書籍・雑誌

2025.04.24

52年目の覚醒


 1972年から2024年まで、52年間「長くて暗いトンネル内」に1人でいました。53年目の今年は爽やかな毎日を過ごしています。
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 4月からNHK連続テレビ小説「あんぱん」が始まり、やなせたかしさんの「ひっくりかえらない正義」が注目されています。5年間の兵隊生活を中国でされたやなせたかしさん。戦争の大義や正義は、簡単にひっくりかえります。

 しかしお腹が空いた人に一口のパンを差し出すと皆が喜びます。それこそが「本物の正義」だとやなせたかしさんは気が付きました。よく理解できます。

 わたしは高校留年時代の2月に連合赤軍事件で衝撃を受けました。信じていた毛沢東思想が崩壊しました。11月には早稲田大学で革マル派により一般学生の川口大三郎さんがリンチされ殺害された事件がおこりました。
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 「正義(革命)を標榜する集団が(セクト)が、些細な意見の違いで、リンチし、殺害するのか?議論での意見交換や論争ではなく、殺傷力のある鉄パイプで暴力を際限なくふるえるのか?」

 私は当時の社会運動の外周の渦に巻き込まれながら、うじうじと1人孤独に悩んでいました。昨年(2024年)2冊の著作本と、出会いがあり、長くて暗いトンネルから脱出することができました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html
(「重信房子がいた時代」を読んで)

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-a3dfc5.html
(「彼は早稲田で死んだ」を読んで)

 重信房子さんは、ごく普通のお婆さんです。また 「彼は早稲田で死んだ」の著者の樋田毅さんには、昨年映画会でお話し、私同様50年間悩んでいたと言われました。

 同じような人がいたんだという「安堵感」はおおきいですね。当時18歳の少年は、あっという間に70歳のお爺さんになりましたから。
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 でも残りの人生はうじうじはしません。「なぜそうなったのか?」「なぜ間違い人殺し集団になったのか?」を解明したい。

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2025.04.21

やなせかたしさんの凄さと優しさ


 今年のNHK連続テレビ小説「あんぱん」は、やなせたかしさんと奥さんの暢さんとの物語で毎回見ていますが、確かに面白い。実話と物語は蚊ナチ違う部位もありますが、「アンパンマン」のテーマや言葉が毎回出てくるし、これはどのキャラキターなんかと考えることが面白い。
やなせたかし経歴1 001やなせたかし履歴2 001
 やなせかたしさんの年表を見ますと、本当に凄いひとです。代表作アンパンマンが世の中に認められ、大ヒットしたのは70歳前事。「遅咲の」も天才でした。

 また最愛の奥さんは74歳で亡くなりますが、やなせたかしさんは1人でそれから20年も生存し、高知県にもいろんな「キャラクター」で楽しましてくれました。
やなせたかしと暢 001やなせたかし・マルチな才能 001
 「漫画甲子園」や「ごめんなはり線の各駅のキャラクター」「防災キャラクター」もあります。高知の「アンパンマンミュージアム」にも関わり、ご自身の想いを伝えています。いまや 聖地になっています。

 お亡くなりになられて、今年で12年目になりますが、業績は色あせず、より多くの人たちが、ドラマで「追体験」されています。
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 大阪万博は「行列で」大変そうですね。高知へ来るのは不便ですが、やなせさんゆかりの地域を歩いてください。自然豊かで人情もありますから。得るものは大きいと思います。

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2025.04.17

「絶望の隣は 希望です」を読んで


絶望の隣は希望・やなせたかし 001
 
。やなせたかしさんと奥さんののぶさんとの夫婦の物語が、」2025年4月からNHK連続テレビ小説「あんぱん」でスタートしました。

 実話をもとにした物語なので、フィクションとわかっていても面白い。こちらも10年ぶりにやなせたかしさんの著作本を図書館で借りました。
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 その中で「絶望の隣は 希望です」(やなせたかし・著・小学館・2011年刊)を読みました。2013年10月に逝去されているので、その2年前に発刊されています。

 「本書は談話をもとに構成したものです。」とあります。やませたかしさんと編集者が何度度か対話しながら録音し、ライターが書き起こし、編集発行されています。

 ご自身の人生を振り返り、率直に話されています。
 東日本大震災の直後の座談でしたので、津波で大きな被害を受けながらも1本の松が残り、皆を励ましている姿にやなせさんは感動し、被災者の人達を励ますために「1本松の歌を」皆で作り。プロの歌手の人達とともにコンサートを現地などで行い、収益金を寄贈されたりしました。
やなせたかし著作・目次 001
 第1章から、第10章の見出しを見ても、やなせたかしさんの人生そのものです。やなせたかしさんは、大正8年2月生まれで,5月生まれの父とウナイ年ですが、早生まれなので1学年上です。

 柳瀬さんは1940年から46年まで徴兵され、6年間過酷な軍隊生活。収容所生活をされました。弟さんは戦死されていました。父も含め大正生まれの男子は多数戦死しています。それだけ生き延びた人たちは長寿です。柳瀬さんは93歳、父は99歳まで生きましたから。

 「父の病死 母の再婚」「戦争で思い知った本当の正義」の過酷な体験のなかから、「アンパンマン」が誕生してきたことが良く理解できます。

 「人生一寸先は光です」という言葉(P225)には、励まされます。 

「実際、40代から50代にかけて、僕は絶望というトンネルの中にいました。自分の歩いている道が見えない。見つからない。同期と思っていた連中が、みんな花形になって飛び立っていき、後から漫画家を目指してきた新人たちにもあっさりと追い抜かれる始末。」)(P227)
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やなせたかしさんは、マルチな才能がありながらも、「代表作」がなく、どんどん年齢を重ねていくことに焦りを感じていました。

私もスケールやレベルも違いますが、高校生時代から70歳まで「長くて暗いトンネルにいた」ことがありましたから。よくわかります。誰でもあるんですね。自分だけではないことがわかります。
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 70歳近くなって「あんぱんマン」が空前のヒットになりやなせさんは報われました。支えてくれた奥さんにもむくいることができました。

 ひるがえって「何物でもない」私は50年のトンネルから出ましたが、未だに何物でもないです。諦めず長生きして、トライを続けます。

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2025.04.13

「定年のデザイン」を読んで

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 3月15日(土曜日)の越前町町の喫茶ギャラリー10月のオーナーの引き合わせで、20年ぶりにお会いした里見和彦さん(展示デザイナー)。20年前はわたしがコミュニュティFM放送の番組を制作し、出演していましたが、その番組「けんちゃんのどこでもコミュニュティ」のゲスト出演していただいて以来の再会でした。

https://kenchan-radio.sakura.ne.jp/dokodemo/gesuto6/satomi.html
(ゲストは高知県立牧野植物園学芸職員展示デザイナーの里見和彦さんです。2005年7月)

 そしてその話を下知図書館でしたら「里見和彦さんの著作本があります。予約しましょう。」と図書館司書の方が言うのでお願いしていまして借りることになりました。「定年のデザイン」(里見和彦・著・リーブル出版・2023年11月刊)を読みました。
定年のデザイン6・4畳半の作業場 001
 里見和彦さんは、年歴はわたしより4歳年下です。偶然にも私が「4年かかって」卒業した高校の後輩にあたります。私大芸大の「早慶」と言われている武蔵野美術大学造形学部卒業。展示デザインを多数手がけ、牧野植物園の展示デザインもされています。大きな業績を上げられた人ですね。

 無芸大食で「ろくでもない人生」を高校時代から50年過ごしてきた「暗い」私の人生とは大違いです。ただ私の子供の一人が芸大へ進学し卒業後、アニメーターになり、その後ゲームの3D動画制作者になりました。分野が違いますが「アート」な人たちの感覚が無骨者の私にはわかりませんので、里見さんの文章を読んで、納得しています。

