司馬遼太郎氏の帝国主義論

2024.10.23

「むなしさの味わい方」を読んで

むなしさの味わい方 表紙 001
 私個人の最近の出来事についていえば、「うまくいかないこと」だらけであり、「面白くない」出来事がとても多い。体調不良も多く、「いつもの」楽天的な私ではない。少々の失敗や落ち込みに対しては、沖縄流の「なんくるないさ」(何とかなるさ)の心持で乗り切ってきましたが、今年はそうはいかない状況でした。

 このまま今年は低迷して終わるだろうなと思いました。うつになって落ち込んでいくばかりではないかという恐怖もありました。そんなときにこの書籍を金高堂書店で購入しました。偶然書店で目に入り購入しました。

 きたやまおさむさんと言えば、学生時代のご活躍と言えばフォーククルセダーズでした。「帰ってきた酔っぱらい」「イムジン河」「あの素晴らしい愛をもう1度」など活動期間は短いものの、メガヒットを出しています。
むなしさの味わい方 その2 001
 その後は九州大学の教授をされていて、何年か前に定年退官され、フォークルを再結成されたという話題もありました。フォークルの解散後にメンバーの才気あふれる加藤和彦さんの自死もありました。

 実際にお会いしたことはありませんが、きたやまおさむさんはまた意外にも身近な存在でもあります。

 ヨットの大先輩であるUさんが、なんと京都府立医科大学時代ヨット部で、先輩であったそうです。1学年下の「きたやまおさむは クルーだった。」とのこと。3年ぐらい前に初めて聞きました。大学ヨット部は2人乗りの470やスナイプという艇に主に乗り琵琶湖で帆走練習をしています。

 Uさんは舵取り(スキッパー)であり、きたやまおさむさんはクルーで2枚帆を調整したり、風下帆走の場合はスピンネーカーという補助セールを出したり、取り入れたりする係をされていたようです。

 「大学時代は学生紛争でロックアウトされ、おまけに5年で卒業にされた。」とのこと。Uさんは今はある自治体の医師会の会長をなさっておられます。

 さて肝心の書籍の感想です。豊かな時代になり、物があふれる時代になりましても人々の悩みは尽きません。また最近の情報通信技術の発達などで、より人々は精神的に追い込まれているのではないかときたやまおさむさんは言われます。

「相手の反応に敏感すぎる時代」(P32)

「意味のない言葉の氾濫」(P33)

「ご期待対応力が評価される」(P37)

 「ご期待対応力」なる言葉は、きたやまおさむさんの独特の表現です。でも今の時代を的確に「切り取る言葉」ではないでしょうか。

 最近もス-パースターと言われるビックアーティストの伝記的な映画がありました。クイーンのボーカルだったフレディ・マーキュリーを描いた「ボヘミアン・ラブシティ」(2018年)、エルトンジョンを描いたロケットマン(2019年)がありました。

「こうした映画では、主人公のミュージシャンが、ファンの期待に応えようとしながら、こうありたいとの自己像との間で葛藤し、ドラックやアルコール、セックスなどに溺れ自滅していく姿が必ずといってよいほど描かれています。

 また、ドラックなどではなくても、自分の心に生じた「間」を受け止めきれずに、何かで必死で埋めようとしながらも、うまくいかずに立ち直れなくなってしまう場合も少なくありません。

 ともにフォーク・クルセーダーズを結成したメンバーの1人は、2009年に自ら命を絶ってしまいました。彼のことを考えると、今も私は心が傷みます。」(P43)

 心構えの対策として、きたやまおさむさんは、以下のことをいわれています。

「期待に応えるよりも「マイペース」をえらぶ決断」(P44)

「遊びがあってこそ」(P45)

「私たちは、このむなしさ」に慣れ、飲み込まれないようにする術を身につけなければならないでしょう。」(P49)

「このようにみてくれば、心の発達で、他者との関係性や自分の心の中に「間」が生じ、「むなしさ」という感覚を味わうということは、少なくない人たちにとっては、当然の経験であることがわかるでしょう。だから誰も「むなしさ」から逃れられないし、「むなしさ」を完全に消し去ることはできないのです。」(P77 「間」を生きるという課題)

「急な幻滅に遭遇したとしても、私たちの人生はそれで終わってしまうわけではありません。多くの場合、人生という物語は、急な幻滅悲劇の展開で終わることなく、その後もだらだらとつづいていきます。

 生きている限り明日は必ずやってきます。そして日常という時間w過ごさなければなりません。まして現代は長寿社会と言われ、私たちはかつてよりも長い人生を送ることになっています。

 こうした意味でも、私たちには時間が与えられています。」(P112「幻滅の後も人生は続く-時間をかけることの意味)

「物事を解決したり、何らかの対処をしたりするためには、時間が必要です。」時間をかけるというのは「間」(間)が生じるということです。「間」というのは、本書で何度も登場した「間」(ま)のことです。

 日本語では両方とも同じ漢字で表記します。空間的な広がりとしての「間」であり、、時間的な長さとしての「間」のことです。

 心の病気を治すためにも時間が必要です。すぐに治らないからと絶望してしまえば、病気を治すどころではんくなります。時間をかけて徐々に治っていくという「間」をけいけんしなければなりません。

 中略

 大切な相手との関係性にひびが入ってしまったという場合、早急に相手を見限って、関係性を絶ってしまうのではなく、時間をかければ、予期せぬ結果が生まれるかもしれません。そこが希望と絶望が交替する移行の期間なのです。

 心の問題に関する原則は、時こそ「解き」(とき)であり、時間が解決するということなのです。」(P113 待つことと、「間」に立ち続けること)

 著者によれば「待っている時間を過ごすこと、結論を急がずに、結論に至るまでの「間」に立ち続けることは簡単ではありません。」と言います。

 どっちつかずの境遇でひたすらい結果を期待して待ち続けることは、現代人は得意ではありません。結論を急ぎ、結果をもとめます。また「むなしさ」を回避しようとする仕組みが張り巡らせています。

「二面性を受け入れる」(P115)

「2面性を知ることで深まる認識」(P118)

「吐き出してすっきりしたいが」(P119)

「心をゴミで埋めようとする。」(P122)

「割り切れないもの、消化できないもの、未処理のもの、中途半端で矛盾しているもの、そうしたものを心の、いわば「溜め池」のようなところに、そのまま置いておく。そして時間をかける。そうした心の余裕を持つことが出来るかどうかが、「むなしさ」をうまくこなしていくことにもつながってきます。」
(P123もやもやは心の「ため池」に置いておく)
ため息をついても幸せは逃げない」(P124)

 このあたりの言葉は、精神科医のきたやまおさむさんの治療のなかから出てきた考え方であると思うし。依拠しているフロイトの精神分析をかみ砕いて説明をしていただいているようです。

「相手が自分の思ったとおりのひとでなかったとかいうとき、わたしたちは喪失感や幻滅を覚え、心に「むなしさ」が訪れます。

 中略

 心がすっきりしないとき、この怒りの内向と同様の自虐や自責が起きることがあります。相手が自分の思う通りの人ではなかったのは、実は相手が自分を嫌っているからではないか。自分は嫌われても仕方のない、価値のない人間ではないか。

  中略
 
 日本人は外向きに怒りを感じるのが苦手だとよく言われ、私たちは怒りを内向させがちです。でもそれでは、心に「置いた」ことにはなりません。」
(P126怒りの内向と自虐)

 ある新興宗教団体が、自責の念を利用して「その罪を解消するためには、教団にお金を納めて禊をすませなくてはならない。そのためには教団に帰依し、献金し続けなくてはならない」という大きな問題が社会事件でおきました。日本人の特性を悪用した献金システムでした。

「私たちは生きていくうえで、人に借りをつくり、恩を受けながら生きています。そもそも私たちの人生は親を始め、他人のケアを受けなければ生きていくことができないという未熟な乳幼児期からはじまります。

