書籍・雑誌

2024.12.30

県外の友人の指摘に驚愕

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 2024年12月30日ですが、ようやく事務所の掃除と片付けが一段落し、2024年の仕事納めが終わりました。今日のリハビリウォーキングは、12385歩でした。風邪も回復し、正常化しました。
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 お昼前に県外に移住された友人から突然の電話がありました。私が受話器を取り話をしようとしました。
 友人は開口一番に、
「お前生きちょったかえ。俺はお前さんの個人ブログを毎日読んでいるが、そのブログの更新が、予告なしに12月26日から29日までの4日間されていない。死んだかと思うた。」と。

 確かに12月26日以降29日まで更新されていません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/
(個人ブログ「けんちゃんの吠えるウォッチング-どこでもコミュニュティ双方向サイト」)
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 確かに友人が指摘されたように、今年1月に両眼の手術と入院、療養生活が長期にわたることが予想されましたので。「しばらくブログは更新できないと思います。」と書いてありました。(私自身が入院前に書いていました。)

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/01/index.html
(しばらくブログの投稿は控えます)
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 SNS全盛時代に、だらだらと長い文章で、自宅周りの地域防災問題を中心に書いている個人ブログにすぎません。熱心な読者がいることに感謝します。

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2024.10.23

「むなしさの味わい方」を読んで

むなしさの味わい方 表紙 001
 私個人の最近の出来事についていえば、「うまくいかないこと」だらけであり、「面白くない」出来事がとても多い。体調不良も多く、「いつもの」楽天的な私ではない。少々の失敗や落ち込みに対しては、沖縄流の「なんくるないさ」(何とかなるさ)の心持で乗り切ってきましたが、今年はそうはいかない状況でした。

 このまま今年は低迷して終わるだろうなと思いました。うつになって落ち込んでいくばかりではないかという恐怖もありました。そんなときにこの書籍を金高堂書店で購入しました。偶然書店で目に入り購入しました。

 きたやまおさむさんと言えば、学生時代のご活躍と言えばフォーククルセダーズでした。「帰ってきた酔っぱらい」「イムジン河」「あの素晴らしい愛をもう1度」など活動期間は短いものの、メガヒットを出しています。
むなしさの味わい方 その2 001
 その後は九州大学の教授をされていて、何年か前に定年退官され、フォークルを再結成されたという話題もありました。フォークルの解散後にメンバーの才気あふれる加藤和彦さんの自死もありました。

 実際にお会いしたことはありませんが、きたやまおさむさんはまた意外にも身近な存在でもあります。

 ヨットの大先輩であるUさんが、なんと京都府立医科大学時代ヨット部で、先輩であったそうです。1学年下の「きたやまおさむは クルーだった。」とのこと。3年ぐらい前に初めて聞きました。大学ヨット部は2人乗りの470やスナイプという艇に主に乗り琵琶湖で帆走練習をしています。

 Uさんは舵取り(スキッパー)であり、きたやまおさむさんはクルーで2枚帆を調整したり、風下帆走の場合はスピンネーカーという補助セールを出したり、取り入れたりする係をされていたようです。

 「大学時代は学生紛争でロックアウトされ、おまけに5年で卒業にされた。」とのこと。Uさんは今はある自治体の医師会の会長をなさっておられます。

 さて肝心の書籍の感想です。豊かな時代になり、物があふれる時代になりましても人々の悩みは尽きません。また最近の情報通信技術の発達などで、より人々は精神的に追い込まれているのではないかときたやまおさむさんは言われます。

「相手の反応に敏感すぎる時代」(P32)

「意味のない言葉の氾濫」(P33)

「ご期待対応力が評価される」(P37)

 「ご期待対応力」なる言葉は、きたやまおさむさんの独特の表現です。でも今の時代を的確に「切り取る言葉」ではないでしょうか。

 最近もス-パースターと言われるビックアーティストの伝記的な映画がありました。クイーンのボーカルだったフレディ・マーキュリーを描いた「ボヘミアン・ラブシティ」(2018年)、エルトンジョンを描いたロケットマン(2019年)がありました。

「こうした映画では、主人公のミュージシャンが、ファンの期待に応えようとしながら、こうありたいとの自己像との間で葛藤し、ドラックやアルコール、セックスなどに溺れ自滅していく姿が必ずといってよいほど描かれています。

 また、ドラックなどではなくても、自分の心に生じた「間」を受け止めきれずに、何かで必死で埋めようとしながらも、うまくいかずに立ち直れなくなってしまう場合も少なくありません。

 ともにフォーク・クルセーダーズを結成したメンバーの1人は、2009年に自ら命を絶ってしまいました。彼のことを考えると、今も私は心が傷みます。」(P43)

 心構えの対策として、きたやまおさむさんは、以下のことをいわれています。

「期待に応えるよりも「マイペース」をえらぶ決断」(P44)

「遊びがあってこそ」(P45)

「私たちは、このむなしさ」に慣れ、飲み込まれないようにする術を身につけなければならないでしょう。」(P49)

「このようにみてくれば、心の発達で、他者との関係性や自分の心の中に「間」が生じ、「むなしさ」という感覚を味わうということは、少なくない人たちにとっては、当然の経験であることがわかるでしょう。だから誰も「むなしさ」から逃れられないし、「むなしさ」を完全に消し去ることはできないのです。」(P77 「間」を生きるという課題)

「急な幻滅に遭遇したとしても、私たちの人生はそれで終わってしまうわけではありません。多くの場合、人生という物語は、急な幻滅悲劇の展開で終わることなく、その後もだらだらとつづいていきます。

 生きている限り明日は必ずやってきます。そして日常という時間w過ごさなければなりません。まして現代は長寿社会と言われ、私たちはかつてよりも長い人生を送ることになっています。

 こうした意味でも、私たちには時間が与えられています。」(P112「幻滅の後も人生は続く-時間をかけることの意味)

「物事を解決したり、何らかの対処をしたりするためには、時間が必要です。」時間をかけるというのは「間」(間)が生じるということです。「間」というのは、本書で何度も登場した「間」(ま)のことです。

 日本語では両方とも同じ漢字で表記します。空間的な広がりとしての「間」であり、、時間的な長さとしての「間」のことです。

 心の病気を治すためにも時間が必要です。すぐに治らないからと絶望してしまえば、病気を治すどころではんくなります。時間をかけて徐々に治っていくという「間」をけいけんしなければなりません。

 中略

 大切な相手との関係性にひびが入ってしまったという場合、早急に相手を見限って、関係性を絶ってしまうのではなく、時間をかければ、予期せぬ結果が生まれるかもしれません。そこが希望と絶望が交替する移行の期間なのです。

 心の問題に関する原則は、時こそ「解き」(とき)であり、時間が解決するということなのです。」(P113 待つことと、「間」に立ち続けること)

 著者によれば「待っている時間を過ごすこと、結論を急がずに、結論に至るまでの「間」に立ち続けることは簡単ではありません。」と言います。

 どっちつかずの境遇でひたすらい結果を期待して待ち続けることは、現代人は得意ではありません。結論を急ぎ、結果をもとめます。また「むなしさ」を回避しようとする仕組みが張り巡らせています。

「二面性を受け入れる」(P115)

「2面性を知ることで深まる認識」(P118)

「吐き出してすっきりしたいが」(P119)

「心をゴミで埋めようとする。」(P122)

「割り切れないもの、消化できないもの、未処理のもの、中途半端で矛盾しているもの、そうしたものを心の、いわば「溜め池」のようなところに、そのまま置いておく。そして時間をかける。そうした心の余裕を持つことが出来るかどうかが、「むなしさ」をうまくこなしていくことにもつながってきます。」
(P123もやもやは心の「ため池」に置いておく)
ため息をついても幸せは逃げない」(P124)

 このあたりの言葉は、精神科医のきたやまおさむさんの治療のなかから出てきた考え方であると思うし。依拠しているフロイトの精神分析をかみ砕いて説明をしていただいているようです。

「相手が自分の思ったとおりのひとでなかったとかいうとき、わたしたちは喪失感や幻滅を覚え、心に「むなしさ」が訪れます。

 中略

 心がすっきりしないとき、この怒りの内向と同様の自虐や自責が起きることがあります。相手が自分の思う通りの人ではなかったのは、実は相手が自分を嫌っているからではないか。自分は嫌われても仕方のない、価値のない人間ではないか。

  中略
 
 日本人は外向きに怒りを感じるのが苦手だとよく言われ、私たちは怒りを内向させがちです。でもそれでは、心に「置いた」ことにはなりません。」
(P126怒りの内向と自虐)

