書籍・雑誌

2017.02.16

「伝える力」を読んで


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 「伝える力」(池上彰・著・PHP研究所・2007年刊)を読みました。「話す・書く・聞く能力が仕事を変える」とサブタイトルどうりの内容でした。

 池上彰氏と言えば、NHK時代に「週刊こどもニュース」を1994年から11年間退職するまで担当されていました。退職後はフリージャーナリストとして大活躍されておられますね。

 個人的には好きなタイプの放送関係者ではありませんが、長年テレビ業界に在籍されておられただけに、言われている事には納得できますね。特に「週刊こどもニュース」での経験が大きかったようですね。

「特に、そのこと(伝えようとすること)に関して全く知識のない人にわかるように伝えるには、自分も正確に理解していないと、とても無理です。
 うろ覚えや不正確な知識、浅い理解では、相手がわかるはずはありません。」

「何かを調べるときには、「学ぼう」「知ろう」という姿勢にとどまらずに、まったく知らない人に説明するにはどうしたらよいかということまで意識すると、理解が格段に深まります。理解が深まると、人にわかりやすく、正確に話すことができるようになります。」(P22)

「伝える力に、自信があってもなくても、最も大事なことは、聞く耳をもつことです。そして、他者の意見に謙虚であることです。」(P35「プライドの高い人は成長しない」)

 池上彰氏の所属していたテレビ業界と言うところは、「秒単位」の世界です。手際よく視聴者に物事を手短に伝達する技術が磨かれるようですね。「10秒あれば、かなりのことを言える」(P56)は参考になりました。

「10秒あれば、かなりのことが言える。30秒あれば、起承転結を含めた話もできる。しかし、15分ぐらいまでは、1つのテーマに絞って話をしたほうがよいというのが、私の実感です。」(P56)

 「プレゼンテーションで与えられた時間が3分や5分、あるいは15分ぐらいあっても同様に、話テーマは1つで充分です。」(P58)

 「実りのある苦情にするために」という項目には納得しました。

「苦情を生かすには、やはり伝え方が重要です。
 まずは自分がどういう者か伝える。
 その後、どうして電話をしたのか、全体像を相手にわかるように話す。
 自分として、どう対処してほしいのか、その希望、要望を明確に伝える。
 話すときはには、なるべく穏やかに、落ち着いて、普通の声で話す。
 これが苦情を言う時の基本です。」(P99)

 また池上彰氏は報道記者でもありましたので、常に文章を書いていたようです。「文章力をアップさせる」(第5章)だけ眺めていても手短に見出しで的確なことを言われていることがわかりました。( )はPです。

「もう1人の自分を育てる」(122)「プラントアウトして読み返す」(125)「寝かせてから見直す」(127)、「音読する」(129)「上司や先輩に読んでもらう」(131)「人に話ながら、書く内容を説明する。(133)「ブログを書く」(135)「新聞のコラムを要約する」(137)

 わたしもブログは毎日書いてはいますが、文章力は上達しませんね。やはり意識してとりくまないといけないことがわかりました。

 とてもわかりやすい「究極のハウツー本」でした。

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2017.02.15

今週の野良犬メディア

 週刊現代2月25日号を父(97歳)の点滴中とゴルフ・リハビリの時に読んでいました。
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 気になる記事は「小池百合子を次の総理に」というもの。昨年7月に東京都知事に就任して以来、豊洲への移転問題やら、東京五輪問題やらで、1自治体の出来事の枠を超え「国民的な関心事」に仕立て上げましたから。

 かつては今は「悪者」になっている石原慎太郎元都知事も、「次期総理」と呼ばれていた時代もありました。そういえば小池百合子さんは、2008年9月の自民党総裁選挙の折、高知市へ来られていました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-1fd1.html

 あの時は麻生太郎さんが大本命で、その他の4人(小池・石原・石破・与謝野)の1人で、存在感がありませんでした。
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 「自宅で、夫を介護する」のコラムを書いておられた曽野綾子さん。ご主人の三浦朱門さんが2月3日に亡くなられました。特別寄稿されておられました。

「交通違反セコイ取締りスポット」を取り上げています。東京編ですが、一旦停止違反を取り締まるやり方、方法を批判しておりますね。
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 来週は日米首相会談と、金正男氏暗殺など、野良犬メディアも話題には事欠かないようですね。野良犬らしく、「独自の視点」での辛辣な記事を書いていただきたいと思いますね。

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2017.01.25

[青春の門」が23年ぶりに連載再開


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 週刊現代2月4日号。作家五木寛之氏の小説「新・青春の門・第9部漂流編」の連載が23年ぶりに再開されました。舞台はシベリア。怪我した主人公の伊吹信介は、旧ソ連に密航しシベリアの荒野をさまよっている。時代は1960年代初めのソ連が舞台です。どういう展開になるのか楽しみですね。
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 84歳になった五木寛之氏。骨太の作風は健在のようです。「作家として最後の力を振り絞っての今回の挑戦に、どうか青年の気分でおつきあいください。」と言われています。
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 現在の日本の時代状況に一石を投じる作品になることを期待しています。

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2017.01.19

明治憲法の理不尽さを読み解く

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 教本は「日本の思想」(丸山真男・著・岩波新書)です。P29からの記述が面白い。今更ながらの古典社会思想学ですが、明治帝国憲法の意義と目的、思想的な欠陥について簡潔明瞭に分析し、記述しています。

1)近代日本機軸としての「國體」の創出

 江戸幕府時代末期に長らく続けていた鎖国政策を転換し、開国した日本。幕藩体制から明治新政府が成立し、一気に近代化した日本。国会を設立させ、憲法も制定し、近代国家の体裁を整えなければなりませんでした。それは幕末期に締結した不平等条約の改正のためにも必要であったからです。

 明治初期に2年位欧米歴訪をした伊藤博文。明治憲法を制定する場合の意義目的を丸山真男の解説で観察してみます。(ほとんど全文引用です。)

