(高知市桂浜に立つ坂本龍馬像。昭和3年に当時の青年たちが中心に募金活動で建立されました。)
友人が「忘れ得ぬ人びと」(入交好保・著・高新企業出版部刊・1973年)を貸してくれたので、一気に読みました。
著者の入交好保さん(1903年-1996年没)には、生前高知新聞社のロビーで一度だけ目撃したことがありました。受付で目的の記者に面談を申し込む。受付係の女性は規約どうりに「予約をされていますか?」とマニュアルどうりの応対をされました。
そしたら入交さんは「約束しないと記事を書かないのか。田舎から高齢者が出てきておるのに!」(正確な文言ではないでしょうか、たぶんそのようなことを言われていたと思う。)と驚くほどの大声で言われた。その剣幕に押されて、受付係りは、面談相手の新聞記者に内線電話をしました。
「失礼しました!」と2階から階段をあわてて駆け下りて担当の若い新聞記者が来ました。非礼を何度も詫びておられました。生前目撃したのはその一度きりでした。
入交好保さんは、戦前からの社会運動家で有名。戦後は各種団体の役員をされておられていました。高知新聞社長の福田義郎氏とは中学時代の同級生であったようです。
なにより特筆されるのは、入交さんが早稲田大学の学生の時に、土佐出身の坂本龍馬の業績に感動し、それを広く世に広めようと日本1の銅像を建立しようとした心意気と実行力でした。
現在桂浜にある大きな坂本龍馬像を建立するための奔走した当時の若者の1人。しかも時代は昭和の初期。少し引用が長いですが、ご本人の考え方を追体験したいと思います。
「わたしが坂本竜馬のことを知ったのは幼児の頃であった。それは幽霊として知った。雑誌の口絵であったと思うが、皇后さまの夢枕に立った亡き坂本龍馬の姿であった。
母から聞かされた話しは、日露戦争の最中、ロシア艦隊が近づきつつある時、ご心配のあまり眠れぬ皇后さまの枕元に坂本さんがあらわれ、「私が守りますから大丈夫でございます)と言って消えたと言うのである。
私の5歳位の時と思うが、今でも皇后さまの赤い袴と坂本さんの足のほうが煙のようにぼやけていたことを記憶しておる。
参考記事 【松平定知の“龍馬”伝】皇后の夢に現れ戦勝告げる(ZAKZAK)
その後、中學時代に高知市本町の藤本写真館で額に入ったあの銅像の原型になった姿を見て、今の言葉でカッコイイと思った。しかし、歴史の本には全然出てこないので、それくらいのものかなと思っていた。」(P21「竜馬の銅像})
*入交好保さんの文章の表記は「坂本龍馬」ではなく、「坂本竜馬」になっています。以後「竜馬」で表現します。
「私が坂本竜馬に感動したのは真山青果の戯曲からであった。薩長同盟にまず感服し、船中八策に驚き、大政奉還、無血革命にいよいよ敬服した。さらにものの考え方に心を打たれた。
真理の前に頭を下げる謙虚さ。所信に向かって進む時の勇気、わたしは土佐人であることを誇りに思った。さらに私が心を引かれたのは、維新の志士のなかでただ1人の「人民の日本」を考えたひとであることであった。
もとより100年も前のことであるから、現代の左翼学生の気に入るものではないが、少なくても当時としては最も進歩的な思想であった。小島拓馬(弘岡出身)博士の著「中江兆民」の書き出しが、「土佐の民権運動は坂本竜馬に始まる」とあるのを見てもわかる。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」以来、日本中の竜馬観は確定したが、大正時代は竜馬の番付は、西郷、大久保、木戸を横綱にしてせいぜい小結程度であったと思う。
私の”曲解”をもってすれば、明治以来の薩長政府の作った歴史教科書は、竜馬を抹殺することによってのみ、維新史上の光栄をほしいままにすることが可能であるだろう。」