 そして、自分が大人になった時は、今度は自分が子供をケアする。あるいは他者に貸しをつくったり、恩を与えたりする。要するにお互い様です。

 白黒思考に固まっていると、「すまない」を置いておけず、すまないままではいられなくなるのです。妥協しながら貸し借りをつくりながら、物事はどっともどっちであり、あなたも私もお互い様をかみしめながら生きていくことが大切です。

 この「すまないものを「すまない」ままでとして置いておけるか。」ここでも「間」に立ち続けること、未処理のモノをそのまま置いておくことがもとめられています。」
(P!30「すまない」はおたがいさま)

このあたりはきたやまむさんの独特の表現。ご自身の体験と精神科医としての臨床体験や、研究した文献の逸話や、精神病理医師の先輩の所説などがわかりやすくかかれています。

「心の内奥には沼がある」

「現在私たちが生活している場所は多くがアスファルトやコンクリートによって埋められています。沼などは殆どなくなっています。ドロドロと臭く、経済的な価値を見出せない沼などは、どんどん埋め立てられ、私たちの前から聞けていきました。

 しかし人間は人間臭く、乳は乳臭いものだし、大地は土臭いものです。心の一部も臭いはずですが、私たちが人間である以上,有機の匂いがするものであり、私たちの「心の沼」を都会のように埋めてしまうことはできないのです。」(沼は臭いので蓋を P134)

「心の沼は、澄んではいない。」

 心の沼は、いつもドロドロ、ずぶずぶ、ぐずぐず、ぐちゃぐちゃしているので、ドブ掃除は無理です。 中略

 そこには容易に手を突っ込めない危険性もありますし、また性欲や残虐性もあります。底なし沼という言葉があるように、真っ暗で水中がどうなっているのかなかなか理解できないのです。だから心の中で、いくら酷い事、残虐なことを考えても、そのことは否定されるべきではありません。中略

 心の中でどんな空想をしようと、それは自由です。むしろ、心の中で考えてて置いておけるなら、ひどいこと、残虐なことを行動に移さないことが可能になります。心の中で自由に考えたり、想像したりすることを否定したら、ひとはとても息苦しくなり、むしろ危険なのです。

 私たちは、目の前で起きている現実と、心の中の現実と2つの現実を生きています。その2つの現実を生きていることを自覚し、その2つがバランスよく作用しあっていることが健康的な状態です。

 2つの現実の片方しか認めようとせず、あるいは2つの現実を同一にしようとするのは危険です。心の中で残虐性を実行することはよくあることですが、目の前の綺麗な現実だけを認め、それと乖離する心の現実を閉じたり、あるいは心の現実をそれに無理やり合わせようとすることも危険なことです。きれいごとをいい裏を認めず良い子である表にあわそうとすると、心に無理が生じます。

 ひどい、残虐な想像をしてしまうのも自分であり、他者に対して、良い人のように降る真っいているのも自分なのです。2つの現実と、人の2面性を認めることの大切さは、こうしたところからもりかいできます。

 このように、沼はあくまでにごったものであり、そのまま置いておくしかないのです。」(P136)

 長い引用をしました。きたやまおさむさんの言葉の1つ1つに納得しますし、わたしの「鬱々、ドロドロした、自分を卑下し、貶める考え方」から、お陰で解放された気分です。

 でも精神分析の専門分野をかみ砕いて説明してくれていますが、わかったようで、わからないところがたくさんあります。

 この文章を読んでいて思いだしたのは、私の子供時代(1960年から65年頃)小学生時代は、高知市内でも、転校先の大阪府豊中市でも吹田市でも、沼がありました。柵などもなく、「危ない河童に引き込まれるぞ!」とかの看板が立っていました。

 沼は沼で自然界では存在価値があり、水生植物や昆虫、淡水魚類などのビオトープの世界であったし、子供たちの手軽な釣り場でもありました。

 しかし高度成長時代が全国的に始まりますと、沼は埋めたてられ、宅地や工場や商業施設になりました。地面はコンクリートやアスファルトで埋められました。

 今年は猛暑でしたが、沼や小川は埋め立てられ、アスファルトで覆われました。市街地も暑くなります。沼に生息していた、カエルやミツバチや、トンボや、めだかなども身近な場所で見なくなりました。

 便利な社会になりましたが、なんだか皆が余裕のない状態になり、心のバランスを崩すようになりました。私もそうなりかけていました。

 高知でも東京でも皆、暇があればスマホの画面を見て「暇つぶし」をしています。会話もなく、人とのコミュニュケーション力の衰退も心配ですが、心の「むなしさ」や「間」をネットの情報で埋めてしまおうとして、かえって疲労が蓄積されて心にひずみが出来イェイるのではないかと私は心配しています。


「むなしさを味わう」(P157)

 きたやまおさむさんはこう書かれています。

 ここまで見てきたように、私たちの心には「むなしさ」が必ず訪れ、通例そのことから逃れることができないものです。そして「むなしさ」は「すまない」とともにいきていかざるをえません。

 しかし、そのことは、単にそれに耐えるべきものではなく、場合によっては、吐き出したい言葉を生み出し、創造性を育んで、むしろ人間の生に豊かさをもたらせてくれるのではないかと私は考えます。

 「むなしさ」そのものに意味はないかもしれません。でも「むなしさ」をかみしめ、味わうことには、」意味があるかもしれない。(P158) 

 私自身の個人史において自我というものが形成されたのは、中学生時代でありました。早熟な「政治少年」として、政治や社会運動に興味を持ち、当時の情報伝達手段は「ガリ版」(謄写版印刷)でしたので、それで手書きで「新聞」を発行し、社会評論的なことをしていました。

 そのころの作法として「うまくいかないこと。目標が達成できないときの原因を自分の中で追及し、文章化し、高めの達成目標を設定し実行していました。(実力から言えば高めの目標設定故に、殆ど到達できないことばかりでした。)

 しかしながら、自分でコントロールできない課題や、社会運動においては、党派の上級幹部(専従者)の命令などもあり、反論できないまま落ち込んでいき、挙句の果てには運動体自身が解体消滅し、敗北し、放り出されることの繰り返しでした。

 きたやまおさむさんの「沼」という考え方。「空しい」ことにも意味がある。決して無駄なことではない。出来ないときは出来ない。出来なくてもいい。という。まったりした考え方、発想法は新鮮でした。

 自分の気持ちを「文書化」して、目標を整理し、達成に向けて努力しする。それ等はいまでも、地域防災の会合などで、会合参加者の情報共有化の手助けになる手法であります。(深刻な問題以外では有益な方法手段です。)

 しかし万能の処方箋ではありません。きたやまおさむさんの今回の著作を読んで改めて気が付きました。

 今年は正月から手術や入院、療養が続き、その中でも、仕事の合間の「こまめな時間」を活用して、自分なりに「周到な」準備をしていた地域防災の2大大事業(私なりのである「仁淀川町防災キャンプ」が台風で中止になり、地域防災訓練予定日は、思わぬ衆議院の解散総選挙の関係で、延期が余儀なくされ、防災メニューの大幅な見直しが強いられました。

 仕事や地域活動も本調子ではなく、体調も本調子ではない。仕事もうまくいかないことがある。でもそれでも何とか生きて行かなくてはいけない。自分が情けなくて、すべて投げ出したい「マイナス思考の渦の中」で、この著作を読みました。

きたやまおさむさんの先輩格の精神分析医の前田重治さんの心の絵がありました。確かに文字表現で、心象風景を記述されてもわかりにくい。

 フロイトが日本に紹介された時代における精神分析の個々のイメージが描かれています。(P160)
フロイト心の中の世界図 001
 絵は「前田重治 フロイトの精神装置図」(1958年)とありました。

 上部は,外界に向かい知覚のために心は外に開かれています。(中略)