「明治21年6月、枢密院の帝国憲法草案審議が天皇臨御の下に厳か開始された日の冒頭に、議長伊藤博文は憲法制定の根本精神について所信を披瀝し、次のようにのべたー。

「憲法政治ハ東洋諸国ニ於テ会テ歴史ニ微証スヘキモノナキ所ニシテ,ソレヲ我日本ニ施行スル事ハ全ク新創タルヲ免カレス。故二実施ノ後、其結果国家ノ為ニ有益ナル、或ハ反対二出ツル、予メ期スへカラス。

 然リトも二十年前既二封建政治ヲ廃シ各国ト交通ヲ開キタル以上ハ、其結果トシテ国家ノ進歩ヲ謀ル二此レヲ捨テ、他ニ経理ノ良途ナキヲ奈何セン・・・

 欧州ニ於イテハ当世紀ニ及ンデ憲法政治ヲ行ハサルヲモノアラスト、是レ即チ歴史上ノ沿革ニ成立スルモノニシテ、其萌芽遠ク往昔ニ発セサルハナシ。

 反之我国ニ在テハ機軸ハ何ナリヤト云ッテ事ヲ確定セサルヘカラス。機軸ナクシテ政治ヲ人民ノ安泰ニ任ス時ハ、政其統紀ヲ失ヒ、国家、堕テ廃亡ス。

 抑、欧州ニ於テハ、憲法政治ノ萌芽セル事千余年、独リ人民ノ此制度ニ習熟セルノミナラス、又宗教ナル者アリテ之カ機軸ヲ為シ、深ク人心ニ浸潤シテ、人心此ニ帰一セリ。然ルニ我国ニ在テハ宗教ナル者其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルヘキモノナシ。

 仏教ハ一タヒ興盛ノ勢イヲ張リ、上下ノ人心ヲ繋キタルモ、今日ニ至テハ己ニ衰替ニ傾キタリ。神道ハ祖宗ノ遺訓ニ基キ之ヲ祖述スト、宗教トシテ人心ヲ帰向セシムルノ力ニ乏シ。」(清水伸「帝国憲法制定会議」88P)

「つまり、伊藤は日本の近代国家としての本建築を開始するに当たって、まずわが国のこれまでの「伝統的」宗教がその内面的「機軸」として作用するような意味の伝統を形成していないと言う現実をはっきりと承認してかかったのである。」

 日本においては儒教は影響力を既に失っていました。「個別的な日常徳目として生き残っていた。」(P90)でした。後に「教育勅語に」形を変えて活用はされますが・・。

 封建体制を明治以降廃棄したものの、西欧列強諸国に対抗する国家機軸を作成しないと、亡国になる危機感を伊藤博文以下明治政府は持っていたんでしょう。

「自由民権運動との陰惨な闘争の歴史がまだ生々しい藩閥政府にとって、「機軸」のない憲法政治の姿は想像をこえたおそるべきものと映ったであろう。」(P30)

 そして明治政府のより、新しい「意味づけ」と「近代化」した明治天皇制が「機軸」として大日本帝国憲法制定にて登場してきます。それは伊藤博文ら明治政府主要閣僚が、新政府成立間もない頃に、2年間も日本を留守にし、欧米諸国を歴訪し、史実を彼らなりに調べ、解釈し、作リ上げたものでした。

「こうして「我国ニ在テ機軸トスベキハ、独リ皇室アルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヒ君権ヲ尊重シテ成ルヘタ之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ。

 草案ニ於テハ君権ヲ機軸トシ、偏ニ之ヲ毀損セサランコトヲ期シ、勇エ彼ノ欧州ノ主権分割ノ精神ニ拠ラス。固ヨリ欧州数国ノ制度ニ於テ君権民権共同スルト其揆ヲ異ニセリ。是起案ノ大綱トス。」(清水伸「帝国憲法制定会議」89P)

 「先の述べた「開国」の直接的結果として生じた、国家生活の秩序化と、ヨーロッパ思想の「無秩序」な流入との対照は、ここに至って、国家秩序の中核主体を同時に精神的機軸とする方向において収拾されることになった。

 新しい国家体制には、「将来如何の事変に遭遇するも・・上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざるための政治的保障に加えて、ヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなして来たキリスト教の精神的代用品をも兼ねると言う巨大な使命が託されたわけである。」(P30)

 つまり明治憲法では国家元首は天皇であり、権力の源泉であり、人民には西欧諸国のように分権はしない。同時に西洋諸国に強い影響力を行使してきたローマカトリック教会的な機能も明治以降の天皇制度に担わせました。

 国民は国家への抵抗権も有する西欧的な「市民」ではなく、国の機軸である天皇に無条件に服従する「臣民」として位置付けられました。

 天皇に政治的な権力も、国民の精神的な支柱も担わせました。西洋諸国は数百年の宗教戦争の教訓から「政教分離」を国家理念にしていますが、伊藤博文らは「利便性」だけで「輸入し」、政教分離には無関心だったように思います。

 急いで近代化し、欧米列強に対抗すべく、「尊王攘夷」で担ぎ上げた天皇を政治利用し、国民統制に使いました。戦前の日本社会の不幸が明治憲法制定当時から仕込まれていました。

2)「國體」における臣民の無限責任

  丸山真男氏は、さらにモデルとした西欧社会にはない「危険性」を精神面、社会面から鋭く分析しています。

「「國體」と呼ばれた非宗教的宗教がどのように魔術的な力をふるったかという痛切な感覚は、純粋な戦後の世代にはもはやないし、又その「魔術」にすっぽりはまってそのなかで「思想の自由」を享受していた古い世代にももともとない。

 しかしその魔術はけっして「思想問題」という抽象的な名称が日本の朝野を震撼した昭和以後に、いわんや日本ファシズムが狂暴化して以後に、突如として地下から呼び出されたのではなかった。

 日本のリベラリズムあるいは「大正デモクラッシー」の波が思想界に最高潮に達した時代においても、それは「限界状況」において直ちに恐るべき力を露わしたのである。」(P21)

「かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著「日本ヨーロッパ」の中で在日中に見聞していてショックを受けた2つの事件を語っている。

 1つは大正12年末に起こった難波大助の摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)である。彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ「その後に来るもの」であった。

 内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当たった警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を防止得る位置にいなかったことを筆者は強調している)の系列が懲戒免官になっただけではない。

 犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って1歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝いを廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞のの徒をかつて教育した責を負って辞職したのである。」(P32)

「このようなバク(?)として果てしない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。

 もう1つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)。「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサークルからはこのような危険な御真影は学校から遠ざけた方がといという提議が起こった。校長を焼死させるよりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった。」とレーデラーは誌している。

 日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのようなありかたは到底考えられなかったであろう。

 どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にも決して無縁ではなく、また例外的でないというのである。」(32(

 ずっと丸山真男しの記述をそのまま写しましたが、なんとも「おぞましい」怖さがありますね。物凄い「同調圧力」なんでしょう。西欧人にはまったく想定外の世界であったことでしょう。


3)「國體」の精神内面への浸透性

かくも恐ろしい「同調圧力」をもっていました。それも明治以降短時間にこしらえたものだけに、末恐ろしさを感じます。古代天皇制とも、中世・近世の天皇制とも異なっています。

 そのあたり丸山真男氏は的確に分析されています。

「しかもこれほど臣民の無限責任によって支えられた「國體」はイデオロギー的にはあの「固有信仰」以来の無限定的な抱擁性を継承していた。國體を特定の「学説」や「定義」で論理化することは、ただちにイデオロギー的に限定し、相対化する意味を持つからして、慎重に避けられた。」

「それは否定面においてはーつまりひとたび反國體として断ぜられた内外の敵に対してはーきわめて明確峻烈な権力体として作用するが、積極面は茫洋とした厚い雲層に幾重にも包まれ、容易にその核心を露わさない。

 治安維持法の「國體ヲ変革シ」という著名な第1条の規定においてはじめて國體は法律上の用語として登場し、したがって否応なくその「核心」を規定する必要が生じた。

 大審院の判例は、「万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総纜シ給フ」国柄、すなわち帝国憲法第1条第4条の規定をもってこれを「定義」(昭4・521判決)した。しかしいうまでもなく、國體はそうした散文的な規定につきるものではない。」

「過激社会運動取締法案が治安維持法及びその改正を経て、思想犯保護監察法へと「進化」していく過程は、まさに國體が、「思想」問題にたいして外部的行動の規制ー市民的法治国家の法の本質をこえて、精神的「機軸」としての無制限な内面的同質化の機能を露呈してゆく過程でもあった。」(P33)

 なんともおぞましいほどのすさまじい社会的な同調圧力体ではないか。安倍内閣閣僚や復古主義的な政治家が、「理想の国家像」という現実は、国民の基本的人権も言論の自由も、政治活動の自由も何もない「奴隷制国家」ではないのか。

 宗教的な背景は異なりますが、中世のイスラム社会を復元しようと言うイスラム国並みの極端な国家原理主義ではないかと思います。

「それは世界史的にも、国家権力が近代自由主義の前提であった内部と外部、私的自治と国家的機構の二元論をふみこえて、正統的イデオロギー経の「忠誠」を積極的に要請する傾向が露骨になりはじめた時期と一致していた。

 日本の「國體」はもともと徹底的に内なるものでもなければ、徹底的に外面的なものでもなかったので、、こうした「世界的」段階にそのまま適合した。

 日本の「全体主義」は権力的統合の面ではむしろ「抱擁主義」的で[翼賛体制の過程や経済体制を見よ)は、はなはだ非効率であったが、少なくもイデオロギー的同質化にはヒットラーを羨望させただけの「素地」は見えていた。ここでも超近代と前近代は見事に結合したのである。」(P34)

 結局この項目は、すべて丸山真男氏の記述項目をすべて書き写し、引用しました。納得がいくからでした。二次大戦中も降伏するしかありえない状況の中でも支配層の最大の関心事は「國體」の擁護と維持であり、国民の命と財産の保全など全く眼中になく、決断できない間に、全国の都市は空爆で焦土となり、沖縄で凄惨な地上戦が行われ、広島・長崎に原子爆弾が投下されました。

 国民各位に無限に責任を押し付ける「國體」の体制でしたが、支配層は極めて無責任・無能でありました。その原因を丸山真男氏は、西欧諸国の制度や国家と比較して明確に述べています。

4)天皇制における無責任の体系

「近世の認識論の構造と近代国家の政治構造との密接な関連はすでにE・カッシラーやC・シュミットなどによって思想史的に解明されているが、こうした関係は、類似した政治理念がそれぞれの国民によって個性的な組織化の様式をまとう点にも現れている。

 例えばヨーロッパにおいて大陸の合理主義が絶対君主による政治的集中(官僚制の形成)を前提とした法治国家(Rechtsstaat)の形成と相即しているとすれば、イギリスの経験論には地方自治の基盤の上に自主的集団の論理として培養された「法の支配」(rule of law)の伝統が照応している。

 同じ儒教の自然法思想が中国の場合には規範的・契約的性格が比較的つよく現れ、日本ではむしろ権威(恩情)と報恩の契機が表面に出るのも、たんに学者の解釈の差ではなく、封建制あるいは家産的官僚制の内面に浸透してその現実的な作用連関を構成している「精神」なのである。」

「「天下は、天下の天下なり」と言う幕藩制に内在した「民政」観念が幕末尊攘思想において「天下は1人の天下なり」という一君万民理念に転換したことが、維新の絶対王政的集中の思想的準備になったにもかかわらず、こうして出現した明治絶対主義は、当初から中江兆民によって「多頭一身の怪物」と評されたような多元的政治構造に悩まねばならなかった。

 これもむろん直後には維新の革命勢力が、激派公卿と西南雄藩出身の「新官僚」との連立のまま、ついに一元化に組織化されなかった社会的事情の継続であるが、そこにも世界認識を合理的に整除せずに「道」を多元的に併存させる思想的「伝統」との関連を見いだすに難くない。」

