(いつも16ミリ映写機での奮闘ご苦労様です。貴重な古い日本映画が鑑賞できますので。)
「戦争を知らない子供たちのための映画会」(主催田辺浩三氏)は、「キクとイサム」の日本映画でした。夜須の海から戻り上映会場の龍馬が生まれたまち記念館へ駆けつけたのが午後4時半過ぎでした。
この映画会は古い日本の戦争映画を上映するだけでなく、映画に関連した話題を提供するゲスト・スピーカーの講演もあります。今回は2人でした。
まず田辺浩三さんの娘さんである小夏さんのスピーチがありました。
「わたしの生い立ちを話しますと宗教家の母と、芸術家タイプの父との間に19年前に生まれました。生まれて1年3ヶ月で両親が離婚。父方の祖母と3人で暮らしました。
私のことで両親が裁判になったりしてもめていました。両親とも情熱的な人で自分の主張を押しとうそうという人で、いつもいがみあいをして辛かったです。それで祖母が母親がわりでした。」
「映画「キクとイサム」と同じように祖母が保護者で、小学校は高知市の私立小学校へ祖母と2人でアパートを借りて住んでいました。
しかし小学5年生のときに祖母が癌になりました。中学は中村の中学へ行きました。そのときは父と2人で暮らしていました。中学2年のときに祖母が亡くなりました。
人が亡くなって初めて人のありがたさがわかる気がします。」
スピーチの後に会場から質問がありました。
「小夏さんは若いときから戦争や平和にについてよく考えられています。同世代の若者たちがあまり考えないのはどうしてであると思いますか?」
「わたしのまわりの同世代の人たちは、パソコンやゲームをしていて、あまり行動的ではありません。やりたいことがすぐにかないます。きらきらしたものがないのです。」と答えられていました。
次のゲストスピーカーは、はりまや橋金曜サロンでいつもお話する大川愛郎(のりお)さん。昭和4年生まれの80歳の人です。小学生から少年兵士として体験した戦争の時代の話をしていただきました。お元気な人で戦争体験をきちんと話される貴重な人です。
「小学校のときは勉強が嫌いでした。走るのが速いので、体育と音楽の成績が良かったので、平均点の成績でした。」
「昭和12年か13年でしたか、あるとき中国戦線から凱旋した村の出身者の講演会が小学校の体育館でありました。南京攻略戦で軍功をたてた人でした。
戦利品として青竜刀を持参されていました。南京へ入城したとき、チャンコロ(当時の中国人を別称で呼んでいました)を殺すのは簡単だった。彼らは死んでもすぐ生き返るという迷信があるので、軍刀の前に首を差し出すからばっさばっさと切り落としました。
銃剣で殺すときは前から刺したら手で押さえて抜けなくなる。必ず背中から刺すことだ。赤ん坊は空中に放り上げて刺し殺した。と語りました。」
「最近では南京大虐殺はなかったとか言う議論があります。当時村の人たちは南京での話を皆聞いていました。わたしもおじも南京の戦闘に参加していましたので同じ話をしていました。間違いなくあったのです。」
「当時は義務教育は小学の6年40人のクラスで。旧制中学へ行けるのは家が豊かな6人程度。あとは高等小学校へ2年行く人が多かったです。
わたしは当時軍国少年になっていましたので、予科練を志望しました。鹿児島まで受験に行きました。足が速かったので採用になりました。」
「配属されたのが大分宇佐の航空隊。そこでグライダーの飛行訓練をしました。全国から50人の訓練生がいました。グライダーは助走をるけて30人ぐらいで引っ張ります。上空で飛行訓練をして、着地しますが、そこでも走ってグライダーを押さえます。足が速いという特典がこういうところに生かされたようです。来ていた訓練生は皆足が速い連中でした。」
「グライダーの訓練は飛行訓練の一貫。それが済んだら赤とんぼと言われる複葉機で訓練飛行し、飛行気乗りになります。わたしはグライダー訓練時に墜落して怪我をして除隊しました。それが昭和18年。帰郷し自宅で療養していましたが、19年になり再び召集され、今度は海軍の通信兵になりました。いろいろ配転され昭和20年の終戦は台湾で迎えました。台湾は物資も豊富で1年間捕虜生活でしたが待遇もよく、親日的でしたので、居心地は良かったです。今年も長期間台湾へ旅行していました。」
「また朝鮮人従軍慰安婦なんぞなかったと言う人たちがいます。教科書の記述も変えられたりしました。いました。実際にわたしは見ています。
沖縄での激戦が伝わるころに、われわれもいずれ、参加するので、外出して自由に遊んで来い。と軍の憲兵から許可書をもらいました。
そして備品もありました。それには従軍慰安婦の出入り許可書と、サック(男性用避妊具がありました。実際に出かけるとそこには朝鮮から強制連行された慰安婦の女性たちがいました。ですので従軍慰安婦はいたのです。」
「わたしが言いたいのはいかに教育の力は怖いかです。最近田母神敏雄や桜井よしこたちが無責任に北朝鮮の脅威や核武装を言い立てています。でもあの人たちは戦争の怖さを知らない人たち。きちんと人の話を聞ける人なら、あんなことは言いません。」
(左から田辺浩三さん、小夏さん、大川愛郎さん。質疑応答コーナーでした。)
会場から質問が大川さんにあり、当時の行動に疑問はなかったか。と。
大川愛郎さんは「疑問もなにも小学生から天皇のために死ぬ。上官の命令は天皇の命令と刷り込まれて来ましたし。早く大人になってチャンコロや英米をやっつけたいと本気で思いましたし。」とのことでした。
「キクとイサム」の映画は、二次大戦で生まれ落ちた米軍兵士とのうまれた混血児が祖母に育てられ農村で育っていく姿を淡々と描いています。
当時の日本の生活様式が知れて興味がありました。道路は舗装されておらず、電気は来ているが、厨房はかまど。炭が燃料。田舎の小学校も子供たちの数が多い。蒸気機関車でテレビはまだない。昭和30年代初めの地方の風景だろうか。
混血児のキクとイサムは今より強い差別意識の中でたくましく育っていく。イサムは米国人に養子にもらわれていく。キクは残され問題も起こすが、祖母と2人で農業でたくましく生きていくというストーリー。
つい40年前まではああいう風景が日本であったと思う。食料が満ち溢れ、小夏さんが言う「満ち足りた」暮らしになったのはつい20年ほど前からですね。基盤は危ういものであると思いました。
近所付き合いも濃厚な時代ですし。昔の日本人は逞しいと思いました。
赤字覚悟で「戦争を知らない子供たちのための映画会」を主催上映を続けている田辺浩三さんには感謝です。
次回上映会は10月12日(月曜・祭日)「あかね雲」テーマは「脱走兵士」です。
最近のコメント