「薩長同盟が明治維新の原動力になっただけに、これを拒み続けた西郷や木戸の頑迷さ、これを根気よくやらせた竜馬の功績、倒幕々々と国内戦争をやりたがる薩長をおさえて大政奉還という無血革命をやらせた竜馬の高い見識、さて新政府の財政はどうするかと三岡八郎(由利公正)を福井に訪い、紙幣発行を説く卓見。もう何とも言えないみごとさである。
かの船中八策にいたっては、新政府の進むべき道を、また実際に進んだ道を予告してあますこと無しではないか。このように考えて来て私は竜馬横綱論を振り回すようになった。わたしが相撲用語を使うのは相撲が好きで、小さい体で早大の相撲部の代表委員というものをやった経験があるのでご勘弁下さい。」(P22)
大正15年、早稲田大学の学生であった入交好保さんは、郷土出身の先人坂本竜馬の先進性と行動力に驚いたようです。当時傾倒していた社会主義思想の「先駆者」としての坂本竜馬を見出していたようです。
入交好保さんの凄さは、当時の左翼思想に呪縛されることなく、自由なる行動力で、目的と達成しようという気概を持ち続けていたことでしょう。それこそ坂本竜馬に通じることであると読んでいて思いました。
大学の退屈な講義より、高知県下の青年の手によって、坂本竜馬の銅像をこしらえようと入交さんは思い立ち、京大生の土居清美氏や、朝田盛氏、信清浩男氏などを同志として「坂本竜馬先生銅像建設会」を大正15年8月7日にこしらえました。
高知市役所前に60人の青年達が集まりました。演説を依頼した元代議士が、いつ終わるかわからぬ演説をおこない、しかも「青年の手で銅像などと馬鹿げたことを言うものではない」などと言うので入交さんは激怒。以後青年たちを中心に銅像建設運動は展開されていきました。
そして青年彫刻家島村治文氏と連携し、「金はどれくらいかかるか。だれに作らせたら良いか。ポーズはどんな姿にするか、それはあの長崎で撮った机へもたれた写真のあれじゃ。ということになり、賛成!建てる場所は高知公園か又桂浜がよい」(P24)
とこの時点で「青写真が」出来上がっていました。
「もう出来上がった気になった。金はだれももっていない。コーヒーを飲む金も持たない。つまり運動資金は1銭もないのだ。しかも若者は胸ををふくらませて夜半自宅へ帰って眠ったが、竜馬先生はだれの夢枕にも立たなかった。」(P24)
その後入交好保さんは高知県下の青年団に呼びかけ、坂本竜馬の銅像建設の趣旨を説明、青年たちの募金活動を展開されます。
銅像建設運動の大きな転機となったのは、当時「土佐の交通王」と呼ばれていた野村茂久馬氏との出会いでありました。
野村氏は当時高知の経済界の大御所でありました。気さくなひとのようで、入交氏らの構想に賛同され、野村茂久馬という大型の名刺に捺印をしてくれました。これが自動車フリーパスとなり、当時野村氏が経営されていた高知県下のバス会社で通用し、県下の遊説や宣伝活動の大きな追い風になったようです。
入交好保さんの行動力が凄いのは。京都へも出掛け、当時の大スター阪東妻三郎氏に面談し、シナリオまで作成し、映画「坂本竜馬」が作成されたことです。
この映画、今年の1月3日に田辺浩三さんの小夏の映画会にて、龍馬が生まれたまち記念館にて上映されました。あらためてその入交さん達のスケールと行動力の壮大さに感銘を受けました。
また幕末・維新の「勤王の志士」の生き残りで、陸援隊副隊長であった元宮内大臣の田中光顕氏は当時86歳で健在であり、入交さんと面談されたといいます。田中氏は坂本龍馬と中岡慎太郎が京都の近江屋で暗殺されたときに、駆けつけているのですから。
入交さんは懸命に龍馬の銅像建立運動の経緯を説明されました。田中氏は
「そうか、それは妙じゃのう。日本1の銅像を桂浜に建ててくれるのか。青年だけの力でのう。坂本もなんぼか嬉しかろう。活動写真まで作るか。そりゃ見たいのう。」
「そうか、野村茂久馬という男は良く聞くが感心な男じゃのう。よく君たち青年に力を貸すのう。そうかそれほどの人物か、浜口とどうか」(P29)と話しは弾み、とうとう田中光顕宅に泊めていただいたそうです。