 個の前田先生の絵においても、無意識、あるいはほどんど無意識になっているエス(日本語ではそれを意味するドイツ語)は下部に置かれ、その最下層は身体に根差して「本能欲求取りこみ門が開口しています。」(P162)

「上部の頭脳や理性だけでは人間は生きていけないし頭脳や理性だけが、人間のすべてではありません。理性的な意識よりも、心の下部から湧き上がる、沼の臭い、欲望の臭いとしてのモヤモヤのほうが強くなってしまうこともあります。
現在の自我構造・前田氏 001
 したがって、上部と下部、その両方の領域を備えてこそ、人間の心の全体となるのです。」(P167「無意識と身体」)

この著作を読んで、あらためて、フォーククールセーダーズの」「あの素晴らしい愛をもう一度」の詩を読んでみると、心の深層を感じます。

作詞:北山修/作曲:加藤和彦/歌:フォーククルセイダーズ
「あの素晴らしい愛をもう一度 」

命かけてと

誓った日から
すてきな想い出
残してきたのに
あの時

同じ花を見て
美しいと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

赤トンボの唄を
歌った空は
なんにも変わって
いないけれど
あの時/
ずっと夕焼けを
追いかけて
いった二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

広い荒野に
ぽつんといるよで
涙が知らずに
あふれてくるのさ
あの時

風が流れても
変わらないと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい
愛をもう一度

「日常でも、「美しいもの」を共有しながら愛でるのは親子だけでなく、恋人や友人同士でも多いのです。雪見、お花見、花火、お月見、」紅葉狩りと、私たちは昔から同じものを一緒に眺めて心を通わせ、この愛を育んできたのです。
 漱石による訳だという逸話もありますが、「アイラブユー」を「愛している」と見つめあって言うのではなく、肩を並べて、「月が綺麗だね」と言う比較文化論は、私たちの「横並びの愛」の深層心理を鋭く突いていると思うのです。

 だがこの愛が取り返しのない形で崩れ、しこに穴が開き。「つながり」が突然切れるなら、目も当てられない惨状が展開するでしょう。お互いが孤立して、「みんな」からハブられる恐怖や、向い合ってもらえない不安、そして同調圧力が生み出されてしまうのでしょう。

 だから、同じ花を見て美しいといった2人の心が今はもう通わないという悲劇は繰り返されるのだと、歌でも言うのです。(P193「あの素晴らしい愛について」)


 終章にこういう記述がありました。

「探し物はきっと見つからない。もし見つかったと思っても、それはすぐ目の前から消え、失われていきます。なぜなら、心の中で求めている「探し物」と全く同じものは、外の世界には存在しないのです。

 1人の人間のなかには、心の中と外という2つの現実があることを述べました。質の違う2つの現実が、1にの人間の中で共存しているのです。普通はどちらか片方だけが現実でもないし、2つの現実を一致させることも無理です。だから、心の中にある「探し物」は心の外の世界には存在しないのです。P195)

「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語、日本文化、現代社会を見据えながら書いた。もちろん最近の私の一般向け書物と同様、フロイト理論や精神分析の対象関係論の考え方を活かしている。しかし「むなしさ」を感じたら、情報収集による穴埋めを控えて、これを味わい、できれば自分で考えてみたらと提案しているのだから、理論的なことやこのテーマに関わる議論は細かく書き込まなかった。」(P203あとがき」

 わたしにとって2024年は「トラブル」続きの年でした。正月には眼病での両目の手術と入院。療養生活などで長期間仕事が出来ませんでした。メガネ合わせに苦戦し、復帰できたのが5月連休前でした。

 でも手術のおかげで「失明」は免れ、「ド近眼」が「中程度の近視」になり、近くは見えるので老眼が不要になりました。悪いことばかりではありません。6月には右手裂傷、9月には帯状疱疹。10月には蜂に刺されるとかいうトラブルまでありました。

 おまけに周到に地元の皆様と準備してきました「仁淀川町防災キャンプ」も中止、地域の史ウ号防災訓練は、衆議院選の関係で延期(10月27日が12月1日)になる事態になりました。

 懸命に真摯にっ取り組んではいますが、「運も悪い」としかいいようのない事態になり、自分の非力を感じ落ち込んでいました。

 でも一方で18歳から70歳まで52年間うじうじと「孤独に」悩んできた問題も半分ぐらい解消できました。悪いことばかりではありません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html
(「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んで

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-f58837.html
(映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」)

 18歳の少年(高校生)は長い長い先の見えない暗いトンネルの闇の中にいました。70歳の時ようやく外に出ました。今は71歳になりました。

 今回きたやまおさむさんお著作「むなしさ」の味わい方(岩波新書)を読んで、わたしは52年間も「むなしさ」を味わっていたのであったと思いました。人生そんなものかもしれません。

 仕事も地域活動も社会参加もうまくいかないことばかりです。焦らず「むなしさ」を敵視せず、自分のペースで乗り越えてみます。
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 脳ドックの医師は精神科医ではないでしょうが、「ヨットは脳幹トレーニングにはいい」と言われました。今年はヨットのほかにSUPも習います。「71の手習いです。主たる目的は、今の居住地域(海抜0Mの二葉町)は、南海トラフ地震が起きたら水没します。地域の防災会長としてSUPで住民の安否確認をしますので、基礎からの習いが必要だからです。

 自分の限界、体力と気力の衰えを思い知らされた2024年でした。悪いことではありません。できる範囲内で、やるべきことはやり続けます。

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2019.11.04

長者キャンドルナイトへ行きました。


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 2019年11月2日ですが、下知の有志と知人で、二葉町が地域間交流しています仁淀川町長者の「キャンドルナイト」へ4人で行きました。私が慣れない車を運転していきました。
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 午後2時頃に二葉町を出ましたが、3連休なのか市街地も郡部の道路がやたら混んでいましたね。時間がかかりました。4時前に長者の会場に到着しました。既にお店も出ていましたし、お腹もすいていたので、お寿司やお餅や空揚げを買いました。同行した荒木さんと吉本さんはビールや焼酎を飲んでいましたが、私は運転手なので、持参したノン・アルコールビールを飲みました。

 だんだんクラブの西森勇喜会長と岡崎守信副会長にもお会いしました。たくさんのお客さんが来られ忙しそうでした。ステージでは次々と音楽や太鼓やダンスなどが演じられていました。
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 わがチームの吉本豊道さんが、キャンドルに火をつけていました。j日が暮れて暗くなるとキャンドルが映えてくるものですね。日没とともにキャンドルは綺麗でしたが、寒くなりました。皆でたらふく食べて、飲んで帰りました。楽しかったです。
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 帰りの車の中でラグビーW杯では南アフリカがイングランドを破り3度目の優勝をしましたことを聞きました。
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2019.08.16

74回目の敗戦記念日


日本新聞
 8月15日は、かつての日本帝国が全世界相手に無謀な世界大戦を仕掛け、無残に敗北した74回目の敗戦記念日です。日本国民だけで310万人の戦没者を出しました。

 東日本大震災の犠牲者は2万人。阪神大震災の犠牲者は6600人。自然災害の犠牲者を遥かに上回る犠牲者を出したのが戦争災害でした。

 8月12日に放映されましたNHKスペシャル「かくて“自由”は死せり ~ある新聞と戦争への道~ 」を録画していましたので、じっくり見ました。

 http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20190812

 アジア近隣諸国だけでなく、欧米列強を相手に、戦力や国力が劣る日本帝国が無謀な戦争を仕掛け、敗戦が濃厚になっても戦争を辞めることが出来なかったのか?わたしは常に疑問でした。

 靖国神社の遊就館の展示を見学しましたが、戦争展示は日清戦争、日露戦争までで、太平洋戦争(靖国神社の表記は大東亜戦争)になると戦争ではなく、自己犠牲を前提とした特攻兵器の展示ばかりで、まともに展示品を見ることはできませんでした。

