のサークルの先輩学生が、下宿で対立党派に襲われ頭を鉄パイプでかち割られ亡くなりました。所属サークル主催の学生集会の最中に、あるセクトの人達が血相を変えて向かって来ます。「来たぞ来たぞ!!」と叫びながら。見ると鉄パイプをもった数人が後追いしてこちらへ向かってきます。とっさに横へ逃げました。襲う別のセクトの人達は、ちゃんと対象のセクトの人達の人相がわかっているようでした。真底怖かったですね。誤爆されて殺されたら嫌ですから。

 1970年中期から本格化した陰惨な内ゲバは、1972年の連合赤軍事件ともども一時期盛り上がった新左翼運動の衰退要因でした。埴谷雄高たちが「内ゲバ停止宣言」に、吉本隆明氏が拒絶した理由が、今更ながらに理解できました。

 やはり潰えるものは潰えるということですね。当時新旧左翼一般を吉本隆明は批判しています。少し引用が長くなりますが、松岡祥男さんの記述です。

「吉本はこの末期的な症状にとどめを刺すために、対馬忠行の追悼文を入り口にして「アジア的ということ」の連載を開始している。この「アジア的ということ」は圧倒的な意義をもつものだ。

 吉本は、マルクスの「インドにおけるイギリスの支配」の概念から、<コミューン型国家>や<プロレタリア独裁>の概念を厳密に再措定してゆく。そして、そこからレーニンら(ボルシェビキ)に主導されたロシア革命とその権力がいかにマルクスの思想的原理から乖離したものであっいたか。

 レーニンらは、コミューン型国家即ち国家廃絶の原則を現実的に放棄し、<プロレタリア独裁>の概念を「プロレタリア前衛党の独裁」に、<生産手段の社会化>を「生産手段の国有化」に矮小化したことを明らかにする。

 これはロシア。マルクス主義の限界と転倒を指し示すとともに、国内的にいえば、日本共産党から新左翼にいたる全党派の理論的な支柱を完全に打ち砕くものだ。

 この吉本の根源的な指摘を左翼であろうとする限り、誰も回避することはできないといっていい。」(「根源的な志向性」 P694)

 わたしは、知識人でもなく、田舎町の市井の市民にすぎません。

 吉本隆明さんは「市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかこの世にあらわれない人物の価値とまったくおなじである。」(吉本隆明著「カール・マルクス」)と書いています。

 市井の大衆を「おだてて」はくれますが、それによってどうなるものではない。市井の大衆は愚かで刹那的で、物事を深く考えす、今の政権を支持し、原子力発電所の再稼働を支持し、自衛隊を海外へ派兵することにも賛同しています。わたしも愚かな大衆の1人です。

 時折学生時代や若い頃に購入していた「試行」。1962年から1997年まで巻頭に書かれていた「情況への発言」を毒気に当たられながらようやくすべて読むことができました。

 正直吉本隆明氏の著作は、買い揃えてはいますが、難解でわかりにくい。晩年の高齢者になったから病床で書いた文章は同じ「戦中派」である両親のことを思い浮かべるとわかりやすい。それだけです。
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 「老いの幸福論を読んで」

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-8bfc.html

 亡くなる1年ほど前に出版されていたようでした。

「「いい医者、悪い医者の問題で言うと、医者が場合によっては相手を病気にさせちゃうことがあります。患者のほうも自分で気に入らないことに出くわすと、自分で病気をつくってしまう。自分の都合のいいように病気になるんです、」(「老いの幸福論」P178)

「足腰が痛くなろうとも、歩けなくなろうと、それを防ぐ唯一の方法は、要は医者が言うのと反対によく動かせばいいんです。」

「身体にとってはじめはきつくても「、無理して動かす。そうすると精神的なほうが治ってくるんですよ。これは近代医学の先生が言っているのとはるいかに違う。格段に違って精神が美味い具合になれば、身体の悪いところは改善に向かいます。」(P178)

「老いについて言えば、生と死に分かれ目に近づいては言えると思います。でもこれが幸福なのか不幸なのかわかりません。幸福とは言えないだろうけれども。そんなに不幸だという感じもしない。

 頭の中では、もっと生きていたいとか、まだやりたいことがあるとか、心残りはあるんだろうけれども、だからといって、それはそんなに不幸なことだろうか。

 僕はじゅうぶんに生きたということもありますし、生きていても、いいことも嫌なことも数限りなくある。だから、生きている苦労や不幸と比べてみて、死ぬことが不幸とばかりは言えないと思うんです。」(あとがき)

 日本社会を「どうするこうする」の大きな志はありませんが、小さな高知市下知地域の住民として、南海地震が来れば、人生も生活も即終りのような、絶望的な状況をなんとかしたい想いだけは、強烈に持ってはいます。