 「展示デザイン」を注文主の要望を正確に把握し、デザインの力で表現するので、提案力の必要。里見さんは文章力もありますね。説得力があります。

 若いころに注文主から「デザインで表現するな。文章で表現して見ろ」と言われ、それをやり遂げられたとか。凄いことです。

 私生活で離婚があったり、5年ぐらい「鬱」になりデザインの仕事を離れ、地下足袋履いて5年間植物園で現場仕事をされておられたとか。それもまた「得難い体験です。

 再婚なさった奥様と毎日一緒に自宅周りを歩いておられるとか。これもとてもいいことです。
高知市の愛宕地区を仕事前に奥さんとお散歩するのは、とてもいいことです。わたしも足を延ばして、パン屋さんで「ラスク」を購入したり、以前は「整体」にも行っていました。知人も2人住んでいます。(愛宕の周辺の絵地図がとてもいいです。)
定年のデザイン3・愛宕地図詳細 001定年のデザイン愛宕地図1 001

 牧野植物園の絵地図や、植物についてのコメントも「さすが」と思います。とことん牧野富太郎さんの世界をご紹介いただいていただいています。
定年のデザイン5・愛宕商店街 001
 2023年7月に東京の練馬にある牧野記念庭園に行くこともできました。牧野家の自宅であったところを練馬区が記念庭園にしているとか。館内の展示も里見和彦さんが関わられていたとのことでした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-0613a4.html
(牧野記念庭園 2023年7月9日)

 この時は東京の子供と家内と3人で見学させていただきました。当時は連続ドラマ「らんまん」の影響もありたくさんの来館者がおられました。
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 里見和彦さんの「定年のデザイン」を一読して「里見さんはご自身がかかわり表現した各地の展示物が「作品」として形になっています。とても羨ましいです。
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 私の場合は、そう考えると形にあるものは「何もありません。」。何も残すことなく人生終わることでしょう。私とは別物の世界を楽しませていただきました。

 なにか私も「形になるもの」を残したいと思いました。でも思いつきません。

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2025.03.10

「日本の進む道」を読んで

日本の進む道 養老猛・藻谷 001
 下知図書館で借りて読みました。久し振りに図書館で書籍を借りて「完読」しました。最近は本を読んでいない(月に2回ビックコミック・オリジナルを購入して読むだけの生活ので、何年振りかですね。

 父(2018年5月に99歳で逝去)が、生存していて、週に1度、旭のクレッセントというゴルフ練習場に連れて行き、父が125発の球を休み休みながら打つ場合は、待っている間に本が読めました。母が残されましたが、介護度が進み、在宅介護もシビアになっtげいたので、本を読んだことはありません。2022年12月に母が97歳で亡くなった後は、逆に忙しくなり、昨年は眼の手術、入院、養生があり、1年間本は読めませんでしたから。

 前置きが長く成りましたが「日本の進む道 成長とはなんだのか」(養老孟t司・藻谷浩介・対談集・毎日新聞出版)を読みました。
大地震は攻めてくる 001
 完読はしたものの、仕事も珍しく忙しく、読書ノートなど取っていません。細切れな時間に読み切りました。

 昆虫採集学者の養老猛司さんは88歳。藻谷浩介さんは、元はマクロ経済優先者でしたが、自費で日本全国の都市や集落を巡回し、まち歩きをして、国政のゆがみ、経済政策の間違いを鋭くしてきしています。

 共通点は2人とも学部こそ違いますが東京大学を卒業されているところだけ。異色の対談ですね。養老さんは88歳で、8歳の時に敗戦があり、敗戦直後の日本社会を体験なさっています。

 まさに「異色な対談」。まったりした」会話で面白い。

藻谷「どこかが攻めてくるより、大地震が攻めてくる方が遥かに高い。というか前者は飛鳥時代以降は元寇だけで、後者はそれこそ数知れず起きています。」

養老「そう。大地震が来れば日本は金で買われますよ。その時ミサイルを何発持っていても意味がないでしょう。」
大切なのは地震後 001
藻谷「海外の金で日本は買い叩かれる。それを防ぐためにどうすればいいのかをかんがえなければいけないはずですが、目先のブームで防衛を言っていると票が集まると思うのか。そのことに夢中になっていますね。

 東日本震災の後にしばらく皆が口にしていた「事前防災」を少しでも進めておかなくては。正確には過疎地では目に見えていろいろやっていますが、東京では意識自体が消えかかっている。」

養老「岸田総理が防衛費の倍増を打ち出した次の日に、富士の裾野の自衛隊の東富士演習場は、ドカン、ドカンとうるさかった。祝砲を撃っていったんじゃないか。

 それにしても誰に向かって大砲を撃つつもりなんでしょうか。日本は前回の戦争でも本土で戦ったのは沖縄だけです。大砲を撃っている人たちは、どこへ向けて誰に撃つのかわかっているのか。戦車で撃つような事態に名xgつたときは、もう戦争は終わっているのです。」

藻谷「軍事費については、アメリカから旧来型の使えない武器を買わされて、やったふりだけするということになる気はします。」

 雑談ですが、「本質」をついた対談ですね。

 ほかには「大切なのは災後」とも養老さんは言われています。

「本当の問上からものを言ってもダメな社会 001題は災害対策ではなく、その後の復興だと思っています。どういう復興をするのか、どういう社会をつくるのか。どういうシステムを作るかを議論はしておいたほうがいい。その場しのぎでやると」間違えやすいからです。」


 私の関心事に近い事ことを言われています。感心しました。私がやろうとしている「2拠点生活」を真剣に考えたいものです。

 また「100兆円も国の予算を組んでいるのに何故個人消費が伸びないのか」についても議論していますね。
国が100兆円支出するのに何故個人消費が伸びないのか? 001
 アメリカではフロリダにリタイヤしている高齢者は生きているうちにどんどんお金を使います。それで地域経済は潤います。日本は高齢者が「老後に備えて」お金を使わず貯金するから、経済が回りませんね。

 投資がどうのではなく、「楽しくお金を使う仕組み」が上手く日本社会はできていないのでしょう。」

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2025.02.15

「老人力」赤瀬川源平・著を再読

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 ずいぶん昔に赤瀬川源平著の「老人力」(筑摩書房)を下知市民図書館で借りて読んだことがありました。

 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-0ad4.html

 (当時の私の感想文です。個人ブログに書きました。)2010年5月18日
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「老人力という言葉そのものは,路上観察学会の中から発生した。その発生に当たってはその言葉を生み出す場の熟成があったわけで,路上の場での思考や、おこないが,次第に老人力という概念を使わざるを得ないところまで熟しきっていたのだ。」(「老人力の胎動の時期を探る」P94)

 再読しますと次の言葉が気になりました・

「力を抜くには抜く力がいるもので、老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける。」(P46)
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 またある精神科の医師(見立病院 副院長 梅野 一男氏)は老人力を読んだ感想をこう書いていました。(病院のホームページより引用します。)

「ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、『あいつもかなり老人力がついてきたな』というふうにいうのである。そうすると何だか、歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい」というものです。」

「近年の研究で、肯定的な向老意識(老化を前向きに考える姿勢)が、実際に認知機能の低下を抑える(認知症になりにくくする)とする報告が続々と出されています。老化に対して、明るいイメージを持っている人は、そうでない人に比べて認知症を発症する可能性が低くなるのです。また、意識して老化を明るくとらえることで、元々楽観的でない人も認知機能の低下を抑えられるとの報告もあります。さらには、ポジティブな気持ちや生活態度・習慣を維持することで寿命そのものが伸びるとする研究もなされています。