 ある新興宗教団体が、自責の念を利用して「その罪を解消するためには、教団にお金を納めて禊をすませなくてはならない。そのためには教団に帰依し、献金し続けなくてはならない」という大きな問題が社会事件でおきました。日本人の特性を悪用した献金システムでした。

「私たちは生きていくうえで、人に借りをつくり、恩を受けながら生きています。そもそも私たちの人生は親を始め、他人のケアを受けなければ生きていくことができないという未熟な乳幼児期からはじまります。

 そして、自分が大人になった時は、今度は自分が子供をケアする。あるいは他者に貸しをつくったり、恩を与えたりする。要するにお互い様です。

 白黒思考に固まっていると、「すまない」を置いておけず、すまないままではいられなくなるのです。妥協しながら貸し借りをつくりながら、物事はどっともどっちであり、あなたも私もお互い様をかみしめながら生きていくことが大切です。

 この「すまないものを「すまない」ままでとして置いておけるか。」ここでも「間」に立ち続けること、未処理のモノをそのまま置いておくことがもとめられています。」
(P!30「すまない」はおたがいさま)

このあたりはきたやまむさんの独特の表現。ご自身の体験と精神科医としての臨床体験や、研究した文献の逸話や、精神病理医師の先輩の所説などがわかりやすくかかれています。

「心の内奥には沼がある」

「現在私たちが生活している場所は多くがアスファルトやコンクリートによって埋められています。沼などは殆どなくなっています。ドロドロと臭く、経済的な価値を見出せない沼などは、どんどん埋め立てられ、私たちの前から聞けていきました。

 しかし人間は人間臭く、乳は乳臭いものだし、大地は土臭いものです。心の一部も臭いはずですが、私たちが人間である以上,有機の匂いがするものであり、私たちの「心の沼」を都会のように埋めてしまうことはできないのです。」(沼は臭いので蓋を P134)

「心の沼は、澄んではいない。」

 心の沼は、いつもドロドロ、ずぶずぶ、ぐずぐず、ぐちゃぐちゃしているので、ドブ掃除は無理です。 中略

 そこには容易に手を突っ込めない危険性もありますし、また性欲や残虐性もあります。底なし沼という言葉があるように、真っ暗で水中がどうなっているのかなかなか理解できないのです。だから心の中で、いくら酷い事、残虐なことを考えても、そのことは否定されるべきではありません。中略

 心の中でどんな空想をしようと、それは自由です。むしろ、心の中で考えてて置いておけるなら、ひどいこと、残虐なことを行動に移さないことが可能になります。心の中で自由に考えたり、想像したりすることを否定したら、ひとはとても息苦しくなり、むしろ危険なのです。

 私たちは、目の前で起きている現実と、心の中の現実と2つの現実を生きています。その2つの現実を生きていることを自覚し、その2つがバランスよく作用しあっていることが健康的な状態です。

 2つの現実の片方しか認めようとせず、あるいは2つの現実を同一にしようとするのは危険です。心の中で残虐性を実行することはよくあることですが、目の前の綺麗な現実だけを認め、それと乖離する心の現実を閉じたり、あるいは心の現実をそれに無理やり合わせようとすることも危険なことです。きれいごとをいい裏を認めず良い子である表にあわそうとすると、心に無理が生じます。

 ひどい、残虐な想像をしてしまうのも自分であり、他者に対して、良い人のように降る真っいているのも自分なのです。2つの現実と、人の2面性を認めることの大切さは、こうしたところからもりかいできます。

 このように、沼はあくまでにごったものであり、そのまま置いておくしかないのです。」(P136)

 長い引用をしました。きたやまおさむさんの言葉の1つ1つに納得しますし、わたしの「鬱々、ドロドロした、自分を卑下し、貶める考え方」から、お陰で解放された気分です。

 でも精神分析の専門分野をかみ砕いて説明してくれていますが、わかったようで、わからないところがたくさんあります。

 この文章を読んでいて思いだしたのは、私の子供時代(1960年から65年頃)小学生時代は、高知市内でも、転校先の大阪府豊中市でも吹田市でも、沼がありました。柵などもなく、「危ない河童に引き込まれるぞ!」とかの看板が立っていました。

 沼は沼で自然界では存在価値があり、水生植物や昆虫、淡水魚類などのビオトープの世界であったし、子供たちの手軽な釣り場でもありました。

 しかし高度成長時代が全国的に始まりますと、沼は埋めたてられ、宅地や工場や商業施設になりました。地面はコンクリートやアスファルトで埋められました。

 今年は猛暑でしたが、沼や小川は埋め立てられ、アスファルトで覆われました。市街地も暑くなります。沼に生息していた、カエルやミツバチや、トンボや、めだかなども身近な場所で見なくなりました。

 便利な社会になりましたが、なんだか皆が余裕のない状態になり、心のバランスを崩すようになりました。私もそうなりかけていました。

 高知でも東京でも皆、暇があればスマホの画面を見て「暇つぶし」をしています。会話もなく、人とのコミュニュケーション力の衰退も心配ですが、心の「むなしさ」や「間」をネットの情報で埋めてしまおうとして、かえって疲労が蓄積されて心にひずみが出来イェイるのではないかと私は心配しています。


「むなしさを味わう」(P157)

 きたやまおさむさんはこう書かれています。

 ここまで見てきたように、私たちの心には「むなしさ」が必ず訪れ、通例そのことから逃れることができないものです。そして「むなしさ」は「すまない」とともにいきていかざるをえません。

 しかし、そのことは、単にそれに耐えるべきものではなく、場合によっては、吐き出したい言葉を生み出し、創造性を育んで、むしろ人間の生に豊かさをもたらせてくれるのではないかと私は考えます。

 「むなしさ」そのものに意味はないかもしれません。でも「むなしさ」をかみしめ、味わうことには、」意味があるかもしれない。(P158) 

 私自身の個人史において自我というものが形成されたのは、中学生時代でありました。早熟な「政治少年」として、政治や社会運動に興味を持ち、当時の情報伝達手段は「ガリ版」(謄写版印刷)でしたので、それで手書きで「新聞」を発行し、社会評論的なことをしていました。

 そのころの作法として「うまくいかないこと。目標が達成できないときの原因を自分の中で追及し、文章化し、高めの達成目標を設定し実行していました。(実力から言えば高めの目標設定故に、殆ど到達できないことばかりでした。)

 しかしながら、自分でコントロールできない課題や、社会運動においては、党派の上級幹部(専従者)の命令などもあり、反論できないまま落ち込んでいき、挙句の果てには運動体自身が解体消滅し、敗北し、放り出されることの繰り返しでした。

 きたやまおさむさんの「沼」という考え方。「空しい」ことにも意味がある。決して無駄なことではない。出来ないときは出来ない。出来なくてもいい。という。まったりした考え方、発想法は新鮮でした。

 自分の気持ちを「文書化」して、目標を整理し、達成に向けて努力しする。それ等はいまでも、地域防災の会合などで、会合参加者の情報共有化の手助けになる手法であります。(深刻な問題以外では有益な方法手段です。)

 しかし万能の処方箋ではありません。きたやまおさむさんの今回の著作を読んで改めて気が付きました。

 今年は正月から手術や入院、療養が続き、その中でも、仕事の合間の「こまめな時間」を活用して、自分なりに「周到な」準備をしていた地域防災の2大大事業(私なりのである「仁淀川町防災キャンプ」が台風で中止になり、地域防災訓練予定日は、思わぬ衆議院の解散総選挙の関係で、延期が余儀なくされ、防災メニューの大幅な見直しが強いられました。

 仕事や地域活動も本調子ではなく、体調も本調子ではない。仕事もうまくいかないことがある。でもそれでも何とか生きて行かなくてはいけない。自分が情けなくて、すべて投げ出したい「マイナス思考の渦の中」で、この著作を読みました。

きたやまおさむさんの先輩格の精神分析医の前田重治さんの心の絵がありました。確かに文字表現で、心象風景を記述されてもわかりにくい。

 フロイトが日本に紹介された時代における精神分析の個々のイメージが描かれています。(P160)
フロイト心の中の世界図 001
 絵は「前田重治 フロイトの精神装置図」(1958年)とありました。

 上部は,外界に向かい知覚のために心は外に開かれています。(中略)

 個の前田先生の絵においても、無意識、あるいはほどんど無意識になっているエス(日本語ではそれを意味するドイツ語)は下部に置かれ、その最下層は身体に根差して「本能欲求取りこみ門が開口しています。」(P162)