(浜口というのは後の首相浜口雄幸氏のことでしょう。)
協力者は次々と現れました。時代は大正から昭和に変わります。昔も今も高知県庁の態度は民間人には冷たく同じであるようでした。
「さて、銅像の寄付金をあつめなければ ならないのに、県はなかなか許可をくれない。資産なし、信用無しで、我々を相手にしてくれない。そこで会長に立派な人にしなければという常識論が出て、遂に野村茂久馬翁がよかろうということになり、大野と私で翁を説きその承諾を得た。」(P33)
やがてこの長老たちの動きが、宮家まで動かすことになりました。田中光顕氏が宮内庁次官に手紙を書きました。そのことにより秩父宮殿下から銅像建立資金にと200円の御下賜金を頂くことになりました。
すると尊大で青年たち、名もなき民間人をバカにしていた(今も体質は全く変わらない)高知県庁が「豹変」したのです。入交好保さんはこう書かれていました。
(現在の高知県庁本庁舎。昔も今も県庁の「体質」は変わらないようです。)
「秩父の宮の御下賜金ということは銅像建設にこの上のない力になった。今まで資力なし信用なし等と我々学生の一団をにケチをつけておった県当局も打って変わって大変なもちあげ方で、全県下の青年団に県が号令をかけて寄付金を集めてくれるようになった。あとは順風に帆をあげたように進んだ。」(P36)
その後は話しは展開し、大掛かりになりました。入交好保さんの日誌にはこう記述されていたようです。これも大変大事な歴史的な事実なので、そのまま引用させていただきます。
「除幕式は5月27日(海軍記念日)ときめた。
4月15日 海援隊隊長の除幕式なる故、軍艦を派遣せよとの声起こる。
4月23日 京都にて坂東妻三郎を訪い坂本竜馬撮影を見る。面白し。
5月10日 除幕式打ち合わせを県庁にて行なう。
5月13日 鋳造が意外に進まず焦燥する旨本山白雲氏より連絡あり、直ちに上京す。
なにさま、日本1の大きな銅像であるから、原型を3つに切って鋳込みそれを次合わせするのでむつかしいのは当然である。
5月17日 不眠で仕上げた銅像は完成、嗚呼3日間の惨たる奮闘もただこの一瞬の喜びの為のみ。
これから貨車につんで東海道を下るのであるが、荷造りが少し大きすぎてトンネルにつかえると鉄道係員から抗議が出るし、国沢新兵衛元満鉄総裁の助言を得てやっと通してもらう等、紆余曲折はあったが、貨車はたばたの駅を発した。
5月18日 本山白雲氏を伴ない、浅草電気館にて阪妻の坂本竜馬封切りを見る、感慨無量、直ちに西下。品川駅、京都駅にて銅像の貨車通過せしや否やを確む、無事通過せるを聞き安心す。
5月19日 朝6時、神戸送迎会社にて野村会長と会う。銅像神戸港に到着。ここから先は会長にまかす。この日神戸発の天佑丸2千貫の銅像を揚げる能わず、やむええず明日の浦戸丸をまつ。
田中伯及夫人並びに本山白雲氏とこの日乗船「竜馬とともに帰れぬが残念」と伯白す。同感。この夜神戸衆落館にて阪妻の竜馬を見る。感涙にむせぶ。
5月20日 田中伯60年前脱藩してより、2度目の帰国。
5月21日 70万県民の待ちに待ちたる巨像この日桟橋に着く。直ちにハシケに積みて桂浜に送る。松井組据付工事担当、従事するものいずれも清々しきいでたちなり。
5月22日 この頃各方面より寄付金殺到す。大野委怪椀を振って使者東西に飛ぶ。
金持でき準備もできたという時に、思いがけなく岩崎男爵家から5000円の寄付申し込みがあった。言うまでもなく幕末長崎以来の竜馬と弥太郎の仲であり、1は海援隊。1は土佐商会で互いに日本にあだたん程の大志を抱き丸山遊郭で遊んだ間柄である。
竜馬は凶刃に倒れ、弥太郎は世界の富を集めた。
今郷党の青年たちが竜馬の巨像を建てんとするのを聞いて、東山公弥太郎地下より
一封を捧げよと命じたに違いない。
然し青年の志は軒昴に過ぎて、「すでに資集まり工成る」故を以てこれを辞退した。」(P38)
天下の三菱財閥の多額の寄付の申し込みも「結構です」と入交さんたちは蹴飛ばしたのですから凄い。