 赤瀬川さんたちが唱えた「老人力」の考え方は、単に老化や認知症に対しての周囲の受け取り方の改善のみでなく、そう考えるその人本人の老化そのものを遅らせ、認知症になりにくくする可能性があるのです。」

 赤瀬川さんも病気がちで、時に暗くなることもあったとは思います。それを明るくする発想で「老人力」という言葉をひねり出したんでしょう。いまから15年前の時代にです。

 わたしも71歳の「立派な」老人になりました。つくづく感じるのは「体力がない」「すぐにつかれrが取れない」と思うことです。人生「生老病死」で必ず人は老いて、必ず死にます。それを嘆き悲しむ時間がもったいない。もっと楽しく「老い」を楽しもうという発想が今にしても凄いです。
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 今から27年も前「少子高齢化社会」がいまほどほどやかましく言われていなかった1998年の強さくだけにその「先進性」には驚くばかりです。しかも赤瀬川さんは「老人力」を提唱していた時は61歳ころだというのですから、すごいの一言です。

 私も「年寄りの冷や水」に2月11日に強風の中挑戦しました。僅か10分間の海の上でしたが、得られたものは大きいです。体力が衰えた年寄りなりに出来そうなことを発見しましたからです。次回はきっとうまくいくと思います。

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2025.02.08

図書館で「老人力」を借りてきました。

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赤瀬川源平著作の「老人力」は13年ほど前に下知市民図書館で借りて読みました。ブログに感想文も書いています。
http://dokodemo.cocolog-nifty.com/.../2010/05/post-0ad4.html

(老人力を読んで)2010年
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15年も前に読んでいますね。まだまだ現役世代の56歳の頃でした。還暦前で「男の更年期」でしんどい時期ではなかったでしょうか。
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下知図書館にはなく、本館から取り寄せていただきましたが、文字が大きく、2冊になっていました。わたしも本当の「老人」になりました煮で、改めで読んでみます。
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2024.12.30

県外の友人の指摘に驚愕

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 2024年12月30日ですが、ようやく事務所の掃除と片付けが一段落し、2024年の仕事納めが終わりました。今日のリハビリウォーキングは、12385歩でした。風邪も回復し、正常化しました。
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 お昼前に県外に移住された友人から突然の電話がありました。私が受話器を取り話をしようとしました。
 友人は開口一番に、
「お前生きちょったかえ。俺はお前さんの個人ブログを毎日読んでいるが、そのブログの更新が、予告なしに12月26日から29日までの4日間されていない。死んだかと思うた。」と。

 確かに12月26日以降29日まで更新されていません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/
(個人ブログ「けんちゃんの吠えるウォッチング-どこでもコミュニュティ双方向サイト」)
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 確かに友人が指摘されたように、今年1月に両眼の手術と入院、療養生活が長期にわたることが予想されましたので。「しばらくブログは更新できないと思います。」と書いてありました。(私自身が入院前に書いていました。)

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/index.html
(しばらくブログの投稿は控えます)
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 SNS全盛時代に、だらだらと長い文章で、自宅周りの地域防災問題を中心に書いている個人ブログにすぎません。熱心な読者がいることに感謝します。

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2024.10.23

「むなしさの味わい方」を読んで

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 私個人の最近の出来事についていえば、「うまくいかないこと」だらけであり、「面白くない」出来事がとても多い。体調不良も多く、「いつもの」楽天的な私ではない。少々の失敗や落ち込みに対しては、沖縄流の「なんくるないさ」(何とかなるさ)の心持で乗り切ってきましたが、今年はそうはいかない状況でした。

 このまま今年は低迷して終わるだろうなと思いました。うつになって落ち込んでいくばかりではないかという恐怖もありました。そんなときにこの書籍を金高堂書店で購入しました。偶然書店で目に入り購入しました。

 きたやまおさむさんと言えば、学生時代のご活躍と言えばフォーククルセダーズでした。「帰ってきた酔っぱらい」「イムジン河」「あの素晴らしい愛をもう1度」など活動期間は短いものの、メガヒットを出しています。
むなしさの味わい方 その2 001
 その後は九州大学の教授をされていて、何年か前に定年退官され、フォークルを再結成されたという話題もありました。フォークルの解散後にメンバーの才気あふれる加藤和彦さんの自死もありました。

 実際にお会いしたことはありませんが、きたやまおさむさんはまた意外にも身近な存在でもあります。

 ヨットの大先輩であるUさんが、なんと京都府立医科大学時代ヨット部で、先輩であったそうです。1学年下の「きたやまおさむは クルーだった。」とのこと。3年ぐらい前に初めて聞きました。大学ヨット部は2人乗りの470やスナイプという艇に主に乗り琵琶湖で帆走練習をしています。

 Uさんは舵取り(スキッパー)であり、きたやまおさむさんはクルーで2枚帆を調整したり、風下帆走の場合はスピンネーカーという補助セールを出したり、取り入れたりする係をされていたようです。

 「大学時代は学生紛争でロックアウトされ、おまけに5年で卒業にされた。」とのこと。Uさんは今はある自治体の医師会の会長をなさっておられます。

 さて肝心の書籍の感想です。豊かな時代になり、物があふれる時代になりましても人々の悩みは尽きません。また最近の情報通信技術の発達などで、より人々は精神的に追い込まれているのではないかときたやまおさむさんは言われます。

「相手の反応に敏感すぎる時代」(P32)

「意味のない言葉の氾濫」(P33)

「ご期待対応力が評価される」(P37)

 「ご期待対応力」なる言葉は、きたやまおさむさんの独特の表現です。でも今の時代を的確に「切り取る言葉」ではないでしょうか。

 最近もス-パースターと言われるビックアーティストの伝記的な映画がありました。クイーンのボーカルだったフレディ・マーキュリーを描いた「ボヘミアン・ラブシティ」(2018年)、エルトンジョンを描いたロケットマン(2019年)がありました。

「こうした映画では、主人公のミュージシャンが、ファンの期待に応えようとしながら、こうありたいとの自己像との間で葛藤し、ドラックやアルコール、セックスなどに溺れ自滅していく姿が必ずといってよいほど描かれています。

 また、ドラックなどではなくても、自分の心に生じた「間」を受け止めきれずに、何かで必死で埋めようとしながらも、うまくいかずに立ち直れなくなってしまう場合も少なくありません。

 ともにフォーク・クルセーダーズを結成したメンバーの1人は、2009年に自ら命を絶ってしまいました。彼のことを考えると、今も私は心が傷みます。」(P43)

 心構えの対策として、きたやまおさむさんは、以下のことをいわれています。

「期待に応えるよりも「マイペース」をえらぶ決断」(P44)

「遊びがあってこそ」(P45)

「私たちは、このむなしさ」に慣れ、飲み込まれないようにする術を身につけなければならないでしょう。」(P49)

「このようにみてくれば、心の発達で、他者との関係性や自分の心の中に「間」が生じ、「むなしさ」という感覚を味わうということは、少なくない人たちにとっては、当然の経験であることがわかるでしょう。だから誰も「むなしさ」から逃れられないし、「むなしさ」を完全に消し去ることはできないのです。」(P77 「間」を生きるという課題)

「急な幻滅に遭遇したとしても、私たちの人生はそれで終わってしまうわけではありません。多くの場合、人生という物語は、急な幻滅悲劇の展開で終わることなく、その後もだらだらとつづいていきます。

 生きている限り明日は必ずやってきます。そして日常という時間w過ごさなければなりません。まして現代は長寿社会と言われ、私たちはかつてよりも長い人生を送ることになっています。

 こうした意味でも、私たちには時間が与えられています。」(P112「幻滅の後も人生は続く-時間をかけることの意味)

