坂本龍馬像建立運動

2014.04.21

後藤象二郎宛て龍馬書簡(草稿)を見ました


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 4月20日は集金日。長浜のお客さんがありましたので、集金業務の途中で坂本龍馬記念館へ立ち寄りました。坂本龍馬が暗殺される直前に福井へ行き、やり取りの様子を後藤象二郎に書いたものです。

 以前NHKのバラエティで「国宝級の発見」だとか騒いでいたので、平日でないと見れないと思い行きました。

 フラッシュを焚いてはいけないということでしたので写真撮影はできませんでした。坂本龍馬は達筆ですので読めません。でも新政府の経済政策について議論をしていたといいますから、現代の政治家のレベルより高いと思いますね。
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 坂本龍馬記念館では、6月1日までの公開だそうです。現代語訳を読みましたがん、なかなかレベルの高いことを書いているようですね。

http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/shinhakken.htm

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2012.07.11

7月15日はマリン・フェスティバルへ

  7月15日(日)は、高知県香南市夜須のヤッシー・パークで「マリンフェスティバルYASU」が開催されます。午前10時から午後4時までの間で開催予定です。

 私もYASU海の駅クラブの一員として、シーカヤック無料体験を朝から行ってやる予定です。

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 お天気だけが心配です。お天気が良ければビーチで「朝から晩まで」楽しめます。

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2011.03.03

学ぶべきは坂本龍馬の精神だろうに・・

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 またも多額の税金を使用して「志国高知龍馬ふるさと博」が、3月5日から高知で開催されるようだ。「ようだ」と言いますのは、1県民として「またか」という感覚でありますし、どうしてまた「龍馬」なの?と思ってしまいます。

http://ryoma-furusato.jp/ryomaden-bakumatsu.html 

 昨年の大河ドラマ「龍馬伝」はそれなりにドラマとして面白かったです。脚色が凄かったし、史実とはかなり異なってはいましたが、俳優陣の熱演によってそれなりに楽しめました。

 しかしNHKのドラマのセットが展示されていたというJR高知駅前の展示館(入場料が500円。わたしは見せ物小屋」と呼んでいました。結局1度もいくことなくイベントは終結しました。

 そしたらまたも「継続事業」としてやるらしい、それも桂浜にスチロール製の武市半平太と中岡慎太郎の像を坂本龍馬像の横に並べるとか。その「展示」は一時的なもので、そのスチロール像を高知駅前へも搬入して設置するとか。なんともというか呆れ果てました。

 全国紙も面白おかしく取り上げています。

 読売新聞 龍馬像両脇にレプリカ…ファンの猛反対で延期

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110302-00000606-yom-soci

 一応高知県庁も予算をつけてスチロール像を発注した後で、「県民の意見」を「募集」しているようです。

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/020101/tosakinnoutou.html 

 県のホームページによれば企画の意図を自画自賛しています。

「こうした企画はおそらく日本初の試みであり、話題性とともに、改めて龍馬や高知に注目していただく大きなきっかけになるものと考えています。

 当然ながら意味もなく並べるものではなく、土佐勤王党が結成されて150年目にあたる今年、これまで、それぞれの地に立ってじっと世の中の移り変わりを見てきた坂本龍馬と武市半平太と中岡慎太郎が150年の時を経て再び集結したとき、一体どんな話をするのか、今を生きたとしても3人の考え方や生き方は異なるのか、一体どんな行動に出るのか・・などに思いを馳せていただき、それを見た一人ひとりに現代の「志」を考えていただく企画です。」

 果たして土佐勤皇党結成150年が意義があり、武市半平太と坂本龍馬と中岡慎太郎の3人を桂浜に並べる意義がどこにあるのか正直わかりません。

 坂本龍馬像建設については、昭和3年に当時の青年たちによって建立されました。その爽やかさは、今でも胸を打つものがあります。

 個人ブログ「忘れ得ぬ人びと」(入交好保・著)を読んで

 観光で高知は生きるしかないきに、えいろう!と県知事まで調子にのって騒いでいます。入交好保さんたちの真摯な志をそれこそ冒涜するものです。

 やりたいのなら私財やカンパでやるべき。500万円でも県民の税金ですることには私は反対します。坂本龍馬の精神を冒涜するものであると思うからです。

 また歴史的観点からすれば土佐勤皇党というのは、開明的な団体ではありません。むしろ対立したとされる参政の吉田東洋のほうが進歩的でした。海外事情を研究し、薩摩へも人を派遣し、藩政改革に尽力していました。