 零細企業の経営と超高齢の両親の在宅介護の合間に少しできる高知市下知地域の地域防災活動。それは日本社会のあらゆる問題点と矛盾が凝縮しています。そのことを考えることは、例えとしてはおこがましいが、かつて吉田松陰が、安政の大獄後、萩の牢獄から世界を見ていたようなものではないでしょうか。

 案外高知の田舎の市井の1市民が、世界の事を考えていることもありかなと思います。物事を考える「トレーニング資材」として、吉本隆明氏の「情況への発言 完本」(洋泉社・2011年刊)は、役に立ちました。

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2016.04.08

社会思想不在の不安な時代

 今の時代は、右翼も左翼も「これだ」という思想がない。裏付けなしに、自分たちは右翼だ、民族主義者だ、国を憂う国士であると自称したり、平和勢力で絶対的に自分たちは正しい。自分たちの勢力だけは進歩勢力で間違いない。という盲信にとらわれています。

 40年前の1976年。日時は忘れましたが、東京の品川公会堂で、共産主義者同盟叛旗派の解体集会が起こなわれていました。自分は構成員でもシンパでもありませんでしたが、関心があったので見学に行きました。

 壇上では幹部であった三上治氏と神津陽氏たちが、何やら言い合いをしていました。「顧問」である評論家の吉本隆明氏もその場にいて、何やら言っていました。激しい言葉の罵り合いでしたが、当時の風物詩のヘルメット姿で鉄パイプで殴り合うこともないようでした。

 党大衆構造の止揚」を唱えていた共産主義者同盟(ブント)叛旗派は解体しました。もうあれから40年も経過してしましました。

 では当時の指導者や構成員やまわりの皆さん方は40年も経過しましたが、どうなっているんでしょうか?吉本隆明さんは、2012年2月にご逝去されました。
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 右も左もきちんとした社会思想がないまま、迷走しているように見えます。不安な時代ですね。

 わたしは市井の市民、無名の大衆、生活者として日々生きています。何もなすこともなく還暦を超え、なんとか生きのびています。

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2016.03.05

3月1日は何年経過しても悔しい思い出があります。

3月1日は高知では県立高校の卒業式。平日ですがするのでしょうか?。
私は44年前の1972年は、1単位足らずに卒業できませんでした。担任の教師(高教組の活動家)は、執拗に自主退学を薦め「男だったら自主退学し、大検を取得し、進学しなさい。」と自宅へ来て言いました。

 さすがに母もブチ切れて「息子を留年させて卒業させ、大学へも行かせます。」と言いました。担任教師は「お母さんそれは絶対無理です。わたしが保証します。」とのたまいました。

 春休みの間高校から全く連絡がなく、4月になった新学期の登校日に高校へ行き、職員室の戸をあけました。教師たちが一斉にこちらを見ます。

「西村何しに来た!!」
「留年しに来たがよ。なんちゃあ連絡がなかったきに。」
 教師たちは「想定外」の出来事で狼狽していましたね。
「おまんを受け入れるクラスを決めないきに、きまるまで校長室で待ちよれや。」と教頭にいわれ、応接セットのある校長室に隔離されました。けったくその悪い事。待つこと30分。「お前のクラスが決まったぞ」とのことで、ようやく留年生活が始まりました。

 教師たちが「来るはずがない」と言う理由もわからない訳ではない。当時活動していた高校生組織は崩壊、一緒に活動していた仲間は、別の高校野2人が退学処分。2人は自主退学しました。大検で進学したものと、市役所へ臨時で入りましたから。担任教師の言い分も一理はあります。

 大学と異なり当時の高校は、たった1単位足りなくても進級させてくれないし、落とした科目だけ再履修したらそれでOKではなく、原級留置といってすべての教科を再履修し、出席日数もクリアしないと卒業できないのです。
 冷徹にわたしの行動を観察していた担任教師は「留年しても卒業は無理だ」というのはおおむね正しい意見でしょう。仲間は皆退学しましたから。しかし留年すると言ったのに、何も連絡をしなかった高校は最低ですよ。今思い出しても腹が立ちます。

 女子の制服も変わっており、体操服も教科書も変わっていました。1学年下の連中と一緒に授業を受け、体育もしました。教科書は買わないと授業が受けられないので、教科書販売会社に1人で買いに行きました。学校側のサポートは全くありませんでした。体操服は「連絡をしない当局が悪い」ということで、新しい体操服を買いませんでした。1人だけ違う体操服でしました。

 なんとか卒業できたのも、両親の支えがあったからです。それと先日43年ぶりの同窓会を行った当時のガールフレンドの皆さんが、サポートしていただいたからです。お2人とも当時は彼氏がいました。でも親切にノートを見せてくれたり、ここが試験に出るぞねと教えてくれました。
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 遠足の時も余分に弁当を作って来てくれました。そんなサポートもあり、翌年は1単位差で卒業でき、進学も出来ました。2人とも私の嫌いな教職員の仕事をされていました。その間に会うことはありませんでした。2人とも退職したので、今年の1月「同窓会」を開催した次第です。
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「あんただれのおかげで高校を卒業できたと思うちゅうぞね。」と執拗に今でも2人に言われております。高校生当時からおばさん化していましたが、今や正真正銘の無敵のおばさんなってますからね。