 明治政府時代が、岩倉具視らの公卿衆と薩摩・長州の出身者の連立政権でしたが、実に危うい統治形態でした。維新の三傑(西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允)の死後、かつて吉田松陰に「斡旋屋に向いている」と呼ばれた伊藤博文と、「棒のような男」と言われた山形有朋が「元老」として権勢を振るったことも影響は大きかったと思いますね。

「明治憲法において、「ほとんど他の諸国の憲法には類例をみない」大権中心主義(美濃部達吉の言葉)や皇室自律主義をとりながら、というよりも、まさにそれゆえに、元老・重臣など超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制がつくられたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される!)を好む行動形式が作用している。

 つまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体内容を与えることにほかならない。さきに述べた無限責任のきびしい倫理は、このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。」(P39)

 国民各位には無限の国への忠誠心を強いるのに、統治する支配層が分裂し、統治能力が不足していて「無能」であったいうことなんでしょう。次に丸山真男氏は明治憲法体制の問題点を指摘しています。

5)明治憲法体制における最終的判定権の問題

大日本帝国憲法の「設計者」の思惑と狙いを以下の文章で丸山真男氏は的確に述べています。

「政治構造の内部において主体的決断の登場が極力回避される反面、さきの伊藤の言に表されているように、この「一大器械」に外から始動を与える主体を絶対的に明確にし、憲法制定権力について、いささかの紛議の余地を亡くしたのが、天皇制の製作者たちの苦心の存するところであった。

 明治憲法が欽定憲法でなければならぬ所似は、けっして単に憲法制定までの手続きの問題ではなく、君権を機軸とする全国家機構の活動を今後に渡って規定する不動の建前であったのである。

 この「近代」国家において憲法制定権力の所在が誰にあるかという問題は、これ以後もはや学問的にも実際的にも「問われる」余地がなかった。」(P39)

 個人の自由や、市民自治の概念が帝国憲法には殆ど盛り込まれていない。国民は「臣民」として、ひたすら天皇大権に奉仕する存在であるからです。

「しかしながらこの憲法によって、「保護」された良心と思想の自由は,「國體」が自在に内面性に浸透した人民を「保護監察」しうる精神としての側面を持つ限り、容認の範囲の問題であってもついには原理的な保障ではありえないのである。(中略)・・

 ただ多くの民権論者にも、いわんや伊藤にも等しく欠けていたのは、私的=日常的な自由を権力の侵害から防衛するためにこそ全権力体系の正当性を判定する根拠を国民自らの手に確保しなければならないという発想だった。」(P42)
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 例えば、日本国憲法では明確に「基本的人権の保障」を定めています。

第十一条

「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」

 大日本帝国憲法は、こうした明確な規定はないと丸山真男氏は言っています。「臣民」の義務ばかりの強調。条文ではあえてしてはいないでしょうが、社会の「雰囲気」や「同調圧力」は現代社会では全く考えられない力があったと思われます。

 権力の源泉が国民ではなく、天皇であるから、1人1人の国民の基本的人権の保障が限定的であり、国が個人の人権を守る形にはなってはいませんね。

6)「権利の上のねむる者」

 国民の基本的人権をきちんと認めた日本国憲法ですが、次の12条には、読むとこう書かれています。

第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 丸山真男氏は、厳しいことを書かれています。 借金もお金を貸した方が請求しないと「民法では時効」があり、請求権が無効になるという事例を説明しています。その後にこの文章が続いています。

「国民はいまや主権者になった。しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝めざめてみると、もはや主権者ではなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけです。

 これは大げさな威嚇でもなければ教科書風の空疎な説教でもありません。それこそナポレオン3世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近100年の西欧民主主義の血塗られた道程がさし示している歴史的教訓にほかならないのです。」(P155)

 なんとも今の日本の社会風土を分析して言われているようではありませんか。またこうも言われています。

「アメリカの社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することと比べて、自由を市民が日々行使することはさらに困難である」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。」

「私たちの社会が自由だ自由だといって、自由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる、。いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。」

「その意味では近代社会の自由とか権利とか言うものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々と寄りかかっていたいと言う気性の持主などにとっては、はなはだ持って荷厄介なしろ物だといえましょう。」(P156)

 日本国民は代議民主制度の選挙への投票率がとても低い。若い人にすれば投票率が3割以下と言う場合もあります。まさに「権利の上で惰眠をむさぼぼっています」

 そしてよく考えることもなく国民の基本的人権。個人の自由を保障した日本国憲法を「制定して70年も経過し、時代にあっていないので改憲すべき」という意見に多くの国民が自分で深く検討せずに「なんとなく」賛成してしまう傾向がありますね。

 とても危険です。体制側が憲法改正に反対を主張する人たちを「サヨク」だとか、「変わり者」「少数派」だとの猛烈なキャンパーンを硬軟両方で執拗に毎日していますね。それに「騙される」人も多いと思います。

 ネットの無料配信のニュースの多くは憲法改正論者の産経新聞系ですから。SNSやネットの論調も圧倒的に「憲法改正論者」の主張が目立ちます。きっと莫大なお金を安倍内閣は電通などを使って毎日日にち広報宣伝をしていると思います。良く事情が分かっていない人たちが右派的な主張をネット上で吐いているんでしょう。

 今回丸山真男氏の「日本の思想」をテキストに、読書ノートを作成してみました。日本会議の主張である「日本国憲法を廃止して、大日本帝国憲法を復活させる」という企ては、いかに国民の基本的人権を無視したものであることが良く理解できました。

 日本の歴史の近代化で、西欧1000年の歴史と伝統に「急ごしらえの明治天皇制度」で追いつき、追い越そうとしましたが、所詮は矛盾が出て破綻しました。特に支配階級の無責任さ、無能さには呆れるばかりです。