 また山内容堂も島津斉彬や松平春嶽らと結託して幕政を動かしていましたが、支えていた老中が急死し、井伊直弼による安政の大獄で失脚・蟄居させられていた立場でした。

 武市半平太による攘夷の実行は無理であることは、吉田東洋は理解していました。だから藩政改革を急ぎました。武市は藩政改革に反対する保守勢力と結託し、その上に土佐勤皇党隊士に命じて吉田東洋を暗殺してしまいました。

 坂本龍馬も中岡慎太郎も、武市半平太の政治的限界を感じ、一緒に行動せず「脱藩」をしたのですから。そのあたりの歴史的な検証もせずに「土佐勤皇党150年をお祝いしましょう」なんていうほうがおかしいと思います。

 学ぶべきは「坂本龍馬の発想」なのです。税金でスチロール像を設置することではないと私は思います。
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昨晩アナログテレビで3つの像が桂浜へ並ぶ想定図がありました。「およけない」「ばかげている」としかこめんとのしようがございません。


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2010.10.08

「龍馬読本」を読んで

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 「龍馬読本 生誕150周年(1985年)」(入交好保・著・龍馬生誕150年記念事業実行委員会・刊・1985年)を図書館で借りてきて読みました。

 著者の入交好保氏は、昭和3年に青年有志たちとともに高知市桂浜に坂本龍馬像を建てた人です。著書「忘れえぬ人々」は感動的な著作でした。

 参考ブログ記事 「忘れえぬ人々を読んで」


入交好保氏が「龍馬読本」を書いたときは81歳でした。迫力のある高齢者でありました。当時の「坂本龍馬生誕150年記念事業」の運動でも際立ったものでした。

 はしがきに

「かつて昭和のはじめ土佐の青少年諸君ともに桂浜に龍馬先生の銅像を建てた私は、昭和60年、坂本龍馬先生生誕150周年に当たり、この「龍馬読本」を書いて若い人々に残します。

 やがて来る21世紀に皆様が強く正しく生きるために、何らかの足しになれば幸いです。

                                   昭和60年3月   入交好保 」とありました。

 坂本龍馬の生い立ちから成長過程、雄飛する姿を読本として平易に記述されています。特筆すべきは「自由民権のルーツ龍馬」の項目です。以下少し長いですが引用させていただきます。

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 引用開始

 高知県春野町出身の偉い学者に小島裕馬(1881-1966)という文学博士がいた。この人の書いた「中江兆民」という本の書き出しにこうある。

「明治の民権運動は坂本竜馬に始まる。といえば事柄はいささか奇矯に聞こえるかも知れぬが幕末維新の見逃すべからず一しゃくとして、また日本民権運動の前史として私はこのことをまず指摘しておきたいと思う。それはこういうところからである」(以下原文のまま)

 以下小島博士の説くところを要約すると、幕末の世論は、徳川幕府が倒れた後には薩摩か長州が徳川に代わって政権を握るであろうと考えていた。

「もしあの時幕府に対し、武力倒幕が行われていたとすれば、徳川家没落の後に来るものは必ずや薩・長二藩の争いであっただろう」と指摘し「このことを考えると無血革命ということの意義は実に大きい」と述べている。以下原文のままつづけると

「坂本は1面において互いに反目する薩摩と長州を結びつけ、今にも薩・長連合軍が倒幕の火ぶたを切ろうという大きな圧力を作り上げておいて他の1面では後藤象二郎を使って山内容堂を動かし、慶喜に迫って大政を奉還させ、鎌倉以来700年にわたる封建制度をば、一兵も動かさず1人も殺さずして一朝にして瓦解に導いたばかりでなく、徳川没落後起こり得べき薩・長政権の跋扈をも予め封殺してしまったのである。

 その手腕は相当大きいものがあるといわなければならぬ。ひとは江戸城明け渡しが血を流さずすんだのは勝海舟と西郷隆盛のおかげであるといって賞賛する。たしかに勝も西郷も人物としては非凡であり、それぞれが違った意味での或いは坂本より偉いところがあったかとも思われるが、その為しとげた仕事の含みからいうと、江戸城の明け渡しなどは坂本のやった無血革命とは到底比較にはならないのではないか。

 しかも坂本の功績はそればかりではない。それは徳川を倒す手段のものの中に、すでに将来の建設に対する指針も寓し、そこに維新後の民権運動の端緒を置いたという点において更にその識見が高く評価されて然るべきものが存するのである。」(以下略)

 次にご承知の数年前に亡くなった平尾道雄氏の名著「自由民権の系譜」の書き出しを紹介する。

「近代日本の憲政史を考えるものはいわゆる土佐派の自由民権思想とその運動を見落とすことなく、土佐派の自由民権思想を論ずるものは、その先駆者として、かならず坂本竜馬の名をあげる。(1867ー慶応3年)6月土佐藩船「夕顔丸」で後藤象二郎と長崎から大阪へ航海中、船中でしたためた八策が日本近代化の方向を明確に示唆したものと認められるからである」