「上部の頭脳や理性だけでは人間は生きていけないし頭脳や理性だけが、人間のすべてではありません。理性的な意識よりも、心の下部から湧き上がる、沼の臭い、欲望の臭いとしてのモヤモヤのほうが強くなってしまうこともあります。
現在の自我構造・前田氏 001
 したがって、上部と下部、その両方の領域を備えてこそ、人間の心の全体となるのです。」(P167「無意識と身体」)

この著作を読んで、あらためて、フォーククールセーダーズの」「あの素晴らしい愛をもう一度」の詩を読んでみると、心の深層を感じます。

作詞:北山修/作曲:加藤和彦/歌:フォーククルセイダーズ
「あの素晴らしい愛をもう一度 」

命かけてと

誓った日から
すてきな想い出
残してきたのに
あの時

同じ花を見て
美しいと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

赤トンボの唄を
歌った空は
なんにも変わって
いないけれど
あの時/
ずっと夕焼けを
追いかけて
いった二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

広い荒野に
ぽつんといるよで
涙が知らずに
あふれてくるのさ
あの時

風が流れても
変わらないと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい
愛をもう一度

「日常でも、「美しいもの」を共有しながら愛でるのは親子だけでなく、恋人や友人同士でも多いのです。雪見、お花見、花火、お月見、」紅葉狩りと、私たちは昔から同じものを一緒に眺めて心を通わせ、この愛を育んできたのです。
 漱石による訳だという逸話もありますが、「アイラブユー」を「愛している」と見つめあって言うのではなく、肩を並べて、「月が綺麗だね」と言う比較文化論は、私たちの「横並びの愛」の深層心理を鋭く突いていると思うのです。

 だがこの愛が取り返しのない形で崩れ、しこに穴が開き。「つながり」が突然切れるなら、目も当てられない惨状が展開するでしょう。お互いが孤立して、「みんな」からハブられる恐怖や、向い合ってもらえない不安、そして同調圧力が生み出されてしまうのでしょう。

 だから、同じ花を見て美しいといった2人の心が今はもう通わないという悲劇は繰り返されるのだと、歌でも言うのです。(P193「あの素晴らしい愛について」)


 終章にこういう記述がありました。

「探し物はきっと見つからない。もし見つかったと思っても、それはすぐ目の前から消え、失われていきます。なぜなら、心の中で求めている「探し物」と全く同じものは、外の世界には存在しないのです。

 1人の人間のなかには、心の中と外という2つの現実があることを述べました。質の違う2つの現実が、1にの人間の中で共存しているのです。普通はどちらか片方だけが現実でもないし、2つの現実を一致させることも無理です。だから、心の中にある「探し物」は心の外の世界には存在しないのです。P195)

「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語、日本文化、現代社会を見据えながら書いた。もちろん最近の私の一般向け書物と同様、フロイト理論や精神分析の対象関係論の考え方を活かしている。しかし「むなしさ」を感じたら、情報収集による穴埋めを控えて、これを味わい、できれば自分で考えてみたらと提案しているのだから、理論的なことやこのテーマに関わる議論は細かく書き込まなかった。」(P203あとがき」

 わたしにとって2024年は「トラブル」続きの年でした。正月には眼病での両目の手術と入院。療養生活などで長期間仕事が出来ませんでした。メガネ合わせに苦戦し、復帰できたのが5月連休前でした。

 でも手術のおかげで「失明」は免れ、「ド近眼」が「中程度の近視」になり、近くは見えるので老眼が不要になりました。悪いことばかりではありません。6月には右手裂傷、9月には帯状疱疹。10月には蜂に刺されるとかいうトラブルまでありました。

 おまけに周到に地元の皆様と準備してきました「仁淀川町防災キャンプ」も中止、地域の史ウ号防災訓練は、衆議院選の関係で延期(10月27日が12月1日)になる事態になりました。

 懸命に真摯にっ取り組んではいますが、「運も悪い」としかいいようのない事態になり、自分の非力を感じ落ち込んでいました。

 でも一方で18歳から70歳まで52年間うじうじと「孤独に」悩んできた問題も半分ぐらい解消できました。悪いことばかりではありません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html
(「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んで

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-f58837.html
(映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」)

 18歳の少年(高校生)は長い長い先の見えない暗いトンネルの闇の中にいました。70歳の時ようやく外に出ました。今は71歳になりました。

 今回きたやまおさむさんお著作「むなしさ」の味わい方(岩波新書)を読んで、わたしは52年間も「むなしさ」を味わっていたのであったと思いました。人生そんなものかもしれません。

 仕事も地域活動も社会参加もうまくいかないことばかりです。焦らず「むなしさ」を敵視せず、自分のペースで乗り越えてみます。
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 脳ドックの医師は精神科医ではないでしょうが、「ヨットは脳幹トレーニングにはいい」と言われました。今年はヨットのほかにSUPも習います。「71の手習いです。主たる目的は、今の居住地域(海抜0Mの二葉町)は、南海トラフ地震が起きたら水没します。地域の防災会長としてSUPで住民の安否確認をしますので、基礎からの習いが必要だからです。

 自分の限界、体力と気力の衰えを思い知らされた2024年でした。悪いことではありません。できる範囲内で、やるべきことはやり続けます。

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2024.06.21

「重信房子がいた時代」を読んで

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。
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「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。あさま山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。

とにかく閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断できなくなる。あとから『なんであんなことをやってしまったのか』と後悔する。
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こういうことはたくさんある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」(映画監督・森達也氏談)NHK記事より)

 とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。

 私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。

考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?中国は敵対していた共産党と国民党が連携して抗日軍をこしらえました。その動きのかけらもないのはなぜなのか?」でした。

 個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、10年以上前から考え続けてきました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html
(連合赤軍と新自由主義の総括)

 最近読んだ2つの著作「「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。すべて解決したわけでもないですが、2つの著作は私の悩んでいた52年間とリンクしています。長い長いトンネルの出口のかすかな灯のように思いました。

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)の読書感想文です。一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。

 私は最近はYouTubeで重信房子さんの出演する中東情勢を解説する番組を時折も見るようになりました。

「私たちがパレスティナへいったころは、旧ソ連の支援がパレスティナにあり、パレスティナの青年は旧ソ連で高等教育を受け大学に進学し医師になる人もいました。受け入れてくれる素地はありました。」

「イスラエルがレバノンに侵攻した1982年以降は、中東に居ずらくなりました。また旧ソ連が崩壊した1989年以降は支援も少なくなりました。」

「1995年にイスラエルとパレスチナの共存を国是としたラビン首相が暗殺されました。1996年に台頭したのがパレスチナ国家を認めないネタニエフでした。これ以降は対立と分断が始まります。」

 重信房子さんはYouTubeで明瞭に解説してくれました。なるほど。という感覚でいたところ、偶然友人が「重信房子がいた時代」を貸してくれました。「家内の親戚の人が書いたノンフェクション。手元に1冊しかないのを送る。読んだら返却してほしい。」とのことでした。

 稚拙な読書感想文です。印象に残った言葉を書き出しました。

「ねえ、あなた髪型かわったわね。」

重信房子は、私にそういった。アクリルの窓越しに手と手を合わせたあと、いきなり、

「昔はもっとボーイッシュで、すごく短かったじゃない。その印象が強いの井よ、それから目も変わったわね。ほら昔はもっと細かったじゃない。」

「しわが出来て、ふかくなったんですう」

 そんなことを返しながら、重信房子も、ただの、ふつうの叔母さんじゃん、と思うと笑いがこみあげてきた。

 ほぼ40年ぶりに面と向き合って、言葉を交わす、その話題がこんなとことから始まるとは、さっきまでの気鬱は何だったのか、と力が抜けた。」(40年振りの再会 P11)

「房子がアラブに向けて出国したのは1971年。赤軍派の結成は69年8月23日だが、その前から房子は大学を離れて党派活動に専念するようになっているはずだ。そのときから、私が房子と会う機会はなくなった。

 したがって、この再会葉41年ぶりでもあった。しかも親しくしていた時期は67年から68年にかけてのわずか2年足らずである。一緒に歩いた土地も、駿河台のせいぜい半径2キロぐらいのものだ。

 同志でもない私には、共有する記憶はわずかなものだ。この空白はどう埋めたらいいのか。そもそも埋めることはできるのか。話すこともなく、会話が途切れてお互い気まずい思いをするのではないか。ドラマや小説の再開のシーンを浮かべてなぞらえようとした。