 臣民(国民)に無限に忠誠と服従を強要するのに、支配階級は無責任極まりない存在でしかなかった現実が大日本帝国の実態でした。今更亡霊のように復活してほしくはありません。

 今一度足元の地域社会から社会全体を俯瞰し、民主主義国家・日本を市井の市民の立場で再生すべきではないかとわたしは思います。

 日本国憲法の改正論が、大震災やテロでの混乱収拾を名目に「緊急事態要項」として政府側から提案されようとしています。日々自宅まわりの地域防災に関わる市井の市民とすれば、「国の役目も重要ではあるが、後方支援として重要なんです。市民と基礎自治体の信頼感と協働で地域防災活動は展開されるべきです。」と私は思います。地域の事は地域住民と基礎自治体の職員が1番わかっているからです。

 「粗雑な緊急事態要項」なるもので、南海トラフ巨大地震の抑止や復興の主体になるものではなく、民意を無視した国家権力の暴走に繋がるのではないかと懸念しています。「民意を無視せず地域住民と一緒になって地区防災計画をつくる」ということで、内閣府は平成215年災害対策基本法を改正し、「地区防災計画」制度をこしらえました。

 国家官僚も事態をきちんと理解されている人がいます。防災対策1つでも国が「上から目線で」地域防災を仕切り、陣頭指揮が出来る筈がありません。地域住民と基礎自治体で、地区防系計画を作り上げ、国が後方支援をきちんとやることこそが大事なことなんです。

 「災害大国日本」では、地域住民と基礎自治体の協働で、各地で地区防災計画が策定され、国はきちんと後方支援することこそが、一番肝要なんです。「国民の命と財産を守る」ことが、政府や基礎自治体の行政の役目です。

 戦前の帝国憲法では、そのあたりの概念が弱く、支配階級の無責任さ、無能さを助長してしましました。ですので、日本国憲法を廃棄し、帝国憲法を復元するというのは」、国民生活のためにはなりません。

日本会議についてもレポート本を読みました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-a851.html

 個人の基本的人権が無視されるようでは、日本国が日本国でなくなりますから。

 

 

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2017.01.13

「歴史地震の話」を読んで


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 「歴史地震の話 -語り継がれた南海地震」(都司嘉宣・著・高知新聞社・2012年刊)を下知市民図書館で借りて読みました。

「防災の概念を覆した東日本大震災。宝永地震を記録した土佐の資料と同じような「黒い津波」の記述が出てくる」。その記述は当時種崎(高知市種崎地区)に住んでいた土佐藩士が詳細に記述している。宮古の津波と同じ黒い津波が人々の住む集落を襲い、記述者は奇跡的に助かりました。

 都司嘉宣氏の講演は、以前高知市の主催する「防災人づくり塾」で聞いたことがあります。古い記録に残る古文書を分析し、過去の地震記録から、現在の減災対策を説いています。

「東日本大震災は、貞観地震(869年)以来の大地震と言われる。」

 中略・・

「今回の地震でも、津波被害は東北地方だけでなく、関東地方の茨城県や千葉県にも及んだ。これに対し、明治三陸地震(1896年)の津波も、昭和三陸地震(1933年)の津波も被害は三陸海岸に限定されており、宮城県石巻市より南の海岸ではほとんど被害が出なかった。」

「今回の地震の津波で重大被害が出た範囲は、。明治、昭和より大きく、貞観地震に津波にほぼ一致する。」

 東京電力福島第1原子力発電所の大被害も、地震学者が「貞観地震並みの津波が来る恐れがある」ことを東京電力も原子力規制委員会も全く無視し、何の対策も打たなかったゆえの大被害であったのです。彼等の不作為が地域に大きなダメージを与え、それはいまも続いています。
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 津波の対する備えている東北沿岸部。それもも大きな被害が出たのは、東日本大震災が1000年に1度の大地震」であったからでした。
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 岡村眞高知大学特任教授によれば、「土佐市宇佐町の蟹ヶ池では、歴史記録に残る南海トラフ地震の中で最大の宝永地震(1707年)に匹敵する巨大津波が、過去6500年間に少なくとも16回以上起きていたことを確認。

 その間隔は300~350年で、特に2150年から2300年前には宝永地震を大きく上回る規模の地震が起こった痕跡も見つかっている。」(高知新聞・2017年1月4日「高新大賞に岡村特任教授(高知大)過去の巨大津波判明」)とあります。

 高知で記録に残る地震で最大規模は宝永地震(1707年)。揺れも高知城下では強かったと記録されています。
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「図を見て一目で分かることは、農人町から東、国分川にかけての地域で、震度7の強い地震被害を生じた場所が現れていることである。現在の城見町、宝永町、知寄町、稲荷町等の地域に相当する。」(P203)。二葉町も該当します。

 都司氏は宝永地震のような「千年地震」対策として、具体的に「家屋・財産は守りきれないとあきらめ。せめて人の命だけは守りきることを考えること。そのために次の(A)から(C)を考慮すること。」(P305)とあります。

(A)沿岸集落に4階建て以上の鉄筋コンクリート住宅がある場合には、その所有者と契約を結んで津波警報が発令された場合に、4階以上を、一般市民への避難場所として開放すること。4階以上には津波非常用に、非常食、飲料水、長靴、懐中電灯、ラジオなどを用意しておくことだ。

(B)背後の丘陵に上がる斜面が居住地から近い場合には、幅広で緩やかな避難路をもうけ、途中に夜間でも見えるようにソーラーバッテリーによる照明を設置すること。避難先は20M以上の標高があること。

(C)4階以上の鉄筋コンクリートのビルがなく、集落の背後に避難に適した丘陵に上がる斜面もない場合は、一定間隔に「津波避難タワー」を設置すること。その避難場所の標高は宝永地震の津波を参考にして、おおむね15M以上とすること。

 と都司氏は提言されています。高知市の指定避難ビルの下知コミュニティ・センターでは食料備蓄は行われていません。市の配備計画も未定です。

 下知地区には、4階建て以上の建物すらない地域もあり、海抜も低く、低層木造住宅が多く、高齢者が多く居住しています。AからCの基準を未だに満たしていません。

 二葉町自主防災会は、地区指定避難ビルとして11カ所のビルを所有者の協力を得て指定しています。そのビルには飲料水や食料、非常用トイレの備蓄は未だに行われていません。

 都司氏はこうも言われている。なお、今までの津波避難の対策の中に考慮されていないことも実行されたこともあないが、次の(D),(E),(F)、(G)も検討したい。。(306)とあります。

(D)津波警報が出た時、漁船などは、いち早く港外に移動させる。この時その船に手早く乗せることの出来る住民も積極的に便乗させることはできないであろうか?