「物事を解決したり、何らかの対処をしたりするためには、時間が必要です。」時間をかけるというのは「間」(間)が生じるということです。「間」というのは、本書で何度も登場した「間」(ま)のことです。

 日本語では両方とも同じ漢字で表記します。空間的な広がりとしての「間」であり、、時間的な長さとしての「間」のことです。

 心の病気を治すためにも時間が必要です。すぐに治らないからと絶望してしまえば、病気を治すどころではんくなります。時間をかけて徐々に治っていくという「間」をけいけんしなければなりません。

 中略

 大切な相手との関係性にひびが入ってしまったという場合、早急に相手を見限って、関係性を絶ってしまうのではなく、時間をかければ、予期せぬ結果が生まれるかもしれません。そこが希望と絶望が交替する移行の期間なのです。

 心の問題に関する原則は、時こそ「解き」(とき)であり、時間が解決するということなのです。」(P113 待つことと、「間」に立ち続けること)

 著者によれば「待っている時間を過ごすこと、結論を急がずに、結論に至るまでの「間」に立ち続けることは簡単ではありません。」と言います。

 どっちつかずの境遇でひたすらい結果を期待して待ち続けることは、現代人は得意ではありません。結論を急ぎ、結果をもとめます。また「むなしさ」を回避しようとする仕組みが張り巡らせています。

「二面性を受け入れる」(P115)

「2面性を知ることで深まる認識」(P118)

「吐き出してすっきりしたいが」(P119)

「心をゴミで埋めようとする。」(P122)

「割り切れないもの、消化できないもの、未処理のもの、中途半端で矛盾しているもの、そうしたものを心の、いわば「溜め池」のようなところに、そのまま置いておく。そして時間をかける。そうした心の余裕を持つことが出来るかどうかが、「むなしさ」をうまくこなしていくことにもつながってきます。」
(P123もやもやは心の「ため池」に置いておく)
ため息をついても幸せは逃げない」(P124)

 このあたりの言葉は、精神科医のきたやまおさむさんの治療のなかから出てきた考え方であると思うし。依拠しているフロイトの精神分析をかみ砕いて説明をしていただいているようです。

「相手が自分の思ったとおりのひとでなかったとかいうとき、わたしたちは喪失感や幻滅を覚え、心に「むなしさ」が訪れます。

 中略

 心がすっきりしないとき、この怒りの内向と同様の自虐や自責が起きることがあります。相手が自分の思う通りの人ではなかったのは、実は相手が自分を嫌っているからではないか。自分は嫌われても仕方のない、価値のない人間ではないか。

  中略
 
 日本人は外向きに怒りを感じるのが苦手だとよく言われ、私たちは怒りを内向させがちです。でもそれでは、心に「置いた」ことにはなりません。」
(P126怒りの内向と自虐)

 ある新興宗教団体が、自責の念を利用して「その罪を解消するためには、教団にお金を納めて禊をすませなくてはならない。そのためには教団に帰依し、献金し続けなくてはならない」という大きな問題が社会事件でおきました。日本人の特性を悪用した献金システムでした。

「私たちは生きていくうえで、人に借りをつくり、恩を受けながら生きています。そもそも私たちの人生は親を始め、他人のケアを受けなければ生きていくことができないという未熟な乳幼児期からはじまります。

 そして、自分が大人になった時は、今度は自分が子供をケアする。あるいは他者に貸しをつくったり、恩を与えたりする。要するにお互い様です。

 白黒思考に固まっていると、「すまない」を置いておけず、すまないままではいられなくなるのです。妥協しながら貸し借りをつくりながら、物事はどっともどっちであり、あなたも私もお互い様をかみしめながら生きていくことが大切です。

 この「すまないものを「すまない」ままでとして置いておけるか。」ここでも「間」に立ち続けること、未処理のモノをそのまま置いておくことがもとめられています。」
(P!30「すまない」はおたがいさま)

このあたりはきたやまむさんの独特の表現。ご自身の体験と精神科医としての臨床体験や、研究した文献の逸話や、精神病理医師の先輩の所説などがわかりやすくかかれています。

「心の内奥には沼がある」

「現在私たちが生活している場所は多くがアスファルトやコンクリートによって埋められています。沼などは殆どなくなっています。ドロドロと臭く、経済的な価値を見出せない沼などは、どんどん埋め立てられ、私たちの前から聞けていきました。

 しかし人間は人間臭く、乳は乳臭いものだし、大地は土臭いものです。心の一部も臭いはずですが、私たちが人間である以上,有機の匂いがするものであり、私たちの「心の沼」を都会のように埋めてしまうことはできないのです。」(沼は臭いので蓋を P134)

「心の沼は、澄んではいない。」

 心の沼は、いつもドロドロ、ずぶずぶ、ぐずぐず、ぐちゃぐちゃしているので、ドブ掃除は無理です。 中略

 そこには容易に手を突っ込めない危険性もありますし、また性欲や残虐性もあります。底なし沼という言葉があるように、真っ暗で水中がどうなっているのかなかなか理解できないのです。だから心の中で、いくら酷い事、残虐なことを考えても、そのことは否定されるべきではありません。中略

 心の中でどんな空想をしようと、それは自由です。むしろ、心の中で考えてて置いておけるなら、ひどいこと、残虐なことを行動に移さないことが可能になります。心の中で自由に考えたり、想像したりすることを否定したら、ひとはとても息苦しくなり、むしろ危険なのです。

 私たちは、目の前で起きている現実と、心の中の現実と2つの現実を生きています。その2つの現実を生きていることを自覚し、その2つがバランスよく作用しあっていることが健康的な状態です。

 2つの現実の片方しか認めようとせず、あるいは2つの現実を同一にしようとするのは危険です。心の中で残虐性を実行することはよくあることですが、目の前の綺麗な現実だけを認め、それと乖離する心の現実を閉じたり、あるいは心の現実をそれに無理やり合わせようとすることも危険なことです。きれいごとをいい裏を認めず良い子である表にあわそうとすると、心に無理が生じます。

 ひどい、残虐な想像をしてしまうのも自分であり、他者に対して、良い人のように降る真っいているのも自分なのです。2つの現実と、人の2面性を認めることの大切さは、こうしたところからもりかいできます。

 このように、沼はあくまでにごったものであり、そのまま置いておくしかないのです。」(P136)

 長い引用をしました。きたやまおさむさんの言葉の1つ1つに納得しますし、わたしの「鬱々、ドロドロした、自分を卑下し、貶める考え方」から、お陰で解放された気分です。

 でも精神分析の専門分野をかみ砕いて説明してくれていますが、わかったようで、わからないところがたくさんあります。

 この文章を読んでいて思いだしたのは、私の子供時代(1960年から65年頃)小学生時代は、高知市内でも、転校先の大阪府豊中市でも吹田市でも、沼がありました。柵などもなく、「危ない河童に引き込まれるぞ!」とかの看板が立っていました。

 沼は沼で自然界では存在価値があり、水生植物や昆虫、淡水魚類などのビオトープの世界であったし、子供たちの手軽な釣り場でもありました。

 しかし高度成長時代が全国的に始まりますと、沼は埋めたてられ、宅地や工場や商業施設になりました。地面はコンクリートやアスファルトで埋められました。

 今年は猛暑でしたが、沼や小川は埋め立てられ、アスファルトで覆われました。市街地も暑くなります。沼に生息していた、カエルやミツバチや、トンボや、めだかなども身近な場所で見なくなりました。

 便利な社会になりましたが、なんだか皆が余裕のない状態になり、心のバランスを崩すようになりました。私もそうなりかけていました。

 高知でも東京でも皆、暇があればスマホの画面を見て「暇つぶし」をしています。会話もなく、人とのコミュニュケーション力の衰退も心配ですが、心の「むなしさ」や「間」をネットの情報で埋めてしまおうとして、かえって疲労が蓄積されて心にひずみが出来イェイるのではないかと私は心配しています。