 最近その高校の校名が変わるとか、合併するとか言われております。留年してしまったわたしは執着は全くありません。当時の教師たちに再会すればおそらく44年前に戻り暴言や暴行を加えるかもしれませんので、コメントや行動はさしひかえさせていただきます。

 文章は4年前のブログ記事です。写真は今年1月9日の「43年ぶりの同窓会」です。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2012/…/post-a09d.html

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2014.09.10

「歴史としての社会主義」を読んで


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 「歴史としての社会主義」(和田春樹・著・岩波新書・1992年刊)を読みました。この著作が刊行された1992年と言えば、いわゆる従来型の「社会主義国」が崩壊し、ソ連や東欧諸国の「社会主義国」が消滅したころです。

 中国やベトナムのアジアの「社会主義国」はそれを眺めていて国内の民主化運動を抑圧しながら、外資を積極的に導入し急激な経済発展をし、一党独裁の政治体制でありながら国家資本主義といういびつな体制に変質しました。

 2014年時のロシアとウクライナの問題、クリミア半島の問題も「社会主義国ソ連」の時代からの背景もあります。

 今でも俗にいう自称「社会主義者」の人達は自分たちの信仰する社会主義を「科学的社会主義」と言い、それ以外を「空想的社会主義」と切り捨てます。筆者はマルクス登場以前の社会主義思想を研究し分析もしています。

 私有制度と経済的格差は近代以前から問題になっていました。フランス革命当時バプーフと言う社会主義者がいました。

 平等を実現するには富者を打倒し、私有財産制度を廃止し、革命独裁=強力な国家による改革をしなければならないとしていた。バブーフは武装蜂起の準備中に逮捕され処刑されました。

 その本質は「個々の市民に平等を強制するものであった。もしもパリで放棄に成功したら、バブーフ達はフランス人に「共通の幸福の奴隷制」を強制することになる。」)P26)ということです。

 また筆者はわが国で「空想社会主義」と翻訳されたサン・シモン、フーリエ、ロバート・オーエンらにも言及しています。バブーフのような暴力的な強制力を伴わず、産業組合的な考え方や協同組合的な組織で富の公平な分配をめざしていました。ロバート・オーエンのか考え方は後に消費者協同組合(生協)などの展開に後になっていきました。

 また筆者は「マルクス主義の強み」の項目でこう述べています。

「エンゲルスは、1880年のきわめて名高いマルクス主義普及の書「ユートピアから科学へ」(邦訳名「空想から科学へ)の中で、マルクスの唯物史観と剰余価値学説の発見によって、社会主義は科学になったと主張したが、これは大いに人々を誤導した発言であった。」

「たしかに「資本論」を頂点とするマルクスの学問的な現実的分析は高度な水準であっかが、社会主義思想しのものがユートピアすそうであることは、彼の場合でも変わりがなかったのである。」

 結局マルクスにしてもブルジョアジーを打倒してどのように理想社会(共産主義9をこしらえるのかについては極めてあいまいで雑な記述しかしていないようですね。筆者はフランス革命時の残忍な独裁的共産主義者バブーフの影を引きづっていると指摘しています。

 ロシア革命のレーニンは戦争共産主義を一時期形成したし、スターリンは一党独裁の恐怖政治で国全体を監獄にし、ナチスは巧みにその体制を模倣しました。事情を知らない外国からは理想国家とみられていた社会主義国も内実は監獄社会。独裁国家の奴隷制社会であったと言えるでしょう。

 一読して富の再分配、階級格差の是正をするために「奴隷制強権国家体制」を構築することが、言古された「プロレタリア独裁」なんでしょうしょいか?

 わたしはここ数年の個人的な社会運動の総括に「連合赤軍と新自由主義の総括」を取り上げています。しかし理想社会が「奴隷制社会」であった現実は、あまりに辛い結論ではないか。

 「社会主義」のありかたはもっと別の道があるだろう。そう思いかんがえてみたいと思います。

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2014.07.21

いつまでたっても「ぱしり」の人生かも

 幕末時代に少年時代に学業優秀であった中江兆民は、土佐藩の留学生として長崎に派遣されました。そこで亀山社中の坂本龍馬の使い走りをしていたこともあったとか。龍馬に「中江の兄さん、煙草を買ってきとうせや」と言われ、嬉々としてぱしりをしていたそうです。

 後日思想家中江兆民は若かりし頃の良い思い出として語っていたそうです。

 わたしの若かりし頃は高校生時代に、麻雀をしている高知大学の全共闘のお兄さん方に「煙草を買うて来い。」と命令され嫌々行った記憶があります。街頭カンパして集めたお金も収奪され、彼らの生活費になっていたと後から聞きました。中江兆民さんのような「よい思い出の使い走り」では全くありませんでした。