 ところがいきなり髪型の話である。(中略)41年間の空白はあまりにあっけなく消えた。その41年前の事、今のこと、年相応のしみやしわ、白髪のこと。脈路なく話は結んだりほどかれたりして、わずか10分ほどの面会時間は終わった。

 帰りの電車の中で思い出した笑顔は、40年前と変わらなかった。目も口元も、学生時代と何1つ変わらなかった.」

「ねえあなたは誰が好きなの」房子は唐突に話しかけてきた。

  中略


 あのころ、汚い研(文学研究会)のサークル室で、彼女の白い肌はきわだっていた。ピンクの口紅がよく似合っていた。おっとりした問いかけだったが、いい加減な返事を許さない強さがあった。

 文学サークルで「誰が好きなの」と問われれば、あのころは、カフカ、カミュ、吉本隆明、埴谷雄高、・・。そして大江健三郎とたいていの学生は答えた。しばらく前まで高橋和巳が明治の助教授に名を連ねていたこともあり、よく読まれていた。実際に私たちの周りでは、文庫本になったばかり「散華」手に高橋勝巳の名を連呼しているものがいた。

 そんな中で、私が「谷川俊太郎とか富岡多恵子です」と答えたものだから、房子は、一瞬とまどった。私の言った詩人を知らないのだなと私は思った。ところが彼女はすぐに人なつこい笑顔でいった。

「えっほんとに。私も詩を書いているのよ。現代詩を。今度見せてあげる。あなたもみせて。」その時たまたま部屋に行ってきた男子学生を紹介しながら、私と彼の両方にいった。

「ねえNくん。彼女も現代詩ですって。Nくんは鮎川信夫をよくよんでいるのよ。「荒地」の詩人の井戦争体験や詩に惹かれるんですって」P14

 1967年・68年頃のブント系(社学同の影響の強かった明治大学の学生の傾向なのか、当時全共闘世代と言われた多くの学生たちの流行の読書傾向なんでしょう。

 わたしは重信さんより8歳、著者の油井さんより6歳年下です。67年・68年は田舎の中学生でした。1970年の高校2年生の時、高共闘をやっていた追手前高校の連中が吉本隆明がどうしたとか言うていました。私は田舎の高校生でしかも毛沢東主義者でしたので興味はありませんでした。
yosimoto
 1973年に大学へ入学して、入部した文科系サークルがブント系の傾向いうが強く、その時期に吉本隆明、埴谷雄高、高橋和巳、などを読みました。荒地の詩集も読みました。鮎川信夫もです。「自由闊達」という雰囲気でした。
ayukawahaniya
 1973年の夏ごろまでは、ノンセクトの学生たちの運動が、早稲田大学でもセクトである革マル派を凌駕するのではないかという勢いがありました。しかし夏休みが終わり秋になると革マル派は武装集団として「プロ化」し整然とした武装集団に変身していたようです。

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊より。

 結局組織化してきたセクト(党派)の武装集団に対抗するためには、セクトの武装集団でない対応できない時代となり、口論や論争で対立する相手をやりこめるのではなく、暴力行為で相手セクトの幹部を殺害する行為を繰り返すようになりました。

 思想の左右を問わず、「異論を排除し、時に暴力的に排除し、殺人行為もしでかしてしますことが常態化する。」異常さが52年前の日本の新左翼党派(セクト)にありました。これでは問題意識を持ち、デモや集会に参加しただけの学生一般は、ついていけるはずもなく、必然的に政治闘争、社会運動は日本社会から衰退し、広く支持を得ることが難しくなりました。「政治」に無関心な市民が増大し、「改革」を標榜する自民党清和会政治を容認し、格差社会を拡大することに結果として加担するようになりました。

 油井りょう子さんは、重信房子さんのご家族(両親や兄弟)や生い立ちなども丹念に記述されています。お父さんは若かりし頃、極右団体血盟団のメンバーでありました。15歳も年が離れた奥さんと結婚し、敗戦後は夫婦で食料品店を世田谷で開業し、懸命に家族力を合わせて生きていました。

 重信家の兄弟姉妹は皆成績優秀で大学進学をしたかったようでしたが、商業高校や工業高校に進学し、卒業し大手企業へ就職しました。重信房子さんも商業高校卒業後は、大手食品メーカーのキッコーマン醤油に就職しています。

 高校時代に文芸部に入部しました。自作の小説を書くだけでなく行動力もあったようです。

「高校時代には、武者小路実篤の「友情」を読み、その作家に会いに行った。そこで、作家に向かって「ヒロインの杉子は民主的ではない」などと面と向かって批判した。

 大作家は、台所でお茶の用意をいしている妻に聞こえるように、笑いながら大きな声で言った。「おい、杉子は民主的ではない、とここにいるお嬢さんがいっているよ」
 杉子という女性は、その頃の作家の妻がモデルだったからだ。批判したお嬢さん、房子のために大作家は色紙まで書いてサービスまでしてくれたという。」(文豪に会いに行く P41)

 単なる文学少女だけでなく、物おじしない行動力も備えていたようですね。感心しました。

 また重信房子さんの兄弟姉妹は地域社会の現実と真摯に向かい合っていました。

「先にもふれたが、房子の家の近所に朝鮮人の部落があった。近所の大人は,子供たちにそこへは「近づくな」とあからさまにいった。1950年6月から53年7月迄の朝鮮戦争の影響もあった。
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 しかし、房子の長兄が自転車に乗っていてチンピラに因縁をつけられたとき、一家を守ってくれたのは、この集落の人々であった。好奇心旺盛な房子達きょうだいは、関心を持って集落の人々の暮らしや、自分たちと違う風習を見つめた。

 春、桜の季節になると、集落の人々が、馬事公苑に繰り出すのです。そして、太鼓を鳴らし、手拍子をとって」にぎやかに歌い、踊っていました。華やかな服装とにぎやかな踊りと、ふだんの暗くくすんだような暮らしとの差が、あまりに大きいので、毎年、驚いてみていました。と房子は振り返る。」(P44「戦後民主主義の申し子」)

 わたしも小学校低学年時代に大阪にいました。経済格差がある地域でした。上流の家庭は、母親は女子大卒で専業主婦。子供にが大学生の家庭教師をつける環境。そのお母さんたちが「あそこへは行かれん」と言っていたのは地域内の朝鮮人集落でした。私は転校生でしたので両方の地域で友人がいました。

 朝鮮人集落のご両親は共働き家庭。母親は在宅せず、アパートの鍵を子供に持たせていました。「かぎっ子」という言葉を初めて知りました。うちの母も土地らの地域の子供も差別せず、おやつを出していました。重信家も健全な過程であったと思いますね。

子云う高3年生の時は「小さな親切運動」を夏休み返上で懸命にボランティアをしているところを新聞に取材され、記事になっていたそうです。

「このころの房子の活動は、あくまでもけなげな正義感からホームルームでリーダーシップをとるという範囲でしかなかった。外へ向かって行動し、発言しても、だれひとり傷つけるわけでもなく、自分も傷つかず、大人たちからも好意を持たれ、優等生のお嬢さんが、勉強と両立できる健全な活動の範囲だった。

 こんな生徒はどのクラスにもひとりはいたはずだ。こうしたかつどうがのちの「国際テロリスト」の萌芽と見ることは誰にもできないだろう。むしろ、戦後の民主教育が理想とした、貧しさに負けず、いわれなき差別に挑み、真っすぐ明るく頑張る女学生の姿そのものではないだろうか。」(P47[戦後民主主義の申し子」

 重信房子さんは1964年の高校を卒業し、キッコーマン醤油に入社されました。そして翌年「教師になりたい」夢をかなえる目的で1965年明治大学2部(夜間)文学部に入学されました。

 昼間は会社勤務。夕方は夜間の大学生。いろんな職種の学生がいて刺激になったようです。その後1960年代後半のうねりのような社会運動が世界的に先進国で起きましたが、サークル活動や自治会活動、社会運動の大波が到達してきて重信房子さんも影響を受けて、思想信条も変化して行きました。
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 1965年の日韓闘争、学費値上げ反対闘争、1966年の各大学での全共闘運動やベトナム反戦闘争、1967年、1968年頃には、社学同(ブント系)の運動に影響されていきました。

「集会やデモに房子は参加していた。しかし房子は表には立たず、つねに「救対」であった。応急処置をする包帯や赤チンの入った救急箱を手にして、セクトを超えて救援に(救護)対策にはしりまわっていたのである。デモの後ろにいて、傷ついた学生や労働者を手当てする。それは明治の学内や関係者に限らなかった。」(「救対の重信」P86)