 大正デモクラシーを謳歌し、政党政治や普通選挙により、軍縮と市民社会の成長により、国民経済の成長に舵を切っていた日本が何故「転落」したのか?大いなる疑問でした。

 作家司馬遼太郎氏も戦争体験者として独自の見解を述べていました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21875235/index.html

 (ブログ記事「司馬遼太郎氏の帝国主義論」)

 戦前の日本帝国を「調子狂い」に貶めた勢力に「日本新聞」の存在があったようです。「異論を認めず。排除し、軍部と結託し、国民の自由と人権を簒奪した歴史がありました。

「なぜ日本人は、戦争への道を歩むことを選択したのか。これまで"空白"だった道程を浮かび上がらせる第一級の史料を入手した。治安維持法制定時の司法大臣・小川平吉が創刊した戦前最大の右派メディア「日本新聞」である。」

「1925~35年に発行された約3千日分が今回発見された。発刊当時、言論界は大正デモクラシーの全盛期。マイナーな存在だった"国家主義者"は、「日本新聞」を舞台に「デモクラシー=自由主義」への攻撃を開始する。同志の名簿には、後に総理大臣となる近衛文麿、右翼の源流と言われる頭山満などの実力者が名を連ねていた。国内に共産主義の思想が広まることを恐れた人たちが、日本新聞を支持したのである。」

 記述を読むと、ナチスのような活動をしていたことがわかります。

「さらに取材を重ねると、日本新聞は地方の読者に直接働きかける運動を展開していたことも明らかになってきた。そして、ロンドン海軍軍縮条約、天皇機関説排撃など、日本新聞が重視した事件がことごとく、社会から自由を失わせ軍の台頭を招く契機となっていく。知られざる日本新聞10年の活動をたどり、昭和の"裏面史"を浮かび上がらせる。」

 今日は、74回目の敗戦記念日。再び形を変えた「調子狂い」の人達が台頭しているやに思えます。国民主権と基本的人権の重視、平和主義の日本国憲法を破壊し、敗戦前の国家主義国に日本国を戻そうという動きです。

 そんなことを言うのは「危機意識が欠如」しているとしか思います。南海トラフ地震や首都圏直下型地震の脅威はあf理ます。日本は地震大国です。また火山大国・噴火大国です。台風災害。大雨災害も多い。日本は「災害大国」なのです。

 その上に再び「戦争災害」を引き起こしてはいけないと思います。
 日本国の現代史をきちんと勉強すれば、日本新聞が影響与えた1925年から1945年の20年刊がいかに異常な時代であったかわかると思います。

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2017.05.03

没後20年司馬遼太郎展へ行きました。


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 2017年5月3日は、午後から父を介護予防通所サービスへ送り出してから家内と2人で徒歩で行きました。憲法記念日なので、「憲法施行70周年県民の集い」へ参加したかったのですが、終了時刻が16時半との事。16時には自宅にいませんと両親をデイサービスから引き取れませんので断念しました。

 それで高知県立文学館で5月25日まで開催中の「没後20年司馬遼太郎展 21世紀”未来の街角”で」を見学しに行きました。こちらは商店街の騒がしさとは無縁で、司馬遼太郎さんの世界を堪能できました。

 義母より1年前の1996年に司馬遼太郎さんはご逝去されています。多くの歴史小説を出筆されておられます。私も何冊か読みました。

 また晩年には「この国のかたち」という随筆や対談集を出されました。ご自身の戦争体験や、歴史から見た現代社会のあり方を鋭く問いかけています。

 個人ブログに「司馬遼太郎氏の帝国主義論」というカテゴリーにまとめて見ました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21875235/index.html

 展示の中にありました「この国のかたち」に印象に残る言葉を残されています。


「統帥権の無限性」

 これは4年前に愛媛県松山市の坂の上の雲ミュージアムの展示室で購入した評論「「昭和という国家」(司馬遼太郎・著・第1刷1999年第23刷2012年刊・NHK出版)を讀んだ感想を書きました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-e9b9.html

「日本という国の森に、大正末年、昭和元年くらいから敗戦まで魔法使いが杖をポンとたたいてのではないでしょうか。

 その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略あるいは国内の締め付け、これらは全部変な、いびつなものでした。

 魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略が現れ、太平洋戦争も現れた。」

 司馬遼太郎が、軍部官僚の「統帥権」という、正義の体形が充満して、国家や社会を振り回していた、”昭和という時代”を骨身に軋むように想いで「解剖」する。日本のあすをつくるために。」と書かれていました。

 また「雑貨屋の帝国主義」という表現も鋭く的確です。

”雑貨屋”の帝国主義


 「この国のかたち」にきちんと説明されています。

「「なぜ、日本は、勝利後、にわかにづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した海軍にもどさなかったのか」ということである。

 日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかったことは、「坂の上の雲」(文藝春秋刊)を書いた私としては、十分わかっているつもりである。
 ロシアのウラジオストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されてくる大艦隊と戦うためには。やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要にせまられて、日本は開戦前、7,8年のあいだに、世界有数の大海軍を建設した。

 ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるだろうといわれた。」(P37)

「大海軍とはいうのは、地球上のさまざまな土地に植民を持つ国にしてはじめて必要なものとなる。

 帝国というのが収奪の機構であるとすれば、16世紀の黄金時代のスペインこそその典型だった。史上最大の海軍が作られ、大艦と巨砲による威圧と収奪、陸兵の輸送と各地からの収奪物の運搬のためにその艦船はあらゆる海に出没した。

 16世紀末、その無敵艦隊をイギリスが破って、スペイン的な世界機構の相続者になり、機構をみがきあげるのである。

 当然、イギリスは大海軍を必要とした。蒸気機関の軍艦になってから世界の各地に石炭集積所を置いたために、港湾維持のための支配や外交がいよいよ精密化した。

 しかし、日露戦争終了の時には、日本は世界中に植民地などもっていないのである。」(P38)

  中略

「 しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは。タオル(それも英国製)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるのだろうか。」

「また、朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることだったのか、ということをだれも考えなかった。

 その後の、”満州国”(昭和7年・1931年)をつくったときも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけでもなかった。」(P43)

「(中略)・・・・・・。

 日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。この商品がこれ以後、華北に無関税で入るようになった。このため、上海あたりに芽を出していた中国の民族資本は総たおれになり、抗日への大合唱に参加するようになった。翌年、日本は泥沼の日中戦争に行ってします。

 ”満州”が儲かるようになったというのは、密輸の合法化という右のからくりのことをこのモノはいうのである。その商品たるやー昭和10年の段階でもなお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。

 このちゃちな”帝国主義”のために国家そのものがほろぶことになる。1人のヒットラーもで出ずに、大勢でこんなばかな40年を持った国があるだろうか」(P46)

 司馬さんは「坂の上の雲」を書いたときに、戦争と言えるのは日露戦争ぐらいだろう。アメリカの仲裁があって辛勝した戦。日本海海戦は何故勝利したかの分析も何もない。無残な後日の敗戦は、その頃から準備されていたのですから。

 安倍晋三首相が「2020年に日本国憲法を破棄し、新しい憲法をこしらえる」と記者会見で吹聴しました。一体改憲論者は何を目指すのでしょうか?「雑貨屋の帝国主義」なのか「統帥権の復活」なのか?しかしそれはありえない。今上天皇陛下御自身が「平和国家建設」の強い意志で行動されています。少し考えたらわかることです。

 今回の文学館の展示では、16世紀、19世紀、21世紀と分けられ、作品の背景の解説がされていて、司馬文学の全貌がよくわかる展示になっていました。2時間近く展示を見ましたが、とても見ごたえがあり、感銘しました。
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 戻りに販売コーナーで「日本人への遺言」(朝日文庫・1999年刊)を購入しました。亡くなる直前までの対談集で貴重です。ゆっくり読んでみます。
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2013.05.29