 以下船中八策をあげてこのことを説いている。私は思う。近代日本史において土佐人が果たした大きな役割は明治維新と自由民権であろう。そしてこの2つともわが坂本竜馬が、その先駆をなしていることを思う時、限りなく栄誉と興奮をおぼえるではないか。」(P63)

 社会運動をされてこられた入交好保さんの言葉は金言ですね。

 「竜馬読本」の27Pにある歴史の登場人物と坂本竜馬との年齢差表は面白い。参考になります。

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2010.06.10

「歴史を紀行する」司馬遼太郎・著を読んで

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 高知駅前のブックオフで105円で売られていました。1976年に初版が発刊、文春文庫として1981年に第10刷として販売された書籍です。小説を書く傍ら、日本各地(12箇所)を訪ね歩き、地元の民と交流し、(居酒屋)などで議論をされて書かれています。

 本は変色し、黄色く変色しています。しかし文章は、34年を経過しても古びず、なんか「高知の良さ悪さを」見抜かれたようにも思える見事さです。今もその”伝統”は高知には色濃く残っています。良くも悪くも・・・。

 その本のトップは「竜馬と酒と黒潮と」(高知)でありました。
 豊臣秀吉に四国の覇者であった長曾我部元親が降伏。大阪城下に家来50人を連れてやってきたときの格好が異様であり、武士を見慣れた上方人も仰天したようです。

 「その風体、野盗に異ならず。」(P9)とあります。

 服装は野盗そのものであり、乗っている馬も小型。でも山道に強いそうです。遠い四国の辺境の民がやってきたように当時の都会人は思ったことでしょう。

 険しい四国山脈で行く手を替着られ、荒れ狂う海に囲まれた土佐の国は、独特な性格で土佐人を育てたと司馬遼太郎氏は言います。

「土佐は僻地である。しかし僻地であるという劣等感はいまもむかしも土佐人は奇跡的なほどにもっておらず、そのことが土佐気質の特徴の重要な一つであるとおもわれるのだが、これはその方言が日本語の固有なるものに近いという、お国自慢すらかぞえる自信が大きく作用している。

 かれらの方言があかるく朗々とし、一声々々が不必要なほどに明快なことが特色である。兵隊をヘータイといわず、ヘイタイと言い、整理をセーりと言わず、セイりという。」(P15)

「かれらが暢達(ちょうたつ)な日本語をもっていたことが、1つはかれらを議論好きにしたのであろう。

 筆者は坂本竜馬について多くを知ろうとし、その郷国である土佐を理解するために何度も高知県に通った時期がある。

 町を歩き村を歩いてみたが、そういう暮らしや土のにおいのする場所よりも、むしろ高知の町の飲み屋街でより多くの土佐人の気分というものを感ずることができた。」(果てしなく論じ。飲む)

「土佐言葉はおなじ四国ながら、しかも方言的には上方圏内に入っていながら、きわめて非上方的性格を持ち、その点が方言学的にも特異とされ、とにかくもボチボチ的表現が皆無であり、論理性が高い。

 きわだって高すぎることが、どの地方の方言にもみられない特性であるといえるであろう」(P19「鋭利明快なその言動」)

 幕末・維新期から。昭和の時代になってもその土佐の議論好き、白黒つける県民気質は変わらないと司馬遼太郎氏は言い切っています。

「県民達は互いの議論で片付かぬとなると、断固法廷へもちこんで、最後は法律で白黒をつける。黒か白か、生か死か。勝か負けかというあいまいならぬ、抜き差しならぬ、ボチボチならぬ、そういう決着をはなはだしく好む。

 この好むところが尊皇攘夷運動になり、脱藩になり、官を捨てての自由民権運動になり、山下奉文のイエスかノーかになり、こんにちにあったは日本で最も過激な教員組合運動と、日の丸校長の存在とがたがいに拮抗屹立しつつ高知県下の教育界に一瞬といえども平和な瞬間をあらわしめていないところになってあらわれている。」(P22 黒白を争ってやまず)

 司馬遼太郎氏の指摘で注目しましたのは以下の思想的な経緯を述べている一文です。

「その理論的根拠は「百姓は朝廷からの預かりものであり。皇民である」ということなのであり、この法理そのものが封建的秩序への豪胆極まりない挑戦といってよく、こういう思想的風土から幕末に及んでは、郷士、庄屋などによる土佐勤王党の結成が行われ、やがては坂本竜馬、大江卓、中江兆民、植木枝盛といった思想人の系譜をあみあげてゆくのだが、いずれにせよ、天保庄屋同盟というのは、一地方史的事件とみるべきではなく、日本の思想史的事件として評価しなおすべきではないではないか。」(P25 風土が運んだ思想の系譜)