(E)2011年東日本大震災の時、例えば宮城県女川町では、4階建てのビルの屋上に緊急避難した人がいたが、津波は更に高い所まで水位が上昇し、そこに避難した人も津波に巻き込まれた。この場合、その4階建てのビルの屋上に、ゴムボートとふいごがあれば、ゴムボートを膨らませて脱出できたのではないか?

(F)寝たきり老人など、津波警報発令時に機敏に移動できない人は、標高15M以上の所に住居を移す「隠居部屋」の考えを取り入れられないか?

(G)どうしても沿岸に住居を持たざるを得ない漁師は、今後はそこに7階以上のマンションを建てて住むという居住様式を取り入れる。この場合は、ふだん、1階から3階に住んでいる人は津波警報発令時には4階以上に移動することを、そのマンションの住民全体が協力する。
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 というアイデアを都司氏は出されています。(D)の津波発生時の港から沖への船での避難は津波に向かっていくことになるので、どうでしょうか?

 (E)の構想は、私たちは高密度発泡体による浮体構造物を屋上に設置することを検討しています。研究会や講演会も開催しました。

  高知市下知メガフロート(浮体人工地盤)構想を実現したい。

 http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-06a8.html
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 (F)につきましては、二葉町は6年前から仁淀川町の住民の皆様との「疎開を前提とした」地域間交流をしています。一向に高知県庁も高知市役所も動こうとしないのは「不作為」であると思います。
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 (G)は現実的な対処法であると思います。そして都司氏は「おわりに」のなかでこう言われています。

「多くの犠牲者を出した東北地方の被災地に目を背けることなく、そこにいて、命を失うことなく切り抜けた人の証言や、写真やビデオ映像に目を背けることなく、冷静に観察すれば、千年震災の津波にあっても命を全うすることが出来るのであろう。

 そうしてそれを、実践的な津波防災対策に生かしていくべきであろう。そのさい、従来の常識にはとらわれない方法を採用するという、ある程度の「思い切りの良さ」が必要となるであろう。」(P307)

 二葉町全世帯と対象とした「防災世帯調査の実施」。それに基づいた「50Mに1つの地区津波一時避難ビルの指定」「疎開を前提とした仁淀川町との地域間交流」「避難所に国際信号旗を掲揚する」(海からの支援要請)、を実践してきました。

 更に下知地域として有志ですが「五台山市民農園」の実施(食料確保)と2次避難場所の確保、さらには「災害時相互避難協定の地域同士の締結」などが今後の方向性です。

 千年地震を迎えてやる過ごす段階にまだ達していません。個人や家族のレベルでなんとか今年は近づいてみたいと思っています。支援を受ける側から、支援する側になりたいと思うからです。

 

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2017.01.12

山田伝津館(でんしんかん)の写真本


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 岩手県山田町の山田伝津館の震災語り部の菅野和夫さんから送付されてきました山田町の写真集を見ました。

「岩手県山田町 海と街と祭」「しかし山田に住む人々は 海を恨むことはなく 明日に向かって歩み出す 岩手県山田町」(いずれも山田伝津館・発刊)を見ました。

 宮古市の隣町の山田町。風光明媚な海岸線があり、漁業の盛んな街でした。写真集には震災前の海での営み、海水浴場、海での祭りの風景や、山田町の日常が写真に残されています。
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 2011年3月11日の東日本大震災での津波はその美しい海辺の風景を破壊し、街の営みを跡形もなく破壊しつくしました。
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 でもメッセージにあるように[海を恨むことなく海と共存していく」決意表明が感じられる写真集でした。

 下知市民図書館に寄贈する予定です。来月あたりには貸し出しが可能になると思います。

 大震災にへこたれない山田町の人々の気概を感じました。

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2017.01.11

新書版を買い込んでみました


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 この間の3連休(2日目は雨)に家内が音楽関係のCDを買いたいと言うので、一緒に歩いて、ブックオフへ行きました。家内がCDやDVDを見ている間、新書版の書籍を8冊買いました。

 池上彰・内橋克人・小林よしのり・五木寛之・辰濃和男・中沢新一・倉山満・小出裕章の著作本。文学者・宗教者・漫画家・報道関係者・学者など、右も左も関係なし。面白そうな書籍を購入しました。

 新書版ですとウエスト・ポーチに2冊程度入ります。父の点滴の時間とか、少しの時間に読むことができます。くだけた本ばかりで、教養や素養が身に着くものではありませんが・・。電子書籍よりは、紙媒体の新書版が手軽でいいと思います。

 アナログ人間ですから。この8冊を袋に入れて、父(97歳)の植田医院での点滴中の時間を間、読書三昧ですね。

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2017.01.06

「3・11大震災私記」を読んで


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 「3・11大震災私記」(田村剛一・著・山田伝津館・2014年刊)を読みました。2016年12月20日に、岩手県宮古市在住の「震災語り部」である菅野和夫さんから「3・11東日本大震災 風化させないために これが巨大津波だ。」(山田伝津館)のDVDをいただき、何度も視聴した後だけに、田村剛一さんの体験記は、一読してとても重たいものでした。

 私記では田村剛一さん宅は、山田町で、津波に襲わましたが、1階部が1・3メートルの浸水があり半壊で家屋は残りました。在宅避難者の厳しい生活も綴られていました。長期浸水状態が南海地震が起きれば予想される高知市下知地区。他人事とは思えません。