「 5月24日 銅像据付完了す。
5月26日 用意万端ととのいてただ明日をまつばかりなり。連日新聞紙の筆労を深謝す。
5月27日 目出度除幕式を了す。会長は言った。「諸君と相成る日の近し」と、60の齢に達してよく青年の大将になった。彼はこの日悲喜こもごも胸にせまるものありしならん。
この日の情景諸君知す、敢えて多言を要せず。」(P38)
入交さんは面白いエピソードも書かれていました。
「ここに珍話がある。市民の声。
高知市出身の坂本竜馬の銅像を建てるのに、市民から寄付をとらずに、田舎の青年団から寄付を集めよるが、なぜそうするぜよ。
これは道理とさっそく海南学校へ話しその生徒を借りて一挙に市民募金を行った。その方法がすばらしい。
下知から5丁目へ向けて、全市街の両側を「オンチャン(おじさん)、坂本竜馬の銅像の寄付を集めに来るきに、かまえちょってよ」と先鋒がふれて走る。すぐその後から袋を下げた生徒が数名組になって「さあ早う入れとうぜ」と集金して走った。
350名の生徒がまたたくうちに全市を席捲した。」(P39)
除幕式は壮大であったそうです。軍艦が桂浜沖に参列。陸軍の1小隊が参列。海軍は礼砲を撃ち、陸軍はラッパを吹いて捧げ銃をしたそうです。地方の青年のくわだてに当時の軍隊が参列するというのは、世論の盛り上がりが凄いということです。
今のふわふわした「龍馬伝」のブームとは広がりも規模も全然違い、運動は2年間継続したのですからただただ凄いとしか言いようがありません。
式典の様子を入交好保さんはこう書かれています。
「祝辞は、総理大臣から衆議院議長、文部大臣、海軍大臣、山内候爵、頭山満等朝野の名士、県出身の人々から山のようにいただいた。
しかしなんといっても88歳の高齢をおして、往年の盟友のためにはるばる来られた田中光顕伯が光った。
・・・・不肖光顕 先生の知遇に浴し幕末の際京摂に鎮西にその駿尾に付して国事に奔走し幸に余生を完うして今日まであ所似のものは・・・
殊に親しく鮮血淋瀧たる先生の枕頭に待ちて死生の別れをしたる往時を思えば・・・県民歓喜のその盛大なる除幕式の挙げらるを目撃して門下の1人たりし光顕歓喜の情は果たして何を以てか之を感涙を覚えるのみ・・・・
88歳の老志士は本当に涙を流して祝辞を読んだ。わたしは翁が壇上から下りる時、足がよろめくのを見て急いで支えた・」(P43)
(入交さんの表現は難しい。ところどころ不明なところがあり、特に田中光顕氏の祝辞の記述は正確ではありません。)
大正15年から昭和3年。私心なき青年たちが、人々を動かし、日本の先駆者坂本竜馬像を見事に建設したのです。
その運動の広がりは高知県下の庶民レベルが皆小銭を出したそうです。
「わしも小学生だったが、竜馬像に寄付すると学校で盛り上がり、1銭5厘を持って寄付した思い出がある。」と以前語ってくれたひとも今は超高齢者です。
運動の資金はクリーンに広く集めていたようです。財閥家の寄付を断った気概。維新の志士の気概を昭和の世に示した熱い志。
土佐の先人達の気概に感動しました。桂浜の坂本竜馬像の裏には「建立者高知県青年一同」とだけ刻まれています。大変な事業をやり遂げながら、私心がなく爽やかな郷土の先輩たちが昭和の初期にいたことを誇りに思います。
入交好保さんはその後、社会運動や労働運動に関わられ、その後中国渡りご活躍。戦後は団体役員としてご活躍されました。
(土佐電気鉄道の労働争議だそうです。昭和の初期。入交さんは深く関わられていました。)
高知新聞社のロビーで目撃した頃は晩年であり、新聞社が入交さんの自伝かなにかの取材をされていたと思われます。
それにしても「でっかい人物」がいたものです。昭和の初期の土佐人の気概には感動いたしました。
(写真は「忘れえぬ人々」から掲載しました。
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