 確かに土佐勤王党には庄屋であった中岡慎太郎も参加していますし、多くの参加者は脱藩をしています。そのあたりが、長州や薩摩とは異なるところでしょう。

 志半ばで個人として倒れた志士たちも土佐は1番多かったのです。

 明治10年に鹿児島の西郷隆盛は1万人を率いて反乱を起こしました。土佐はどうかといいますと「土佐人を1人説得するには半日はかかる」ということで、別の1面がある意味面白いとは思います。

 私は今まで、意識はしませんでした。坂本龍馬ブームの浅さが嫌でした。

 酒を呑むところだけ、お座敷遊びをするところだけ、「勤皇の志士」の真似をするだけです。今の龍馬ブームは。全然くだらないし面白くはない。

 でも司馬遼太郎氏の分析で納得しました。なるほどなと思いますし、思い当たるところもあります。

 案外土佐人の「しつこさ」「議論をする明るさ」が、日本を救うのかもしれないと心底思うようになりました。

 昭和の初期に坂本龍馬像を建立した入交好保さんたちの青年達の爽やかさもその良き「伝統」の継承者だったのです。

  参考ブログ記事「忘れえぬ人々」を読んで

 閉塞気味の日本の社会思想。「連合赤軍と新自由主義の総括」もこの「土佐の伝統思想」を媒介させれば回答はでるのではないかと思いました。
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2010.05.21

史実とは異なっても面白い”龍馬伝”

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が好評のようです。史実とはかなり異なる物語になっていますが、脚本家の「新解釈」でもあり、それなりに史実に忠実に他の部分はこしらえているので、より効果があるというものです。

 ドラマの主役の坂本龍馬と岩崎弥太郎が、10代の頃から親しく交流していたと言う史実はないようです。弥太郎の家が街中にあったという史実もないようです。

 土佐藩主山内容堂と坂本竜馬が実際に面会した史実もありませんし。

 土佐藩は身分差別が激しく、武士階級の中での上士、下士の対立は致命的でした。土佐では多くの有為な人材が世の認められないまま死んでいきました。そうした悔しい事例は土佐が当時の日本で1番多かったのではないかと司馬遼太郎氏は言います。

 「薩長連合」を成し遂げた坂本龍馬でも、上士のリーダーであった吉田東洋と、下士のリーダーであった武市半平太の連合をなすことはできませんでした。土佐藩が一体化したことはなく、のちのちまで対立は禍根として残り、結果として高知が貧しくなりました。

 薩摩藩や長州藩は、身分お低い出身の志士たちが藩の実権を握り、幕末。維新で大活躍しました。土佐はそういう意味で藩論が統一出来ず、薩摩・長州に「遅れをとった」のは仕方がありません。結局土佐藩主山内容堂の器量が小さかったのでしょう。

 武市半平太も狭量な攘夷思想に囚われ、実現不可能な外国排斥を言い続けました。吉田東洋は有能な参与で開明派でしたが、これまた気性が激しく、武市の偏狭な攘夷思想を蔑視し、徹底して無視し踏みつけました。

 偏狭でしたが武市半平太は真摯な人柄で人望がありました。吉田東洋は本当に能力のある人でした。その2人のリーダーを失った損失はとてつもなく大きかったのです。

 結局坂本龍馬は土佐には居ることが出来ず「脱藩」せざるを得ませんでした。そして維新政府の道筋をつけ、自分が世界相手の貿易を夢見ていたところで、何者かに暗殺されてしまいました。これももったいない話ではあります。

 岩崎弥太郎が土佐では嫌われ、後継者の岩崎家が昭和の初期の桂浜での坂本龍馬像建立運動の末期に多額の寄付を申し入れするも、青年達はきっぱりと断っています。

 陸援隊副隊長で、坂本龍馬、中岡慎太郎が襲われた直後に、近江屋に駆けつけた田中光顕(後の宮内大臣)も脱藩して以来、坂本龍馬像の落成式に、50数年ぶりに土佐に帰るという状態でした。

 参考ブログ記事「忘れえぬ人々を読んで

 それだけ土佐は偏狭で「居づらい土地」なのです。このあたりを抑えておきませんといけないと思います。龍馬をダシに酒だけ飲んで騒いでいたら史実と現実を全くわからないことになります。