「むなしさを味わう」(P157)

 きたやまおさむさんはこう書かれています。

 ここまで見てきたように、私たちの心には「むなしさ」が必ず訪れ、通例そのことから逃れることができないものです。そして「むなしさ」は「すまない」とともにいきていかざるをえません。

 しかし、そのことは、単にそれに耐えるべきものではなく、場合によっては、吐き出したい言葉を生み出し、創造性を育んで、むしろ人間の生に豊かさをもたらせてくれるのではないかと私は考えます。

 「むなしさ」そのものに意味はないかもしれません。でも「むなしさ」をかみしめ、味わうことには、」意味があるかもしれない。(P158) 

 私自身の個人史において自我というものが形成されたのは、中学生時代でありました。早熟な「政治少年」として、政治や社会運動に興味を持ち、当時の情報伝達手段は「ガリ版」(謄写版印刷)でしたので、それで手書きで「新聞」を発行し、社会評論的なことをしていました。

 そのころの作法として「うまくいかないこと。目標が達成できないときの原因を自分の中で追及し、文章化し、高めの達成目標を設定し実行していました。(実力から言えば高めの目標設定故に、殆ど到達できないことばかりでした。)

 しかしながら、自分でコントロールできない課題や、社会運動においては、党派の上級幹部(専従者)の命令などもあり、反論できないまま落ち込んでいき、挙句の果てには運動体自身が解体消滅し、敗北し、放り出されることの繰り返しでした。

 きたやまおさむさんの「沼」という考え方。「空しい」ことにも意味がある。決して無駄なことではない。出来ないときは出来ない。出来なくてもいい。という。まったりした考え方、発想法は新鮮でした。

 自分の気持ちを「文書化」して、目標を整理し、達成に向けて努力しする。それ等はいまでも、地域防災の会合などで、会合参加者の情報共有化の手助けになる手法であります。(深刻な問題以外では有益な方法手段です。)

 しかし万能の処方箋ではありません。きたやまおさむさんの今回の著作を読んで改めて気が付きました。

 今年は正月から手術や入院、療養が続き、その中でも、仕事の合間の「こまめな時間」を活用して、自分なりに「周到な」準備をしていた地域防災の2大大事業(私なりのである「仁淀川町防災キャンプ」が台風で中止になり、地域防災訓練予定日は、思わぬ衆議院の解散総選挙の関係で、延期が余儀なくされ、防災メニューの大幅な見直しが強いられました。

 仕事や地域活動も本調子ではなく、体調も本調子ではない。仕事もうまくいかないことがある。でもそれでも何とか生きて行かなくてはいけない。自分が情けなくて、すべて投げ出したい「マイナス思考の渦の中」で、この著作を読みました。

きたやまおさむさんの先輩格の精神分析医の前田重治さんの心の絵がありました。確かに文字表現で、心象風景を記述されてもわかりにくい。

 フロイトが日本に紹介された時代における精神分析の個々のイメージが描かれています。(P160)
フロイト心の中の世界図 001
 絵は「前田重治 フロイトの精神装置図」(1958年)とありました。

 上部は,外界に向かい知覚のために心は外に開かれています。(中略)

 個の前田先生の絵においても、無意識、あるいはほどんど無意識になっているエス(日本語ではそれを意味するドイツ語)は下部に置かれ、その最下層は身体に根差して「本能欲求取りこみ門が開口しています。」(P162)

「上部の頭脳や理性だけでは人間は生きていけないし頭脳や理性だけが、人間のすべてではありません。理性的な意識よりも、心の下部から湧き上がる、沼の臭い、欲望の臭いとしてのモヤモヤのほうが強くなってしまうこともあります。
現在の自我構造・前田氏 001
 したがって、上部と下部、その両方の領域を備えてこそ、人間の心の全体となるのです。」(P167「無意識と身体」)

この著作を読んで、あらためて、フォーククールセーダーズの」「あの素晴らしい愛をもう一度」の詩を読んでみると、心の深層を感じます。

作詞:北山修/作曲:加藤和彦/歌:フォーククルセイダーズ
「あの素晴らしい愛をもう一度 」

命かけてと

誓った日から
すてきな想い出
残してきたのに
あの時

同じ花を見て
美しいと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

赤トンボの唄を
歌った空は
なんにも変わって
いないけれど
あの時/
ずっと夕焼けを
追いかけて
いった二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

広い荒野に
ぽつんといるよで
涙が知らずに
あふれてくるのさ
あの時

風が流れても
変わらないと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい
愛をもう一度

「日常でも、「美しいもの」を共有しながら愛でるのは親子だけでなく、恋人や友人同士でも多いのです。雪見、お花見、花火、お月見、」紅葉狩りと、私たちは昔から同じものを一緒に眺めて心を通わせ、この愛を育んできたのです。
 漱石による訳だという逸話もありますが、「アイラブユー」を「愛している」と見つめあって言うのではなく、肩を並べて、「月が綺麗だね」と言う比較文化論は、私たちの「横並びの愛」の深層心理を鋭く突いていると思うのです。

 だがこの愛が取り返しのない形で崩れ、しこに穴が開き。「つながり」が突然切れるなら、目も当てられない惨状が展開するでしょう。お互いが孤立して、「みんな」からハブられる恐怖や、向い合ってもらえない不安、そして同調圧力が生み出されてしまうのでしょう。

 だから、同じ花を見て美しいといった2人の心が今はもう通わないという悲劇は繰り返されるのだと、歌でも言うのです。(P193「あの素晴らしい愛について」)


 終章にこういう記述がありました。

「探し物はきっと見つからない。もし見つかったと思っても、それはすぐ目の前から消え、失われていきます。なぜなら、心の中で求めている「探し物」と全く同じものは、外の世界には存在しないのです。

 1人の人間のなかには、心の中と外という2つの現実があることを述べました。質の違う2つの現実が、1にの人間の中で共存しているのです。普通はどちらか片方だけが現実でもないし、2つの現実を一致させることも無理です。だから、心の中にある「探し物」は心の外の世界には存在しないのです。P195)

「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語、日本文化、現代社会を見据えながら書いた。もちろん最近の私の一般向け書物と同様、フロイト理論や精神分析の対象関係論の考え方を活かしている。しかし「むなしさ」を感じたら、情報収集による穴埋めを控えて、これを味わい、できれば自分で考えてみたらと提案しているのだから、理論的なことやこのテーマに関わる議論は細かく書き込まなかった。」(P203あとがき」

 わたしにとって2024年は「トラブル」続きの年でした。正月には眼病での両目の手術と入院。療養生活などで長期間仕事が出来ませんでした。メガネ合わせに苦戦し、復帰できたのが5月連休前でした。

 でも手術のおかげで「失明」は免れ、「ド近眼」が「中程度の近視」になり、近くは見えるので老眼が不要になりました。悪いことばかりではありません。6月には右手裂傷、9月には帯状疱疹。10月には蜂に刺されるとかいうトラブルまでありました。

 おまけに周到に地元の皆様と準備してきました「仁淀川町防災キャンプ」も中止、地域の史ウ号防災訓練は、衆議院選の関係で延期(10月27日が12月1日)になる事態になりました。

 懸命に真摯にっ取り組んではいますが、「運も悪い」としかいいようのない事態になり、自分の非力を感じ落ち込んでいました。

 でも一方で18歳から70歳まで52年間うじうじと「孤独に」悩んできた問題も半分ぐらい解消できました。悪いことばかりではありません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html
(「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んで

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-f58837.html
(映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」)