 また闘争は思い付きで始まる。「1968年6月21日で社学同の委員長のMがパリのカルチェラタンのようなものだ。やれるのはやはり明治だろう。中央では社学同集会やって呼応させるから」

 明治大学の学館から長い机を運び出し、御茶ノ水駅から駿河台へ通じる明大と売りに並べてバリケードを築こうというのだ。車の往来の激しいそのとうりの真ん中に机を置くのだ。

 中略

 またたく間に開放空間が出来上がりました。早速「解放区」「反安保・反戦の砦。神田カルチェラタン解放中」などの立看板を御茶ノ水近くの道真ん中に立てました。」(神田カルチェラタン P104)

 記述されている文字をなぞっていても楽しい。ほんのわずかな時間でも「解放区」が出来たことが楽しいです。社会運動や闘争は明るく他の良くないといけない。

油井さんはこう記述しています。「房子が熱い思いで振り返った神田カルチェラタン闘争。社学同が掲げ、現思研がリードし、市民を巻き込んだ、この戦いの熱気はいったいなんだったろうか。あの時代の闘争の1つだったのだろうか、それともまぼろしだったのか。あの時代に、あのキャンパスにいた一人として、私は、遠い日の物語であり,やはりまぼろしだったのだとしか思えない。」(P104)

 幻であれ何であれ、「解放区」を日本で大学構内ではなく、神田の路上で体験したことは羨ましいです。そういう体験を私はしたかったです。後にも先にもそういう「解放区」は日本史ではなかったと思います。

また重信房子さんの父親の重信末夫さんは、青年時代血盟団の筋金入りの右翼青年でした。1967年の羽田闘争の顛末を家族に熱く語る房子さんに末夫さんはこう言われたとか。

「房子本気で革命をやるなら、あのようにやってはいかん」

 中略

「本気で革命をやるなら、まず民心を重んじなければならぬ。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンにすぎぬ。
 井上日召は1人1殺主義と言われているが、そうではなく、1殺多生は1人ではできぬ。」(「父よ娘の革命」P113)

「革命とは死ぬことを見つけたり」と思っているんだ。革命の途中で死ぬのはやむをえない。同志の死は革命の捨て石ですよ。捨て石がなければ革命なんかできないのいだから。
 
一般市民の死、負傷はやむをえないことである。革命をやる以上犠牲者はでるのはしかたがない。

 ただし、内ゲバをやるような下衆な根性では革命が出来るのか。出来や市内四・そんなもの」と吐き捨てている。」(PO1269

 やはり本物の革命戦士には、内ゲバは堕落であり、排すべきものであるという真摯な心意気があります。本物ですね。

 大学では1969年は全共闘運動が退潮し、学生運動が変質し始めた時期だったようです。油井さんによりますと重信房子さんは、キッコーマンは1年半ぐらいで活動と両立は難しいということで退社されましたが、サークルに活動、学生運動、アルバイトの多忙な日々でありながら大学は4年で卒業、しかも教職課程も取得していました。更に政経学部3年に学士入学しています。それは専従のプロのセクトの活動家ではないと大学当局が判断したからでしょうと油井さんは記述しています。

 教師になりたかった重信房子さんですが、取り巻く状況はそれを許さないようになっていったようです。1969年に全共闘運動の衰退もあり、ブントのなかで「武装闘争」を主張する関西派が台頭し赤軍派を結成します。

 1969年11月に武装訓練をすると大菩薩峠の福ちゃん荘に集結していた赤軍派主力部隊50数名が全員逮捕されました。

 1970年3月に田宮など9人の赤軍派がよど号をハイジャックし北朝鮮に飛びました。本当の目的はキューバでしたが北朝鮮は寄り道でした。「俺たちは明日のジョーになる」という漫画的な事件でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-647d.html
(個人ブログ「われわれは明日のジョーである」2009年5月4日)

 1971年2月に赤軍派の1部と毛沢東主義者の京浜安保共闘が合体した連合赤軍があさま山荘事件を引き起こし、無残な仲間殺しが露呈されました。重信房子さんと明大二部文学部で親友だった遠山美枝子さんは惨殺されました。

 重信房子さんは1971年3月に中東のベイルートに到着されていました。


WIKIPEDIAで検索しますと「日本赤軍」の活動履歴が出てきます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%8D%E6%84%9F%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%88%E7%B4%B0%E3%82%8A

 記述は不確かな部分もありますが、「活動年表」的なものがないと、なにせ50年から40年前の出来事なので、こちらも記憶が定かではないので、事実誤認は避けたいので、検索してみました。

 1969年頃からノンセクトの広範な社会運動(全共闘運動)が退潮傾向になり、70年安保闘争はセクト主導になりつつありました、革共同中核派、革マル派、社青同解放派、ブント(共産主義者同盟)は分裂し、戦旗派、叛旗派、ML派、赤軍派などに分れつしていきました。

 記憶が正しければ赤軍派は「前段階武装論」とか「国際根拠地論」にもとづいた武装闘争優先の党派でした。ですが主力部隊と幹部の大半が1969年の大菩薩峠のふくちゃん荘の合宿所で逮捕されました。

 1970年の「残党の」田宮ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮経由でキューバへ行く予定でした。「国際根拠地論」に戻付いて行動であったgと思います。

 国内に残された赤軍派の中堅幹部の森恒夫は、思想信条の全く異なる毛沢東主義者集団の京浜安保共闘と結託し、連合赤軍を結成し、「国内山岳アジト」で、日本国内での武装闘争を仕掛けようといしていました。

 最高幹部絶対主義と些細な主張の違いを許さず「総括」と称して、仲間にリンチを加え殺害する行為を繰り返していきました。「神田カルチェラタン」のおおらかさなどみじんもない、息苦しい閉ざされた閉鎖組織になってしましました。重信房子さんの明大時代同じサークルで親友だった遠山美枝子さんはそのなかで惨殺されました。

 1971年3月に重信房子さんたちは「国際根拠地」を求めて少数の仲間たちと中東ベイルートに居ました。1970年代は、ハイジャックや武装闘争など「日本赤軍」は活動を激化させた時代がありました。

 何故アラブなのかは油井さんも含め文研や明治大学の仲間たちもさっぱりわかりませんでした。その理由を油井さんはこう書かれていました。

「なぜが、少しずつわかるようになったのは、04年の房子の公判を通じてだ。房子は、1月27日の第40回公判で述べている。

「(よど号事件に関連して)逮捕されて出てきた後、実際には、もう自分にやれることは余りないな、やめようかなということで、迷惑ばかりかけて力になれないから、もう1回学校へ戻ろうかと思ったんですけど、もっとひどいというか、誰もいなくなってる状態でだったんで、ぜひ国際部を引き受けてほしいと、国際部のキャップに言われまして、それを手伝うという形で協力しましyた。」(P147「国際根拠地づくり」)

 中略

「そしてなぜアラブだったのかと弁護人に重ねて問われて、房子はベトナムと比較して答える。ベトナムは陣地もあり。国家という後ろ盾もある戦いであり、義勇兵として参加を希望したものに対しては、自国の帝国主義と闘ってくださいという立場をとっていて、それは1国の革命解放で完結していく戦いであった。

 しかしパレスティナ問題というのは知れば知るほどい、世界革命なしでは解決できない。で、世界党、世界赤軍、世界革命戦線というように主張してきた赤軍としては、まさにパレスティナの戦場を戦いの根拠として、世界は新しくうまれかわるんではないかと、そういう非常に大きなインパクトを持ったイメージに受け止めました。」(P149)

 結果的に赤軍派の「国際根拠地論」を「まがりなりにも」「見える化」できたのは、重信房子さんが国際部をしぶしぶ引き受けたからであったと思います。

 「あとがき」で重信房子さんはこう述べています。

「読みながら思いました。面会でもそうだけど、40年の断絶を経て会う旧友たちとは一瞬にして時間を飛び越えてしまいます。何10年経っても人と人との関係の在り方は変わらないな、と。

 姉からみたらわたしはいつも妹であり、大学時代の仲間からすれば、私は世話好きの女学生の枠を出ていません。上級生から見れば、ひたむきなあぶなっかしい下級生であり、下級生だった旧友かられば、楽しくくっついて行ったら、とんでもない目に遭わせた先輩です。