 反戦運動や新左翼の運動は年齢差や、身分の差別のない革命運動であると思っていましたが、実態は「ざっとした」(粗雑な)運動体に過ぎませんでした。学歴差別もありましたから。社会の進歩勢力でも何でもありませんでしたね、今にして思えば・・。

 時代は社会運動の後退局面であり、連合赤軍事件と陰惨なセクト(党派)同士の内ゲバで日本の社会運動は消滅してしまいました。わたしはとうとう先輩風を吹かすことなく、「使い走り」で終わりました。

 時代は下り、いろいろあって今は300M四方の町内会の世話役をしています。そこは70歳代の「長老」の皆さんが現役役員で頑張っています。65歳が町内会デビューです。80歳ごろが引退。それが今の町内会の実態でしょう。還暦は若造なんです。

 ここでも「若造」の私は「ぱしり」です。仁淀川町との交流事業である田植えや、懇親会でも必ず私が運転手ですから。そこでは高校生時代と異なり、嬉々としてぱしりをしています。資料の作成や事業計画の作成、仁淀川町側との連絡、報道機関への対応もやっています。

 「長老」の皆さんが、仁淀川町の「長老」の皆さんと親しく交流しておられる姿を眺めることは喜びになっています。

 これは自分が死んで天国へ行っても「先輩」がおられ、そこでもぱしりをしていることでしょう。

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2014.03.13

「社会を変えるには」を読んで

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 近くの市民図書館で「社会を変えるには」(小熊英二・著・講談社現代新書)を読みました。フェイスブックでお知り合いになった早川義輝さんの推薦図書でした。

 著者の小熊英二氏は、1962年生まれ。1987年東京大学農学部を卒業され、出版社勤務を経て現在は慶応大学総合政策学部教授です。私より9歳年下ですが、やはり」豊富な知識と教養が、日本の社会運動を類型化し、分析し「解剖」していくことは或る意味、運動の当事者でないから出来るのではと思いました。

「日本の社会運動には、3つの特色があったと考えられます。

 1つは、強烈な平和志向です。たいていの国で強い平和主義は、世界秩序の安定を乱す戦争はいけないが抑止力は必要だという戦略的平和主義や、侵略戦争は批判するが「革命戦争」や「独立戦争」は肯定する思想的平和主義に属します。すべての戦争を否定する絶対的平和主義が、戦後日本ほど勢力を持った国はありません。

 言うまでもなく、これは第二次世界大戦の悲惨な経験からきています。憲法のほかの条項は知らないけれど第9条だけは知っている。逆に言うと第9条以外は良く知らない、という人は少なくありません。

 2つめは、マルクス主義の影響が強かったことです。同じマルクス主義といっても、労働者政党が議席を獲得して福祉社会をめざすという社会民主主義ではなく、少数精鋭の前衛党を組織して革命で政権をとるというレーニン主義の影響が強いものがありました。

 これは、1950年代ぐらいまでの日本が開発独裁型の発展途上国に近かったことの影響です。前衛党というのは、大衆の教育程度が低く、政治や言論の自由が少ない社会に適しているからです。

 3つ目は、倫理主義の強さです。」(P88[戦後日本の社会運動」)

 なるほど「前衛党というのは、大衆の教育程度が低く、政治や言論の自由が少ない社会に適している。」というのは間違いないですね。日本共産党や旧社会党の社会主義協会や新左翼各セクト諸派もレーニン主義の影響を強く受けていたので、市民を「上から目線」で見下ろす、「指導」が行われていました。時代錯誤もはなはだしいうことですね。

「全共闘運動が盛り上がっていた時期は、お祭り的な感じもあり。楽しいものでした。倫理主義の傾向や「自己否定」の言葉も現れていましたが、初期にはそれほど問題はなかったようです。

 弊害が目立ってきたのは運動の後退期でした。どこの大学の全共闘運動も、半年もたつと行き詰まります。そこで大学当局と具体的に話し合って、場合によっては妥協をするようなことをやらず、闘う意思表明としてバリケードに立てこもる、ということが多くありました。セクトもそうした「革命的」な方針に誘導します。

 そうなると展望がないので、人の集まりも悪くなります。69年の後半になるち、警察の弾圧も厳しくなり、デモに参加すると逮捕されかねない。人の集まるが悪くなると、路線争いや内ゲバも激しくなりました。

 そうなったところで、ほんとうに運動に加わるのか、覚悟が問われるようになります。そうなると「お前はデモに来ないのか」「バリケードから去るのか」という問い詰めが横行するようになりました。

 逮捕覚悟で参加しないものは裏切り者だ、自己批判せよ。とまで言わないまでも、それに近い雰囲気もあったようです。それが疎まれて参加する人が減ると、残った人のあいだで、ますます倫理主義が強まると言う悪循環が生まれます。(中略)