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2010.03.27

龍馬像の由来もまた壮大

 2010年3月8日の高知新聞朝刊に掲載されていた「坂本龍馬像除幕式」の様子の写真が掲載されていました。
 以前ブログに「忘れ得ぬ人びと」(入交好保・著)を読んで」という拙文を書きました。

 大正時代の終りから昭和のはじめにかけて、郷土の英雄坂本龍馬の銅像を桂浜に建設すべく、奔走した入交好保さんたち青年学生の真摯な思いが、実現させました。

 著作にも巨大な龍馬像を運搬するのにも苦労された様子が記述されていました。あらためて高知新聞で写真を確認しますと「本当に大変であった。」と確認出来ました。当時の青年たちは「とんでもない」ことをやりとげたのでした。Syuriishi_r


 高知新聞の記事も「大きい」ので、はさみで切り取り、スキャナーで取り込みました。是非多くの人達に、坂本龍馬像建立運動をされた青年・学生の真摯さを感じ取っていただきたいと思ったからです。

 カラーの写真は1999年頃におこなわれた龍馬像の解体修理の写真のようです。このときは既に入交好保さんはご逝去されており、額に入った写真で立会われていました。

 その時のコンクリート片をYASU海の駅クラブがもらってきて、2月21日に開催された「龍馬伝記念ウォーキング」参加者全員に配布されたようでした。

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2010.02.19

忘れ得ぬ人びと」(入交好保・著)を読んで

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(高知市桂浜に立つ坂本龍馬像。昭和3年に当時の青年たちが中心に募金活動で建立されました。)

 友人が「忘れ得ぬ人びと」(入交好保・著・高新企業出版部刊・1973年)を貸してくれたので、一気に読みました。

 著者の入交好保さん(1903年-1996年没)には、生前高知新聞社のロビーで一度だけ目撃したことがありました。受付で目的の記者に面談を申し込む。受付係の女性は規約どうりに「予約をされていますか?」とマニュアルどうりの応対をされました。

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 そしたら入交さんは「約束しないと記事を書かないのか。田舎から高齢者が出てきておるのに!」(正確な文言ではないでしょうか、たぶんそのようなことを言われていたと思う。)と驚くほどの大声で言われた。その剣幕に押されて、受付係りは、面談相手の新聞記者に内線電話をしました。

 「失礼しました!」と2階から階段をあわてて駆け下りて担当の若い新聞記者が来ました。非礼を何度も詫びておられました。生前目撃したのはその一度きりでした。

 入交好保さんは、戦前からの社会運動家で有名。戦後は各種団体の役員をされておられていました。高知新聞社長の福田義郎氏とは中学時代の同級生であったようです。

 なにより特筆されるのは、入交さんが早稲田大学の学生の時に、土佐出身の坂本龍馬の業績に感動し、それを広く世に広めようと日本1の銅像を建立しようとした心意気と実行力でした。

 現在桂浜にある大きな坂本龍馬像を建立するための奔走した当時の若者の1人。しかも時代は昭和の初期。少し引用が長いですが、ご本人の考え方を追体験したいと思います。

「わたしが坂本竜馬のことを知ったのは幼児の頃であった。それは幽霊として知った。雑誌の口絵であったと思うが、皇后さまの夢枕に立った亡き坂本龍馬の姿であった。

 母から聞かされた話しは、日露戦争の最中、ロシア艦隊が近づきつつある時、ご心配のあまり眠れぬ皇后さまの枕元に坂本さんがあらわれ、「私が守りますから大丈夫でございます)と言って消えたと言うのである。
 私の5歳位の時と思うが、今でも皇后さまの赤い袴と坂本さんの足のほうが煙のようにぼやけていたことを記憶しておる。

  参考記事 【松平定知の“龍馬”伝】皇后の夢に現れ戦勝告げる(ZAKZAK)  

 その後、中學時代に高知市本町の藤本写真館で額に入ったあの銅像の原型になった姿を見て、今の言葉でカッコイイと思った。しかし、歴史の本には全然出てこないので、それくらいのものかなと思っていた。」(P21「竜馬の銅像})

 *入交好保さんの文章の表記は「坂本龍馬」ではなく、「坂本竜馬」になっています。以後「竜馬」で表現します。

「私が坂本竜馬に感動したのは真山青果の戯曲からであった。薩長同盟にまず感服し、船中八策に驚き、大政奉還、無血革命にいよいよ敬服した。さらにものの考え方に心を打たれた。
 真理の前に頭を下げる謙虚さ。所信に向かって進む時の勇気、わたしは土佐人であることを誇りに思った。さらに私が心を引かれたのは、維新の志士のなかでただ1人の「人民の日本」を考えたひとであることであった。