 「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」などといって、「土曜会」をつくって、この10年、わたしを支えてくれています。未来やこれからを語るときは一緒に並んでいるのイに、過去も今も関係性は、そのままです。それが居心地がよくて超えられないし、また超えるきもないのですけれど。」(あとがき P234)

 1974年に主パンした本の前書きで重信房子さんはこう書かれていました。
「普通に生きている女の子が、妥協しないで自分に忠実に正しいと思ったことを追いかけてきたらここ(アラブ)に来た。
 自分に忠実である事であることが”青春”なら、”青春”とは権力者に言わせれば”犯罪”のことになったしまう。

 死ぬまで”青春”を堅持する私は、だから”犯罪者”だ。死ぬまで”革命”を堅持する私の意思は、”犯罪”なのだ。」

 読後感は「爽やか」でした。世話好きな女の子が、精一杯奮闘しているうちに、国際根拠地づくりでアラブの地へ行っていたという実話ですね。活動家時代も殆どが裏方であり「救対の重信」でした。セクトの上層部や幹部が誰もいなくなり、自分が引き受けてセクトの「国際根拠地」づくりを実際にアラブの地で「見える化」しました。

 実際にはテロ行為やハイジャックなどの罪を問われ、懲役20年の実刑を受け、2022年5月28日に出所されています。

 素晴らしいのはかつての学生時代のお仲間たちが「土曜会」というグループをつくりなにかと重信房子さんを支えてきたこいですね。「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」という趣旨はすばらしいです。暗さのみじんもない。


 本を貸していただき送付までしていただきました梅原孝司さんに御礼を申し上げます。高校生時代から52年間鬱鬱グズグズ考えてきた「連合赤軍と内ゲバの克服する処方箋」が、ようやく「見つかった」きがします。ありがとうございました。

 また筆者の油井りょう子さんにもお礼を申し上げます。わたしは外周にいた渦の外側で悪影響を受けた1人ですが52年間悩んできました。「土曜会」の皆さんのように明るく、言いたいことを言えるような仲間が大事である。家族も地域社会も大事であると思います。

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2023.08.29

映画・水俣曼荼羅見ました

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 2023年8月27日(日)ですが、家内の発案で372本の長編ドキュメンタリー映画「水俣曼陀羅」(原一男監督作品)を高知県民文化ホールで鑑賞しました。そういえば映画と言えば、前回は愛宕劇場で家内に連れられインド映画を鑑賞しましたね。

 http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-2ad7c7.html
(長編インド映画を見ました)

 インド映画「R・R・R」は3時間でした。今回の「水俣曼陀羅」はその倍の6時間映画でした。
 2時間の映画が3本あり。合間に休憩。そのあと原一男監督のトークライブ迄あり、午前11財から午後20時近くまで、休憩時間を入れて8時間の長帳場でした。

 感想は「良かった。」と思いました。聞けば撮影するだけで15年間。それを編集するのに5年かかり、20年間かかって完成したそうです。
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 裁判所前の報告集会の様子や、患者側と国側、熊本県側との直接交渉の様子も克明に撮影されていました。20年間の間ですので、国や熊本県側の担当者が変わり、対応しています。

 画面を観察していますと、国や熊本県側は、患者側と正対し、対話し、合意形成を図る医師は全くないことがよくわかりますね。愕然としました。国や県の行政側の根拠や信じている者は、1952年の役所の文書とか、水俣特措法とかなどでした。役所は役所の書いた文章(公文書と称している)しか信じないし、行動履歴の根拠はそれしかありません。

 あまりの酷い対応に激高したかんじぃの家族や支持者が声を荒げる気持ちは痛いほどわかります。噂には聞いていましたが、これほど国側や熊本県庁が不誠実でやる気のなさを見ると、私がその場にいたら、より激高していたことでしょう。

 個性的な人物が登場し、コメントしたいところですが、ゆっくり「総括」する時間がありません。

 映画終了後原一男監督のトークも聞きました。製作20年のパワーを感じました。「水俣曼陀羅 製作ノート 原一男・著」を購入しました。さいんをしていただきました。。

「西村健一様 悶え神 原一男 2023・8・27」でした。
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 サインには「悶え神」と書かれました。水俣問題の先覚者である作家の石牟礼道子さんの言葉でした。老人施設に入られておられ、車いすに座りながらも体は常に動いていますが、あたまはしっかりしていました。

「悶えて加勢する。」

 付き添われていた昨夏の渡辺京二さんが解説されました。
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「自分が何の加勢もできんから、せめてね、せめて嘆き悲しみを共にしてやろうということですよね。それは部落で何かあると、人の事をえらい心配して,人のことなのにさ、我がことのように悶える人がいるというわけですよ。

そのことを悶え神というふうにぶらくではいうそうです。」

 今回の感想はこれだけ。後から思い出したら書きます。
来年2月には高知県立美術館で上映される予定です。田辺高英さんありがとうございました。
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2023.08.08

職場存続 切り札はシニア


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 日本経済新聞2023年8月6日号の1面トップ記事は「職場存続 切り札はシニア」「70歳雇う企業4割」「急増する労災、対策急務」と見出しにありました。

 日本の社会構造の急激な少子高齢化。現役層の労働力人口の減少が顕著になり、それを「穴埋め」していた外国人労働者も、円安で日本に出稼ぎに来る魅力が亡くなり、より労働得翌不足は深刻。

 なかでも建設業と介護福祉分野は、65歳以上の雇用y差が15%を超えていjます。宿泊・飲食、運輸、郵便なども10%をこえています。タクシーやバスは30%を超えているようです。

 大手家電量販店のノジマは2021年に雇用の上限をなくしました。70歳情は30人いて、80歳情は3人入りうとか。埼玉県川口市の店舗で働く81歳の女性は週に4回手xyつ金しています。望まの経営者は「年齢で働く上限を決めるのは じんせい100年時代にそぐわない。高齢者を活かせないのは損失だ。」と言います。

 とはいえ現実はシニア世代の働き口は日ズムが出ています、現役世代が敬遠する肉体労働中心の低賃金業種に偏り、安い賃金で働かざるを得ない現実があります。記事では厚労省によると22年末までに65歳~69歳までの賃金は6%上昇しましたが、70歳代は9%低下したそうです。
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 シニア世代がせっかく意欲的に働く意思があっても、仕事とのもミスマッチが多いようですね。ノジマのように商品知識を活用できる店員は年齢的には関係ありません。

 日本経済新聞の同じ日の紙面で書籍の広告に「70歳が老化の分かれ道」がありました。以前読んだことがありました。
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http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/07/post-c02957.html
(70歳が老化の分かれ道を読んで)


感想文を書いていました。


 「70代というのは、意欲的に身体を動かしたり、頭を使ったりしないと、すぐに要介護になってしまうというリスクがあるのです。」(P35)

 意欲の低下は、脳の前頭葉の老化と、男性ホルモンの現象が主な原因であるとか。

「70代に身につける「習慣」がその後の人生を救う」(P41)

「何ごとにおいても「引退」などしてはいけない。(P46)

 いい言葉です。仕事も社会活動も、「海の散帆」も、リハビリウォーキングも「引退」hがしませんから。偉そうにせず、楽し気にやり続けます。

「働くことは、老化防止の最高の薬」(P51)

「運転免許は返納してはいけない。」(P57)
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 7月に始めに、50年前に入学し、すぐに入会したサークルの同窓会を東京でしました。メンバー10人が集まり懇親しました。皆70歳前後です。10人のうち6人が現役で働いています。

 私は脳の健康(脳ドック、体脂肪を削減する(食事と毎日の運動・ヨット)、歯のメンテナンス(口腔ケア)などをしています。仕事も地域勝土居宇も現役で益々負担が増えています。リタイヤする余裕がありません。

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2023.07.08

よくわからない歌舞伎業界

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 歌舞伎界のトップスターの1人である市川猿之助が、母親の自殺ほう助の容疑で逮捕したとの報道。驚く事件です。日本経済新聞6月28日号でも大きく記事になって今うs。

 

 

 同時期の高知市出身の女優・タレントの広末涼子(42歳)の相手男性とのダブル不倫問題が騒がれていました。広末の出演していたCMhア宝永取りやめが相次ぎ、相手男性も料理番組からの降板などがありました。一般人からは想像もつかない金額の損失があるようです。

 

 昔から男女間の恋愛感情は関心のあるテーマでもあり、江戸時代では、かなわぬ交際を嘆き、心中もたくさんありました。子供を3人産んでも、広末さん奇麗だし、魅力的。色恋沙汰は関心事ですが、「なるようにしかならない」ものでしょう。