「昭和という国家」を読んで

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 5月19日に愛媛県松山市にある「坂の上の雲ミュージアム」へ見学に行きました。ひととうり展示物を見て、出口付近の売店で「昭和という国家」(司馬遼太郎・著・第1刷1999年第23刷2012年刊・NHK出版)を購入しました。

 「司馬遼太郎 対談集964-1974」や「この国のかたち」などの司馬遼太郎氏の講演集や発言集は、わたしの最近の愛読書になっています。発言が実に的確で、敗戦体験者としての悔やみと、日本歴史への探訪の想いを感じるからです。過去に司馬遼太郎氏の作品と言えば「竜馬が行く」「坂の上の雲」「飛ぶが如く」「花神」」「覇王の家」などを読んではいました。

 陸軍戦車部隊の将校で北関東で敗戦を迎えた司馬遼太郎氏。当時どうしてこんな「戦争にすらならない。負け戦の連続でしかない」「しょうもない戦争」をなぜ我が国はやってしまったのか。その謎を解明するために司馬遼太郎氏は、日本の歴史を探索し、書籍を集め読み、日本各地に出かけて取材をし続けました。

 江戸時代や幕末、維新や明治中期の時代を描いた作品は躍動感があります。しかし「昭和」をテーマにした作品はありません。それだけ「重く」のしかかっていたのでしょう。

 「魔法の森の時代があった」と司馬遼太郎氏は言い切ります。特に昭和10年から20年までの日本は異質であり、それまでの日本とは全く異なっていると。幕末維新期や明治の時代を語る司馬遼太郎氏は、「昭和」の時代を語ると重苦しい口調になります。

 本のカバーにこう書かれてありました。

「日本という国の森に、大正末年、昭和元年くらいから敗戦まで魔法使いが杖をポンとたたいてのではないでしょうか。

 その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略あるいは国内の締め付け、これらは全部変な、いびつなものでした。

 魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略が現れ、太平洋戦争も現れた。」

 司馬遼太郎が、軍部官僚の「統帥権」という、正義の体形が充満して、国家や社会を振り回していた、”昭和という時代”を骨身に軋むように想いで「解剖」する。日本のあすをつくるために。」

 これほど「重たい言葉」を司馬遼太郎氏が述べるとは正直思いませんでした。俗に「司馬史観」の信者は多いのでしょうが、「昭和」についての重々しい言葉を知っているのでしょうか?

 江戸時代は鎖国をしていましたが、全国に300藩あり個性的な多様な社会のようでした。寺小屋が普及し、識字率は高く、武士も教養がありました。それゆえ一度近代化の方向へ向くと一気に突っ走れた。江戸の時代があればこそ、明治の近代化は可能でした。

 ただ近代化するにつれ、明治政府は江戸の良さをことごとく破壊しました。幕末維新の革命期を知る元老たちがいなくなると、日本社会はだんだんつまらなくなり、1945年の惨めな敗戦に転落していきます。

 司馬遼太郎氏はその原因をいくつかこの本のなかで述べています。

1)日露戦争の分析を客観的に全く行わなかった。アメリカの仲裁で辛勝したのに、きちんとした分析をしなかったが故に思い上がった。他国との戦力比較もきちんとされずに戦争ばかりする堕落した国に転落した。

2)大日本帝国憲法は、プロシャの憲法を模倣してつくられた。この憲法にも「統帥権」があり、権力が暴走する歯止めがなく、昭和の時代になって軍部の暴走―破滅につながった。

3)市民の民権に足場を置く中江兆民の登場が遅すぎた。幕末期の思想が貧弱な尊王攘夷論だけであったのが残念。幕末維新期に草莽の人たちが、ルソーの民権論を読んで活動しておれば歴史は異なっていただろう。

4)日本人は「自己解剖の勇気」を持たねばならない。アメリカは第2次世界大戦後、戦史の編纂を民間人に任せ、かまわない資料を軍が渡して徹底的に分析しました。日本人はそういうのが昔から苦手なようですね。

 今の時代では福島第1原子力発電所の事故がどうして起こり、また懸命な関係者の努力にもかかわらずなぜ収束しないのか?その原因究明もいまだに不十分です。にもかかわらず外国に原子力発電施設を売り込むという安倍首相の神経がわかりません。

5)日本のジャーなリズムは昔も今も、日本国を解剖するという視点での報道も記事もなかなか書けないのではないか。

「日露戦争が終わったあと、それほど高度に発達したジャーナリズムではなかったけれども、日露戦争は実際にどうだったのかと、追求する能力があったらですね、太平洋戦争は起こらなかったかも知れません。

 日本はよくやった。兵士たちは勇敢に死んだ。しかし、あれは危ういところでいろいろ政治的に手を打ったからよかった。決して日本が強かったわけではないんだと。

 海軍の日本海海戦の勝ち方にしても、こういうデータがあったから勝ったのだということを、クールに客観視して、自分を絶対視せずに相対化するジャーナリズムがあったらなと思うのです。新聞、雑誌だけでなく、個人の筆者でもいいのですが。

 そういうレベルの議論があれば、太平洋戦争は起こらなかったと思いますね。日本軍は満州事変以降自己を絶対化して国を誤っていくわけです。」(p324[自己解剖の勇気」)

 そして2013年は、日本、韓国、中国の本当に愚かで浅はかな政治家たちが、相手国への思いやりのひとかけらもなく、口汚い聞くに堪えないののしり合いをしています。
 
 現在日本国憲法を改正し、「戦争が出来る国」にしたい人たちは、司馬遼太郎氏の次の言葉をよく反芻すべきでしょう。

「昭和史をもし私が書くとしたら、半分は戦争のことを書かなくてはなりません。戦争というものはですね、やったりやられたり、いわば対等の競り合いで会って、一方的にやられるようなことをなぜ始めたんだという思いがあります。

  中略

 海戦らしい海戦もありません。力不足という言葉も当らないですね。要するに力のかけ離れた相手とやっているわけですから、戦争らしい穴埋めをするのはアクロバットをやる以外に方法はなかった。

 パールハーバーの奇襲は戦争というより、アクロバットであります。ちゃんとしたリングの上の戦いなら、あとに禍根は残りませんが、パールハーバーは今でもいろんな禍根を残しています。

 それから末期の状態になると、特攻隊でした。青年達に下士官の軍服を着せて飛行機の乗せ、未熟な操縦技術ながら敵に体当たりさせた。

 戦争という物理現象のなかの穴埋めを肉体でさせた。そういう非常手段をさせた。戦争はよくないことは大前提です。そして特攻に行った青年はいい男だったと思います。しかしそれを戦術として考えたことは断じておかしい。

 戦争をやるんだと、昭和1ケタから勢い込んできた人たちがいました。ところが彼らにやらせてみれば何のこともなかった。戦争というかたちさえとれなかった。

   中略

 つまりは日露戦争は戦争だといえるのですが、太平洋戦争が戦争だったかと。つまり大変変なものだったのです。」(P227)

 そして司馬遼太郎氏は、こう言っています。

「日本は、国際社会の中で、つまり明治以降、よくここまでやってきたとは思います。太平洋戦争のような大きな失敗があり、アジアの諸国にずいぶん迷惑をかけ、後々まで、ものを考える日本人は少しずつ引け目をもって生きていかなければならなくなった。

 それだけのことをやってしまったわけです。しかし、それもこれも入れて、なんとかやってきたことは言えそうです。

 これから世界の人間としてわれわれがつき合ってもらえるようになっていくには。まず真心ですね。

 真心とは日本人が大好きな言葉ですが、その真心を世界の人間に対して持たなければいけない。そして自分自身に対して持たなければならない。

 相手の国の文化なり、歴史なりをよく知って、相手の痛みをその国で生まれたかの如くに感じることが大事ですね。

 いろいろな事情から、国家行動とか民族的な行動が出てくるものだと、社会の現象も出てくるものだのだと、いろいろな事情を自分の身につまされて感じる神経ですね。そういう神経を持ったひとびとが、たくさん日本人のなかに出てくることによってしか、日本は生きていけないのではないか。」(P328)