 最初の楽しさは薄れて分裂や内ゲバが横行し、倫理で頑張るしかない一種のがまん大会のようになったきました。そうなると、がまんして学生の間だけ活動し、就職が決まったら、きっぱり忘れよう、という人がよけいに多くなります。

 それがまた、残った人の倫理主義を強めて、ますます雰囲気が重くなりました。どんどん少数派になると、経済成長に酔いしれる多数派を覚醒させるには武力闘争しかない、というグループもでてきます。そうなるとついていけない人が多くなり、グループによってはブレーキがきかなくなって、少数派の過激な運動と言う性格が強まっていきました。」(P149[)

 私が中学3年あたり(1968年)から社会運動に目覚め、高校入学(1969年)から高校生時代は、社会運動の後退期で、きゅきょくは972年ンも連合赤軍事件でしたから。その年高校を卒業できなくなり、留年しました。大学へ入学した(1973年)は、内ゲバが横行した凄惨なじだいであり、栄光はなく敗北と後退の負の歴史でしかありません。

 だいたい自分の浅薄な田舎の小さな社会運動と学生運動の体験から理解できるのはこのあたりまででした。小熊氏は、「そもそも国とはなにか」「そもそもなぜ国に従う必要があるのか」という根本的な国家論を記述をし始め、プラトン、デカルト、ニュートン、ボップス、ロック、ルソー、アダムスミス、まで論じていきます。

 このあたりは「教養」のない私は讀むのも辛い個所ですが、我慢して読みましたが、あまり理解はできなかったと思います。筆者は最終章で、一定の結論を出しています。

「「自分をないがしろにされている。」という感覚を足場に動きをおこす。そこから対話と参加を促し、社会構造を変え、「われわれ」を作る動きにつなげていくことです。」(P440「社会をかえるには」)

小熊英二氏はさすがに頭の良い人であるなとは思います。ただ1つ私と共通していた思いがあり共感しました。「おもしろおかしく運動はやらないといけないし、続かないし、成果が上がらない。」と言う感覚の持ち主であることでした。

 皆が集まって「鍋」を囲んで楽しく食事会をするような感覚です。

「幹事のやるべきことは、決定を押し付けることではなく、会場を設定することです。(中略)
 デフレ不況の現代日本でも、鍋は強い人気があります。お金がかからず、参加するのが楽しいからです。どんなに安くて品物が提供されても、参加して一緒に作ることを、人間は手放したがりません。

 参加者みんなが生き生きとしていて、思わず参加したくなる[政]が、民主主義の原点です。自分たちが自分個人を超えたものを「代表」していると思えるとき、それとつながっていると感じられるときは、人は生き生きとします。」(P498)

 わたしなりの結論は、「みなそれぞれが楽しく集える場をこしらえ、議論をし、相手を尊重し、問題点を見える化して、解決して地域力、住民力を高めていこう」ということになります。

 個人のテーマであった「連合赤軍と新自主主義の総括」については、頭の良い小熊英二氏を活用してほぼできたのかなと思いました。

 今のわたしの最大のテーマは「南海トラフ巨大地震から高知市下知地域で生きのびtるために」です。「生きのびる」という意味は、命を長らえると言うことだけではなく、自分の家族、会社、値域社会を地震から守ることです。簡単なことではありません。

 もし低地の下知地域を10メートルかさ上げし、耐震地盤をこしらえ、立体換地をして耐震高層住宅を建設し、商業施設や公共施設、企業や商店、病院や介護所、保育所などをこしらえ、地震に強いまちづくりを実行することができたら、どれほど皆が幸せになることができることか。地震や津波に苛まれない強いまつづくりが可能になります。

 それを本気に実行することをやってみたいと真底思います。

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2014.01.30

クローズアップ現代」は、「東大紛争秘録 ~45年目の真実~


今日のNHK「クローズアップ現代」は、「東大紛争秘録 ~45年目の真実~」でした。ゲストの松本健一氏は「日本では先の大戦でも参謀本部などは記録を残していない。敗戦すると僅かな記録も消失させる。東大紛争の教授側の記録が45年目に出て来ることは画期的なことです。」とのことです。

 当時中学3年でした。多感な時期に多大な影響を受けました。おかげで高校生時代は「凄春時代」で留年までして哀れな時期でした。


http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3461.html

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2013.05.22

人生初期の1番良い時代は”凄春”でしたね

 サッカーの年齢別のカテゴリーにはいくつか区切りがありますね。U12(12歳以下)、U-15,U-17,U-19,U-21,U-23(五輪代表)、フル代表(年齢制限なし)となっています。

 人間の身体機能の成長期にあわせたカテゴリーになっているんでしょうね。12歳から23歳までは、子供から大人になる過程であり、体も大きくなり成長著しい時期なのですね。