 

 それに比べ歌舞伎業界の今回の事件は深刻。

 

 文藝春秋7月号は「猿之助ショック!歌舞伎を守れ」という特賞記事があり、歌舞伎業界に詳しい2人の識者がコメントを寄せています。
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「猿之助は未来の希望だった。」(渡辺保)

 

「伝統芸能はドロドロもないと」(席容子)

 

 2人に寄れば猿之助は子供時代から、芸達者で将来の歌舞伎界を担う逸材とか。まさに今その立場であるのに、なぜ親子で自殺をしようとしたのか、門外漢には記事を読んでもいわかりません。

 

 コロナ禍で売り上げも減少し、反転攻勢で「これからだ」という時期に、エースの自殺未遂と親の自殺ほう助での逮捕。あまりに深刻で、息が詰まりそうな出来事です。歌舞伎界のエースを一体何が追い詰めたのでしょうか?わかりません。

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2023.06.07

「誰が国語力を殺すのか」を読んで

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3月に知人から課題図書の紹介がありました。「ルポ 誰が国語力を殺すのか」(石井光太・著・文藝春秋・2022年7月刊)でした。大変衝撃的な書籍のタイトルでした。

 2023年の3月に紹介されました。地方都市である高知市の1番大きな書店には現物在庫がありませんでした。(紀伊国屋書店や丸善などの本屋は高知にはありません。)その書店に注文しました。10日後に「届きました。」という電話連絡があり取りに行きました。
(アマゾンあたりに注文すればすぐに来ることでしょう。ろくに日本に税金を払わず荒稼ぎする「禿鷹」を利用することはない。地元書店を大事にしたいと思います。)

 私個人の事情は3月に地域防災関係で3つの講話の話があり、そのための資料作りを終業後に時間や休日に費やしました。金融機関での待ち時間や、会合前の待ち時間など、細かな時間で断続的に少ししか読み続けることしかできませんでした。

 とぎれ途切れに読み進み、印象に残る言葉の断片をノートに書く作業すら出来ませんでした。そのなかで印象に残る記述をなんとか書きだしてみました。

「子供たちはある程度の年齢になると、家族と距離を置いて、学校や習い事などを異なる人たちが集まる集団に身を置くことになる。そこで必要になるのが、多様な価値観から発せられる相手の主張を文脈の中で理解し、自分の意見を筋道をたてて構築していく「論理的思考」だ。
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 社会のルールを把握し、他人に自分の思いをわかってもらうようにコミュニュケーションを取り、トラブルが起これば最善の策を考えて解決する。その力をつけて初めて社会という集団で生きていける。」(P23[国語力とは何か」)

 実は私に関わる自宅周りの小さな地域防災活動でも、常に「伝わらないもどかしさ」を感じていました。「なぜみんな危機意識を持たないのか。準備をしなければ間違いなく生き残ることが難しい地域なのに」と思いました。

 世代の若い人たちの共感が得られず訓練や打ち合わせ会に出て来なくなりました。私の言葉や伝達方法にどこかにまずいところがあるのに違いない。そう思います。でもじぶんではなかなかわかりませんね。会合出てこない相手に責任転嫁し怒り狂う事が多かったです。

 学校現場の深刻な事態は、私に悩みとはまた異質です。

「言葉のない生徒たちは、うまくいかなくなった時に、なぜそうなった原因について筋道を立てて言語で考えることをしない。とにかく悪い状況に陥った時にストレスを感じて、場当たり的な方法で現状に無理やり蓋をしようとする。

 相手に暴力を振るう。学校に来なくなる、ネットに悪口を書き込む、リストカットをするなどと言った行動だ。それは余計にトラブルを大きくすることになる。」(P30「格差と国語力」)

 どういう事例があるのかと言いますと、事例としてP30からP31にかけて教員と生徒のやり取りが記述されています。以下引用します。

 教員がその行為を咎めると、大抵次のようなやりとりになる。

教員「どうしてその生徒に手を上げたの?」

生徒「あいつがクソだから」

教員「クソって?」

生徒「とにかくクソだからやった。」

教員「他に方法はなかった?」

生徒「知るか、クソ」

 引っ込み思案な子供の場合は、こうした乱暴な言葉を使わない代わりに、押し黙りがちだ。教員に何を訊かれても、下を向いて首を傾げたり、口を尖らせたりして沈黙する。

 乱暴な子供にせよ、引っ込み思案の子供にせよ、共通するのは、教員の質問を受けてトラブルになった要因を考え、自分がすべきことを導き出す力がかけていることだ。

 だから乱暴な言葉で物事を曖昧にしようとするか、口を閉ざすかする。

 一方、言葉によって物事を考え、表現する力のある子どもはそうならない。たとえ行き違いが生じたとしても、それが起きた原因を考え、お互いに歩み寄って言葉で話し合うことで和解する。

 もし自分たちでできなければ、友人や教員や親に間に入ってもらう。それが発展的な人間関係に繋がる。」(P31)

 引用していて深刻な現実があることを理解しました。同年齢の子供たち同士で「言葉の格差」「言葉による表現力の格差」は想像以上にあるのではないかと思いました。

 終章の中で筆者は、国語力を幼少時代や学校時代に十分身に着けていな子供たちが社会人になり就職する職場は、筆者のいう「感情労働」に就労し苦労していると指摘されています。より深刻な問題であると思いました。

「感情労働とは、労働者が感情をうまく抑制して働くことが求められる職業のことだ。具体的にはヘルパー、コールセンター、飲食サービス業、美容師、ホテルスタッフ、保険営業員、保育士、観光案内といった職業である。」

「もし家庭格差の犠牲になった子供たちが感情労働に就いたとして、どれだけ社会や会社が求める高い要求に応えられるだろうか。

 たとえばホテルに就職してホテルマンになったとしよう。これまで「やばい」「えぐい」でしか表現をしてこなかった若者たちが、就職してすぐにホテルのフロントに立ち、国内外からやってくる客の気持ちを読み取り、適切なタイミングでコミュニュケーションを取り、世界1と称される室の意高井サービスを提供できるのだろうか。これが簡単でないことは誰にでもわかることだ。」

「企業が彼らに生きるために必要な力を養わせなければならない。だが、今の社会には、そうしたシステムがなくなっており、低賃金で雇って、能力が追い付かない人間は切り捨てる風潮になっている。」


「仕事について3年以内に離職する率は、中卒で60%前後、高卒で40%前後となっている。

森本龍己君の投書425_NEW
 中学時代の同級生は「誰が国語力を殺したのか」で記述されている生活現場、家庭環境とは問題にならないぐらい厳しい生活でした。

 しかし母親の献身的な努力と、ある団体での先輩の激励がかれに「言葉の獲得を可能にし」大きく成長することが出来ました。

高知新聞2023年4月25日に読者投稿欄「声ひろば」に中学時代の同級生の森本龍己君の投書が掲載されていました。題名は「声ひろば騒動」です。


 森本君が先輩に促され、「声ひろば」欄へ初投稿した頃の苦労を書かれています。多くの同級生たちが高校へ進学する中で、中学卒業して集団就職で大都会へ行く同級生もいました。森本君は卒業後すぐに家業の建設業を手伝い職人になりました。

 もう30年ぐらい前でしたか偶然伊野小学校の校庭で再開しました。お互い中学卒業後20数年経過した時期でした。

「僕も青年部の活動をやりだしてから、西村君が中学時代に生徒会でわめいていた理屈がわかるようになった。」

「皆の前で意見を述べたり、会議の司会をしたり、文章を書いたりするといろんなことが見えてくるようだ。」と言われていました。

 また「青年部活動をしなかったら、僕はやさぐれて間違った道へ行っていたかもしれない。」とも。

 森本君はある宗教団体の青年部で活躍し、コミュニュケーション能力を獲得したようでした。地元新聞の読者投稿欄への投書をすることの重要さ、真摯な努力をされていたことも今回わかりました。家業の建設業も発展し、代表者として活躍されています。

「体験談だから書くことがいっぱいあった。まず、ひらがなで書いて、後から漢字を調べて、書き直して先輩に見せた。

 誤字を何か所も指摘され,何回も添削された。郵便ポストへ投函するまでに数か月かかった。」とのことでした。日中は建設業の仕事をされ、終業後の疲れた体で机に向かい、文章を書いていたようですね。凄いことです。
 