 もとより100年も前のことであるから、現代の左翼学生の気に入るものではないが、少なくても当時としては最も進歩的な思想であった。小島拓馬(弘岡出身)博士の著「中江兆民」の書き出しが、「土佐の民権運動は坂本竜馬に始まる」とあるのを見てもわかる。
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 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」以来、日本中の竜馬観は確定したが、大正時代は竜馬の番付は、西郷、大久保、木戸を横綱にしてせいぜい小結程度であったと思う。

 私の”曲解”をもってすれば、明治以来の薩長政府の作った歴史教科書は、竜馬を抹殺することによってのみ、維新史上の光栄をほしいままにすることが可能であるだろう。」

「薩長同盟が明治維新の原動力になっただけに、これを拒み続けた西郷や木戸の頑迷さ、これを根気よくやらせた竜馬の功績、倒幕々々と国内戦争をやりたがる薩長をおさえて大政奉還という無血革命をやらせた竜馬の高い見識、さて新政府の財政はどうするかと三岡八郎(由利公正)を福井に訪い、紙幣発行を説く卓見。もう何とも言えないみごとさである。

 かの船中八策にいたっては、新政府の進むべき道を、また実際に進んだ道を予告してあますこと無しではないか。このように考えて来て私は竜馬横綱論を振り回すようになった。わたしが相撲用語を使うのは相撲が好きで、小さい体で早大の相撲部の代表委員というものをやった経験があるのでご勘弁下さい。」(P22)

 大正15年、早稲田大学の学生であった入交好保さんは、郷土出身の先人坂本竜馬の先進性と行動力に驚いたようです。当時傾倒していた社会主義思想の「先駆者」としての坂本竜馬を見出していたようです。

 入交好保さんの凄さは、当時の左翼思想に呪縛されることなく、自由なる行動力で、目的と達成しようという気概を持ち続けていたことでしょう。それこそ坂本竜馬に通じることであると読んでいて思いました。

 大学の退屈な講義より、高知県下の青年の手によって、坂本竜馬の銅像をこしらえようと入交さんは思い立ち、京大生の土居清美氏や、朝田盛氏、信清浩男氏などを同志として「坂本竜馬先生銅像建設会」を大正15年8月7日にこしらえました。

 高知市役所前に60人の青年達が集まりました。演説を依頼した元代議士が、いつ終わるかわからぬ演説をおこない、しかも「青年の手で銅像などと馬鹿げたことを言うものではない」などと言うので入交さんは激怒。以後青年たちを中心に銅像建設運動は展開されていきました。
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 そして青年彫刻家島村治文氏と連携し、「金はどれくらいかかるか。だれに作らせたら良いか。ポーズはどんな姿にするか、それはあの長崎で撮った机へもたれた写真のあれじゃ。ということになり、賛成!建てる場所は高知公園か又桂浜がよい」(P24)

 とこの時点で「青写真が」出来上がっていました。

「もう出来上がった気になった。金はだれももっていない。コーヒーを飲む金も持たない。つまり運動資金は1銭もないのだ。しかも若者は胸ををふくらませて夜半自宅へ帰って眠ったが、竜馬先生はだれの夢枕にも立たなかった。」(P24)

 その後入交好保さんは高知県下の青年団に呼びかけ、坂本竜馬の銅像建設の趣旨を説明、青年たちの募金活動を展開されます。

 銅像建設運動の大きな転機となったのは、当時「土佐の交通王」と呼ばれていた野村茂久馬氏との出会いでありました。

 野村氏は当時高知の経済界の大御所でありました。気さくなひとのようで、入交氏らの構想に賛同され、野村茂久馬という大型の名刺に捺印をしてくれました。これが自動車フリーパスとなり、当時野村氏が経営されていた高知県下のバス会社で通用し、県下の遊説や宣伝活動の大きな追い風になったようです。

 入交好保さんの行動力が凄いのは。京都へも出掛け、当時の大スター阪東妻三郎氏に面談し、シナリオまで作成し、映画「坂本竜馬」が作成されたことです。

 この映画、今年の1月3日に田辺浩三さんの小夏の映画会にて、龍馬が生まれたまち記念館にて上映されました。あらためてその入交さん達のスケールと行動力の壮大さに感銘を受けました。
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 また幕末・維新の「勤王の志士」の生き残りで、陸援隊副隊長であった元宮内大臣の田中光顕氏は当時86歳で健在であり、入交さんと面談されたといいます。田中氏は坂本龍馬と中岡慎太郎が京都の近江屋で暗殺されたときに、駆けつけているのですから。