 世間様が良く言う「青春時代」の時代であり、体も精神も充実し、楽しい時代とされています。サッカー選手はこの年代で見いだされ、伸びる選手はプロ選手になり、世界で活躍していきます。

 タレントやアイドルと言われる人たちもこの時期に頭角を現す人が大半ですね。また一般社会でも、小学校高学年―中学―高校―大学という時期でもあり、1番勉強し、学問を身に着けなければいけない時期でもあります。その頃の「同窓会」を楽しげにされている人たちのコメントをFBでも散見しますが、羨ましいとしか思えませせん。

 「後悔先に立たず」とは言います。私の場合は、「思想に早くから酔っぱらう体質」の人間でした。司馬遼太郎氏の持論です。早熟の政治少年でした。

「子供の時からお酒を飲みつけていて、お酒をしょっちゅう飲んでいるような人は、お酒が切れるとだめですね。アルコール中毒と同じで、いらいらしてしまう。

 イデオロギーもそうですね。違うお酒が必要なんです。日本人のそういう心理の中で、戦後のマルキシズムが果たした役割があります。」(「うその思想」司馬遼太郎講演集1964-1974)

 私の場合のU-12からU-23までは、まさに「思想的に酔っぱらいの時期」と重なりました。時代は1965年から1976年までの10年がその時期でした。

 当時の社会情勢は[公害」「ベトナム戦争」「学園闘争」「70年安保闘争」「沖縄闘争」の時代でした。悪いことに毛沢東思想に傾倒していました。良く事情も知らずに文化大革命に感動していました。

 司馬遼太郎氏は「儒教に変わる、人民を飼いならすための道具が毛沢東思想であり、文化大革命だった。」と当時あっさりと切り捨てていました。

 それからなんと45年も経ってから、ようやく思想の何たるか、社会運動の何たるかがわかりました。馬鹿でした。愚かでした。人生の初期の1番勢いのある伸び盛りの時期に、毛沢東思想や新左翼系の社会運動で費やし、傷ついてしまいました。勉強もスポーツもしませんでした。成果はなにもありません。

 「少年は老い易く」ということわざがあります。わたしはもう今年還暦を迎える親父です。経済的にも成功せず、何事もなしていません。先日神奈川から来られた恩人にお会いして、つくづく「ダメな人生だな」と自分にがっかりしたことでした。

 でも「人生125年」であると思います。やり直すつもりで頑張ります。U12からU23の頃の体力こそありませんが、苦い経験があります。前向きに考え実行していきます。

 後半生は「面白おかしい人生」になるように日々精進します。

 わたしは「早熟の政治少年」でした。しかし最近”同世代”の安倍晋三首相の「薄っぺらな歴史認識」にもとづく発言や、橋下大阪市長の「暴言」の数々を知るにつれ、黙ってはおられなくなりました。

 わたしはU-23以降は、東京で猛烈社員も経験し、田舎へUターンしてからは零細企業の親父として奮闘してきました。また青年会議所(JC)の活動もしましたし、今は300M四方の二葉町の地域防災活動をしています。超高齢の両親をケアしながら、南海トラフ巨大地震が起きれば水没する予定の海抜〇メートル地域似て生活しています。

 いわば政治的には右も左も経験し、地域活動も介護も経験してきているので、市井の一市民としては世の中のことがある程度わかっているのではないかと思います。経験していないのは「大金持ち体験」ぐらいですから。

 それで一市民としていろいろブログやFBなどでも発言し続けていこうと思います。人生「やり直し」はできませんが、後半生を豊かにするためには。多くの「異論」を聞き、議論し、あるべき姿を皆で作り上げる粘り強さをもった人間になるために努力をしていこうと思います。そうでなければ人生の一番いい時代を空費したことが報われませんから。

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2013.05.12

人にやさしかった吉田松陰

Shibakouennhonmm


先日に続き「司馬遼太郎全講演1964-1974 朝日文庫」です。

 吉田松陰と言えば幕末の長州(山口県)の思想家で29歳で処刑された人物。松下村塾の弟子達が、討幕を成し維新を成し遂げる原動力になった人ですね。

 関連ブログ記事「吉田松陰を読んで」

 辞世の句も「身はたとひ 武蔵野野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と激しい気性の革命家であると思っていました。司馬遼太郎氏の講演ではそうは言われていません。

 吉田松陰は褒め上手であったそうです。弟子の伊藤博文は身分も低く学問的な素養もない人物でした。でも松陰は「周旋の才」はあると見抜いていました。

「日本の総理大臣の原型をつくった伊藤博文のできあがる基礎を見抜いたのですね。年齢わずか16・7歳の俊輔を見抜いた松陰もまた見事ですね。

 人間はだれにも長所があります。どういう人間にもあるのですが、しかしわれわれは意外に長所を人に教わることはありません。

 皆さんも小さいときのことを振り返ってみるとよくわかると思いますが、人から「お前の長所はこれだ」と言われたことがどれくらいありますか。

 教えてもらった人はわずかだと思います。不幸にして、なかなか吉田虎次郎に巡り合うことはないのです。私もそうでした。」(「松陰の優しさ」P178) 