 新聞投書欄は制限文字数が500字程度で、見出しも10字以内。「体験談」はそれこそ一杯あるでしょうが、それを500字にまとめることは、とても難しい。

 自分の伝えたいことを、短い文章にまとめて書くことは、実はなかなか難しい。わたしも時折投書しますのでよくわかります。(没になることが多いですから。)

 時代が違うと言えばそれまでですが、同級生の森本龍己君は、自分の力で国語力を獲得しています。中学時代の国語の先生であった三浦光世先生は、森本君の努力を高く評価されていました。

 この投書について三浦先生に電話して話ししました。「お母さんも偉い。先輩は郵便局勤めの人でした。周囲の励ましに応えた彼の努力が素晴らしいのです。」と言われました。

 彼は努力で「言葉のコミュニュケーション力」を獲得し、団体の中でも言葉を使用して発言したり、意見交換ができるようになり成長しました。


 私も森本君の努力を見習い、わたしなりに「表現力」「国語力」を向上させる努力を続けていきます。やはり伝える力は大事です。私の地域防災活動が伸び悩んでいるのも「伝える力」が弱いのであると思います。6月に高校生、7月に大学生相手に地域防災の講話をします。50歳も年齢の離れた「孫世代」に私に言葉が通じるかどうかのテストになりますね。いい勉強になりそうです。

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2022.10.12

文藝春秋11月号を購入しました

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 久しぶりに文藝春秋という月刊雑誌を読みたくなりました。しかし母(96歳)の在宅介護していますので、街中の本屋に行くことは出来ません。早朝の散歩コースにはコンビニに雑誌を置いてはいますが、この種の「堅物の雑誌は置いていません。

 コンビニの雑誌販売コーナーも最近はどんどん縮小されています。「活字世代」としては寂しい限りです。高知駅のコンビニであれば置いている可能性があるかもと思い、早朝の散歩に行くとありました。1000円(税込み)出して購入しました。
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 特集記事としては「3期目に入る”皇帝”の暗部 習近平の仮面を剥ぐ」という仰々しい特集であり8人の識者が記事を書かれています。

 城山英巳氏のレポートには感心しました。父親は共産党の幹部でしたが、文革時代に失脚し投獄された。息子の習近平も「反動分子の息子」として進学の機会をはく奪され、農村に下放(追放)されていました。

 家族を塗炭の苦しみに追い込んだ文化大革命を発動した毛沢東でしたが、習近平は今や恨むどころか、も毛沢東を模倣し、新たな独裁者をめざdしています。

「父を打倒した毛沢東が発動した文革も共産党の一部であり、共産党の中で生きざるをいえない自分の運命を、父親と重な合わせたはずだ。

 父親も自分も毛沢東の下で生かされているのであり、毛沢東の否定や批判という「発想は毛頭ない。毛沢東がすべてなのだ。同時に中国の権力闘争の厳しさも肌で感じ、こう痛感したに違いない。

 「勝たなきゃそうにもならない」父親を反面教師に共産党で生き残れるかを学んだはずである。」

 習近平の父親は革命第1世代であり、党幹部でした。しかし文革時代に反党分子とされ16年間投獄されていました。毛沢東の死後釈放され、「4人組」の失脚後「改革勢力」のリーダーとして復活し、再び党幹部になり全人代の副代表になりました。

 しかし1989年の「天安門事件」での鄧小平の学生や青年たちへの仮借ない弾圧に抗議し、再び要職をはく奪され、地方に追放され生涯を終えました。

 習近平は父親の名声やコネも利用し、党内で出世し、権力を握るとも言う沢東を模倣した恐怖政治体制を構築しました。なんとも「おぞましい」独裁者ですね。
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 おもしろい記事は、渡邊恒雄氏の「文藝春秋と私」という寄稿です。100歳まで生涯1記者を自認する現在96歳の渡邊氏の文章は日本の政治史そのもの。」面白い記事でした。

 塩野七生さんの寄稿や、明徳義塾の馬淵監督を正当に評価した「明徳・馬淵監督の30年」という随筆も面白かったです。
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 「読書の秋」でもあるので、たまにはこの種の雑誌を精読することもお勧めします。
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2022.10.10

時代の熱気にあてられ、時代に取り残されてしまった人たちを生んだ「学生運動」の記録

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 週刊現代2022年10月8日号の伊東潤氏のエッセイ「時代の熱気にあてられ、時代に取り残されてしまった人たちを生んだ「学生運動」の記録」というテーマに惹かれたこともあり、久しぶりに週刊現代を購入しました。


 


 3冊の本が紹介されています。「1966年早大学費闘争の記録」。1966年の早稲田闘争が始まった頃は、私は田舎の中学生でした。断片的に報道される学生運動の報道に強く関心を持っていました。68年・69年と全国各地に学園闘争の嵐は吹き。69年に高校生になった頃も、田舎で高校生反戦会議の結成大会に参加していました。


 


「彼は早稲田で死んだ」という書籍は、1972年に早稲田の学生がある党派に拉致されリンチされ殺害されるという凄惨な事件がありました。1973年に私はある大学に入学しましたが、サークルの先輩たちは「早稲田闘争」に参加されていました。このころには内ゲバも盛んになり鉄パイプでなぐリあうようになり、頭部を強打され亡くなった知り合いもいました。以後対立党派同士凄惨な襲撃が繰り返され、学生運動は下火になりました。


 


 


 「連合赤軍 革命の終わりとはじまり」も」20人足らずの革命党派の中で凄惨なリンチ殺人が繰り返され、消滅した連合赤軍。日本の社会運動のブラックホールとして機能し、日本国民の「政治的無関心」の手たる原因です。


 


 私自身も田舎の高校生でしたが、50年経過しても『連合赤軍事件」の思想的な総括はできません。たぶんい一生できないと思います。


 


伊東潤氏は「我々にできることは、川口大三郎君をはじめとした犠牲者の事を忘れず、政治的主義主張の違いから人を殺すという愚行を繰り返さないようにすることだろう。」と言われていますが、そのとうりです。


 


 しかし21世紀の現代社会では、中国やロシアの専制独裁国家の異論封殺、人権無視は継続中。ミュンマーやイランなどでも異論を公権力が強権だ夏しています。


 


 民主主義国と称する国でも、自分たちのグループ以外の主張に耳を傾けず、ひたすら排除し、攻撃する集団が右でも左でも目につきます。


 


 小さな地域防災活動でも「異論を聞き、合意形成を図る」ことはとてつもなくエネルギーをがいるし、なかなか難しい。しかしだれからしないと地域社会は崩壊します。


 


 とても疲れる立場ではありますが、覚悟を決めてやるしかない。政治の世界でも同じであるとは思います。


 

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2022.10.09

韓国人と統一教会 「日本人から搾り取れ!!」と叫ぶ人々

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 久しぶりに近所のコンビニで週刊現代10月8日号を購入しました。550円しました。ビックコミック・オリジナルは460円よりは高いです。観察していますとコンビニの週刊誌や雑誌売り場はどんどん縮小しています。

  日本人は紙媒体の新聞や雑誌を読まなくなったようですね。購入・購読するのは高齢者層(私もその一員)だからでしょう。でも情報はお金を出して仕入れるべきであると言うのは私の持論です。ネット配信のニュースはで行くが多く、情報の真偽を確かめることは実は難しい。

 それで54Pから57Pha特集で韓国では統一教会はどのような存在なのかを特集していました。読むと日本とは全然異なるようですね。新興財閥のような存在で宗教団体とは意識されていないとか。

 創設者の文鮮明が死去してから存在感が低下しており、日本の自民党清和会と統一教会のような「根深い」関係は韓国では存在しないとか。

 「日本人信者の多くもまた文鮮明の歪んだ歴史観に洗脳されて、献金をおこなった。教団は信者を獲得するために、韓国に対する歴史的な贖罪意識を利用してきました。」
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「かつて日本人は韓国に対してひどいことをした。その罪をわたしたちは償わなければいけない。そのために出来ることは、韓国に尽くすことだ。」

「真面目な女性たちはそんな理論を鵜吞みにしてしまい、合同毛xyつ今死期を通じて韓国に移住した李、非常に高額な献金をしてしまったのです。」(P57)

 統一教会の日本での跋扈に手助けした自民党清和会の罪はとても大きい。日本人信者から更なる収奪をしようとしています。自民党ははやく反日組織と手と斬るべきです。それをしないかぎりいくら愛国を叫んだり、憲法改正を言い建ててもすべてが「偽物」だとしか思えません。

 よく事情を理科甥することが出来ました。たまには週刊誌も購入して読むべきですね。

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