 入交さんは懸命に龍馬の銅像建立運動の経緯を説明されました。田中氏は
「そうか、それは妙じゃのう。日本1の銅像を桂浜に建ててくれるのか。青年だけの力でのう。坂本もなんぼか嬉しかろう。活動写真まで作るか。そりゃ見たいのう。」

「そうか、野村茂久馬という男は良く聞くが感心な男じゃのう。よく君たち青年に力を貸すのう。そうかそれほどの人物か、浜口とどうか」(P29)と話しは弾み、とうとう田中光顕宅に泊めていただいたそうです。
(浜口というのは後の首相浜口雄幸氏のことでしょう。)

 協力者は次々と現れました。時代は大正から昭和に変わります。昔も今も高知県庁の態度は民間人には冷たく同じであるようでした。

「さて、銅像の寄付金をあつめなければ ならないのに、県はなかなか許可をくれない。資産なし、信用無しで、我々を相手にしてくれない。そこで会長に立派な人にしなければという常識論が出て、遂に野村茂久馬翁がよかろうということになり、大野と私で翁を説きその承諾を得た。」(P33)

 やがてこの長老たちの動きが、宮家まで動かすことになりました。田中光顕氏が宮内庁次官に手紙を書きました。そのことにより秩父宮殿下から銅像建立資金にと200円の御下賜金を頂くことになりました。

 すると尊大で青年たち、名もなき民間人をバカにしていた(今も体質は全く変わらない)高知県庁が「豹変」したのです。入交好保さんはこう書かれていました。
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(現在の高知県庁本庁舎。昔も今も県庁の「体質」は変わらないようです。)

秩父の宮の御下賜金ということは銅像建設にこの上のない力になった。今まで資力なし信用なし等と我々学生の一団をにケチをつけておった県当局も打って変わって大変なもちあげ方で、全県下の青年団に県が号令をかけて寄付金を集めてくれるようになった。あとは順風に帆をあげたように進んだ。」(P36)

 その後は話しは展開し、大掛かりになりました。入交好保さんの日誌にはこう記述されていたようです。これも大変大事な歴史的な事実なので、そのまま引用させていただきます。

「除幕式は5月27日(海軍記念日)ときめた。

 4月15日 海援隊隊長の除幕式なる故、軍艦を派遣せよとの声起こる。

 4月23日 京都にて坂東妻三郎を訪い坂本竜馬撮影を見る。面白し。

 5月10日 除幕式打ち合わせを県庁にて行なう。

 5月13日 鋳造が意外に進まず焦燥する旨本山白雲氏より連絡あり、直ちに上京す。
 
 なにさま、日本1の大きな銅像であるから、原型を3つに切って鋳込みそれを次合わせするのでむつかしいのは当然である。

 5月17日 不眠で仕上げた銅像は完成、嗚呼3日間の惨たる奮闘もただこの一瞬の喜びの為のみ。

 これから貨車につんで東海道を下るのであるが、荷造りが少し大きすぎてトンネルにつかえると鉄道係員から抗議が出るし、国沢新兵衛元満鉄総裁の助言を得てやっと通してもらう等、紆余曲折はあったが、貨車はたばたの駅を発した。

 5月18日 本山白雲氏を伴ない、浅草電気館にて阪妻の坂本竜馬封切りを見る、感慨無量、直ちに西下。品川駅、京都駅にて銅像の貨車通過せしや否やを確む、無事通過せるを聞き安心す。

 5月19日 朝6時、神戸送迎会社にて野村会長と会う。銅像神戸港に到着。ここから先は会長にまかす。この日神戸発の天佑丸2千貫の銅像を揚げる能わず、やむええず明日の浦戸丸をまつ。
 田中伯及夫人並びに本山白雲氏とこの日乗船「竜馬とともに帰れぬが残念」と伯白す。同感。この夜神戸衆落館にて阪妻の竜馬を見る。感涙にむせぶ。

 5月20日 田中伯60年前脱藩してより、2度目の帰国。

 5月21日 70万県民の待ちに待ちたる巨像この日桟橋に着く。直ちにハシケに積みて桂浜に送る。松井組据付工事担当、従事するものいずれも清々しきいでたちなり。

 5月22日 この頃各方面より寄付金殺到す。大野委怪椀を振って使者東西に飛ぶ。

 金持でき準備もできたという時に、思いがけなく岩崎男爵家から5000円の寄付申し込みがあった。言うまでもなく幕末長崎以来の竜馬と弥太郎の仲であり、1は海援隊。1は土佐商会で互いに日本にあだたん程の大志を抱き丸山遊郭で遊んだ間柄である。
 竜馬は凶刃に倒れ、弥太郎は世界の富を集めた。
 今郷党の青年たちが竜馬の巨像を建てんとするのを聞いて、東山公弥太郎地下より
一封を捧げよと命じたに違いない。

