何年経過しても悔しい思い出 ようやく克服
3月1日は高知県下の県立高校の卒業式です。わたしは1972年3月1日には卒業できず、翌年の1973年3月1日に卒業できました。つまりは高校を落第し、1年通学してなんとか卒業したという、情けなく苦い思い出です。
その原因は「7割は私の責任」でありますが、「3割は高校教師側の責任」ではないかと今でも思います。苦い思い出の25年後に上の子供がある県立高校へ入学、31年後に下の子供も県立高校へ入学しましたが、幸いなことに、私の高校生時代に私が悪態をついた教師に遭遇しませんでした。良かったです。(もしいたら悪態をつき、子供たちに迷惑をかけていたと思われます。そうならずに良かったです。)
もう54年も前の「出来事」ですが、つい昨日のように思い出し、悔しい思い出が蘇ります。
先日当時高校生時代同級生であったという女性から「担任の先生はお亡くなりになりました。」とか聞きました。54年も前のことですから、当時30歳代であった教師も80歳代半ばを過ぎているはずです、亡くなる人たちもいるのでしょう。

その教師は自宅へ来ては「あんたは絶対に卒業できないから自主退学してほしい。男なら大検で大学進学すべきだ。」との賜った教師でした。母は激怒し「この息子を留年させ大学へも行かせます。」と言いましたが、「お母さんそれは絶対に無理です。」と言い2度と現れませんでした。
留年が確定した1972年の2月は「あさま山荘事件」がありました。当時「信仰」していた毛沢東思想が崩壊しました。(中学高校時代は毛沢東主義者でした過多。馬鹿でした。)

「あさま山荘事件は、1972年2月19日から28日にかけて、連合赤軍のメンバー5人が長野県軽井沢町の山荘に立てこもり人質を取った事件です。」母の支援を受け励まされ、もう1度高校へ行き留年
高校生時代の友人は、一学年下の【留年したので】同学年の女性二人。当時から「おばさん]」のようなたくましい人たちでしたが、今や「本物の」「最強の」おばさんになっています。母とも親しく母を偲んで自宅に来てくれました。


「あんたは誰のおかげで卒業できたのかわかっちゅうかね。」と今でも言われてています。彼女たちの精神的なサポートは大きかったです。(母のおかげは絶大でしたが、彼女たちガールズの精神的な支援には救われていました。
それで1973年3月1日になんとか高校を卒業し、4月に大学に入学しあるサークルに。こちらも「内ゲバ殺人」が激化する時代となり、社会運動どころでなくなり2年ほどでサークルは解散しました。

しかし名残惜しいのか、そのサークル「同窓会」は53年間も継続しています。不思議なのは、日東駒専の3流私大にもかかわらず10人の同窓生のうち3人はいわゆる「富裕層」になってますから。いずれも大企業の社員ではなく、創業者で会社を育て、業種は違えど創業者利益を上げています。


しかも癌のキャリアでもあり、脳梗塞で麻痺した体になった人もいます。経済力と健康と、家族の愛の3拍子揃った人はいません。私は何時でも貧乏にあえいていますが、とりあえずは健康と家族愛にはめぐまれているので、良しとしましょう。
高校時代に悪態付いた教師たちも死んだというので、こちらも良しとしましょう。
最近には「重信房子がいた時代」「彼は早稲田で死んだ」という2冊のノンフェクション作品を読んで、ようやく長年の鬱々した感情を克服することができました。



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