 18歳の少年(高校生)は長い長い先の見えない暗いトンネルの闇の中にいました。70歳の時ようやく外に出ました。今は71歳になりました。

 今回きたやまおさむさんお著作「むなしさ」の味わい方(岩波新書)を読んで、わたしは52年間も「むなしさ」を味わっていたのであったと思いました。人生そんなものかもしれません。

 仕事も地域活動も社会参加もうまくいかないことばかりです。焦らず「むなしさ」を敵視せず、自分のペースで乗り越えてみます。
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 脳ドックの医師は精神科医ではないでしょうが、「ヨットは脳幹トレーニングにはいい」と言われました。今年はヨットのほかにSUPも習います。「71の手習いです。主たる目的は、今の居住地域(海抜0Mの二葉町)は、南海トラフ地震が起きたら水没します。地域の防災会長としてSUPで住民の安否確認をしますので、基礎からの習いが必要だからです。

 自分の限界、体力と気力の衰えを思い知らされた2024年でした。悪いことではありません。できる範囲内で、やるべきことはやり続けます。

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2024.06.21

「重信房子がいた時代」を読んで

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。
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「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。あさま山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。

とにかく閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断できなくなる。あとから『なんであんなことをやってしまったのか』と後悔する。
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こういうことはたくさんある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」(映画監督・森達也氏談)NHK記事より)

 とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。

 私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。

考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?中国は敵対していた共産党と国民党が連携して抗日軍をこしらえました。その動きのかけらもないのはなぜなのか?」でした。

 個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、10年以上前から考え続けてきました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html
(連合赤軍と新自由主義の総括)

 最近読んだ2つの著作「「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。すべて解決したわけでもないですが、2つの著作は私の悩んでいた52年間とリンクしています。長い長いトンネルの出口のかすかな灯のように思いました。

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)の読書感想文です。一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。

 私は最近はYouTubeで重信房子さんの出演する中東情勢を解説する番組を時折も見るようになりました。

「私たちがパレスティナへいったころは、旧ソ連の支援がパレスティナにあり、パレスティナの青年は旧ソ連で高等教育を受け大学に進学し医師になる人もいました。受け入れてくれる素地はありました。」

「イスラエルがレバノンに侵攻した1982年以降は、中東に居ずらくなりました。また旧ソ連が崩壊した1989年以降は支援も少なくなりました。」

「1995年にイスラエルとパレスチナの共存を国是としたラビン首相が暗殺されました。1996年に台頭したのがパレスチナ国家を認めないネタニエフでした。これ以降は対立と分断が始まります。」

 重信房子さんはYouTubeで明瞭に解説してくれました。なるほど。という感覚でいたところ、偶然友人が「重信房子がいた時代」を貸してくれました。「家内の親戚の人が書いたノンフェクション。手元に1冊しかないのを送る。読んだら返却してほしい。」とのことでした。

 稚拙な読書感想文です。印象に残った言葉を書き出しました。

「ねえ、あなた髪型かわったわね。」

重信房子は、私にそういった。アクリルの窓越しに手と手を合わせたあと、いきなり、

「昔はもっとボーイッシュで、すごく短かったじゃない。その印象が強いの井よ、それから目も変わったわね。ほら昔はもっと細かったじゃない。」

「しわが出来て、ふかくなったんですう」

 そんなことを返しながら、重信房子も、ただの、ふつうの叔母さんじゃん、と思うと笑いがこみあげてきた。

 ほぼ40年ぶりに面と向き合って、言葉を交わす、その話題がこんなとことから始まるとは、さっきまでの気鬱は何だったのか、と力が抜けた。」(40年振りの再会 P11)

「房子がアラブに向けて出国したのは1971年。赤軍派の結成は69年8月23日だが、その前から房子は大学を離れて党派活動に専念するようになっているはずだ。そのときから、私が房子と会う機会はなくなった。

 したがって、この再会葉41年ぶりでもあった。しかも親しくしていた時期は67年から68年にかけてのわずか2年足らずである。一緒に歩いた土地も、駿河台のせいぜい半径2キロぐらいのものだ。

 同志でもない私には、共有する記憶はわずかなものだ。この空白はどう埋めたらいいのか。そもそも埋めることはできるのか。話すこともなく、会話が途切れてお互い気まずい思いをするのではないか。ドラマや小説の再開のシーンを浮かべてなぞらえようとした。

 ところがいきなり髪型の話である。(中略)41年間の空白はあまりにあっけなく消えた。その41年前の事、今のこと、年相応のしみやしわ、白髪のこと。脈路なく話は結んだりほどかれたりして、わずか10分ほどの面会時間は終わった。

 帰りの電車の中で思い出した笑顔は、40年前と変わらなかった。目も口元も、学生時代と何1つ変わらなかった.」

「ねえあなたは誰が好きなの」房子は唐突に話しかけてきた。

  中略


 あのころ、汚い研(文学研究会)のサークル室で、彼女の白い肌はきわだっていた。ピンクの口紅がよく似合っていた。おっとりした問いかけだったが、いい加減な返事を許さない強さがあった。

 文学サークルで「誰が好きなの」と問われれば、あのころは、カフカ、カミュ、吉本隆明、埴谷雄高、・・。そして大江健三郎とたいていの学生は答えた。しばらく前まで高橋和巳が明治の助教授に名を連ねていたこともあり、よく読まれていた。実際に私たちの周りでは、文庫本になったばかり「散華」手に高橋勝巳の名を連呼しているものがいた。

 そんな中で、私が「谷川俊太郎とか富岡多恵子です」と答えたものだから、房子は、一瞬とまどった。私の言った詩人を知らないのだなと私は思った。ところが彼女はすぐに人なつこい笑顔でいった。

「えっほんとに。私も詩を書いているのよ。現代詩を。今度見せてあげる。あなたもみせて。」その時たまたま部屋に行ってきた男子学生を紹介しながら、私と彼の両方にいった。

「ねえNくん。彼女も現代詩ですって。Nくんは鮎川信夫をよくよんでいるのよ。「荒地」の詩人の井戦争体験や詩に惹かれるんですって」P14

 1967年・68年頃のブント系(社学同の影響の強かった明治大学の学生の傾向なのか、当時全共闘世代と言われた多くの学生たちの流行の読書傾向なんでしょう。

 わたしは重信さんより8歳、著者の油井さんより6歳年下です。67年・68年は田舎の中学生でした。1970年の高校2年生の時、高共闘をやっていた追手前高校の連中が吉本隆明がどうしたとか言うていました。私は田舎の高校生でしかも毛沢東主義者でしたので興味はありませんでした。
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 1973年に大学へ入学して、入部した文科系サークルがブント系の傾向いうが強く、その時期に吉本隆明、埴谷雄高、高橋和巳、などを読みました。荒地の詩集も読みました。鮎川信夫もです。「自由闊達」という雰囲気でした。
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 1973年の夏ごろまでは、ノンセクトの学生たちの運動が、早稲田大学でもセクトである革マル派を凌駕するのではないかという勢いがありました。しかし夏休みが終わり秋になると革マル派は武装集団として「プロ化」し整然とした武装集団に変身していたようです。

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊より。

 結局組織化してきたセクト(党派)の武装集団に対抗するためには、セクトの武装集団でない対応できない時代となり、口論や論争で対立する相手をやりこめるのではなく、暴力行為で相手セクトの幹部を殺害する行為を繰り返すようになりました。

 思想の左右を問わず、「異論を排除し、時に暴力的に排除し、殺人行為もしでかしてしますことが常態化する。」異常さが52年前の日本の新左翼党派(セクト)にありました。これでは問題意識を持ち、デモや集会に参加しただけの学生一般は、ついていけるはずもなく、必然的に政治闘争、社会運動は日本社会から衰退し、広く支持を得ることが難しくなりました。「政治」に無関心な市民が増大し、「改革」を標榜する自民党清和会政治を容認し、格差社会を拡大することに結果として加担するようになりました。