 然し青年の志は軒昴に過ぎて、「すでに資集まり工成る」故を以てこれを辞退した。」(P38)

 天下の三菱財閥の多額の寄付の申し込みも「結構です」と入交さんたちは蹴飛ばしたのですから凄い。

「 5月24日 銅像据付完了す。

  5月26日 用意万端ととのいてただ明日をまつばかりなり。連日新聞紙の筆労を深謝す。

  5月27日 目出度除幕式を了す。会長は言った。「諸君と相成る日の近し」と、60の齢に達してよく青年の大将になった。彼はこの日悲喜こもごも胸にせまるものありしならん。
 この日の情景諸君知す、敢えて多言を要せず。」(P38)

 入交さんは面白いエピソードも書かれていました。

「ここに珍話がある。市民の声。

 高知市出身の坂本竜馬の銅像を建てるのに、市民から寄付をとらずに、田舎の青年団から寄付を集めよるが、なぜそうするぜよ。

 これは道理とさっそく海南学校へ話しその生徒を借りて一挙に市民募金を行った。その方法がすばらしい。
 下知から5丁目へ向けて、全市街の両側を「オンチャン(おじさん)、坂本竜馬の銅像の寄付を集めに来るきに、かまえちょってよ」と先鋒がふれて走る。すぐその後から袋を下げた生徒が数名組になって「さあ早う入れとうぜ」と集金して走った。
 350名の生徒がまたたくうちに全市を席捲した。」(P39)

 除幕式は壮大であったそうです。軍艦が桂浜沖に参列。陸軍の1小隊が参列。海軍は礼砲を撃ち、陸軍はラッパを吹いて捧げ銃をしたそうです。地方の青年のくわだてに当時の軍隊が参列するというのは、世論の盛り上がりが凄いということです。
 
 今のふわふわした「龍馬伝」のブームとは広がりも規模も全然違い、運動は2年間継続したのですからただただ凄いとしか言いようがありません。

 式典の様子を入交好保さんはこう書かれています。

「祝辞は、総理大臣から衆議院議長、文部大臣、海軍大臣、山内候爵、頭山満等朝野の名士、県出身の人々から山のようにいただいた。
 しかしなんといっても88歳の高齢をおして、往年の盟友のためにはるばる来られた田中光顕伯が光った。

・・・・不肖光顕 先生の知遇に浴し幕末の際京摂に鎮西にその駿尾に付して国事に奔走し幸に余生を完うして今日まであ所似のものは・・・

 殊に親しく鮮血淋瀧たる先生の枕頭に待ちて死生の別れをしたる往時を思えば・・・県民歓喜のその盛大なる除幕式の挙げらるを目撃して門下の1人たりし光顕歓喜の情は果たして何を以てか之を感涙を覚えるのみ・・・・

 88歳の老志士は本当に涙を流して祝辞を読んだ。わたしは翁が壇上から下りる時、足がよろめくのを見て急いで支えた・」(P43)
(入交さんの表現は難しい。ところどころ不明なところがあり、特に田中光顕氏の祝辞の記述は正確ではありません。)
Ryoumazjimakusiki

 大正15年から昭和3年。私心なき青年たちが、人々を動かし、日本の先駆者坂本竜馬像を見事に建設したのです。

 その運動の広がりは高知県下の庶民レベルが皆小銭を出したそうです。

 「わしも小学生だったが、竜馬像に寄付すると学校で盛り上がり、1銭5厘を持って寄付した思い出がある。」と以前語ってくれたひとも今は超高齢者です。

 運動の資金はクリーンに広く集めていたようです。財閥家の寄付を断った気概。維新の志士の気概を昭和の世に示した熱い志。
 土佐の先人達の気概に感動しました。桂浜の坂本竜馬像の裏には「建立者高知県青年一同」とだけ刻まれています。大変な事業をやり遂げながら、私心がなく爽やかな郷土の先輩たちが昭和の初期にいたことを誇りに思います。

 入交好保さんはその後、社会運動や労働運動に関わられ、その後中国渡りご活躍。戦後は団体役員としてご活躍されました。
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(土佐電気鉄道の労働争議だそうです。昭和の初期。入交さんは深く関わられていました。)

 高知新聞社のロビーで目撃した頃は晩年であり、新聞社が入交さんの自伝かなにかの取材をされていたと思われます。

 それにしても「でっかい人物」がいたものです。昭和の初期の土佐人の気概には感動いたしました。


(写真は「忘れえぬ人々」から掲載しました。

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