 震災当時は救援避難物資は山田町役場にたくさんありました。支給されるのは町指定の避難所だけであり、田村さんのような在宅避難者には全く支給されませんでした。

 半壊の在宅避難者には電気関係も自己負担だったそうです。

「それからが大変、一階の電気製品、ガス製品は全て新しく買い替えなければならなかった。ガスメーターも給湯器も海水をかぶり使用不能だ。それがなかなか手に入らない。仮設住宅建設が優先され、半壊家屋には廻ってこなかったからだ。」

「それだけでは済まなかった。ガスコンロ、風呂釜、便器、冷蔵庫、炊飯器、テレビ、茶箪笥、食器棚・・・・。すべて使えなかった。そうしたものの中に、支援物資として、役場に届いているものがたくさなると聞き、役場に出向いて、

「半壊家屋も被災者だ。いくらか、半壊者にも分配したらどうか」と係りに申し入れた。とことが返ってきた言葉を聞いて愕然とした。

「支援物資が欲しかったら、仮設住宅に入ってください」といわれたからだ。」

「これから自立しようとするのに、物が欲しかったら仮設住宅に入れとは何事か。」私は席をたって部屋を出た、そういわれた人は私だけではない。

 役場は半壊家屋には冷たかった。同時にこんな考えでは町の復興は難しいように思えた。」(「半壊被災者の嘆き」P100)
 
 田村さんは実体験なさっているので、書かれていることに説得力があります。この文章を読んで、南海地震の後を想像しました。うちは鉄骨3階建て。揺れと浸水でも運よく耐えられ半壊状態で残るかもしれない。でも半壊は半壊で今のままの行政システムでは大変な労苦が必要であることがあらためて理解できました。

 2015年6月に訪れました宮城県石巻市沢渡地区。半壊の家に住まざるを得ない人たちの苛酷な生活を思いだしました。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/22-8d88.html

 津波被害をより大きくした原因の1つに気象庁の津波警報の第1報が「予想される津波の高さは3メートルです」との発表が大きいと田村さんは言われます。

「3メートルの津波であれば堤防を超えない。海をわざわざ見に行った人たちもいました。」その人たちは実際は10メートルを超える津波がやってきたので皆犠牲になったそうです。

 昨年講演に来られた宮城県石巻市の今野清喜さんも同じことを言われました。

「3メートルの津波と聞いて逃げない人が多かったです。前の年にチリからの津波の予測が3メートルと言われて実際は50センチでした。皆それを覚えていたので逃げなかった。後から気象庁は10メートルに変更しました。でもその時は停電で情報は伝わりまでした。」

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-5f70.html

 また田村さんの私記の中で、驚いたのは津波火災でした。津波に耐えた家屋から出火し、残っていた家屋に燃え移り地域全体が全焼しました。地震と津波で消防も出動できませんでので、余計恐ろしさを感じました。

その他印象に残る、ずしんとした記述が多くありました。一読しましたので、下知市民図書館に寄贈します。登録されてから後でまた借りてじっくり再読します。
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2016.12.21

「読書と日本人」を読んで

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 「読書と日本人」(津野海太郎・著・岩波新書・2016年刊)を読みました。出張で先日東京へ行った折、東京在住の下の子どもと新宿の紀伊国屋書店で待ち合わせしました。その折に購入しました。「読書の秋」でもありますし。

「本はひとりで黙って読む。自発的に、たいていは自分の部屋でー。」それがいま私たちがふつうに考える読書だとすると、こういう本の読み方はいつはじまったのだろう」(P3「はじまりの読書」)から筆者は書きだします。

 どうやら1000年ぐらい前の源氏物語が公表された頃から、「黙読」はあったのではないかと筆者は述べています。

「9世紀から10世紀にかけて、宮廷の女たちのあいだで漢字の草書体をもとにした表音文字、つまり平仮名が日常的につかわれるようになった。そして、この日本語表記のための新しい文字によって、それまでの男の知識人が仕切る漢字文化のもとで沈黙をしいられてきた女たちが、和歌や日記や、随筆や手紙、ついには「源氏物語」のような巨大な物語まで、じぶんのことばで書いてみせるまでに変ぼうしてゆく。」(P11)

 一方官僚のような知識人は、当時の先進国中国の書物や、先人の書物を今でいう「読書ノート」を作成しながら読書をしていたようです。

「巻子本(巻物)は保存や携帯に便利だし、立派にも見えるけど、必要な箇所がさがしにくい。そのために抜き書きをつくって貯めておく。
 そのようにして複数の写本に当たり、比較し、正しいテキストをさぐりあてて注釈をつける。それが当時の「学問の道」の本筋であり、さきほど仮に(学者読み)と名付けた読書の型もそこから生まれてきた。」(P16)
 
 昔は印刷技術も稚拙で発達していませんし、コピー機なんぞもありません。本は写本されていました。気の遠くなるような作業です。でもそれだけ精読し、要点を書き出し、自分のものにしていたのでしょう。

 読書の目的は東洋と西洋とではかなり違っていたのではないかと筆者はいいます。

「ともあれ、こうして政権中枢の皇子や貴族たちが、中国学習の先達たちたる百済人の力を借りて、中国の古典を懸命に読みとくというしかたで、この国における(学者読み)の歴史がスタートする。

 そのさい、かれらの読書法のお手本となったのが本場中国での学問の伝統です。漢代の中国で、紀元前2世紀に新しい国家教学としての儒教を軸に、「論語」「詩経」「書経」「礼経」「易経」「韓非子」「史記」「漢書」などの経典化・古典化が開始され、それが自分の頭で考えるよりも,さまざまな写本を集めて正しいテキストを定め、精緻な注釈をほどこす研究法として磨きあげられていった。」

 そのやりかたが日本へ本格的に導入されたのが8世紀後半の文武天皇の時代です。大宝令(701年)になり、天皇中心の律令国家になるための学制であり、官僚制度を整えたようですね。