 油井りょう子さんは、重信房子さんのご家族(両親や兄弟)や生い立ちなども丹念に記述されています。お父さんは若かりし頃、極右団体血盟団のメンバーでありました。15歳も年が離れた奥さんと結婚し、敗戦後は夫婦で食料品店を世田谷で開業し、懸命に家族力を合わせて生きていました。

 重信家の兄弟姉妹は皆成績優秀で大学進学をしたかったようでしたが、商業高校や工業高校に進学し、卒業し大手企業へ就職しました。重信房子さんも商業高校卒業後は、大手食品メーカーのキッコーマン醤油に就職しています。

 高校時代に文芸部に入部しました。自作の小説を書くだけでなく行動力もあったようです。

「高校時代には、武者小路実篤の「友情」を読み、その作家に会いに行った。そこで、作家に向かって「ヒロインの杉子は民主的ではない」などと面と向かって批判した。

 大作家は、台所でお茶の用意をいしている妻に聞こえるように、笑いながら大きな声で言った。「おい、杉子は民主的ではない、とここにいるお嬢さんがいっているよ」
 杉子という女性は、その頃の作家の妻がモデルだったからだ。批判したお嬢さん、房子のために大作家は色紙まで書いてサービスまでしてくれたという。」(文豪に会いに行く P41)

 単なる文学少女だけでなく、物おじしない行動力も備えていたようですね。感心しました。

 また重信房子さんの兄弟姉妹は地域社会の現実と真摯に向かい合っていました。

「先にもふれたが、房子の家の近所に朝鮮人の部落があった。近所の大人は,子供たちにそこへは「近づくな」とあからさまにいった。1950年6月から53年7月迄の朝鮮戦争の影響もあった。
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 しかし、房子の長兄が自転車に乗っていてチンピラに因縁をつけられたとき、一家を守ってくれたのは、この集落の人々であった。好奇心旺盛な房子達きょうだいは、関心を持って集落の人々の暮らしや、自分たちと違う風習を見つめた。

 春、桜の季節になると、集落の人々が、馬事公苑に繰り出すのです。そして、太鼓を鳴らし、手拍子をとって」にぎやかに歌い、踊っていました。華やかな服装とにぎやかな踊りと、ふだんの暗くくすんだような暮らしとの差が、あまりに大きいので、毎年、驚いてみていました。と房子は振り返る。」(P44「戦後民主主義の申し子」)

 わたしも小学校低学年時代に大阪にいました。経済格差がある地域でした。上流の家庭は、母親は女子大卒で専業主婦。子供にが大学生の家庭教師をつける環境。そのお母さんたちが「あそこへは行かれん」と言っていたのは地域内の朝鮮人集落でした。私は転校生でしたので両方の地域で友人がいました。

 朝鮮人集落のご両親は共働き家庭。母親は在宅せず、アパートの鍵を子供に持たせていました。「かぎっ子」という言葉を初めて知りました。うちの母も土地らの地域の子供も差別せず、おやつを出していました。重信家も健全な過程であったと思いますね。

子云う高3年生の時は「小さな親切運動」を夏休み返上で懸命にボランティアをしているところを新聞に取材され、記事になっていたそうです。

「このころの房子の活動は、あくまでもけなげな正義感からホームルームでリーダーシップをとるという範囲でしかなかった。外へ向かって行動し、発言しても、だれひとり傷つけるわけでもなく、自分も傷つかず、大人たちからも好意を持たれ、優等生のお嬢さんが、勉強と両立できる健全な活動の範囲だった。

 こんな生徒はどのクラスにもひとりはいたはずだ。こうしたかつどうがのちの「国際テロリスト」の萌芽と見ることは誰にもできないだろう。むしろ、戦後の民主教育が理想とした、貧しさに負けず、いわれなき差別に挑み、真っすぐ明るく頑張る女学生の姿そのものではないだろうか。」(P47[戦後民主主義の申し子」

 重信房子さんは1964年の高校を卒業し、キッコーマン醤油に入社されました。そして翌年「教師になりたい」夢をかなえる目的で1965年明治大学2部(夜間)文学部に入学されました。

 昼間は会社勤務。夕方は夜間の大学生。いろんな職種の学生がいて刺激になったようです。その後1960年代後半のうねりのような社会運動が世界的に先進国で起きましたが、サークル活動や自治会活動、社会運動の大波が到達してきて重信房子さんも影響を受けて、思想信条も変化して行きました。
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 1965年の日韓闘争、学費値上げ反対闘争、1966年の各大学での全共闘運動やベトナム反戦闘争、1967年、1968年頃には、社学同(ブント系)の運動に影響されていきました。

「集会やデモに房子は参加していた。しかし房子は表には立たず、つねに「救対」であった。応急処置をする包帯や赤チンの入った救急箱を手にして、セクトを超えて救援に(救護)対策にはしりまわっていたのである。デモの後ろにいて、傷ついた学生や労働者を手当てする。それは明治の学内や関係者に限らなかった。」(「救対の重信」P86)

 また闘争は思い付きで始まる。「1968年6月21日で社学同の委員長のMがパリのカルチェラタンのようなものだ。やれるのはやはり明治だろう。中央では社学同集会やって呼応させるから」

 明治大学の学館から長い机を運び出し、御茶ノ水駅から駿河台へ通じる明大と売りに並べてバリケードを築こうというのだ。車の往来の激しいそのとうりの真ん中に机を置くのだ。

 中略

 またたく間に開放空間が出来上がりました。早速「解放区」「反安保・反戦の砦。神田カルチェラタン解放中」などの立看板を御茶ノ水近くの道真ん中に立てました。」(神田カルチェラタン P104)

 記述されている文字をなぞっていても楽しい。ほんのわずかな時間でも「解放区」が出来たことが楽しいです。社会運動や闘争は明るく他の良くないといけない。

油井さんはこう記述しています。「房子が熱い思いで振り返った神田カルチェラタン闘争。社学同が掲げ、現思研がリードし、市民を巻き込んだ、この戦いの熱気はいったいなんだったろうか。あの時代の闘争の1つだったのだろうか、それともまぼろしだったのか。あの時代に、あのキャンパスにいた一人として、私は、遠い日の物語であり,やはりまぼろしだったのだとしか思えない。」(P104)

 幻であれ何であれ、「解放区」を日本で大学構内ではなく、神田の路上で体験したことは羨ましいです。そういう体験を私はしたかったです。後にも先にもそういう「解放区」は日本史ではなかったと思います。

また重信房子さんの父親の重信末夫さんは、青年時代血盟団の筋金入りの右翼青年でした。1967年の羽田闘争の顛末を家族に熱く語る房子さんに末夫さんはこう言われたとか。

「房子本気で革命をやるなら、あのようにやってはいかん」

 中略

「本気で革命をやるなら、まず民心を重んじなければならぬ。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンにすぎぬ。
 井上日召は1人1殺主義と言われているが、そうではなく、1殺多生は1人ではできぬ。」(「父よ娘の革命」P113)

「革命とは死ぬことを見つけたり」と思っているんだ。革命の途中で死ぬのはやむをえない。同志の死は革命の捨て石ですよ。捨て石がなければ革命なんかできないのいだから。
 
一般市民の死、負傷はやむをえないことである。革命をやる以上犠牲者はでるのはしかたがない。

 ただし、内ゲバをやるような下衆な根性では革命が出来るのか。出来や市内四・そんなもの」と吐き捨てている。」(PO1269

 やはり本物の革命戦士には、内ゲバは堕落であり、排すべきものであるという真摯な心意気があります。本物ですね。

 大学では1969年は全共闘運動が退潮し、学生運動が変質し始めた時期だったようです。油井さんによりますと重信房子さんは、キッコーマンは1年半ぐらいで活動と両立は難しいということで退社されましたが、サークルに活動、学生運動、アルバイトの多忙な日々でありながら大学は4年で卒業、しかも教職課程も取得していました。更に政経学部3年に学士入学しています。それは専従のプロのセクトの活動家ではないと大学当局が判断したからでしょうと油井さんは記述しています。