 この最後の言葉を、現在の日本政府閣僚や思い上がった挑発的な言動を繰り返している政治家に聞かせてやりたいと思います。

 きちんと日本の歴史、アジアの歴史、世界の歴史をきちんと勉強して、相手国の事情に謙虚に耳を傾むけるリーダーを日本国から輩出させないといけないと強く思いました。

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2013.05.13

司馬遼太郎氏はラジカルな人でしたね

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 「司馬遼太郎全講演1 1965-1974」(朝日新聞社・2003年刊)をようやく読み終えました。文庫本でしたが、内容が濃く、私にとっては従来の世界観が覆るほどの内容でした。

 あとがきの解説を作家の関川夏央氏がされています。「思想嫌いの思想」と言う文章も秀作でした。この講演集は40代の司馬遼太郎氏の発言集です。その見識と歴史に対する造詣の深さに驚き続けました。

 「大衆歴史小説家」という評価をしていましたが、なかなかどうしてラジカルな人であると思いました。関川氏もこう書いています。

「子供の時からお酒を飲みつけていて、お酒をしょっちゅう飲んでいるような人は、お酒が切れるとだめですね。アルコール中毒と同じで、いらいらしてしまう。

 イデオロギーもそうですね。違うお酒が必要なんです。日本人のそういう心理の中で、戦後のマルキシズムが果たした役割があります。」(「うその思想」)

 司馬遼太郎は、ヨーロッパ世界のキリスト教原理も、東アジア儒教も「飼い馴らし」の原理といった。当時日本では高く評価する向きがあった文化大革命と紅衛兵に冷静な批評的発言をし(71年)、日本人のほとんどが心情的に加担した南ベトナム民族解放戦線に対しても、「歴史や政治的正義はそこまでは崇高ではない」(「人間の集団について」-ベトナムから考える)」と言い切ったのである。73年と言う時代相を考えれば、これは果敢な発言であった。」(P402 「解説「思想嫌い」の思想」)

 またその後の司馬遼太郎氏の後半生は、関川氏はこう総括されています。

「日本人は原理や思想を持たぬことを恥じるな、ひたすら現実を見据えてリアリズムで生きよ、ということに尽きた。

 司馬遼太郎の後半生は、大陸とヨーロッパに日本が抱いていた気おくれをとり去り、島国文化の闊達さを再発見させることに費やされといえる。」(P403 「解説「思想嫌い」の思想 関川夏央)

 今安倍政権が、憲法を改正して「天皇を元首にする」なんていうことを主張しておりますが、司馬遼太郎氏によれば、それは極めて不自然であるということになります。

 歴史上で天皇は軍も持たず、無力で神主のような存在。京都御所もお城ではなく、城塞ではありませんでたが、応仁の乱のときにも荒らされず、焼き討ちにも遭いませんでした。

「無防備な、無力であった600年の間に、天皇の本質はほぼ定着したと思うのです。
 天皇の本質とは、繰り返し申し上げますけれども「誰よりも無力である」ということであります。

 つまり皇帝はおろか、王ですらなく、天皇家はずっとその家系が続いてきたことになります。

 ところが明治維新を迎え、天皇の本質が変わっていきます。これはむしろ天皇にとって非常に不幸だったのではないか。このことについてひとつのエピソードがあります。

 大正天皇のご生母で、柳原二位局(やなぎはらにいのつぼね)という方がいらっしゃいまして、この方は実家が公家でした。

 公家ですから、在来の天皇の本質というものを、皮膚感覚で知っておられたのでしょう。

 自分の旦那さんである明治天皇が軍服を着て、サーベルを吊って、白い馬に乗っているのをごらんになり、おっしゃったそうですね。

 「ああいう恰好をしていては天皇家の将来も長くはない」

 明治国家の要請ということがありました。天皇が憲法上の権力を持ったということをこのエピソードは鋭く風刺しています。」(「天皇は再び御門の本質に戻った」)

 「600年にわたって天皇はたんなる御門(みかど)でしかなかったのに、「皇帝(エンペラー)」という、いわば大変に血なまぐさいにおいのする呼称をいったい誰がつけたのか。

 私はずいぶん調べましたが、よくわかりませんでした。おそらく中国皇帝が隣にあって、ドイツ皇帝、フランス皇帝もある。幕末から維新にかけての情勢を考えてみると、この3つの存在が発想の刺激になっただろうと思うのであります。」(P347「天皇は再び御門の本質に戻った)

 幕末維新の功労者である薩摩藩の藩主島津久光は、教養のあるひとでした。特に漢学に優れていました。明治の天皇制についてこう述べたと司馬氏は言います

「皇帝という呼称は、日本の国有の呼称ではない。
 このことは「日本書紀」や「古事記」を読めばすぐわかる。皇帝と言う呼称を考えた人々は、中国的教養や西洋的な素養だけを持っている人である。

 この呼称を法制化したことは非現実的であり、滑稽であり、いまの時代の風潮は憎むべきである。」(P348)

 司馬遼太郎氏は、明治以降1945年の敗戦までの80年間が日本史の中での「異常で特異な時代」であるとも言われています。そして敗戦後日本は本来の姿に立ち返ったと言います。

「日本は太平洋戦争に破れたあと、新しい憲法によって新しい国家が成立したと考えてよいですね。
      中略

 「エンペラー」という言葉については、島津久光ではありませんが、私が今まで見てきたことを考えても、きわめて日本的ではないという感じがしています。

 「天皇とは御門(みかど)である。日本でもっとも無力な存在であることが本質であり、そのために長く続いてきたのだ」(P350「天皇について」)

 司馬遼太郎氏の講演の言葉を長々と引用しましたが、日本の歴史の「本質」をずばり言われています。

 2013年になって、安倍自民党政権は「天皇を元首にする」だの「憲法を改正する」と元気よく言い立てています。司馬遼太郎流に言えば「それは日本の本質ではない。自然体ではない体制であり無理がある。」「体制維持に無理があるから、人々を抑えつけようとする」

 イデオロギーや宗教や思想と無縁な現実主義者が日本人の本質。それを忘れてはいけないなと思いました。

 私の身勝手である考え方「面白いか、面白くないか」の判断基準の中に司馬遼太郎氏のラジカルな考え方を取り入れようと思います。だいたい説明がつきますね。高校生時代にこの本を真剣に読んでいたら、必要以上に過激な社会思想に傾倒しなかっただろうし、高校も留年しなかったと思います。後悔先に立たずではありますが、これから「正しい人生」「正しい歴史観」で生き抜いていきます。

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2012.01.19

日本は「シーレーン防衛」はすべきではないのか

  中国が経済成長を背景に、軍拡を推し進め、ついには空母まで保有する事態になりました。海軍力は海外市場や交易国との「シーレーン」を守る為には必要な軍事力です。

 中国はアジア各地で石油採掘権や天然資源の争奪戦に参加し、強引に自国の影響力を行使しようとしています。最近では経済力を背景に軍拡に走り、「第1列島線」戦略をとり、あきらかな領海侵犯を繰り返しています。

 中国は@確信犯」であり、自国の利益と権益のために軍事力を行使するという「赤い帝国主義国」になりました。
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 これを中国が強引に押し出してきて、日本が「甘い対応」をしていますと、沖縄まで中国領土だといいかねません。また日本の石油資源や輸出品の輸送路である「シーレーンも」中国に生殺を握られることになります。

 今まではアメリカ頼みでよかったんですが、アメリカもかつての勢いがなくなってきました。そうなると日本は海軍力を増強させ、中国の脅威にきちんと対応する必要性があります。

