
以前今は絶版になっていいる 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。2024年のことで、友人が貸してくれました。著者の油井涼子さんは、明治大学2部で重信房子さんの同級生。1967年から68年頃の2年ぐらいの付き合いでしたが、明治大学での学園闘争や文学サークルでの付き合いや、「神田カルチェラタン」で一緒に道路に机を一緒に出して一時的に封鎖したとか、楽し気に重信房子さんとの行動を書かれていました。
一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。
そんなことで、とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。
私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。
考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?
個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、20年以上前から考え続けてきました。なかなか解決しませんでした。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html (連合赤軍と新自由主義の総括)
それで今回重信房子さんの著作を直接読んでみることにしました。

「リンゴの木の下であなたを産もうと決めた」(重信房子・著・2001年・幻冬舎刊)その1を読んでの読書感想文を書いていました。
最終ページにこう書いてありました。
「本書は重信房子本人が、娘メイの国籍取得のために出生届を提出した2000年12月26日から、法務局戸籍係が警視庁に真実出生の有無を確認するための接見をに赴いた2001年3月1日までの間、警視庁留置場で書き続けた法務局宛の上申書である。」とのことです。

昭和20年生まれの重信房子さん。ご自身の生い立ち、家庭環境、家族関係や高校卒業後キッコーマンに入社し、明治大学2部学生になり、学年集会に参加し、学生運動に参加。街頭闘争にも参加しますが、持ち場は常に「救対」。でもで傷ついた学生たちを病院へ運ぶ役割。
ご自身の生い立ちから、成人し学生運動し、党派ともかかわり、赤軍派内部の分裂から、パレスティナに渡り、独自の活動を展開、最大の展開は「リッダ空港襲撃事件」でした。ペレスティナアラブ社会での英雄になりましたが、日本ほかの諸国では「テロリスト(人殺し)」の評価でした。
「リンゴの木の下であなたを産もうと決めた」という本は、娘のメイさんに対して、ご自身の生い立ち、社会運動へのかかわり、パレスティナとのかかわりを語っています。
「アメリカのベトナムでの侵略に反対し、社会正義を求め、」公正な市民社会を求め闘ったことです。日本の私たちの失敗は、当時ごくわずかな人しか、社会運動に-人民の中に帰らなかったことです。

そして”軍事”や”武装”による解決策を万能薬として求めるという焦りや、稚拙さから現実に立ち向かう術(すべ)を、物や技術に求めたのです。武装蜂起することがすべての目的になってしまいました。戦術が目的になって、人々の心を縛りました。
その結果”武装”とか”軍事”とか言わないことは日和見主義だとされる時代をつくります。これらは、ブント(第二次)という組織自体が内包し、赤軍派によって拡大した間違った「攻撃型階級闘争論」によって、日本の左翼運動全体に影響を与えました。連合赤軍の誤りも、赤軍派のこうした誤りの結果と言えます。」と虚心坦懐に振り返ってろられます。
わたしは社会運動の外周にいただけですが、重信房子さんは、結果的に運動の渦の中心におられた人の言葉故に説得力があります。
「30年以上前に、私たちは敗北したのです。
でもその敗北が、元気のない日本をつくっているように思います。”68年世代”が復権し、あなたたちと、歴史を楽しく語れる時が来ると信じています。
母さんたちの世代は、運動の高揚に図に乗りすぎ、人々の社会を変えようという力に真実を求めず、自分たちがどう戦うかに夢中でした。

そして常に社会を変えようと言いながら、対象・他者を批判するだけで、自己を祈願みる視座をもっていませんでした。外因のせいにしながら、敗北と失敗を、それと認めずに,想いだけが水膨れのように膨れていきました。
そうしたことを、当時を振り返りながら反省し、70年代後半に闘いを転換しました。
「自分を変えることなしに、世の中を変え得ない!」
この言葉が私たち自身の70年代の教訓になって、今も私たちに“粋がり”を戒めさせます。」(P71日本では運動の高揚に図に乗りすぎた)
重信房子さんは1971年に少数の仲間と一緒にレバノンに行きます。はじめは義勇兵としてパレスティナ解放戦線(PFLP)として活動を始めました。そして1972年5月30日、イスラエルのテレアビブで空港襲撃を3人の日本人が参加(奥平・安田・岡本)しました。
パレスティナ・アラブ世界では「英雄」になりましたが、イスラエルからは暗殺の対象になりました。連れ合いとなった奥平剛士さんは銃撃戦で亡くなり、翌年メイさんが生まれました。
1982年にイスラエル軍がベイルートに侵攻し、レバノンに住めなくなり、パレスティナに移動し、子育てしていたそうです。1990年にソ連と東欧諸国が崩壊し、アラブ社会への支援が細りました。2020年に日本に潜伏していた重信房子さんは逮捕され、懲役20年が確定しました。
獄中に収監され始めた当初に書籍を書かれたようです。当時はメイさんはパレスティナにおられました。懲役20年ですから20年間は社会に出られません。メイさんが知らない日本社会のことを重信房子さんは語られています。どうしてパレスティナに行ったのか。30ね乗られてどうしておられなくなったのか。日本でどうして20年間牢獄にいなくてはいけないのかを自分の言葉で語られています。
失敗事例や、信じていた理論の間違いも認めています。「歴史の証人」としての貴重な発言であると思いました。
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