 教師になりたかった重信房子さんですが、取り巻く状況はそれを許さないようになっていったようです。1969年に全共闘運動の衰退もあり、ブントのなかで「武装闘争」を主張する関西派が台頭し赤軍派を結成します。

 1969年11月に武装訓練をすると大菩薩峠の福ちゃん荘に集結していた赤軍派主力部隊50数名が全員逮捕されました。

 1970年3月に田宮など9人の赤軍派がよど号をハイジャックし北朝鮮に飛びました。本当の目的はキューバでしたが北朝鮮は寄り道でした。「俺たちは明日のジョーになる」という漫画的な事件でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-647d.html
(個人ブログ「われわれは明日のジョーである」2009年5月4日)

 1971年2月に赤軍派の1部と毛沢東主義者の京浜安保共闘が合体した連合赤軍があさま山荘事件を引き起こし、無残な仲間殺しが露呈されました。重信房子さんと明大二部文学部で親友だった遠山美枝子さんは惨殺されました。

 重信房子さんは1971年3月に中東のベイルートに到着されていました。


WIKIPEDIAで検索しますと「日本赤軍」の活動履歴が出てきます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%8D%E6%84%9F%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%88%E7%B4%B0%E3%82%8A

 記述は不確かな部分もありますが、「活動年表」的なものがないと、なにせ50年から40年前の出来事なので、こちらも記憶が定かではないので、事実誤認は避けたいので、検索してみました。

 1969年頃からノンセクトの広範な社会運動(全共闘運動)が退潮傾向になり、70年安保闘争はセクト主導になりつつありました、革共同中核派、革マル派、社青同解放派、ブント(共産主義者同盟)は分裂し、戦旗派、叛旗派、ML派、赤軍派などに分れつしていきました。

 記憶が正しければ赤軍派は「前段階武装論」とか「国際根拠地論」にもとづいた武装闘争優先の党派でした。ですが主力部隊と幹部の大半が1969年の大菩薩峠のふくちゃん荘の合宿所で逮捕されました。

 1970年の「残党の」田宮ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮経由でキューバへ行く予定でした。「国際根拠地論」に戻付いて行動であったgと思います。

 国内に残された赤軍派の中堅幹部の森恒夫は、思想信条の全く異なる毛沢東主義者集団の京浜安保共闘と結託し、連合赤軍を結成し、「国内山岳アジト」で、日本国内での武装闘争を仕掛けようといしていました。

 最高幹部絶対主義と些細な主張の違いを許さず「総括」と称して、仲間にリンチを加え殺害する行為を繰り返していきました。「神田カルチェラタン」のおおらかさなどみじんもない、息苦しい閉ざされた閉鎖組織になってしましました。重信房子さんの明大時代同じサークルで親友だった遠山美枝子さんはそのなかで惨殺されました。

 1971年3月に重信房子さんたちは「国際根拠地」を求めて少数の仲間たちと中東ベイルートに居ました。1970年代は、ハイジャックや武装闘争など「日本赤軍」は活動を激化させた時代がありました。

 何故アラブなのかは油井さんも含め文研や明治大学の仲間たちもさっぱりわかりませんでした。その理由を油井さんはこう書かれていました。

「なぜが、少しずつわかるようになったのは、04年の房子の公判を通じてだ。房子は、1月27日の第40回公判で述べている。

「(よど号事件に関連して)逮捕されて出てきた後、実際には、もう自分にやれることは余りないな、やめようかなということで、迷惑ばかりかけて力になれないから、もう1回学校へ戻ろうかと思ったんですけど、もっとひどいというか、誰もいなくなってる状態でだったんで、ぜひ国際部を引き受けてほしいと、国際部のキャップに言われまして、それを手伝うという形で協力しましyた。」(P147「国際根拠地づくり」)

 中略

「そしてなぜアラブだったのかと弁護人に重ねて問われて、房子はベトナムと比較して答える。ベトナムは陣地もあり。国家という後ろ盾もある戦いであり、義勇兵として参加を希望したものに対しては、自国の帝国主義と闘ってくださいという立場をとっていて、それは1国の革命解放で完結していく戦いであった。

 しかしパレスティナ問題というのは知れば知るほどい、世界革命なしでは解決できない。で、世界党、世界赤軍、世界革命戦線というように主張してきた赤軍としては、まさにパレスティナの戦場を戦いの根拠として、世界は新しくうまれかわるんではないかと、そういう非常に大きなインパクトを持ったイメージに受け止めました。」(P149)

 結果的に赤軍派の「国際根拠地論」を「まがりなりにも」「見える化」できたのは、重信房子さんが国際部をしぶしぶ引き受けたからであったと思います。

 「あとがき」で重信房子さんはこう述べています。

「読みながら思いました。面会でもそうだけど、40年の断絶を経て会う旧友たちとは一瞬にして時間を飛び越えてしまいます。何10年経っても人と人との関係の在り方は変わらないな、と。

 姉からみたらわたしはいつも妹であり、大学時代の仲間からすれば、私は世話好きの女学生の枠を出ていません。上級生から見れば、ひたむきなあぶなっかしい下級生であり、下級生だった旧友かられば、楽しくくっついて行ったら、とんでもない目に遭わせた先輩です。

 「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」などといって、「土曜会」をつくって、この10年、わたしを支えてくれています。未来やこれからを語るときは一緒に並んでいるのイに、過去も今も関係性は、そのままです。それが居心地がよくて超えられないし、また超えるきもないのですけれど。」(あとがき P234)

 1974年に主パンした本の前書きで重信房子さんはこう書かれていました。
「普通に生きている女の子が、妥協しないで自分に忠実に正しいと思ったことを追いかけてきたらここ(アラブ)に来た。
 自分に忠実である事であることが”青春”なら、”青春”とは権力者に言わせれば”犯罪”のことになったしまう。

 死ぬまで”青春”を堅持する私は、だから”犯罪者”だ。死ぬまで”革命”を堅持する私の意思は、”犯罪”なのだ。」

 読後感は「爽やか」でした。世話好きな女の子が、精一杯奮闘しているうちに、国際根拠地づくりでアラブの地へ行っていたという実話ですね。活動家時代も殆どが裏方であり「救対の重信」でした。セクトの上層部や幹部が誰もいなくなり、自分が引き受けてセクトの「国際根拠地」づくりを実際にアラブの地で「見える化」しました。

 実際にはテロ行為やハイジャックなどの罪を問われ、懲役20年の実刑を受け、2022年5月28日に出所されています。

 素晴らしいのはかつての学生時代のお仲間たちが「土曜会」というグループをつくりなにかと重信房子さんを支えてきたこいですね。「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」という趣旨はすばらしいです。暗さのみじんもない。


 本を貸していただき送付までしていただきました梅原孝司さんに御礼を申し上げます。高校生時代から52年間鬱鬱グズグズ考えてきた「連合赤軍と内ゲバの克服する処方箋」が、ようやく「見つかった」きがします。ありがとうございました。

 また筆者の油井りょう子さんにもお礼を申し上げます。わたしは外周にいた渦の外側で悪影響を受けた1人ですが52年間悩んできました。「土曜会」の皆さんのように明るく、言いたいことを言えるような仲間が大事である。家族も地域社会も大事であると思います。

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