 私の場合も中学時代に国語の担当である三浦光世先生に「どんどん文章を書きなさい。日誌でも相手が読むことを想定して書きなさい。」と励まされました。ご主人は小説を書く人でした。ご主人にも「書くこと」について励まされました。

 わたしの文章はなんら芸術性はなく、一向に文章力は中学生の時から上達しませんが、電子日誌であるブログであれ、フェイスブックであれ書くことは苦痛ではありません。文章ネタに困ることはありません。むしろ書く時間がたりないことが問題ですね。 

 司馬遼太郎氏は人の悪口や欠点は容易に指摘はできるが、長所はなかなかわからないし、口にして言わないと。

「ところが、人の長所は、友達の長所でもなかなかわかりませんね。
絶対にわからないのではと思うこともあります。絶対は大げさかもしれませんが、そのためには心が優しくなければわかりません。その友人なら友人、その後輩なら後輩に対して心が優しくなければ。

 心を非常に優しくすれば、わかってくれるものなのです。心を優しくするためには、己をなくすことがいちばんです。競争相手であることを押し殺し、その相手を優しく眺めてみれば、あのことについては自分がおよばないと、よくわかってくるはずです。
Yoshidashouingazo

 たとえ頭が良くても、心が優しくないとだめなのです。

 大変に頭のよい人で、人の悪口ばかりを言っている人がいます。それは心が優しくないからですね。心が優しくないから人の欠点が良く目につく。頭がよければよいほど目につく。

 ところが、そういう人は人間として他の人間に影響を与えることはできないのです。他の人間に対して影響を与えることのできる人は、とびきり優しい心を持っている人ですね。

 松陰がそういうひとでした。」(心が優しいと人の長所がわかる)「松陰のやさしさ 」P182)   

 激烈で激しい生活で怒髪天を衝くような人物が吉田松陰であるとわたしは勝手に思い込んでいました。逆でした。人の短所を指摘せず、長所を懸命に探し、そしてそれを口にしてほめる。それが吉田松陰そのひとであると。全く意外でした。

 そうかもしれないなと思います。

 わたしは地域活動の南海地震対策でかりかりして、時に市役所や県庁の担当者を批判することもあります。民間と役所の組織原理の違いがあることを最近ようやくわかりました。そうなるとあまり腹が立たなくなりました。

 吉田松陰さんを見習って、相手を褒めることにします。そうしたら共存の道ができることでしょうから。    

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2013.04.29

「司馬遼太郎全講演」1を読んで

Shibakouennhonmm


「司馬遼太郎全講演」1を読んで

 「司馬遼太郎全講演」1(朝日文庫・2003年10月刊)を、高知駅前のブックオフで105円で購入しました。月に1度の老師(87歳)の整体へ行く途中にこの「古本屋」はあるので、時折購入します。こちらの本屋はコミック本やゲームソフトが高価であり、一般教養本は「雑学ハウツー」というカテゴリーに分類され、売価も安いので重宝しています。

 精神的に疲れた時に読むのは司馬遼太郎氏の講演集やエッセイです。時代は1964年から1974年の講演集です。丁度時代が私でいえば小学生から大学生に至る時代。私の中での「疾風怒涛時代」と重なり、社会運動の負け戦をしていた時期と重なっています。

 そのなかで「うその思想」という表題の講演にひかれました。

 司馬氏は先の二次大戦末期に北関東に本土決戦に備え戦車部隊として配属されました。大阪育ちの司馬氏にとっては初めての関東でした。あるとき上官に米軍が東京湾に上陸したら避難民が大量にこの地方へも押し寄せてくる。狭い道路ですので交通整理などはどうするのでしょうか?と上官に聞いたそうです。そしたら上官は「ひき殺していけ」と答えたそうです。

「これにはびっくりしました。
 日本人が日本人を守るために戦争をしていて、それで日本人をひき殺していけという。不思議な理屈ですね。
 平和な時代になって、20数年たってみると、そんな馬鹿な奴がいたのかということになりますが、それが当時の日本が持っていたイデオロギーというものであります。
 イデオロギーというものは、はたして人間に幸福を与えるものでしょうか。」(P114)と問題提起をされています。

 司馬氏は、「尊王攘夷」という考え方の解説をしています。

「中国の宋の時代は異民族に悩まされていました。金やモンゴルに中原を追われ、かぼそく揚子江以南で生きてきた宋。宋の学者たちが「尊王攘夷」という言葉をつくり、思想をこしらえたと言います。「王を尊び、攘夷せよ。つまり夷(えびす)、外国人を打ち払え」ということでした。