 かつて司馬遼太郎氏は著作「この国のかたち」のなかで、「雑貨屋の帝国主義」を書いています。日露戦争後は、日本海軍の官邸は半減させ、軍縮し、民生への投資をすべきであった。植民地経営は島国根性の日本人は無理だから、アジア諸国を独立させ、そことの交易でいきるべきであったと。当時は海軍力で守るべき市場も交易品もなかったんだと。 ブログでもそのあたりをレポートしました。

 "雑貨屋”の帝国主義

  日本は「守るに値しない:植民地防衛のために、身分不相応の海軍力を保持し、国力を疲弊させた挙句、世界大戦を引き起こしてしまいました。いまは当時より遥かに大きな経済力を有しています。調達品ければいけない産品は世界にあり、輸出立国で生計を立てています。

 身勝手な中国から「シーレーン」を守る為に、日本は海軍力を強化すべきであると私は思います。

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2010.05.12

「歴史を動かす力」を読んで

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「歴史を動かす力 司馬遼太郎対話選集3」(文芸春秋社・2006年刊)を書店で購入して読みました。司馬遼太郎氏の独特の歴史観や戦争体験者ならでの厳しい戦争観なども好感が持てます。

 以前「この国のかたち」を読みました。日本の行く末を心配し、遺言のような随筆でした。

 参考ブログ記事 「この国のかたちを読んで」

 この本に収録されている対談相手は、海音寺潮五郎・志母澤寛・朝尾直弘・江藤淳・奈良本辰也・橋川文三・芳賀徹・大江健三郎(敬称略)。文学者もおれば,歴史学者もいるようです。

 司馬遼太郎氏は、いわゆる左翼的な無機的で単純な歴史観を嫌っています。彼なりの歴史考証や分析で時代を読み取っていくのです。

 海音寺潮五郎氏との対談「天皇制とはなにか」のなかで、司馬氏は「非日本的な明治以後」と言っています。

司馬「マッカーサーが,天皇様に、「わたしは人間である」といってもらったのはきわめて政治的なことで、史的真実から言えば、やはり神です。神であるがために,人民に無害でした。」(P12)

海音寺「天皇家が政治の中心として実際に政治をなすったのは、天智天皇から平安朝の仁明・文徳天皇くらいまでですね。」(P13)

司馬「浮世の実権者として「皇帝」であろうとした後醍醐天皇などがいますが、つまり後醍醐天皇は宋学に影響されて政治の独裁者としての皇帝になろうとした。しかしそういう天皇が出てくると,日本ではかならず乱が起こっている。日本的自然の姿でないからでしょう。

 そこで明治以後の天皇制は,結局,土俗的な天皇神聖観というものの上にプロシア風の皇帝をのっけたもので、きわめて非日本的な,人工的なものです。そうすると日本の天皇さんが皇帝だったのは明治以降八十年間に過ぎないわけで、ながい日本史から見れば一瞬の間です。

 左翼用語でいう天皇制というのは,敵としての幻想や幻影を加味したもので,魔物を魔物らしく仕立てるために,事実性から浮き上がらせてデフォルメしているところが多い。

 そういう多分に作られた「敵像」を通じて日本史を見るという態度は,左翼も捨てたほうがよいと思います。」(P14)

 適切な分析と指摘であると思います。「寄生地主制の天皇制」であるとか、「天皇制ファシズム」という新旧左翼の規定では,日本歴史の正しい姿は見えてきませんでした。

司馬「・・中略。一君万民思想でございますね。結局土佐あたりの侍,郷士ですが、これは百姓か侍か判らないような階級ですが、ここから出てきた人達が彼らを抑圧している階級社会を打ち破るには、天皇をかつぐしかないわけです。

 天皇の元では,将軍,大名といえども民の一人ですから,平等という論理がみごとに出来上がる。天皇を中心にすれば,デモクラッシーでも可能であるというところが、きわめて他の国の歴史における皇帝・王家と違うところです。

 1君万民思想というのは,幕末にあって非常に強いエネルギーをもってきておりますですね。」P32)

海音寺「そうですよ。百姓,町民の中からまで志士がでてというのは、主として一君万民に対する魅力でしょう。
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(高知市桂浜に立つ坂本龍馬像。市井の人民の1人でありました。日本を大きく動かした人物の1人です。その行動力にひかれ、昭和の初期に土佐の青年たちはたちあがりこの龍馬像をこしらえました。

 参考ブログ記事「忘れえぬ人々」を読んで

 維新運動の大効果は2つですね。1つは日本が統一国家になったということ。ヨーロッパはではずっと前に封建制度を脱却して統一国家になったのだが、日本は鎖国のために大分遅れた。それが維新運動の第1目標である日本強化を追及している間に,廃藩置県にたどりつき,統一国家になった。

 もうひとつは、廃藩置県によって,日本人の社会は市民社会になったこと。一君万民という形でね。ヨーロッパはそういう条件のつかない市民社会ですが。

 ともあれ統一国家となり、市民社会となって,日本は初めて世界歴史の本流と合致したのですね。」(P33)

 2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝での志士たちの社会的背景が述べられています。坂本龍馬も武市半平太も,岡田以蔵もみな志士になる社会的根拠があったのです。

 また司馬遼太郎氏原作の「坂の上の雲」の登場人物達の意識も、幕末ー維新期の激動期を経て統一国家日本の先頭に立ち,各分野で頑張り業績を上げる姿を描いています。

 また今日の日本につながる問題も幕末期に出てきています。そのあたりも注目すべきです。

司馬「(中略)その非常なる危機意識と言うのは,日本人の癖ですね。(笑)。

 これはとにかく中国という大国を控え、沿海州を通じてロシアを控え,海の向こうにアメリカをひかえて、そんなにいくつもの大国に挟まれた国というのは、どうしても緊張が強いですね。」

海音寺「寛政期の松平定信の執政時代から,延々と危機意識が続くんですからね。それは敏感なわけですよ。そしてまた、あの頃悪いことをするんですからね。北辺にくるロシアなぞわね。」

司馬「ドイツ人も危機意識の強い国民ですが,東にロシアあり,西にフランスありですからね。

 しかしドイツの場合は,国境に要塞をつくると物理的に問題は解決するんですね。ところが日本は,物理的解決ができないワケでしょう。四界海で茫漠として。」

海音寺「沿海に長城を築くわけにもいかんしね。」

司馬「すると危機意識が悲壮感まで高められて、そこからエネルギーが生まれてくる民族になってしまったんですね。だから明治維新ということは、やはり危機意識で極まったわけですね。

 将軍も、その危機意識というすでに時代の公理にまで高められてしまったものの前に屈服し、自己否定し,自らその地位を棄てると言う,歴史では珍しいことをやった。

 徳川慶喜の偉さと言うよりも、それをやらざるをえないところに日本人と明治維新の特異性がある。」

海音寺「そうです。危機意識です。その危機意識を,最近の歴史学者は余り重要視しませんね。

 封建制度の矛盾とか,鎖国経済の行き詰まりとか,百姓一揆とか,打ち壊しとか、そんなことばかり言い立てるんですが、それだけでは革命にはなりませんよ。

 もっと直接的な,強力な,物理的な力ですね。それがないと革命の火はつかんと思いますね。」(P45)

 確かに現代の日本もアメリカ,ロシア,中国という核大国と国境を接している。沖縄問題が悩ましいのは、沖縄に日本人が130万人すんでいるところに巨大でアジア最大の米軍基地があることです。そのことは幕末・維新期よりもっと大変で深刻です。(米国提督のペリーは幕府が開国しない場合は,琉球を軍事占領するつもりでした。ペリーは2ヶ月間琉球に滞在。その間に沖縄本島すべての湾岸を調査し海図をこしらえていたそうです。
 後日二次大戦時に米軍が沖縄へ上陸した際も活用された可能性はあります。)