 西洋の学問とは全く対照的ですね。

「科学史家の中山茂が、その著{パラダイムと科学革命の歴史}で、ヨーロッパの学問を推し進めるエンジンは「論争」だったが、中国の学問では「記録の集積」が優先された、という意味のことをのべています。

 したがって中国の教育では、他人を説得する(弁論力)ではなく、紙や竹簡にしるされた先行者の言動(先例)を、繰り返し声に出して読み、そのすべてを頭に叩きこんで、必要な時に瞬時に思いだせるようにすること、つまり(記憶力)がもっとも重要視されることになる。」(P20)

 古典の記憶力や、それを利用しての文章力が官吏としての優秀さの基本であるということで、科挙などで登用される人材はその勉強法を極限までしたのでしょう。

 自国の国力が精強であった時代は、それでもいいですが、隣国や西洋諸国が力をつけてくるとそうした「秀才」や「読書人」の官僚が「役立たず」であったことは中国でも「小中華」の朝鮮でも同じでした。

 中国の近代化は「アヘン戦争」であり、朝鮮の近代化の始まりは「日韓併合」から始まるのですから。」いかにアジア的な学問のやり方が陳腐化していた事例でしょう。

昭和の初めの頃に「硬い本」(哲学書)などが多くの市民大衆に読まれ、また岩波新書など気軽に読める教養本も刊行され、文庫本も出るようになり、一気に市民大衆へ読書熱が蔓延した時代もあったようです。

 それが最近「若い人たちが本を読まなくなった。」と言って久しい。外国帰りの人達が、東京の電車の中で大学生や若い人たちが漫画本を堂々と読んでいて嘆かわしいと言われていたのが40年ほど前の話。

 今は電車の中で観察しても昼間の空いた時間帯で、60人が一両に座っているとしてうち40人はスマホの画面を見つめてなにかしています。読書をしている人は2人ぐらい。漫画本を読んでいる人はいませんでした。

 電子媒体の本が普及するかと言われたら、「ある程度」はするでしょう。紙媒体の本が全部なくなるかといえばそうはならないとは思います。

 筆者の津野梅太郎氏は、編集者であり評論家。演劇もやっていたという経歴。文体は讀みやすく、学者や作家の「読書のすすめ」的な書籍とは変わっていました。面白い本でした。「読書の秋」ですから、気を取り直して読書をしようと思いました。

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2016.12.08

韓国歴代大統領の不正と末路・諸悪の根源は朱子学


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 パク・ウネ大統領の即時退陣を求める韓国市民の街頭での抗議活動は物凄い。今のところ警備部隊との暴力的な衝突もなく、整然と行われています。大規模野外コンサートのように、ウエーブが起きたり、大合唱があったりして、週末のソウルの恒例行事になっています。

 これを「民主主義の勝利」と称賛される人達もいます。週刊ポスト12月16日号の「逆説の日本史」を連載している井沢元彦氏は、伝統的な政治イデオロギーであった「朱子学」が韓国社会を蝕み世界観を歪めていたからだと言われています。

「韓国という国家、韓国人という民族ほど朱子学の毒に蝕まれている民族はいない。」(P71)

「朱子学は「亡国の学問」だと確信しているが、朱子学は民族に真実の歴史を忘れさせてしまうという、とんでもない副作用がある。」(P72)

「要するにこれは民主主義社会あるいは法治国家で定められるルールよりも、韓国人を厳しく縛り逆らうことを許さない絶対のルールがあるということだ。

 それは言うまでもなく親に対する。「孝」そして血縁に対する身びいきを、国家や民族という「公」よりも重要視する儒教(朱子学)の影響であることは少し考えればわかる話である。」(P72)

 「朱子学はインテリのヒステリー」と井沢元彦氏は言います。南宋時代に朱子は生まれました。中原の地域を異民族に宗は奪われ、揚子江の南に追いやられた南宋。その際,皇族をはじめ漢民族の女性の多くは連れ去られ、性奴隷とされました。

 そのことで南宋の民は激しく外国を憎むようになりました。軍備を怠り軍事的に敗北した原因を冷静に総括せず、悪いことはすべて外国の「野蛮人」に責任を点火するインテリの負け惜しみ思想が朱子学であるようです。

 司馬遼太郎さんも幕末期に日本で流行した「尊王攘夷」の思想は南宋が元祖で「薄っぺらな思想」と看破していました。

 「この国のかたち」を読んだ読書感想文を2009年11月に個人ブログに書いていました。

「 司馬さんは「尊王攘夷」で幕末維新期は来たものの、明治政府は開国し、文明開化をなしとげ、当時の先進国にキャッチ・アップしようとした。「尊王攘夷」は、中国の宋時代の思想で「たいしたものではない、」と。結局明治政府は新しい国のかたちをもとめ、政府中枢閣僚が2年間も欧州に滞在し、ドイツなどの社会制度を性急に輸入し、プレハブ工法で社会制度をこしらえました。

 ぎりぎりの国力と必死の外交的努力で日清・日露戦争に勝利したことがあだになり、昭和10年以降に無能な政治指導者や軍幹部が日本で台頭、結果明治国家を滅ぼしてしまった昭和10年から20年までの日本史を断罪されていることがよく理解できました。」

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-6fb0.html

 国家国民のことよりも家族のこと一族郎党の繁栄が何より大事という韓国に定着している朱子学の弊害が、歴代大統領一族の不正の繰り返しを生んでいるのでしょう。

 またなんでもかんでも外国を悪にする思考、とくに韓国の反日運動・従軍慰安婦像を米国に立てる運動なども、いささか冷静さを欠いているように思えますね。

 いずれにしてもパク・クネ大統領は辞任が解任されるでしょうが、再発防止の社会システムと韓国社会の思考システムの変革がない限り、韓国社会に未来はないのではないかと思います。

 北朝鮮という「やっかいな独裁国」と隣接しているだけに、韓国の混乱は、隣国日本にとっても他人事ではありません。

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