 それが日本へ伝わり学問の世界での世界観の1つであったものが、江戸時代の末期に革命思想の言葉(スローガン)になりました。そして徳川幕府を倒して明治政府の時代になると、国民国家をつくらないといけなくなりました。藩とか、商店や村への帰属意識を日本国に帰属させないといけない。それには歴史の上では「神主」的な存在であった天皇を西欧流の皇帝にしないといけない。そのために尊王攘夷の考え方をイデオロギーにして国民を敗戦するまでの80年間統制しました。

「おそらく、奈良時代のある時期以後、天皇が皇帝の位置につくというようなことは、日本史上にはほとんどなかったことですね。

 これは日本に合わないことでした。
 日本の実際に不適当な時代というのは、明治から第2次大戦が終わるまでの間であります。」(P1109「うその思想」)

 司馬遼太郎氏は「イデオロギーという重苦しい漬物石」という表現をしています。

「さっきも申し上げましたように。思想はフィクションである。そのフィクションの歴史をつくって、国の中心があくまでも天皇であるということで、国民を統一しようとした。

 (中略)

「ところが、そもそもの思想とはどういうものかと言いますと、思想も宗教も含めまして、ひとつの観念だとわたしは考えています。

 観念とはうそであります。フィクションですね。
 たとえばキリスト教でもそうですね。
 誰も見たことのない天国、だれもみたことのない神様を信じよという。信じるとところから出発するわけで、理解するところから出発するのではありません。

 南無阿弥陀仏を唱えれば、極楽往生は間違いないと法然上人が言ったり、親鸞聖人が言ったりしました。

 この間違いないというところから入らないといけない。極楽浄土はありますか、地獄はどんなところですかなどと言ったら、それはもうだめですね。

 思想というものは宗教も含めて、理解して始まるものではなく、まず信じるところから入る。マルキシズムも同じであります。

 尊王攘夷の思想も、理屈の大建築でした。信じる者には実在しますが、目をこすって見直すと幻であります。非常に無理がある。

 うそでひとつの国家をつくったり、うそで社会をつくったり、社会の統一を維持したり、社会の安定を維持したりするためには、思想の取り締まりをやらないといけない。尊王攘夷に反対するような学者はひっくくらないといけない。

 われわれの時代は、明治から戦争が終わるころまでは、非常に重苦しい国家であった。」

「大日本帝国の勝利は大日本帝国のイデオロギーの勝利ですね。尊王攘夷であり、八紘一宇でありますが、それらフィクションを現実化させなくてはいけない。フィクションは現実化しにくいものであり、無理やり現実化させると無理が起きる。つまり現実化するにおは(避難してくる自国民を)ひき殺していかねばいけない。そこまでいく。」

 司馬遼太郎氏独特の思想観があらわれているのは次の言葉です。

「しかし、イデオロギーというのは実に不思議なものですね。
 明治から80年の間、われわれはひとつのイデオロギーで統一されていました。
 つまり水戸学の尊王攘夷で統一されていたのですが、それに慣れてしまった体質のひとがいます。

 子供の時からお酒を飲みつけていて、お酒をしょっちゅう飲んでいるような人は、お酒が切れるとだめですね。違うお酒が必要なんです。日本人のそういう心理の中で、戦後のマルキシズムが果たした役割があります。

 違う酒としてマルキシズムが登場した。戦時中に右翼の片棒を担いで走り回っていた人が、戦後は共産党員になって走り回っている。あのひとは変節した、信用できないということを言う人がよくありますが、そんなことはありません。彼らにとってはそれが当たり前なのです。」

 司馬遼太郎氏によれば、日本人にも思想に関しては2とうりあるようです。お酒でいえば飲める人とお酒の飲めない人がいることと同じであると。

 ちょっと聞いて大暴れする酩酊体質の人もいます。でもそれは日本人で10%を超えないだろうとも。一向一揆が爆発的な勢力拡大した時も人口の1割は超えなかった。昭和初期の学生でマルクスが流行した時も学生の1割以上には増えませんでした。

 「しかしこれからは、思想というものに対する尊敬心は、むしろ捨てたほうがいいのではないか。捨てたほうが人類にとって幸福ではないか。幸福かどうかは知りませんけど、少なくとも思想からの災害を受けずに済むのではないか。最近はそんなことを思っています。」(1969年11月28日。東京東宝劇場文藝春秋祭りでの講演)

 1969年と言えば高校1年生。上の言葉をちゃんと聞いておれば、その後苦しんで留年したりはしませんでした。当時のわたしは「酩酊体質」のようでした。

 私は2年ほど前からその頃から最近の社会思想を総括しようとしてたいそうに「連合赤軍と新自由主義の総括」などと頭の悪い小市民が懸命に考えてきました。

 でも司馬流でいくと「そんなことはたいしたことはない」「どうでもいいやんか」ということになりますね。ある種の「目から鱗」でした。やはり(面白いことだけをする。面白くないことはしない」という考えたのほうが健全ではないかと最近思います。

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