 沖縄以外の日本人は、米軍基地の脅威と,騒音と,犯罪性を「抑止力」「国益」ですべて沖縄に押し付けて来ました。

 「沖縄から米軍基地をなくそう」という運動が波及してきますと、今まで沖縄の人たちの犠牲で覆い隠されていた日本の危機的な状況が一気に現実味を帯びるのです。
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 日本人全体の問題で,沖縄普天間米軍基地の問題を考えなければならないのは、そういう軍事大国に挟まれた日本の特性です。宿命といってもいい。

 司馬遼太郎氏の歴史観をなぞっていきますと、現代日本が置かれている危機的な状況もよりわかるというものです。

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2010.02.06

"雑貨屋”の帝国主義

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 作家司馬遼太郎氏は、「坂の上の雲」を10年がかりで執筆されたそうです。随筆「この国のかたち」は、今や私にとって、高校生時代の「毛主席語録」と同じで、文庫本(高知駅前BOOK-OFF 105円で購入)を持ち歩いております。

参考ブログ記事「毛沢東思想を信仰していた者として自己批判します

 そのなかで「雑貨屋の帝国主義」(P34)があります。司馬遼太郎氏が強調し、本当に言いたいことが詰められていると思いました。また現代日本はアメリカと中国という大国の間でふらふらしています。

 私が大事な箇所と思っている箇所を引用しました。相当長い引用になります。読書ノートです。一度テキストファイルに打ち出しましたが、パソコンの不調ですべてパーに。気をとり出してもう一度書き出してみました。

 「日本は、日露戦争の勝利後、形相を一変させた。
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(日本海海戦。日本はロシア艦隊を撃破しました。)

「なぜ、日本は、勝利後、にわかにづくりの大海軍を半減して、みずからの防衛に適合した海軍にもどさなかったのか」ということである。

 日露戦争における海軍は、大規模な海軍たらざるをえなかったことは、「坂の上の雲」(文藝春秋刊)を書いた私としては、十分わかっているつもりである。
 ロシアのウラジオストックにおける艦隊を討ち、かつ欧露から回航されてくる大艦隊と戦うためには。やむなく大海軍であることを必要とした。その応急の必要にせまられて、日本は開戦前、7,8年のあいだに、世界有数の大海軍を建設した。

 ロシア海軍はこれによってほぼ壊滅し、再建には半世紀以上かかるだろうといわれた。」(P37)

「大海軍とはいうのは、地球上のさまざまな土地に植民を持つ国にしてはじめて必要なものとなる。

 帝国というのが収奪の機構であるとすれば、16世紀の黄金時代のスペインこそその典型だった。史上最大の海軍が作られ、大艦と巨砲による威圧と収奪、陸兵の輸送と各地からの収奪物の運搬のためにその艦船はあらゆる海に出没した

 16世紀末、その無敵艦隊をイギリスが破って、スペイン的な世界機構の相続者になり、機構をみがきあげるのである。

 当然、イギリスは大海軍を必要とした。蒸気機関の軍艦になってから世界の各地に石炭集積所を置いたために、港湾維持のための支配や外交がいよいよ精密化した。

 しかし、日露戦争終了の時には、日本は世界中に植民地などもっていないのである。」(P38)

「20世紀なかばまで、諸家によって帝国主義の規定やら論争やらが行われたが、初歩的にいえば、商品と資本が過剰になったある時期からの英国社会をモデルとして考えるのが常識的である。過剰になった商品と、カネの捌け口を他を得るべくーつまり企業の私的動機からー公的な政府や軍隊を使う、と言うやり方が、日本の近隣においては、英国はこのやり方をc中国に対しておこなった。

 しかしその当時の日本は朝鮮を奪ったところで、この段階の日本の産業界に過剰な商品など存在しないのである。朝鮮に対して売ったのは。タオル(それも英国製)とか、日本酒とか、その他の日用雑貨品がおもなものであった。タオルやマッチを売るがために他国を侵略する帝国主義がどこにあるのだろうか。
 要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたこととしか思えない。
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 なにしろ、調子狂いはすでに日露戦争の末期、ポーツマスで日露両代表が講和については強気だった。日本に戦争継続の能力が尽きようとしているのを知っていたし、内部に”革命”という最大の敵をかかえているものの、物質の面では戦争を長期化させて日本軍を自滅させることも、不可能ではなかった。弱点は日本側にあったが、代表の小村寿太郎はそれを見せず、ぎりぎりの条件で講和を結んだ。」(P43)
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  ロシア革命勢力の指導者レーニン。日露戦争当時、日本政府は明石大佐を通じ多額の「工作資金」をロシア内の革命勢力に渡していた。きちんと謀略活動もされていたようです。
「ここに大群衆が登場する。

 江戸期に、一揆はあったが、しかし政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかっただろうか。

 調子狂いは、ここからはじまった。大群衆の叫びは、平和の値段が安すぎると言うものであった。講和条約を破棄せよ、戦争を継続せよ、と叫んだ。
「国民新聞」をのぞく各新聞はこぞってこの気分を煽りたてた。ついには日比谷公園でひらかれた全国大会は、参集する者三万といわれた。彼らは暴徒化し、警察署2、交番219、教会13、民家53を焼き、一時は無政府状態におちいった。政府はついに戒厳令を布かざるえなくなったほどであった。
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 私は、この大会と暴動こそ、むこう40年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量にーたとえば参謀本部にー蓄電されて、以後の国家的妄動のエネルギーになったように思えてならない。

 むろん。戦争の実相を明かさなかった政府の秘密主義にも原因はある。また煽るのみで、真実を知ろうとしなかった新聞にも責任はあった。当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい。」(P43)

「また、朝鮮を侵略するについても、そのことがソロバン勘定としてペイすることだったのか、ということをだれも考えなかった。

 その後の、”満州国”(昭和7年・1931年)をつくったときも、ペイの計算はなく、また結果としてペイしたわけでもなかった。」(P43)

「(中略)・・・・・・。

 日本からの商品が満州国に入る場合、無関税だった。この商品がこれ以後、華北に無関税で入るようになった。このため、上海あたりに芽を出していた中国の民族資本は総たおれになり、抗日への大合唱に参加するようになった。翌年、日本は泥沼の日中戦争に行ってします。

 ”満州”が儲かるようになったというのは、密輸の合法化という右のからくりのことをこのモノはいうのである。その商品たるやー昭和10年の段階でもなお人絹と砂糖と雑貨がおもだった。

 このちゃちな”帝国主義”のために国家そのものがほろぶことになる。1人のヒットラーもで出ずに、大勢でこんなばかな40年を持った国があるだろうか」(P46)

 文中引用のなかで「太字」の箇所は、わたしが特に印象に残った言葉を強調するために引きました。とてもわかりやすい表現であり、日本型「帝国主義」の本質を的確に現していると思いました。

 まさに司馬遼太郎氏の「帝国主義論」であると思います。それも「日本帝国の特色」を鋭くえぐり出し、「雑貨屋の帝国主義」と一言でその本質を言い当てています。歴史を振り返ればまさにそのとおりでした。

 左翼的な日本帝国主義論よりも遥かに的確。「目から鱗」の感覚でありました。

 司馬遼太郎氏の言う、日本の植民地経営が「ペイ」するかどうかを当時冷静に分析し、「ペイしない」と言い切っていたのは石橋湛山氏のみでした。

 参考ブログ「いでよ平成の石橋湛山」

 石橋湛山は「台湾と朝鮮と樺太の植民地経営に費やす費用(維持管理費)が過大であり、上がる収入を遥かに上回っている。世界的潮流の民族独立の機運を日本は助け、日本はその旗手になり、独立国相手の交易で経済を交流すべきである。植民地を放棄すれば、余計な軍備は縮小できるし、他の民生分野に再投資ができる。」

 大正8年に石橋湛山は主張していました。そのような先達者がいながら、日本は「軍拡日本」に奔走、1945年の破滅に向かい突き進みました。
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